2020年6月8日月曜日

6/7こども説教「神を見出すことができる」使徒行伝17:22-27


 6/7 こども説教 使徒行伝17:22-27
 『神を見出すことができる』

17:22 そこでパウロは、アレオパゴスの評議所のまん中に立って言っ た。「アテネの人たちよ、あなたがたは、あらゆる点において、すこぶる宗教心に富んでおられると、わたしは見ている。23 実は、わたしが道を通りながら、あなたがたの拝むいろいろなものを、よく見ているうちに、『知られない神に』と刻まれた祭壇もあるのに気がついた。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、いま知らせてあげよう。24 この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるのだから、手で造った宮などにはお住みにならない。25 また、何か不足でもしておるかのように、人の手によって仕えられる必要もない。神は、すべての人々に命と息と万物とを与え、26 また、ひとりの人から、あらゆる民族を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに時代を区分し、国土の境界を定めて下さったのである。27 こうして、人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった。事実、神はわれわれひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない。
(使徒行伝17:22-27

 その町の人たちはとても信仰深い人たちでした。なにしろ、あちこちに並べられた様々な神の像や祭壇の中には、『知られない神に』と刻まれた祭壇もあり、どういう神なのか少しも知らない神をさえ、知らないまま拝んだり、頭を下げたり、そのよく知らない神に向かってさえ願い事をしていたりするのですから。「何も知らないで、知らないままに拝んでいるものを今、知らせてあげましょう」と、主イエスの弟子はとうとう語りかけ始めます。24-27節、「この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるのだから、手で造った宮などにはお住みにならない。また、何か不足でもしておるかのように、人の手によって仕えられる必要もない。神は、すべての人々に命と息と万物とを与え、また、ひとりの人から、あらゆる民族を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに時代を区分し、国土の境界を定めて下さったのである。こうして、人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった。事実、神はわれわれひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない」。世界と、その中にあるすべてのものを造った、天地の主である神です。だから人間の手で造った宮や神殿や、木や石などで造った像の中にも住むはずがない。しかも、この神は私たちのすぐ近くにまで来て、私たちとぜひ出会おうとしておられる。ご自分がどういう神なのかも、よく分かるように知らせてくださろうとしつづけている。だから、神を求め、神を探しさえすれば、誰でも神を見つけ出して、その神を信じて生きることもできるのです。






6/7「しきりに願うこと」ルカ11:5-8


                         みことば/2020,6,7(主日礼拝)  270
◎礼拝説教 ルカ福音書 11:5-8                       日本キリスト教会 上田教会
『しきりに願うこと』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
11:5 そして彼らに言われた、「あなたがたのうちのだれかに、友人があるとして、その人のところへ真夜中に行き、『友よ、パンを三つ貸してください。6 友だちが旅先からわたしのところに着いたのですが、何も出すものがありませんから』と言った場合、7 彼は内から、『面倒をかけないでくれ。もう戸は締めてしまったし、子供たちもわたしと一緒に床にはいっているので、いま起きて何もあげるわけにはいかない』と言うであろう。8 しかし、よく聞きなさい、友人だからというのでは起きて与えないが、しきりに願うので、起き上がって必要なものを出してくれるであろう。                      (ルカ福音書 11:5-8)
                                               
4:4 あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。5 あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。主は近い。6 何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。7 そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。
                               (ピリピ手紙4:4-7)

 ルカ福音書11:5-8を読みました。ここと、その次の9-13節は二つで一つ、両方ともをよく分かっている必要があります。この11章冒頭で主イエスは弟子たちにご自身の祈りを教えてくださいました。それを受けて、いよいよ祈りの中身についての教えであり、神に祈り求めながらどのように毎日毎日の暮らしを幸いに生きてゆくことができるのかという救い主イエスご自身からの直々の教えです。
どんな神さまなのかをぜひ知りたいと願って、それで、ここに座っておられるんですね。それなら、よく聞いて下さい。「パンを三つ貸してください。すみません、お願いしま~す」としきりに願っている人のようになりなさい、と神さまは勧めておられます。子供たちといっしょに布団に入っていて、「面倒をかけないでくれ。ダメですよ」と断ろうとして、けれど、やがて必要なものを分けてくれる友だち。これは神さまのことです。けれども、よく分かっているべきことは、『しきりに、必死にしつこく願いつづけて、それで良いものを与えてもらう』場合と、『全然そうではなかったのに、けれど良いものを与えてもらえた』場合と、両方があるということです。「いつもいつもしきりに、必死にしつこく願うなら、良いものをあげる。そうではないなら、あげない」という神さまではありません。その証拠に、来週は(ルカ11:9-13、まったく違う正反対のことをお話します。つまり、①諦めずに、しきりに心をこめて願いつづけることもとても大切です。また、②とても心優しい親切な思いやり深い神さまであり、必要なものをちゃんと十分に分け与えてくださるとよく分かっていて、安心していることも、それに負けず劣らずとても大切です。神さまにしきりに願いつづけることと、安心して神さまによく信頼していること。正反対に見えるこの二つは一組であり、この二つが両方ともとても大切です。
 まず今日は、神を信じて生きるための二つの真理のうちの最初の一つについて、味わいましょう。しきりに、必死にしつこく願いつづけること。5-8節、「そして彼らに言われた、「あなたがたのうちのだれかに、友人があるとして、その人のところへ真夜中に行き、『友よ、パンを三つ貸してください。友だちが旅先からわたしのところに着いたのですが、何も出すものがありませんから』と言った場合、彼は内から、『面倒をかけないでくれ。もう戸は締めてしまったし、子供たちもわたしと一緒に床にはいっているので、いま起きて何もあげるわけにはいかない』と言うであろう。しかし、よく聞きなさい、友人だからというのでは起きて与えないが、しきりに願うので、起き上がって必要なものを出してくれるであろう」。たゆまず諦めず、祈りつづけなさいと、分かりやすい素朴なたとえを用いて励まされています。神に向かって祈りはじめるのは簡単ですが、それをしつづけるのは難しいからです。多くのクリスチャンは信仰をもちはじめた最初の頃に「なにしろ神さまに祈ることがとても大切ですよ。イロハのイ、分かりましたね」と、ていねいに教えられ、祈りの生活をしはじめます。しかし時がたつうちに、だんだんとその習慣から離れていきます。神さまによって守られ、厳しい困難を乗り越えさせられ、「そうか。神に祈りつつ生きる私であり続けよう」と強く思い定め、けれど時がたつにつれて、少しずつ少しずつ心が冷めてゆき、ついにとうとう神に祈ることを多くの人々が傍らに置いてしまいます。「祈っても無駄だ。何の役にも立たないし、私の祈りは聴いてもらえない」などと、ひそかな恐るべき思いがその人の心の中に忍び込むからです。祈らなくても神を信じることはできるし、祈らなくても何の不都合も困ったことも起こらないと、ついつい思いこんでしまいます。そのようにして、疲れ果てガッカリしてしまったその人々は祈ることを止め、神に信頼することも、神に感謝し、願い求め、聞き従って生きることも止めてしまいます。心当たりがありますか。だからこそ聖書は、「諦めず、祈りつづけなさい」「弱り果てないために、いつも祈りなさい」「心が弱いのだから、あなたは目を覚まして、よくよく祈っていなさい」と励ましつづけます。そうでないと、この世の悩みや思い煩いの中で私たちは眠り込んでしまいやすいからです。そのようにして、いつの間にか、神を思うことができない私たちとされてしまうからです。
 「あなたがたのうちのだれかに、友人があるとして、その人のところへ真夜中に行き、『友よ、パンを三つ貸してください。友だちが旅先からわたしのところに着いたのですが、何も出すものがありませんから』と言った場合、彼は内から、『面倒をかけないでくれ。もう戸は締めてしまったし、子供たちもわたしと一緒に床にはいっているので、いま起きて何もあげるわけにはいかない』と言うであろう。しかし、よく聞きなさい、友人だからというのでは起きて与えないが、しきりに願うので、起き上がって必要なものを出してくれるであろう」。しかし、よく聞きなさいと命じられて、語られたこの手本を突きつけられて、私たちは心が痛みます。もし、これこそが祈りだとするなら、もしかしたら、この私はこれほどまでの真剣な本気の、神さまにしがみつくような祈りはしたことがないかも知れない。そして神さまに対して、恥ずかしいような申し訳ないような気持ちになるかも知れません。たしかに私たちは、胸に手を当てて、よく聞く必要があります。「私はとても弱くて、頼りなくて心細くて」などと私たちは口癖のように言い訳をしますが、だからと言って、「神さま。どうかぜひ私を強くしてください」とは願い求めなかったかも知れません。「心の曲がった、悪い身勝手な思いに囚われてしまいやすい私です」などと言いながら、「神さま。どうか私の思いと生活を整えさせ、私にも御心にかなった良い働きをなさせてください」とは願い求めなかったかも知れません。「惨めな私だ」と嘆きながら、けれどなお神の憐みと恵みのドアをコンコン、コンコンとノックしてみようなどとは思わなかったかも知れません。神を信じて生きていきたい、神に十分な信頼を寄せ、願い求め、神から必要な良いものを受け取りつづけ、神にこそ従い、感謝して、幸いに生きる私でありたいと願うならば、その人は、これらの問いかけを自分自身に対して本気で問いかけてみるべきです。その価値があります。なぜ、その人は物淋しい、しばしば惨めな気持ちに陥るのか。なぜその人は、たびたび苛立ったり、悲しんだり、ひどく腹を立てたり、身近にいる家族や友人のいたらなさをあげつらったり、決してゆるそうとせず厳しく非難しつづけたりするのか。神に向かってあのようにしきりに願い求めることを忘れてしまったからかも知れません。神に信頼することも期待することも、神にこそ聞き従って御心にかなって生きてゆきたいと願うことをずいぶん長い間、すっかり止めてしまっているからかもしれません。
 神にこそ祈り求めなさいと勧められつづけました。いったい、どうやったら思い煩うことから自由にされるのか。苦しみや悩みの中で、喜びや希望を見出すことができるのか。何が、私を、崖っぷちの緊急事態の中で、本当に心強く支えてくれるのかを何度も教えられ、よくよく習い覚えてきたはずの私たちです。聖書はこう語りかけていました、「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。主は近い。何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう」(ピリピ手紙4:4-7いつも喜ぶ。それは、うれしいふりを装って、取り繕ってやせ我慢をしていなさいという意味ではありませんでした。私たちの喜びと幸いの源であるかたのもとへと、立ち返りつづけなさいと命じられていました。主であられる神のもとへと。なぜ私たちが自分の寛容や忍耐を家族にも隣人にも職場の同僚たちにも示し、差し出すことができるのか。神さまが私たちに忍耐してくださり、とても寛容で寛大で思いやり深くあってくださったからです。その主が、私たちの側近くに、傍らにいてくださるからです。「クヨクヨと思い煩う前に、その悩みと困難と心細さの一つ一つをもって、感謝をもって、その祈りと願いとを神にこそささげ、私たちの求めるところを神に申し上げることができるからです。その願いは、必ずきっと聞き届けられると私たちは知っているからです。その祈りと願いこそが、神からの平安を私たちに贈り与えつづけ、私たちの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守る」と命じられ、堅く約束されていたからです。ではなぜ、心と思いが惑わされつづけたのか。「せよ」と命じられいたことをしなかったからです。事ごとに、私たちの求める一つ一つを神にこそ申し上げることをです。
だからこそ神に願い求め、申し上げているこの人は、とても大切なことを2つ知っています。1つは、夜遅くに泊まりに来てくれた友だちが自分にとって本当に大切な存在で、疲れ果ててお腹も空かせているこの人のためなら、なんとかして、なんとしてでもパンを手に入れてあげよう。パンを手に入れてこの人に食べさせてあげることが自分にはできるし、そうすることはとても良いことであり、ぜひそうしたいと自分は願っている。と分かっています。もう1つは、パンを分けてもらいに行ったその相手は願いを必ずきっとかなえてくれると分かっている。なにしろ救い主イエスが、「私の名によって御父に願うならば必ずきっと叶える」と保証してくださっている(注)。だから、しきりに、必死にしつこく願っています。友だちのことを大事に思っているし、しかもこの人は神さまに、ちゃんと十分に信頼しているのです。だからこそ、この人は格別な幸せ者です。

    (注)どうぞ、よく確かめてみてください;ヨハネ福音書14:14,15:16,ローマ手紙5:8-11,8:31-39,10:9-13,1コリント手紙3:22-23,詩篇27:1-5,118:6を参照。


   【補足/しきりに願う】
   (1)すべての祈りにおいて、神を一定の状況に拘束しようとしたり、どういう時、どういう場所で、どういう方法でそれを神がなしたもうべきかを規定しようとしたりしないように、細心の注意を払わなければならない。神ご自身がそのよしと見たもう方法と、時と、場所においてなしたもうように、神の御意志に任せまつることを教えられる。それゆえ、われわれは、われわれ自身のために祈りをなすに先立って、まず、神の御意志が行われるようにする。そこで、今や、われわれは自己の意志を神の御意志に服従させる。こうして、あたかも手綱をかけられたような制限を受け、神を制御しようと思いあがることなく、かえって、神をいっさいの願いの支配者・また統御者として立てるのである。
(2)主は一旦われわれの煩いがご自身の胸に委ねられたからには、これをあのようにしばしば、あのように確かに、心にかけたもう。そして、このようにして、神はわれわれが貧しさの中にありながら豊かさを、悩みの中にありながら慰めを、持つことができるようにしたもう。なぜなら、いっさいのものが欠けていても、その民の期待と忍耐を裏切りたまわない神は、われわれを決して置き去りにしたまわないからである。……神はわれわれの言うことを聞きあげたまわないときにも、しかも、われわれの祈りに応じる備えをして、好意をもっておられるため、かれの御言葉に依り頼む希望は決して裏切られないとの宣言である。しかし信仰者は、忍耐に依りかからないならば立ち続けることができないほど、この忍耐によって支えられることを必要とする。というのは、主がその民らを試みたもうのは、ささやかな試練によってではなく、その修練は軽いものではなく、むしろ、しばしば最も危険なところまで追い詰め・駆り立てて、ご自身の甘美さのいくらかの味わいを彼らに示したもう以前に、長い間、この泥の中に留め置きたもうのである。(『キリスト教綱要』第3篇2050-52節  Jカルヴァン 1559年)

(3)問7 神を敬う、正しいあり方はどういうものですか。
 答 全信頼を神に置くこと。その御意志に服従して、神に仕えまつること。どんな困窮の中でも神に呼ばわって、救いとすべての幸いを神の中に求めること。そして、すべての幸いはただ神から出ることを、心でも口でも認めることです。
(『ジュネーブ信仰問答』問7 Jカルヴァン 1542年)


2020年6月4日木曜日

われ弱くとも ♪主われ愛す


 『われ、弱くとも』 ~私を導く讃美のうた~ (試供品①)
   ♪ 主 われを愛す (讃美461番,21-484)   金田聖治

 こんばんは。讃美歌を読み味わい、ごいっしょに歌いましょう。
 第1回目は『主われを愛す』です。聖書が説き明かされるだけでなく、1曲1曲の讃美歌も、ちゃんと十分に説き明かされる必要と価値があります。いくつかの讃美歌の心を自分の魂に刻み込むなら、それは、自分自身の心で聖書を読むためのとてもよい道案内となるでしょう。もし、心で味わいはじめるなら、讃美歌が歌っている通りの、その福音の現実を実際に、また具体的に生きることもできます。ね、素敵でしょう。先に言っておきますが、歌の背景とか、どういう人がいつどんなときどういう気持ちで作ったかということはあまり話しません。興味がある人は自分で調べてみてください。そういう解説書もいくつか出ていますね。ここではむしろ、歌そのものと聖書自身が証言する福音から読み味わっていきたいと願っています。歌を作った人々もまた聖書をよく味わいつづけ、そこで養われた信仰から歌がにじみ出てきたはずだからです。聖書自身から溢れ出てきた信仰の生命がそこにあります。だからこそこの「主われを愛す」という歌も、元々の歌詞では「聖書はこう言う。聖書はこう言う」としつこく繰り返していました。150年も昔からの古い讃美歌。びっくり仰天です(外国から来たクリスチャンの友だちに「ええっ、そんな昔の歌を歌ってるの。あたしのおじいちゃんのおじいちゃんの、そのまたおじいちゃんの時代よ」と嫌な顔をされたことがありました。その通り。大昔からの歌です。だからカビが生えて古臭くて、時代遅れになっているのか。じゃあ、新しくて今風でポップならいいのか。うーん。心を鎮めて、よくよく考えてみなければなりません。確かに、カビが生えて使い物にならなくなる歌も沢山ある。けれど、何百年何千年たっても新しいままの、生命にあふれた歌もある。だって、それを言うなら聖書もそうでしたね。かなり古いし大昔だ。もし、カビが生えて時代遅れだと思うなら、その人は自分の好みにあった別の、現代的で今風のものを探せばいい)
 さて、主われを愛す。「主われを愛す、主は強ければ、われ弱くとも恐れはあらじ。わが主イエス、わが主イエス、わが主イエス、われを愛す」。大昔の歌、150年前から歌いつづけてきました。
  まず1節を見てください。主われを愛す。主は強ければ、われ弱くとも恐れはあらじ。「矢でも鉄砲でももってこい。何があってもへっちゃらだ。怖いものなんて自分には何もないぞ」っていう人がもしいるなら、その人は嘘をついてゴマカシテいるか。それとも世間のことも自分自身のことも何も分かっていない大バカ者か、そのどっちかだと思います。怖いものが山ほどあり、強がって見せても誰でも皆とても心細い。人間は弱くて脆い存在だし、この世界は恐ろしいものがたくさんある危険な世界でもあるからです。それでも、「恐れはあらじ」って歌っています。社交辞令ではありません。嘘ついて、やせ我慢したり取り繕っているわけでもありません。自分自身の弱さや脆さを知らないわけでもなく、この世界には危険が満ちていることもちゃんと分かっています。それでもなお、晴れ晴れとして「恐れはあらじ」って歌っています。素敵ですね。もし本当にそういうふうに生きることができるなら、どんなに心強いことでしょう。「主が私を愛してくださっている。主はとても強いので、だからたとえこの私が弱くても、小さくても貧しくても、恐れはない」と歌っています。ポイントは2つです。『主が私を愛してくださっている』ことと、『主が十分に強い』ということ。もっぱらその2つをこそ頼みの綱として噛みしめつづけています。ここで例えば、「主は私を愛してくださってるし、私自身も主を愛しているので」とは言わない。言いたくても言えないのです。主イエスから「私を愛しているか。愛しているか、愛しているか」と3度も続けて問われて、ひどく心を痛めた弟子がいました(ヨハネ福音書21:15-)。挫折したばかりのペトロです。他の弟子たちも私たちも同じです。主を誠実に愛しぬく弟子なのかどうか、本当かと問われるなら、誰も彼もがみな失格です。「われ弱くとも」は、そのことを確認しています。たとえ私たちがあまりに小さくても弱くても、ふつつかで臆病で狡くても。それでもなお、救い主イエスからの愛と力強さはそれらを包み込んで遥かに大きい。これが、キリスト教信仰の肝心要です。何を信じているのかと問われれば、これをこそ答えることができるでしょう。家族や友人に質問されるときにも、恐れや思い煩いの只中で自分で自分自身に答えるときにも。この私自身は、いったい何をどう信じているのか。

      主 われを愛す。主は ○○○なので、
      だから、たとえ私は ▽▽▽であっても、
      恐れはない。乏しさも、心細さもない。ああ、本当に。

だって私たちの恐れ、思い煩い、ひがんだり、いじけたりの中身はいつも、「私は▽▽▽だから」だったでしょう?  大きいとか小さいとか、強いとか弱いとか賢いとか、人より多く働いたとか少なかったとか。できるとか出来ないとか。豊かで有り余っているとか、乏しいとか。その右往左往の中に紛れて、『主われを愛す。主は強いので』をたびたび見失ってしまいました。それで、恐れと悩みの大波に呑み込まれてしまいました。主われを愛すの『主』。父なる神さま、子なる神イエス・キリスト、そして聖霊なる神さま。1つ思いになって働くこの3つの神さまを信じている。主とは、この3つの神さまのことを言っている。そうなんだけど、やはりその中で特に主イエスです。神さまの愛は、特に救い主イエスによって、私たちにはっきりと現され、差し出されつづける。繰り返しの部分に目を凝らしましょう、「わが主イエス、わが主イエス、わが主イエス、われを愛す」。このように自分自身に向かって噛んで含めるように、しつこく言い聞かせつづけている。魂に、なんとかして刻み込もうとしている。
  この歌の土台もまた、詩23編だと思えます。主に養われる1匹の羊の心強さや安らかさは、「主が私の羊飼いであり、私はその主に養われる羊である」という1点にかかっていました。そこに憩いの水辺や青々とした草原が広がっているのかどうか、この私自身が強いか弱いか賢いか愚かか、などと詮索する隙間もない。いいえ、むしろたっぷりしたおいしい草と水があって満ち足りて寝そべっているときなど、10日に1回か月2回です。食べるものも飲む水もない乾いた荒れ野をさまよい、野の獣に脅かされ、死の陰の谷を歩むその連続であるとしても、それでも「何も欠けるところがない。恐れはない」と、あの羊は晴々して歌っています。目の前に見える青々とした草原に信頼しているわけではないし、素敵な水場が頼みの綱なわけじゃない。そうではなく、ただただ自分の羊飼いにこそ全幅の信頼を寄せてます。なにしろ主イエスこそが良い羊飼いであってくださり、私はこのお独りの方に養われる羊なのだから。2節、3節、4節にも目を向けましょう。
 2節、「わが罪のため栄えを捨てて天よりくだり十字架につけり」。これこそ1節の『主が私を愛してくださっている』ことと『主は強い』の具体的な中身です。くだってきて十字架の上で生命を差し出してくださるほど、それほど愛してくださっている。その愛は、それほどに強い。3節、「みくにの門を開きて我を招きたまえり。いさみて昇らん」。神の国の扉が開かれていて、主イエスが私を招いてくださっている。だからワクワクしながら登っていく。2つのことを同時に覚えておきましょう。1つは、やがて死んだあとに神の国に入れてもらえる。もう1つは、今すでに入っている。神の国は神さまのご支配のことです。神の国を引き連れて、すでに救い主イエスご自身が来られたのでした。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ福音書1:15)。信じた私たちは、すでに神さまのご支配とお働きの只中に生きているのです。4節、「わが君イエスよ、われを清めて、よき働きをなさしめたまえ」。1節で「主は私を愛してくださっている」「主は、この私のためにも十分に強くあってくださる」だから私には恐れはない。私の主イエス、私の主イエス、私の主イエス、私を愛してくださっている本当にそうだ。1節は、この2節と4節で具体的なはっきりした中身と方向性を与えられています。4節も本当に大切です。「私の主人でありボスであるイエスよ、どうか私を清くしてくださって、こんな私にも良い働きをなさせてください」。主イエスにはできると知っています。信じてもいます。だから願い求めています。できるかどうか分からないと思うなら、誰もわざわざ願い求めたりなんかしません。試しにせいぜい1回か2回くらい冷やかし気分で願うことはできても、それをずっと願うことなど決してできないでしょう。この人は信じています。なにしろ主イエスになら、私自身の心の思いも腹の据え方もすっかり清くすることができる。こんな私にさえ、良い働きを必要なだけ十分にさせることができる。ちゃんと知っているし、主イエスに信頼している。だから願い求めています。本気で、どうぞぜひと。これこそが、私たちクリスチャンの希望です。「いつか人様や世間様をあっと驚かせるような大きな働きをしたい」などと願いますか。けれど、そういう立身出世や名誉欲などとは、この願いは少し違っています。『良い働きをしたい』と多分、だれもが願います。ぼくもそうです。働きの大きさ小ささじゃなくて、その人のための大切な役割があるからです。その人のための守備範囲があります。その人自身のためのエデンの園と言ってもいい。自分が置かれた場所を耕し守ること(創世記2:15)。お父さんお母さんであれば、子供たちを精一杯に愛して、養い育てること。あるいは年老いた親の世話を精一杯にすること。与えられた働き場所でそれぞれ精一杯に誠実に働くこと。主イエスなら、たとえあなたがだらしなくても責任感が乏しくても、心が挫けやすくても、それでも必要な良い働きを十分にさせることができる。他の人から認められようがどうしようが、誉められようがけなされようが、なにしろ主イエスが。そして、「良い忠実なしもべよ、よくやった」(マタイ25:23)と誉めてもいただける。素敵ですね。ぜひ、そうしていただきたい。だから朝も昼も晩も口ずさんでいます。わが君イエスよ、われを清めて良き働きをなさしめたまえ。
  ぼく自身としては、この1曲だけで十分だなあとつくづく思います。やがて足腰立たなくなり、目も耳も記憶力も体力気力も、およそすべての力を失っても。たとえ認知症老人になって、すっかり忘れ、何も分からなくなったとしても、ぼくの枕元にこの歌さえあれば、十分に幸いに生きて安らかに死ぬこともできるだろうと。祈ります――

     ♪ 主 われを愛す。主は強ければ われ弱くとも恐れはあらじ
       (おりかえし)わが主イエス わが主イエス 
わが主イエス われを愛す
      わが罪のため 栄えを捨てて 天よりくだり 十字架につけり
      み国の門を開きて われを迎えたまえり 勇みて登らん
      わが君イエスよ われを清めて よき働きをなさしめたまえ
                         (初出 201410月)


2020年6月2日火曜日

5/31こども説教「イエスとその復活を宣べ伝える」使徒行伝17:16-21


 5/31 こども説教 使徒行伝17:16-21
 「イエスとその復活を宣べ伝える」

17:16 さて、パウロはアテネで彼らを待っている間に、市内に偶像がおびただしくあるのを見て、心に憤りを感じた。17 そこで彼は、会堂ではユダヤ人や信心深い人たちと論じ、広場では毎日そこで出会う人々を相手に論じた。18 また、エピクロス派やストア派の哲学者数人も、パウロと議論を戦わせていたが、その中のある者たちが言った、「このおしゃべりは、いったい、何を言おうとしているのか」。また、ほかの者たちは、「あれは、異国の神々を伝えようとしているらしい」と言った。パウロが、イエスと復活とを、宣べ伝えていたからであった。19 そこで、彼らはパウロをアレオパゴスの評議所に連れて行って、「君の語っている新しい教がどんなものか、知らせてもらえまいか。20 君がなんだか珍らしいことをわれわれに聞かせているので、それがなんの事なのか知りたいと思うのだ」と言った。21 いったい、アテネ人もそこに滞在している外国人もみな、何か耳新しいことを話したり聞いたりすることのみに、時を過ごしていたのである。          (使徒行伝17:16-21

 あとで地図を見て確かめることができます。主イエスの弟子たちはギリシャのアテネという町でも神の国の福音を語り、人々に知らせつづけていました。その町の中のあちこちに、木や石などで造った神の像がたくさん並べられていました。通りかかる人たちは、それを見て、拝んだり手を合わせたりもしたでしょう。その様子に、主の弟子の一人は腹を立てたり、困ったり悲しんだりしました。木や石で造ったその像は神ではないし、神さまがその木や石の中に入り込んで住んだりもしないからです。ただの木や石を拝んでも良いことは何もないからです。神ではないものを知らずに拝んだり、頭を下げたりしている人たちに、本当の神さまのことをぜひ知らせてあげたいと思いました。それで毎日毎日、広場で、人々に神さまのことを話して聞かせつづけました。神であられる救い主イエスと、そのイエスが十字架につけられて殺された後、死人の中からよみがえったことをです(18節)。キリスト教会とクリスチャンは、今も、その同じ一つのことを語り、人々に知らせつづけています。


5/31「神の大きな働きを聞いて」使徒行伝2:1-13


                  みことば/2020,5,31(聖霊降臨の主日)  269
◎礼拝説教 使徒行伝2:1-13                            日本キリスト教会 上田教会
『神の大きな働きを聞いて』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
2:1 五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、2 突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。3 また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。4 すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。5 さて、エルサレムには、天下のあらゆる国々から、信仰深いユダヤ人たちがきて住んでいたが、6 この物音に大ぜいの人が集まってきて、彼らの生れ故郷の国語で、使徒たちが話しているのを、だれもかれも聞いてあっけに取られた。7 そして驚き怪しんで言った、「見よ、いま話しているこの人たちは、皆ガリラヤ人ではないか。8 それだのに、わたしたちがそれぞれ、生れ故郷の国語を彼らから聞かされるとは、いったい、どうしたことか。9 わたしたちの中には、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人もおれば、メソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、10 フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者もいるし、またローマ人で旅にきている者、11 ユダヤ人と改宗者、クレテ人とアラビヤ人もいるのだが、あの人々がわたしたちの国語で、神の大きな働きを述べるのを聞くとは、どうしたことか」。12 みんなの者は驚き惑って、互に言い合った、「これは、いったい、どういうわけなのだろう」。13 しかし、ほかの人たちはあざ笑って、「あの人たちは新しい酒で酔っているのだ」と言った。                  使徒行伝2:1-13
 
 今日は、聖霊降臨を覚え、私たちの心に刻むための日です。神の霊が主イエスの弟子たちに降って、神の約束を信じて待ち望んだその一人一人の体に宿ってくださった日のことを。聖書に書かれてあるとおり、救い主イエスは十字架にかけられ、殺され、墓に葬られ、その三日目に死人の中からよみがえりました。そして弟子たちにお命じになりました、「こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらの事の証人である。見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」。また、「エルサレムから離れないで、かねて私から聞いていた父の約束を待っているがよい。すなわち、ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう」(ルカ福音書24:46-49,使徒1:4-5。救い主イエスの復活からおよそ1カ月半ほども、弟子たちは聖霊を贈り与えられることを待たされます。(1)たとえそれが3カ月でも4カ月でも、1年でも、なにしろ神の約束を信じて待つことが必要だからであり、信じて待つことが彼らの信仰を成長させ、いっそう堅くしっかりしたものとするからです。この私たちもそうです。長く耐え忍ぶ日々に、神さまこそが自分と家族を、また隣人たちをも支えてくださると確信し、そのことをよくよく習い覚えて生きるためにです。また、(2)信じて待ったその一か月半の後には、そのエルサレムの都で大きな祭りが行われることになっていました。1節に書いてあるとおり、それが「五旬節の日」(過越祭の50日後に五旬節、つまり初穂の祭りが祝われた(レビ23:16)。収穫を祝うものであり、刈り入れの祭とも呼ばれた)です。神を信じる大勢の人々は、その日、何をおいてもエルサレムの都に駆けつけ、そこで神を信じて生きることを実感し、喜び祝い、改めてその中身を教えられ、ますます神に聞き従って生きる者とされることを願います。神さまがなさったこの大きな出来事は、大勢の人々に知らされます。はるか遠くの世界に住む人々にも、それまでは神を知らず、神を思うこともなかった人々にさえ、はっきりと告げ知らされる必要がありました。
1-4節、「五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した」。まず、突然に激しい風が吹いてきたような音が響き渡ったことを、私たちははっきりと覚えておかねばなりません。舌のようなものが炎のように分かれて現れ、ひとりびとりの上に留まったことも。なぜなら、あのときも今日でも、神からの贈り物について、私たちはとても不注意で、心がしばしば鈍くなりやすいからです。神の国の福音を広めるために必要な能力と力を、また知恵や言葉を、神ご自身こそが私たちにお与えになるからです。偶然によってでもなく、それぞれの努力や研鑽によってでもなく、このように突然に変えられた。ほかの誰でもなく、ただ神が、それをなさる。私たちが神のもとへと行く道は信仰によって開かれ、神ご自身からのお働きと恵みによってだけ開かれます。同じように、神が私たちのところへ来てくださる門は、そして道は、また神の御言葉を聞き分ける耳と心も、ただ神への信頼と謙遜さを用いて、神ご自身が開いてくださいます。ですから、「聞く耳のあるものは聞くがよい」と主イエスはおっしゃり、「私たちの耳と心をどうか開いてくださって、あなたの言葉を聞き、あなたの御心を悟ることができるようにしてください」と私たちは祈り求めつづけます。
 4-8節、「あらゆる国々からユダヤ人たちが来て、住んでいた。その彼らは、それぞれ自分の生まれ故郷の国語で使徒たちが話しているのを聞き、とても驚いた」。聖霊の賜物によって、主イエスの弟子たちがいろいろの外国語で神の国の福音を語り始めた。何のためにそうしたのか。当時、ユダヤの多くの人々は地中海沿岸の広大な地域に散り散りにされて、故郷から遠く離れた異国の地に長く暮らしていました。そこで生まれ育った2世、3世、4世たちです。ちょうどその日は大きな祭の一つに当たっていましたから、その外国暮らしをしている、元々の故郷の言葉が分からなくなった多くのユダヤ人が都に戻ってきていて、そこで祭りを祝おうとしていました。その世界中の人々のめいめいが、生まれ育った故郷の言葉を聞きました。しかも主イエスの弟子たちは、元々、そのほとんどは高い教育を念入りに受けたというわけでもなく、貧しく生まれ育った無きに等しい者たちでした(1コリント手紙1:26-31参照)。また、軽蔑されていた土地の生まれでした。その彼らが神の働きと天の知恵について、堂々と、はっきりと語りかけました。「私たちが普段使っているいつもの言葉で神の偉大な業が語られるとは。いったい、これはどういうことなのか」(6,12)
  主が語りかける言葉に耳を傾け、主の霊を注がれる。それは、いつ、どこで起こったでしょうか。世界の初めに、人が泥から形造られ、鼻に生命の息を吹き入れられた時に起こりました。また例えば、預言者エゼキエルを枯れた骨の谷に連れてきて、「これらの骨は生き返るか」(エゼキエル書37:3と主の言葉が問いかけたときに、それは再び起こりました。おびただしい数の枯れた骨が横たわっていました。それが私たち自身であり、世界の過酷な現実でもあるでしょう。枯れた骨のようであった神の民は回復され、生き返り、主を知る者とされました。深く主を知りつつ生きる者とされました。あのときに、主の霊が注がれたのです。また、十字架におかかりになった主イエスが復活し、天に昇り、約束どおりに主の弟子たちに神の霊が注ぎかけられたときに、あの最初の聖霊降臨の日に、それはまたもや起こりました。そこから、イエス・キリストを主とし、神と仰ぐキリストの教会が世界中に建てられ、その歩みが始まりました。主が語りかけてくださり、その言葉を聞き、主の霊を注がれること。それは今ここにおいても、その1回の礼拝や、ほんの何人かが集まる聖書を読む小さな集会の只中でも、ただ独りで聖書を読み、心を鎮めて祈るひとときにも、この私たちの身にも起こります。
  あの日、そこに居合わせた雑多な人々は「自分たちの国の言葉で、神の大いなる御業を聞こうとは」(11)と驚き怪しみました。神の大いなる御業。それは、イエス・キリストによる救いの御業のことです。主の弟子の一人が立ち上がり、声を張り上げて語りはじめました。「これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。あなたがたが十字架につけて殺してしまったイエスを、しかし、神は復活させられました」。主イエスの弟子たちは、その後もこの同じ一つの内容を繰り返し繰り返し語りつづけました。「希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます」。聖書のほかのいくつもの箇所から、いいえ聖書の中だけでなくその後2000年の間、この一点をこそ主イエスの弟子たちは語りつづけ、聞きつづけてきました(使徒2:22-,36,3:14-17,4:10,5:30,10:39,テサロニケ手紙(1)4:13-14)。今日も、そのために、ここに集められました。
 救い主イエス・キリストが、聖書に書いてあるとおり私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、多くの弟子たちに現れてくださったこと(コリント手紙(1)15:3-)。私たちもまた、あの種々雑多な人々と同じく、自分たちの言葉でこの一つの福音、1つの現実を聞き届けたのです。小さな子供たちは、その子供たちの言葉で神の大いなる御業を聞きます。中学生や高校生も若者たちも、彼ら自身の言葉で聞きます。お父さんお母さんも、中年のサラリーマンも、裕福な人々も貧しい人々も、自分たちの言葉でこの同じ福音を聞き届けます。長い年月を重ねて生きてきた経験豊かな年配の人々も、同じく聞き届けます。聴いた言葉を心に刻み、その言葉によって励まされ、勇気を与えられて。謙遜にさせられ、へりくだった低い心を贈り与えられて。あるいは、慎むことや忍耐して待つことや、それぞれに心細さや悩みや思い煩いを抱えながらも、なお希望を失わずに生きることを少しずつ少しずつ習い覚えさせられて。神を信じて生きる人々の幸いな一日ずつの暮らしが、そのようにして積み重ねられていきます。不思議なことです。

    【補足/聖霊なる神を信じる】
聖霊は、父なる神および子なる神とまったく同様に「信じられるべき」対象なのです。私たちはともすると、聖霊を何か神秘的な気分か感情の高揚のように思いがちです。しかし、それはまったくの誤解です。聖霊は、私たちの自己内発的な何かではなく、私たちにご自分のほうから関わり、働いてくださる神ご自身であり、信仰の対象なのです。
 ……聖霊が私たちを主にある者として自由に生きていく者としてくださるという点を改革教会の神学は強調してきました。聖霊はキリスト者をその導きのもとに聖化し(注1)、御意(みこころ)を行わせていかれます。パウロが御霊(みたま)の実と言っているものを読み返して、深く味わいなおしてほしいと思います(ガラテヤ手紙5:22
    (注1)「聖化(せいか)」;神の恵みの働きによって、神の御心にかなう良い働きができるように成長させられてゆく。とくに神を愛し、敬い、隣人を愛するものとされてゆくこと。
    (『信仰の学校』p51-56 桑原昭 )

聖霊が私たちの心に住み、私たちの主イエスの力を感じさせてくださるのです(ローマ手紙5:5。御霊は私たちを照らして主の恵みを知覚させて下さる、つまり、私たちの心に封印をし、しるしを押し、そこに恵みの働く場を作ってくださるからです(エペソ手紙1:13。このお方は私たちを生まれ変わらせ、新しい被造物(注2)にし(テトス手紙3:5、私たちは御霊のこのなさり方に従って、イエス・キリストのうちに差し出された財産と贈り物をすべて受け取るのです。
  (注2)「被造物(ひぞうぶつ)」;神によって造られた存在。「神こそが天地のすべてのものをお造りになった」(創世記1、2章)という根源的な理解が、この1つの言葉に込められている。
(ジュネーブ信仰問答 問答91 1542年)



2020年5月23日土曜日

5/24「アーメン。どこに真実があるか」Ⅱテモテ2:1-13


みことば/2020,,24(復活節第7主日 礼拝休止中の説教7 No.268
2テモテ手紙2:1-13                          日本キリスト教会 上田教会
『アーメン。どこに真実があるか』  ~主の祈り.最終回~

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)  (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

 2:1 そこで、わたしの子よ。あなたはキリスト・イエスにある恵みによって、強くなりなさい。……7 わたしの言うことを、よく考えてみなさい。主は、それを十分に理解する力をあなたに賜わるであろう。8 ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である。9 この福音のために、わたしは悪者のように苦しめられ、ついに鎖につながれるに至った。しかし、神の言はつながれてはいない。10 それだから、わたしは選ばれた人たちのために、いっさいのことを耐え忍ぶのである。それは、彼らもキリスト・イエスによる救を受け、また、それと共に永遠の栄光を受けるためである。11 次の言葉は確実である。「もしわたしたちが、彼と共に死んだなら、また彼と共に生きるであろう。12 もし耐え忍ぶなら、彼と共に支配者となるであろう。もし彼を否むなら、彼もわたしたちを否むであろう。13 たとい、わたしたちは不真実であっても、彼は常に真実である。彼は自分を偽ることが、できないのである」。                                         (2テモテ手紙2:1-13
 1節です。「あなたはキリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい」。恵みによって強くなるとは、どういうことでしょう。《恵み》とは、私たちの側には何の根拠も理由もなくて、という意味です。強くなるはずの者が当然のようにして強くなるのではありません。「豊かな者やふさわしい者が当然のようにして豊かにされ、あるいは自分自身で豊かになり、ふさわしく扱われた」のではない、という意味です。聖書自身は告げます。あの彼らもまた、ただ恵みによって、教えることのできる忠実なものとされ、ただ恵みによって、耐え忍ぶ者とされました。労苦しているのは、もちろん農夫だけではありませんでした。労苦しているサラリーマンも、労苦している子供たちも、主婦も、耐え忍ぶ年配の人々も私たち一人一人も、もしかしたら、次々とある労苦や重荷や苦難に押しつぶされてしまったかも知れません。けれどなお労苦し、なお耐え忍んでいるのは、あなたや私が忍耐深かったからでしょうか。あなたが根気強かったからでしょうか。あなたが断固たる決意を持っていたからでしょうか。そうではありませんでした。労苦する中にも慰めと支えを豊かに差し出され、痛みと辛さの只中にも喜びと幸いを贈り与えられて、それでだからこそ、かろうじて耐え忍ぶことができました。農夫も子供たちも、父親たち母親たちも、豊かな収穫にあずかります。私たちも自分自身の労苦や働きをはるかに越えて、まるで思いがけない贈り物のようにして収穫にあずかりました。それはまさしく贈り物であり、ただ恵みによったのです。ただ恵みによった。そのことを、私たちは決して見落としてはなりません。あのパウロにも、あのアブラハムにも、モーセやダビデにも、ただ恵みによって強くしてくださるお独りの方がいてくださったのです。大失敗をしてつまずいた(ルカ福音書22:54-)あのペトロにも、この私たち一人一人にも、ただ恵みによって強くしてくださる方がいてくださいます。
  さて、祈りの末尾のあの「アーメン」のことです。アーメン。どこに真実があるのでしょう。私が祈るとき、もし仮に、その祈りの内容や、祈るときの私自身の姿勢や魂の在り様が真実であるとして、それでアーメンと唱えるのだというならば、いったいどんなふうに、私たちは祈りはじめることができるでしょう。どうやって、その祈りを心安く結ぶことができるでしょうか。例えばその祈りの集いの中に、小さな子供たちもいて、素朴で単純な子供らしい祈りをしはじめます。御心にかなう祈りや生き方をしたいと願う私たちです。それでも、その一つ一つの祈りの良し悪し、はたして適切かどうかを互いに判断しようとするとき、そこに危うい落とし穴が待ち構えています。むしろ、それら祈りの中身の正しさやふさわしさについては、私たちが判断しなくてよいのです。私たちは神ではなく、神の代理人でもないのですから。神ご自身が判断なさり、神ご自身が最善最良を備えていてくださいます。私たちは、ただ神に信頼し、一つ一つの願いも私たち自身も、ただ神に委ねさえすればいいではありませんか。考えてみていただきたいのです。心から神に信頼し、誠実に忠実に神に従って生き抜くクリスチャンの生きざまと信仰の中身がアーメンの中身だというならば、また、そういう真実で誠実な祈りの中身や姿勢がアーメンだというならば、もし仮にそうだとするなら、「あなたも失格。あなたも」とやがて一人また一人と、年配のものからはじめて若者たちも、小さな子供たちまで恥ずかしそうにここを立ち去ってゆくほかありません(ヨハネ8:1-参照)。もし、自分自身の正しさやふさわしさに固執するなら、私たちは他者のいたらなさをゆるせなくなり、厳しく批判しつづけ、憐みの神からどこまでも遠ざかってしまうでしょう。聖書は証言します、「わたしは、彼らが神に対して熱心であることはあかしするが、その熱心は深い知識によるものではない。なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである」(ローマ手紙10:2-3。これこそ、私たち自身がつい知らずに陥ってしまいやすい危険な罠です。だからこそ、この証言は私たち自身を戒め、私たちを神さまのあわれみのもとに据え置くための大切な教訓でありつづけます。
 しかも兄弟姉妹たち、どうぞ安心してください。私たちのための真実は、いつも、どんなときにも、ただ神の側にだけあります。それは神ご自身のものである真実であり、どこまでも徹底して神さまだけのものです。11-13節はごく最初の頃のキリスト教会で用いられていた讃美歌でした。しばしば洗礼のときに、一人のキリスト者の誕生を喜び祝って、大切に歌われてきました。「神の子供として新しく生まれたこの人は、ただひたすら、神の真実と恵みにあずかって生きる。もちろん私たちもそうだ」と。神は、ご自身の子供とされた人たちに対して真実であってくださる。とくに13節、「たとい、わたしたちは不真実であっても、彼は常に真実である。彼は自分を偽ることが、できないのである」。イエス・キリストというお方こそがアーメンの中身であり、神の真実をご自身で証言する方であり(黙示録3:14,22:20)、私たちの救い主イエス・キリストこそが断固として、揺るぎなく真実でありつづけ、この世界と私たちのためにも神の真実を成し遂げてくださる。これが、私たちのための神からの約束です。祈りのことを語りつづけてきました。なにをどう祈ってもよいのです。いつ、どんなふうにして祈ってもよいのです。ただ、クリスチャンの祈りには、大切な約束がありました。誰が祈るどの一つの祈りも、『主イエスのお名前によって』祈られます。つまり、主イエスの救いの御業と今も続いているその執り成しのお働きを通して、祈られます。だからこそ、祈りは聞き届けられる。「わたしの名によって願うことは、かなえてあげよう」(ヨハネ福音書14:13,15:16と救い主イエスが断固として仰った。神からの約束であり、これが私たちの出発点です。
  そして祈りの末尾に「アーメン」と唱えます。「真実であり、本当だ」という意味です。それは神の真実であり、どこまでもどこまでも徹底して神ご自身のものです。祈る度毎にアーメンと唱え、他の人の祈りに対しても皆でアーメンと心から声を合わせることが出来ます。祈りの締めくくりがそうであるばかりでなく、祈りの始めがそうであり、祈りの中程がそうであり、祈りつつ生きる私たちの生活全体、私たちが生きて死ぬことの全部がそうです。私たちが祈りはじめる前に、私たちの舌がまだ一言も語りはじめないうちに、神さまはすでによくよく分かっていてくださいます。私たちの思いや判断をはるかに越えて豊かに報いてくださる神であられます。アーメン。立派な真実な祈りだから、というのではありません。誠実で真実な私たちだから、というのではありません。ちゃんとした私のちゃんとした生活だから、というのでもありません。そうではありませんでした。たとえ貧しくてもふつつかで不十分であるとしても、たとえ貧相でみすぼらしくても、その祈りと生活を、その私たちを惜しんで止まない慈しみの神に向けて、神ご自身の真実に向けて差し出します。そのように、「アーメン」と呼ばわります。だから兄弟姉妹たち。もう誰にも、あなたは心を惑わされてはなりません。主イエスの福音を聞いて信じたのです。主イエスを信じて生きることを積み重ねてきた私たちです。十字架につけられたイエス・キリストの姿が目の前にはっきりと示されたではありませんか。示され続けているではありませんか。私たちを救い出して神のあわれみの子たちとしてくださるために、何としてもそうするために、神の独り子である方はご自身のものを徹底して捨て去り、低くどこまでも低くくだり、神であられることの栄光も尊厳も生命さえ、惜しげもなく投げ捨ててくださったのでした(ガラテヤ手紙3:1-,ピリピ手紙2:6-)。アーメン。私たちのための真実は、どこにあるでしょうか。身をゆだねることができるほどの心強い真実が、全幅の信頼をもってそこに立つことができるほどの真実が、どこにあるでしょうか。握りしめて、「私にはこれがある」と背筋をピンと伸ばして、安らかに楽~ゥに深く息を吸えるほどの真実がどこにあるでしょうか。揺さぶられる日々にも、年老いて弱りはてる日々にも、孤立無援の恐ろしくてとても心細い惨めな日々にも、人から馬鹿にされたり、片隅へ片隅へと押しのけられる日々にも、「だって私にはこれがある」と心底から言えるほどの真実が、どこにあるでしょうか。すでに私たちは見出しています。受け取って、そのように生きることを積み重ねてきました。「主は恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です」(ヨナ書4:2,出エジプト記34:6。そのように扱われつづけてきました。私たちはキリスト者です。だから私たちは満ち足りた安らかな日々にも、その豊かさと喜びをもって真実な神へと向かいます。心挫ける悩みの日々にも、その嘆きと苦しみをもって、神へと向かいます。貧しく身を屈めさせられる日々にも、私たちはその心細さと淋しさと貧しさをもって、神へと向かいます。そこに、私たちを深く慰め、支え、確固として立たせてくれるものがあるからです。一回一回の礼拝も祈りも、一日ずつの生活も、ただひたすら神の真実を受けとめるため。受けとめて、抱えもって生きるために。だから、私たちはここにいます。
  祈る度毎に、その締めくくりに「アーメン」と唱えます。自分の祈りだけでなく、他の人が祈る祈りに対しても、皆で神に感謝し、神に信頼を寄せながら「アーメン」と。主を讃美する歌を歌ってアーメンと。聖書朗読の終りにアーメンと。アーメン;「それは真実であり、本当だ」という意味だと、私たちは教えられてきました。けれど真実とは何でしょう。あなたや私にとっての真実とは何でしょう。本当のことという以上に、格別にとても良いもの。それは、どこにどんなふうにして在るのでしょう。神さまご自身です。神さまを頼りにして、その御心に信頼を寄せ、御心にかなうことを願い求めて生きる私たちです。そのことに、ひたすらに目を凝らしつづけましょう――

         【補足/アーメン】
 この言葉は、ヘブル語で「真実に」「まことに」という意味を持つ語であり、私たちが祈ってきた祈願のせつなること、真実をこめての祈願であることを表しているともいうことができます。私たちは、自らの祈りを真実をこめて神に向け、また他の人の祈りに自らも真実にあずかり、和していることを表して、心をこめてのアーメンを言うのです。しかし、この言葉は究極的にはもっと深い奥行きを持っています。すなわち、私たちが一生懸命真実であろうとしても不確かであったり、曲がることがあったりするにもかかわらず、絶対真実なるお方の真実によってこれを祈っているのだという内容です。真にアーメンたるお方は、変転の影のない神であり、み子イエスであり、聖霊なる神です。私たちは、そのお方のがわにある真実に立ってこの祈願の成ることを信じ、確かな希望のうちにこの祈願を祈るのです。私たちはすべての祈りを「主のみ名によって」祈るように、主の祈りをもアーメンという言葉をもって、主のがわにある真実の上に立って祈るのです。

                       (『信仰の学校』p.209-10 桑原昭 日本キリスト教会出版局 1989年)

            ≪礼拝説教の予定≫
5月24日 2テモテ手紙2113 『アーメン。どこに真実があるか』 (主の祈り.9)
招き/エゼキエル書3:4-5 ゆるし/同3:6  祝福/2コリント手紙13:13
       讃美歌 55756、162、1(Ⅱ)、544 
  31日 使徒行伝2:1-13『神の大きな働きを聞いて』   (聖霊降臨日)
         招き/ローマ手紙8:14 ゆるし/同8:15 祝福/2コリント手紙13:13
       讃美歌 557、177、181、263、545
67日  ルカ福音書11:5-8『しきりに願うこと』
■   14   11:9-13『求めよ。捜せ。門を叩け』  

2020年5月16日土曜日

新型コロナ 移民・難民緊急支援、ご寄付のお願い


みなさま。新型コロナ・ウィルス感染拡大によって、世界中の人々と共に、この国に住む人々もまた大きな苦難に見舞われています。
  政府は「国民一人当たり10万円」を一律給付することを決めました。

  日本人のことばかりではなく、この国に住む外国人労働者とその家族がどういう扱いを受けているのかということをも、私たちは知る責任があります。技能実習生や留学生を含めた超過滞在外国人についてもです。なぜなら、彼ら彼女らにも同じ感染リスクがあり、日本人と同じように恐怖と不安の中で生活しているからです。彼ら彼女らは、私たちの隣人です。
  日本キリスト教会 人権委員会と靖国神社問題特別委員会は、この一律給付についての要望書を4月20日に共同で内閣総理大臣あてに提出しました。
  また、『新型コロナ 移民・難民緊急支援基金、ご寄付のお願い』も掲示します。どうぞ、お読みください。
 
                          2020年5月20日
日本キリスト教会 人権委員会
                          委員長 金田聖治