2018年11月19日月曜日

11/18「マリヤから神への讃歌」ルカ1:46-56


                            みことば/2018,11,8(主日礼拝)  189
◎礼拝説教 ルカ福音書 1:46-56                         日本キリスト教会 上田教会
『マリヤから神への讃歌』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
1:46 するとマリヤは言った、
「わたしの魂は主をあがめ、
47 わたしの霊は救主なる神をたたえます。
48 この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました。
今からのち代々の人々は、わたしをさいわいな女と言うでしょう、
49 力あるかたが、わたしに大きな事をしてくださったからです。そのみ名はきよく、50 そのあわれみは、代々限りなく
主をかしこみ恐れる者に及びます。
51 主はみ腕をもって力をふるい、
心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、
52 権力ある者を王座から引きおろし、卑しい者を引き上げ、
53 飢えている者を良いもので飽かせ、
富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます。
54 主は、あわれみをお忘れにならず、その僕イスラエルを助けてくださいました、
55 わたしたちの父祖アブラハムとその子孫とを
とこしえにあわれむと約束なさったとおりに」。
56 マリヤは、エリサベツのところに三か月ほど滞在してから、家に帰った。
                             (ルカ福音書 1:46-56)

 救い主となるはずの男の子を産むと告げられたとき、「わたしは主に仕える下っ端の下っ端の下っ端の使用人です」と彼女は言いました。ここでも、「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださった」と告白しています(38,48)。つまりは、下っ端の下っ端の下っ端の下っ端の下っ端の、こんなわたしにさえも 神さまの恵み深さと憐れみを喜ぶ感謝が、彼女に、その低いへりくだった心を与えました。うわべだけの社交辞令や口先だけの方便や謙遜などとはまったく違うのです。「ああ。下っ端の下っ端の下っ端の~」と心底から実感しています。けれど、この真実をなかなか受け止められずにいる多くのクリスチャンたちがなお残されつづけます。どうして私やあなたではなく、あのマリアさんだったのか。私たちの周囲にも「この人は。この人の信仰は。この人の素晴らしい働きは」と私たちが感嘆し、ほめたたえ、尊敬するに値する大きな信仰者たちがいました。たしかに。「それに比べて、この私は」と私たちは自分自身を振り返ってガッカリします。なぜ、あのマリアだったのか。聖書そのものは、「ただ恵みによって。ただただ憐れみから」と答えつづけます。けれど、いくらくりかえし聞いても多くの人々は納得しません。「いいや。やっぱり元々、なにかがその人にあったからだろう。見所や心の清さや謙遜さや素直さ、信仰深さが。だからそれで」と好き勝手に、マリアさまを誉めたたえたり、マリアさまに向かって格調高い讃美歌を歌ったり、「まあ素敵」とうっとりため息ついたり、マリアさまに向かって拝んだり祈ったりしつづけています。でも、それは大間違い。しかもその度毎に、神さまご自身の恵みが軽んじられ、捨て去られ、台無しにされつづけています。先週も言いましたが今週も言いましょう。畏れたり拝んだり、それに向かってあがめたり、ひれ伏したりしていい相手は、ただ神さまだけです。
  まさかそれが自分自身のことだとはとうてい信じられないような、びっくり驚くような嬉しい出来事があり、そこで、マリアという名前の一人の女性は言いました。47-48節、「わたしは心の底から、心と体のすべてで、主なる神さまにありがとうと申し上げます。救い主である神さまを喜びたたえます」。不思議です。どうしたことでしょう? 「なんの取り柄もない、つまらないわたしです」と普通は、小さ~く縮まって、ションボリしながら、オドオドビクビクしながら、がっかりして言うものです。あるいは、心にもないゴマすりのつもりで、卑屈にヘラヘラしながら言うものです。それなのに彼女は、本心から、「つまらない、取り柄もないわたし」と言って、しかも嬉しくて嬉しくて仕方がない。他の誰彼にくらべて、ああだとかこうだとか言うのではありません。そんなくだらないドングリの背比べのような、つまらないどうでもいいような競争をしているのではありません。豊かな、とてもとてもとても大きな恵みを受け取りました。受け取った贈り物の大きさ、豊かさに比べてわたしは小さい、わたしは貧しいと言っています。だから心底から、心のすべてで神さまに「ありがとう」と大喜びしながら歌っています。胸を張って、背筋をピンと伸ばして、晴れ晴れしながら歌っています。ありがとうありがとうありがとうと。感謝と喜びにあふれて。
  51-55節。神さまからの憐れみを受けたたくさんの人々がいました。ときには打ち散らされたり、引き下ろされたり、あるいは高く上げられたりしながら。空腹のまま追い返されたり、良い物で満たされたりしながら、やがてついにとうとう神さまからの憐れみを受け取って、感謝と喜びにあふれた無数の人々がいました。「そうか。神の民イスラエル。あの人たちも、このわたしと同じだったのか」と気づきました。とても小さかったのです。見下げられるほどに、ほかの人たちから「なんだ」と侮られるほどに、すごく弱々しかったし貧しかった。「なにもない」とバカにされても仕方がないほどに。おなかをペコペコにして、とても心細かったのです。神さまがその小さな人々にも目を留めて、彼らをとても愛してくださいました。
  わたしたちは折々に、「思い上がるな」「へりくだれ」と命じられつづけてきました。「後の者が先になり、先の者が後になる」と予告されつづけ、なんのことだろうと首を傾げてきました。クリスマスの季節にも、「権力ある者を王座から引き下ろし、卑しい者を引き上げ、飢えている者を良いもので飽かせ、富んでいる者を空腹のまま帰らせます」と語りかけられ、そんな神さまはヘソマガリでアマノジャクだなあとなんだか嫌な気がしました。けれど、それらの神さまのなさりようは、恵みと救いの受け渡しに大いに関係があったのです。「神さまの憐れみ」と告げられるたびに、なんだかピンと来ませんでした。「憐れみ。恵み、恵み、恵み」と耳にタコが出来るほど聞かされつづけて(ルカ福音書1:50,54,78,ローマ手紙11:31-32、けれど私たちは聞き流しつづけました。謙遜にされ、へりくだった低い場所に据え置かれて、そこでようやく私たちは神さまからの良いものを受け取りはじめました(ローマ手紙11:25-32)。なぜならば、救い主イエス・キリストご自身がそのように低く身をかがめて(イザヤ書52:13-53:11,ピリピ手紙2:5-11,エペソ手紙4:8-10)、そこで、すべての恵みを差し出しておられたからでした。低く降り、その後に高く昇っていかれた方ご自身が、この私たちにも、やがて高く引き上げていただくために、同じく低く身を屈めなさいと命じておられるからです。へりくだった、その低い場所こそが、恵みを恵みとして受け取るための、いつもの待ち合わせ場所でありつづけるからです。
  51-53節;「主はみ腕をもって力をふるい、心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、権力ある者を王座から引き降ろし、卑しい者を引き上げ、飢えている人を良いもので飽かせ、富んでいる者を空腹のまま帰らせたまいます」。そのとおり。ですから兄弟たち、主の腕は他の誰に対してよりもまず真っ先に、ここにいるこの私たち自身に対して存分に振るわれるでしょう。もし受け取った憐れみを忘れて思い上がるなら、主なる神さまは、この私たちを打ち散らしてくださるでしょう。モミガラのように吹き飛ばしてくださるでしょう。受け取った憐れみをもし忘れて、私たちが誇るなら、高ぶるなら、そのとき主は、私たちをその座から容赦なく引き下ろしてくださるでしょう。受け取った憐れみを脇に置いて、もし、私たちが豊かさをむさぼるなら、あるいは満ち足りることを知らずに「もっともっと。まだ足りない。まだまだ不足だ」とつぶやき続けるならば、主はふたたび私たちを空腹にし、追い返してくださるでしょう。きっと必ず、そうしてくださるでしょう。なぜなら兄弟たち、そのうぬぼれと思い上がりこそが、私たちに大きな災いをもたらすからです。その権力や誇りが、その高ぶりこそが、私たちの目を見えなくし、私たちの耳を聞こえなくするからです。その豊かさこそが、私たちをかえって貧しくするからです。主は、憐れみによって、そのとき私たちを打ち散らし、引き降ろし、追い返してくださるでしょう。それこそが私たちのための祝福であり、私たちのための幸いです。主は、そのしもべイスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません。私たちもまた、受け入れていただいたことを、憐れみを注がれたことを決して忘れないでおきましょう。なにしろ無条件で受け入れていただき、贈り物のように憐れみを受けた私たちです。ただ恵みによって。ただただ憐れみによって。受け入れていただいたことも、憐れみを注がれたことも、それらは、私たちが当然受けるに値するわけでもなく、自分で勝ち取ることもできませんでした。まったくの自由な贈り物として、それは贈り与えられました。

             ◇

  だからこそ慌ただしい季節には、「あれもしなければならない。これもこれも」と我を忘れていそしむ日々には、キリストの教会と私たちクリスチャンはよくよく身を慎まねばなりません。私たちがどこに、どのように足を踏みしめて立っているのか、どこへと向かおうとしているのかと目を凝らさねばなりません。私たちが働く前に、主なる神さまこそが第一に先頭を切って働いてくださった。それこそが、私たちが心強く働くことができる理由であり、私たちの希望でありつづけるからです。だからこそ、とりわけ賢く、まじめで誠実であり、骨惜しみせず働く勤勉な者たちこそは、よくよく身を慎み、私たちがどこにどのように足を踏みしめて立っているのかと、必死に一途に目を凝らさねばなりません。私たちの救い主は、どんな見栄えも華やかさも立派さも、ポイと投げ捨てて、低くくだり、徹底して身を屈めてくださり、家畜小屋のエサ箱の中に身を置いてくださいました。布切れ一枚に包まれただけの裸の姿で。何のためでしょう? それは、どんなに貧しく身を屈めさせられた者も、小さな者も、弱い者も誰一人、この方の御前におじけることも恐ることもないために。安らぐことができるために。救い主キリストもその福音の中身も、私たちが忘れてしまわないために。憐れみを忘れない神を忘れて、その神さまから憐れみを受け取ったことも、私たちがうっかり忘れてしまわないために。私たちがそれ自体で何者かであるかのように勘違いをし、どこまでも高ぶり、どこまでも賢くご立派になり、そのようにしてどこまでも神さまから遠く離れ去ってしまわないために。
  かつては、私たちの誰一人も神の民ではありませんでした。今は、神の民とされています。かつては、私たちは憐れみを受けませんでした。神さまからも人さまからも、どこの誰からも。そんな惨めなことは嫌だと毛嫌いしたからであり、うぬぼれも高すぎたからです。けれど今は、憐れみを受けています。神の憐れみの民とされています(ペトロ手紙(1)2:10)。憐れみを受け取り、受け取った憐れみを差し出し、手渡し、分かち合うために。ともどもに喜び合うために。そうか。神の民とされたイスラエル。私も、あの人たちと同じだ。だから大喜びし、だからニコニコしながら、大きな声で歌った。「恵み。恵み。恵み。憐れみ、憐れみ、憐れみ」と。受け取った贈り物の大きさ、豊かさに比べて、私たちは小さい。あまりにチッポケだ。私たちの小ささと貧しさに比べて、私たちが受け取った贈り物はあまりに大きく、とてもとてもとても豊かだった。胸を張って、背筋をピンと伸ばして、晴れ晴れしながら私たちも歌う。「神さま、ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます」と。なんという幸いか、なんという恵みでしょう。