2018年10月3日水曜日

9/30こども説教「主イエスの証人とされて」ルカ24:44-53


 9/30 こども説教 ルカ24:44-53
 『主イエスの証人とされて』

24:44 それから彼らに対して言われた、「わたしが以前あなたがたと一緒にいた時分に話して聞かせた言葉は、こうであった。すなわち、モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する」。45 そこでイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて46 言われた、「こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。47 そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。48 あなたがたは、これらの事の証人である。49 見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」。50 それから、イエスは彼らをベタニヤの近くまで連れて行き、手をあげて彼らを祝福された。51 祝福しておられるうちに、彼らを離れて、〔天にあげられた。〕52 彼らは〔イエスを拝し、〕非常な喜びをもってエルサレムに帰り、53 絶えず宮にいて、神をほめたたえていた。          (ルカ福音書24:44-53

 (内容に入る前に、一つ説明します。44節「モーセの律法と預言書と詩篇」とは旧約聖書の愛称であり、別名です。「律法と預言者」などとも呼び習わされてきました。また旧約聖書だけでなく、旧約新約の聖書全体にわたって救い主イエスについて証言されつづけており、それらはすべて神ご自身によって必ず成し遂げられます。神からの約束です――)
  まず49節で、「父から約束されたものを主イエスが贈り与えてくださる。上から力を授けられる」と言われたのは、主イエスを信じる一人一人の心の中に聖霊なる神が住んでくださるという約束です。聖霊なる神のお働きによって、神さまを信じて生きるための具体的な力が与えられつづけるということです(使徒1:4-5,2:1-4,コリント手紙(1)3:16-17。ビックリですね。だからこそ、その前の46-48節こそがとても大切です。救い主イエスの名によって、『罪のゆるしを得させる悔い改め』が全世界に宣べ伝えられ、また信じるあの弟子たちも、ここにいる私たち一人一人も、神の国の福音を宣べ伝えて生きる者たちとされ、その証人にされる。さて、『罪のゆるし』こそが神から与えられる救いの中身です。それは神に逆らって生きることを止めて、神を信じ、神の御心に素直に従って生きる人々が生み出されてゆくことです。救い主イエスの死と復活によって、この不思議な出来事がいよいよ始まる。神の国の福音を聞いた人々が、自分の心をグルリと神へと向け返して生きることをし始めます。これが悔い改めであり、神によって救われて生きる生活のはじまりです。だからこそ、初めに主イエスは言いました。「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ福音書1:15と。

 【補足/救いの約束】
やがて弟子たちは宣べ伝えはじめます、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって洗礼を受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう」(使徒2:38-)と。


9/30「罪人をあわれむ神」ヨナ3:1-4:11


                      みことば/2018,9,30(主日礼拝)  183
◎礼拝説教 ヨナ書 3:1-4:11                     日本キリスト教会 上田教会
『罪人をあわれむ神』
    ~あなたの怒るのは良くない~

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC


 4:1 ところがヨナはこれを非常に不快として、激しく怒り、2 主に祈って言った、「主よ、わたしがなお国におりました時、この事を申したではありませんか。それでこそわたしは、急いでタルシシにのがれようとしたのです。なぜなら、わたしはあなたが恵み深い神、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かで、災を思いかえされることを、知っていたからです。3 それで主よ、どうぞ今わたしの命をとってください。わたしにとっては、生きるよりも死ぬ方がましだからです」。4 主は言われた、「あなたの怒るのは、よいことであろうか」。・・・・・・8 やがて太陽が出たとき、神が暑い東風を備え、また太陽がヨナの頭を照したので、ヨナは弱りはて、死ぬことを願って言った、「生きるよりも死ぬ方がわたしにはましだ」。9 しかし神はヨナに言われた、「とうごまのためにあなたの怒るのはよくない」。ヨナは言った、「わたしは怒りのあまり狂い死にそうです」。10 主は言われた、「あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。11 ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか」。                       (ヨナ書 3:1-4:11)


 まず31-9節です。ヨナは主の命令どおり、都に入り、一日分の距離を歩きながら叫び、そして言いました。「40日を経たらニネベは滅びる』。ソドムの町の場合とよく似ています。似ているけれど、あのときとは違う取り扱いです。神さまは、はなはだしく悪い彼らの心をねじ曲げ、組み伏せようとなさるのです(創世記18:16-33,エゼキエル書18:23,30-32)。すると、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者も低い者も身に粗布をまといました。王は王座から立ち上がって衣を脱ぎ捨て、粗布をまとって灰の上に座し、ニネベに断食を命じました。7-9節、『人も獣も牛も羊もみな、何をも味わってはならない。物を食い、水を飲んではならない。人も獣も荒布をまとい、ひたすら神に呼ばわり、おのおのその悪い道およびその手にある強暴を離れよ」。なんということでしょう。自分たちの死と滅びを告げる預言を聞いて、嫌な気分になっただけでなく、ただ恐れて右往左往しただけではなく、あの彼らは人も獣も悔い改めて主なる神さまを信じました。預言者は元気づける慰めや喜びをではなく、ただただきびしい裁きを語りました。「あなたは今にも滅びる。あなたに対して、神さまは激しく怒っておられる。どうして分からないのか」。けれども、そのきびしい裁きの言葉こそが彼らに信仰を生み出しました。だからこそ耳障りのよい、今風で心地よい、流行りの癒しの言葉ではなく、神さまご自身からの真実な言葉こそがかつても今も語られねばなりません。
  40日を経たら」(34)。例えば、全世界を飲み尽くす大洪水がまもなく起ころうとして4040夜雨が降り続いた日々。モーセと仲間たちが荒野を旅した40年間。シナイ山に登ったモーセを待って神の民イスラエルが山の麓で過ごした4040夜。救い主イエスが試練と誘惑を受けた荒れ野の40日間。預言者エリヤが主の山ホレブを目指して歩いた4040夜の道のり。強大な圧倒的多数のペリシテ軍と谷を隔てて向かい合いながら、こわごわビクビクしてイスラエル軍が過ごした4040(創世記7:12,民数記14:34,出エジプト記24:18,マルコ福音書1:13,列王記上19:8,サムエル記上17:16)。それらは、祈るための日々でした。ひざまずき、神の御前にひれ伏すべきときでした。主なる神さまの御前に背筋をピンと伸ばし、襟を正し、深く慎んで神さまを思い、神のみもとへと立ち返るべきときです。ニネベの人々のためにも、ここにいるこの私共のためにも。ニネベの人々は、「あなたがたはこのままでは滅びる」と告げる預言者の声を聴きつづけ、心に痛みを覚え、つくづくと自分を振り返り、悔い改めました。身分の高い者も低い者も、貧しい者も裕福な者たちも、年寄りも子供も、人間ばかりでなく牛や羊に至るまで。「荒布を身にまとい、灰の上に座し、断食する(5-7)ことは、その当時の祈りの形、祈りの作法でした。しかも、その祈りと願いは具体的な行動や在り方へと結びつき、彼らを促しました。つまり、「悪の道を離れ、その手から人を虐げたり踏みつけにする行いを捨て去る」こと。悪の道にどっしりと腰を降ろし、その手に不法とむさぼりを後生大事に抱え込んだままならば、荒布をかぶることも、灰をかぶり地面にひれ伏すことも、つつましい厳かな祈りも断食もなんの意味もないし、まったく無駄です。後悔と痛みのしるしに着ている衣服を引き裂くだけではなく、あなた自身の心をこそビリビリと引き裂けと促されます。10節、私たちの主なる神さまは思い直し、宣告した災いをくだすことを中止なさいました。神さまのただしさの本質がここにあります。そこに正しい人が10人いてもいなくても、そこに憐れみとゆるしを乞い願う心優しい人がいてもいなくても、なにしろ深く憐れむ神です。
  41-4節。「ところがヨナはこれを非常に不快として、激しく怒り、主に祈って言った、『主よ、わたしがなお国におりました時、この事を申したではありませんか。それでこそわたしは、急いでタルシシにのがれようとしたのです。なぜなら、わたしはあなたが恵み深い神、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かで、災を思いかえされることを、知っていたからです。それで主よ、どうぞ今わたしの命をとってください。わたしにとっては、生きるよりも死ぬ方がましだからです』。主は言われた、『あなたの怒るのは、よいことであろうか』」。1節で、ヨナが「これを非常に不快として、激しく怒り」と報告されています。元々の言葉ではこの「非常に不快」という言葉は、ニネベの人々の「悪の道」(3:8,10)と同じ言葉が用いられています。面白いことです。ニネベの人々が悪の道を離れ、神さまが彼らを憐れんでゆるす。ヨナがそれを「非常に不快として、激しく怒り、腹が立って腹が立って仕方がない」。ニネベの人々と預言者ヨナが、ここでいきなり、立場をすっかり入れ替えています。今やニネベの人々は悪の道を離れ、ヨナは逆に妬みと憎しみに飲み込まれ、首までどっぷりと『悪』に浸かっている。神さまの憐れみと寛大さとを、けれどあの彼はなぜ喜べないのでしょうか。もちろん、不満に思うことや怒ることそれ自体が悪いのではありません。ぜひとも怒ったり、腹を立てねばならないときはあります。けれどそのとき、何に対して、なぜ怒っているのかと、自分自身の心の中をよくよく見詰めねばなりません。
 主はヨナに向かって言われます。4節、「あなたの怒ることは、よいことであろうか」と。9節でも、再び同じことが問いかけられます、「あなたの怒るのは、よくない」。神さまに仕える奉仕や働きの只中で、神さまへの献げものをささげる際に、そこで腹を立ててプンプン怒っている人たちのことが聖書の中でいくつも報告されています(ルカ福音書10:38-42,15:25-32,マタイ福音書20:1-16,創世記4:1-7。この私たち自身も神さまに対してもその隣人や家族や兄弟に対しても腹を立てたり、妬んだり拗ねたりイジケたり、八つ当たりしたくなったり。精一杯に働いたり献げたりしながら、けれどなんだか満たされない。正直なところ、喜びも感謝もちっとも湧いてこない。物寂しくて、腹立たしくて、虚しくて。誰かに文句を言ったり、グチをこぼしたり、顔をしかめたくなります。そのとき、この私たち自身こそが危ない分かれ道に立たされ、滅びの危機に瀕しています。神さまが私たちに問いかけます、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」(創世記4:6-7)。神さまに背こうとする罪の思いが、もしかしたら私たちを慕い求めて、門口で待ち伏せています。
  それ以前に2-3節の、主なる神さまへのヨナの訴えこそが驚きです。「主よ、わたしがなお国におりました時、この事を申したではありませんか。それでこそわたしは、急いでタルシシにのがれようとしたのです。なぜなら、わたしはあなたが恵み深い神、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かで、災を思いかえされることを、知っていたからです。それで主よ、どうぞ今わたしの命をとってください。わたしにとっては、生きるよりも死ぬ方がましだからです」。いよいよ私たちは事柄の核心部分に迫っています。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。主に仕えるこの働き人は、主なる神さまがどういう神であられるのかをよくよく分かっていました。十分に、ちゃんと知らされていました。恵みと憐れみの神であると。だからこそ、大いに不満で仕方がない。私が労苦した仕事の結果はどうなるんだ。私の立場は。面子丸つぶれじゃないか。ヨナは、「死んだほうがましだ」と激しく怒ります。自分がただしくあることを追い求め、自分の正しさを何としてでも打ち立てようとしています(ローマ手紙10:2-3参照)。そこに、私たちを閉じ込めてガンジガラメにしてしまう深い罪があり、悪があります。「私は正しい」と言い立てて止まない私たちは今、罪と悲惨さの深みにどっぷりと身を沈めています。ヨナの罪は、いつものこの私たち自身の罪深さではありませんか。
 旧約聖書を3ヶ月、つづけて読み味わってきました。この3ヶ月も今もこれからも、いつも大問題でありつづけるのは、神を信じて生きる私たちはいったい何者なのかということです。何者でもありません。その私たちがどんな幸いと祝福を約束され、どんな希望と支えがあり、どんなふうに感謝にあふれ、晴れ晴れ清々として生きて死ぬことができるのかということです。例えば、7月初めから8月下旬頃まで、世界のはじまりから創世記12章までの歴史を振り返ってきました。創世記3章で芽生えた神への反逆と悪の心は4章のカインの罪、6~8章の大洪水、11章のバベルの塔へと坂道を転げ落ちて、そのドン底が12章。世界を救い、ふたたび祝福のもとへと呼び戻すために、神さまはほんのひとにぎりの人々を選び出しました。12章、アブラハムとサラにつづく神の民の出発点です(創世記12:1-4)けれども直ちに、選ばれた人々はとんでもなく誤解しました。「優秀だから、正しいから、取り柄と見所があって、だから選ばれた」。神によって選ばれた私たちは清く正しく、とても上等で格式が高いなどと。これが、選民主義です(=「神によって選ばれた優れた民族(と、自分たち自身で勝手に思い込むこと)。~意識」;申命記7:6-8,8:11-18,9:4-7,ヨハネ福音書15:16-17,ローマ手紙11:17-32)。誤解した私たちは了見が狭くなり、独り善がりになり、うぬぼれつづけました。他の人々を見下し、批判し、軽々しく裁きたてて分け隔てをしつづけました。なんと恥かしいことでしょう。神に対しても人様に対しても、なんと申し訳ないことでしょう。預言者ヨナもまた、わけもなく思い上がって自惚れた人々の一人です。事の成り行きを見届けようとして、ニネベの都の東のはずれに座り込みました。小屋を建てましたが強い暑い日射しが彼を苦しめました。主なる神さまは彼の苦痛を救うため、とうごまの木に命じて芽を出させ、木は伸びて彼の頭の上に心地よい日陰を作りました。ヨナは喜びました。主なる神さまは翌日の明け方、虫に命じて木を食い荒らさせました。木は枯れ、焼けつくような東風に吹きつけさせました。太陽もジリジリとヨナの頭上に照りつけました。ヨナはぐったりとなり、「生きているよりも死ぬ方がましです」とつぶやきました。神さまはヨナを再び諭します。「あなたの怒るのはよくない」。ヨナの心の移り変わりに目を向けましょう。日射しの厳しさに嘆き苦しみ、つかの間の涼しい木陰を喜び、木が枯れた後の焼けつくような東風と日差しに死を願うほどに腹を立てる6-8)。彼の思いは乱れ、コロコロコロコロと移り変わってゆきます。あの彼の右往左往は私たちの右往左往です。私たちの日々の姿そのままではありませんか。「お前は怒るが、それは正しいことか」と神さまが問いかけておられます。ヨナと、そしてこの私たち一人一人に。私たちは惜しみます。労せず自分自身で育てたわけでもない一本の木さえも。報われなかったたくさんの労苦があり、思い煩いがあり、苦々しい涙もありました。けれどもなお、いま私たちの手元に、なんと多くの豊かな実りが与えられていることでしょう。主ご自身こそが確かに建て、守り、十二分に報いてくださったからではありませんか(詩127:1-3)

  ましてや、なおさら神は惜しむと仰います。411節、「ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを惜しまないでいられようか」。目が霞んで文字がよく読めなくなった人も、ここだけは何とかして自分の目ではっきりと確かめましょう。「十二万あまりの、右左をわきまえない人々」と確かに書いてあります。右左をわきまえない人々。書き間違えではありません。「道理を弁え、良くできる、優秀で上品で立派な人間たちを」ではなく、「わきまえが少しもない私たちニネベ人を」です。「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった』という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである」とは、このことです。「以前は神の民でなかったが、いまは神の民であり、以前は、あわれみを受けたことのない者であったが、いまは、あわれみを受けた者となっている」とは、このことです。「キリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示された。とても弱く、あまりに不信心で、神に逆らい、神に敵対さえしていたそのわたしたちをゆるし、救いへと迎え入れるために。キリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示し、差し出し、受け取らせてくださった」とは、このことです。弁えが足りないどころか、「たびたび神に背く重病人であり、死にかけたり迷子になったりしつづけ、良い医者である神の憐れみよって危うい命を救われつづけてきた重病人」マタイ9:12-13です。「価なしに、神の恵みにより、ただただキリスト・イエスによるあがないによって義とされた」とは、このことです。けれど心を鈍くされた私たちは、弁えのないニネベの人々を裁いて軽々しく見下す、思い上がったヨナの気分で不平不満をつぶやき、自分の正しさとふさわしさを言い立てつづけていました。ヨナのように嘆いたり腹を立てたりしつづけました。なんということでしょう。右左をちっとも弁えない私たちのためにこそ、神はあまりに恵み深い神、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かで、くだそうとした災を何度も何度も何度も何度も思いかえして、ただただ憐れんでくださった。だからこそ 私たちはなはだしいニネベ人が今日こうしてあるを得ています(テモテ手紙(1)1:15,ペテロ手紙(1)2:10,ローマ手紙5:6-11,3:24。なぜ、そこまで惜しんでくださるのか、私たちには分かりません。私たちを惜しむ神の愛と憐れみは、不当なものなのか。惜しまずにいられようか。しかも、自分は正しいと自惚れてニネベの町の愚かな人々を見下していたあのロクデナシの預言者こそが、他の誰にもまして弁えのない、あまりに罪深い人間だったのに。あの彼やこの私たち自身こそが、憐れみ深い神を片隅へ片隅へと押しのけつづけていたのに。「惜しまないでいられようか?」。なんと答えましょう。ヨナの答えは記されていません。神さまからの問いかけは、はたして彼のかたくなな心に届いたでしょうか。私共一人一人の心にも、はっきりと届くでしょうか。

2018年9月25日火曜日

9/23こども説教「私の手足を見なさい」ルカ24:33-43


 9/23 こども説教 ルカ24:33-43
 『私の手足を見なさい』

24:33 そして、すぐに立ってエルサレムに帰って見ると、十一弟子とその仲間が集まっていて、34 「主は、ほんとうによみがえって、シモンに現れなさった」と言っていた。・・・・・・36 こう話していると、イエスが彼らの中にお立ちになった。〔そして「やすかれ」と言われた。〕37 彼らは恐れ驚いて、霊を見ているのだと思った。38 そこでイエスが言われた、「なぜおじ惑っているのか。どうして心に疑いを起すのか。39 わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」。40 〔こう言って、手と足とをお見せになった。〕41 彼らは喜びのあまり、まだ信じられないで不思議に思っていると、イエスが「ここに何か食物があるか」と言われた。42 彼らが焼いた魚の一きれをさしあげると、43 イエスはそれを取って、みんなの前で食べられた。   
(ルカ福音書24:33-43

  主イエスが彼らの中に立ったので、弟子たちは恐れ驚いて、お化けでも見ているのかと疑いました。そう言えば、湖の上で弟子たちが困っていたときその湖の上を歩いて小舟のところまで主イエスが来てくださったときにも、彼らは同じように、恐れたり驚いたり、お化けじゃないかと疑ったりしていました(マタイ14:22-,マルコ6:45-38節で、「なぜ恐れたりおじけたり、疑っているのか」と主イエスは弟子たちにわざわざ質問しています。ちゃんと信じていないから、だからオロオロしているのだと知らせるためです。だから、わざわざ来てくださいました。ご自分が復活なさったことを、この弟子たちにもよくよく分からせてあげて、ちゃんと十分に信じることができるようにしてあげるために。安心して、晴れ晴れ暮らしていくことができるようにしてあげるためにです。39節で、「わたしの手や足を見なさい」と言って、ほら手足に触ってみなさい。魚を食べるところも、わざわざ見せてあげました。ありもしないデタラメや絵空事などではなく、本当に墓からよみがえったと信じさせるために(なかなか信じられなかった疑い深いトマスにも、「わたしの手とワキ腹に触ってみなさい。ほらほら」と、わざわざ触らせようとしました。後で別の弟子も「わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手で触ったもの」について告げ知らせると言います。ヨハネ福音書20:24-29,ヨハネ手紙(1)1:1参照)。もし、生きて働いておられる神を本当に十分に信じることができなければ、どうなるでしょう。いつまでたっても、ほんのちょっとしたことで驚いたり怖がったり、ビクビクオロオロしつづけて虚しく生きて、やがて物淋しく心細いままで死んでいく。それじゃあ、あんまり可哀想だからです。


   【補足/神への信頼】
全信頼を神におくこと。その御意志に服従して、神に仕えまつること。どんな困窮の中でも神に呼ばわって、救いとすべての幸いを神の中に求めること。すべての幸いはただ神から出ることを、心でも口でも認めること(「ジュネーブ信仰問答」(1542年),問7-13参照)ができる私たちとされます。神さまからの憐れみの約束です。


9/23「わたし独りだけが」列王記上19:1-14

                        みことば/2018,9,23(主日礼拝)  182
◎礼拝説教 列王記上19:1-14                         日本キリスト教会 上田教会
『わたし独りだけが』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC


19:1 アハブはエリヤのしたすべての事、また彼がすべての預言者を刀で殺したことをイゼベルに告げたので、2 イゼベルは使者をエリヤにつかわして言った、「もしわたしが、あすの今ごろ、あなたの命をあの人々のひとりの命のようにしていないならば、神々がどんなにでも、わたしを罰してくださるように」。3 そこでエリヤは恐れて、自分の命を救うために立って逃げ、ユダに属するベエルシバへ行って、しもべをそこに残し、4 自分は一日の道のりほど荒野にはいって行って、れだまの木の下に座し、自分の死を求めて言った、「主よ、もはや、じゅうぶんです。今わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません」。5 彼はれだまの木の下に伏して眠ったが、天の使が彼にさわり、「起きて食べなさい」と言ったので、6 起きて見ると、頭のそばに、焼け石の上で焼いたパン一個と、一びんの水があった。彼は食べ、かつ飲んでまた寝た。7 主の使は再びきて、彼にさわって言った、「起きて食べなさい。道が遠くて耐えられないでしょうから」。8 彼は起きて食べ、かつ飲み、その食物で力づいて四十日四十夜行って、神の山ホレブに着いた。9 その所で彼はほら穴にはいって、そこに宿ったが、主の言葉が彼に臨んで、彼に言われた、「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか」。10 彼は言った、「わたしは万軍の神、主のために非常に熱心でありました。イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、刀をもってあなたの預言者たちを殺したのです。ただわたしだけ残りましたが、彼らはわたしの命を取ろうとしています」。11 主は言われた、「出て、山の上で主の前に、立ちなさい」。その時主は通り過ぎられ、主の前に大きな強い風が吹き、山を裂き、岩を砕いた。しかし主は風の中におられなかった。風の後に地震があったが、地震の中にも主はおられなかった。12 地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。火の後に静かな細い声が聞えた。13 エリヤはそれを聞いて顔を外套に包み、出てほら穴の口に立つと、彼に語る声が聞えた、「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか」。14 彼は言った、「わたしは万軍の神、主のために非常に熱心でありました。イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、刀であなたの預言者たちを殺したからです。ただわたしだけ残りましたが、彼らはわたしの命を取ろうとしています」。 (列王記上19:1-14)

この18, 19章は、一人の働き人の栄光と挫折を、そして挫折からの回復を物語ります。預言者エリヤは、他に並ぶ者がないほどの飛びぬけて偉大な働き人でした。あの彼こそ、ピカイチのナンバーワンでした。19:1-3。その偉大で立派で揺るぎないはずのあの彼が、どうして性悪の王妃イザベルが一言脅かしただけで、ブルブル恐れ、あわてて逃げ出したのでしょうか。18章の偉大で勇敢な彼とはまったく別人のようですね。でも、そんなことは日常茶飯事だったじゃないですか。これが普通です。得意満面で鼻高々だった者が、次の日には卑屈にいじけている。「大丈夫。何の心配もない」と自信たっぷりに太鼓判を押した者が、ほんの数時間後には「もうダメだ」と頭を抱えて絶望している。エリヤは絶望し、なにもかも嫌になって死を願います。4節、「主よ、もう十分です。私の命を取ってください。私は先祖にまさる者ではありません」。先祖に勝る者ではない? 彼は何を寝ぼけているのでしょう。まるで信仰のかけらもない、自分自身と周囲の人間たちのことばかり気に病み、思い煩っている、ただ生臭いばかりの俗物のような眼差しではありませんか。彼の得意と絶望の中身が、ここにあります。神を信じて晴れ晴れと生きるはずのこの私たち自身の『信仰と不信仰の揺れ動き』も、いつもいつもここにあります。今あの彼は、先祖に勝る者ではないと絶望しているのです。ほんの少し前には、「同世代の仲間たちや先輩や先祖たちよりも自分の方が多少は勝っている」と得意になったり、他人を見下したりしていたのです。やっぱりなあ。なるほど。そうであれば、鼻高々になることも、かと思うとてのひらを返したようにすぐに絶望してしまうことも、あまりに簡単。上がったり下がったり右に転がったり左に転がったり、吹く風のようにコロコロコロコロ移り変わってゆくのも、それは当然です。「救われたのは、ただ恵みによった」(エペソ手紙2:4)と聖書に書いてあります。ノア、アブラハム、モーセ、ダビデもそうだったし、エリヤもそうだったし、私たち全員がそうでした。「正しい者も悟る者も一人もいない」と聖書自身は深く了解しています(ローマ手紙3:9-)。それなのに、先祖に勝る者ではない? どんな立派な大きくて偉大な信仰者がいたというのでしょう。そうではありません。ただただ、大きな神さまがいてくださったのです。こう質問しましょう。あなたは、どこにどうやって立っているのか。何を拠り所とし、何を助けや支えとし、頼みの綱として生きるあなたであるのかと。
 5-8節は、神の山ホレブへの旅路です。別名シナイ山とも呼ばれたこの山は、かつてモーセが神と出会った場所でした。よかった。彼は、ただ闇雲に逃げ出したのではなかったのです。すっかり絶望し、支えと拠り所を見失った彼は、改めて神と出会いたいと切望しました。神の語りかけを今こそぜひとも聞きたい、聞き届けたいと。失意の只中で、彼は神へと向かいます。ふたたび立ち上がるために、ふたたび揺るぎなく確固として立って歩き出すために。私たちもそうです。ガッカリして失望するとき、弱り果てるとき、心を惑わせ希望も支えも見出せない日々に、けれどもそこで、帰ってゆける場所を私たちは持っています。そこで神に向かい、その悩みの只中で祈り求め、目を凝らし、神の語りかけを聞き届けたい――そこで神へと向かう。だから、私たちはキリスト者なのです。キリスト者であることの中身は、《そこで、なにしろ神へと向かう》ことの中にあり、キリスト者であることの慰めも希望も確かさも、《そこで神へと向かう》中でこそ差し出され、受け取られます。7節。その旅路の長さや困難さを、私たちの弱さを、ちゃんとよくよく分かってくださる主です。神の山ホレブへ向かう旅はとても長く、困難をきわめます。私たちには耐え難いと、あわれみの主は知っていてくださいます。だからこそ、「起きて食べなさい。私の与える糧によって立ち上がりなさい。私の与える糧によって力を得、それによってこそ歩みなさい。歩み通しなさい」と主は備えていてくださいます。神の民イスラエルに対しても、エリヤやペトロに対しても、また私たち人に対しても。
 9-10節と13-14節。神と出会い、神さまの語りかけを聴きます。不思議なことに、神とエリヤはまったく同じ問答を二度繰り返しています。「あなたはここで何をしているのか」と問う神。「わたしは万軍の神、主のために非常に熱心でありました。イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、刀であなたの預言者たちを殺したからです。ただわたしだけ残りましたが、彼らはわたしの命を取ろうとしています」と答える彼。(1)すべてを知っておられる神がわざわざ問うとき、それは神ご自身のための質問ではなく、その人のための質問です。ぜひとも気づくべき根本の事柄が問われています。「ここで何をしているのか。何のつもりでここにいるのか」。どこにどう立っているのかを、あなたは気づいているのか。あなたが踏みしめているその足もとをよく見てみなさいと。(2)「ただわたし独りだけが」;これが彼の責任感であり、自負であり誇りでした。これまで彼を支えていたものが、けれど今、逆に彼を苦しめています。ただ独りだけであることが今では彼の重荷となり、絶望の原因ともなっています。だって、『ただ独りだけで背負っている。わたし独りで担っている』と勘違いしています。それでは、あなたの神はどこで何をしているのか。神こそが第一に先頭を切って働き、神こそが担い、背負ってくださるのではなかったか。主の語りかけを、彼は聞きます。山を裂くほどの激しい風。しかし、この中には神はおられない。次に地震。火。けれど、その中にも神はおられない。静かにささやく小さな声によってこそ、神さまは語りかけます。何でしょう。私たちはもしかしたら、驚くような強烈で劇的な語りかけや、目の覚めるような感動的で鮮やかな語りかけを望んでいたのかも知れません。激しい風や地震や火によって語りかけてもらいたい。けれども神を知る者は、日常的なごく普通の事柄の中に神の歩む足音を聞き届けます。いつもの普通の生活の只中で、そこでこそ神さまと出会い、神さまご自身の働きを知ります。讃美歌313(讃美歌21-497番)は「騒がしき世の巷(ちまた=人のおおぜい通る所。町中)に我を忘れていそしむ間も、細き御声を聞き分けうる静けき心、与えたまえ」と歌います。我を忘れて夢中になって必死に働くときに、私の耳には誰の声も届きません。

 15-18節には、思ってもみなかった驚くべき結末が用意されていました;主は彼に言われた、『あなたの道を帰って行って、ダマスコの荒野におもむき、ダマスコに着いて、ハザエルに油を注ぎ、スリヤの王としなさい。またニムシの子エヒウに油を注いでイスラエルの王としなさい。またアベルメホラのシャパテの子エリシャに油を注いで、あなたに代って預言者としなさい。ハザエルのつるぎをのがれる者をエヒウが殺し、エヒウのつるぎをのがれる者をエリシャが殺すであろう。また、わたしはイスラエルのうちに七千人を残すであろう。皆バアルにひざをかがめず、それに口づけしない者である』」。神さまご自身からの答えです、「あなたに代えて、ハザエルとイエフとエリシャを、私自身が立てる」。エリヤに対しても他のどの働き人に対しても、私たちの神はこうおっしゃる、『自分がいなければ成り立たない、とでも思っていたのか。いいや、とんでもない。この自分次第であり、自分の肩にすべてがかかっている、とでも思っていたのか。あなたは神ではなく、人間にすぎない。神である私こそが担う。神こそが、最初から最後までを、全責任を負って働く。だから、あなたは退いて休みなさい』。
  あなたは退いて休め。なんと厳しい答えでしょう。また同時に、なんと恵み深い、嬉しい答えでしょうか。私たちは高ぶりと独りよがりを木っ端微塵に打ち砕かれ、そこでようやく《主の恵みのもとに仕える働き人》としてスタート・ラインに立ちます。ハザエルの剣を逃れた者をエヒウが、エヒウの剣を逃れた者をエリシャが。エリシャの剣を逃れる者が何百人、何千人いても、ちっとも困らない。もちろん彼らもまた生身の人間にすぎず、ハザエルの働きもエヒウとエリシャの働きも決して十分なものではないでしょう。私たちそれぞれもまったくそうであるように。それでいいのです。それぞれに部分的な、ごく一時的な働きをゆだねられ、ゆだねられた分を果たしてゆくのです。しかも、主の恵みとゆるしのもとに立つ7000人で。神の業、神の教会の働きは、リレー競争のようなものです。全部を私独りだけで走りきるのではありません。ただ独りきりで担うのではありません。この私も、この喜ばしい光栄な務めのバトンを兄弟から手渡されました。私も一途に精一杯に走り、喜ばしくひとときを担い、やがて定められた時に次の兄弟へとバトンを手渡します。その兄弟もまた一途に精一杯に走り、喜ばしくひとときを担い、やがて定められた時に次の兄弟へとバトンを手渡すでしょう。リレーは、主ご自身のものであるこのとても不思議な事業は決して途切れません。ほんの一瞬たりとも滞りません。それを、私たちは信じます。私たちはクリスチャンです。

 「務めを解く。退いて休め」と命じられたエリヤは、なおしばらく務めに留まり、エリシャという人を自分の弟子として育てはじめます。19-21節。つまり、退いて休むための彼の新しい働きがここから始まってゆくのです(列王記上19:19-2:18。今までの彼とは違うまったく新しい働き人がここに誕生しています。やがて時が来て、私たちもそれぞれに自分の務めを次の者に手渡して退いてゆきます。ご覧なさい。目の前に、あなたのためのエリシャがおり、私のためのハザエルとイエフがいます。どんなふうに仕事の引継ぎをしましょう。腹に据えておくべき心得と重要事項を次の者たちにどんなふうに伝えてあげましょうか。「・・・・・・いいかい、エリシャ。よくお聞き。お前はもしかしたら私を尊敬し、信頼を寄せてくれているかも知れない。『ご立派な偉い大先生で、私なんかはとてもとても恐れ多くて』などと間違って思い込まされているかも知れない。騙されちゃいけない。人間に対する尊敬も信頼もほどほどにしておいたほうがいい。だって私もお前も神ではなく、神の代理人でもなく、生身の人間にすぎないのだから。たかだか人間に過ぎない者たちへの尊敬や信頼や讃美が神ご自身に寄せるべき尊敬や信頼や讃美を曇らせてしまうようでは困る。とてもとても困る。人間を思い煩うあまりに神を思う暇が少しもなくなってしまってはならない。それが、サタンのいつもの策略なのだから(マタイ16:23。かつて私がカルメル山のてっぺんで輝かしい大勝利を収めたように、やがてお前も立派な仕事を成し遂げ、得意になって鼻高々になるかも知れない。かつて私が悪い王妃イザベルに脅かされて怯えてすくみあがったように、やがてお前も、中くらいのイザベルや小さなイザベルに脅かされて、ガタガタ震え、夜も眠れなくなるかも知れない。それは有りうる。鼻高々の日々にも、『私こそが』とうぬぼれてはいけない。恐れてガッカリする日々にも『私独りだけが』などと心を曇らせてはいけない。だってエリシャよ、私たちはごく普通の生身の無力で愚かな人間たちだ。決して思い上がることなく、ほんのちょっとずつ務めを担って働く。神ご自身の働きのごく一部分を、ほんのひとときずつ、担わせていただいている。道端の小さな石ころからでもアブラハムの子をいくらでも起こせる神だったじゃないですか(マタイ3:9参照)。あなたも私も、誰も彼もが皆、そのようにして立てられたごく普通の石ころ同士だったじゃないか。そうだったじゃないか。神の慈しみと峻厳とに今日こそ共々に目を凝らしましょう。よくよく目を凝らしつづけましょう。もし万一、神が第一に先頭を切って働きつづけておられますことをうっかり忘れてしまうなら、私たち自身のためにさえ神こそが確かに生きて働いておられますことが分からなくなってしまうならば、神を信じて生きてきたことのすべて一切が水の泡となる他ない。私たちはすべての者の中で最も憐れむべき惨めな者に成り下がってしまうではないか」と。しかも兄弟たち。聖書自身は何と語っているでしょう。「もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか」(ローマ手紙8:31-32御子のみならず万物をも必ずきっと贈り与えてくださる。ここでは、「御子のみならず万物をも。御子だけでなく、御子と共に、ほか必要なすべて一切をも添えて与える」という点が大切です。御子イエスを信じる信仰によって、御子イエスご自身によって与えられるすべての恵みを。つまり、御子を抜きにしては神からの恵みを何一つ受け取ることができないということです。「土台はイエス・キリストである」と教えられており、「どんな人間でも神の前に誇ることがないため。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖と贖いとになられた。それは、『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりである」「(すべて一切は)ことごとく、あなたがたのものである。そして、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものである」(コリント手紙(1)1:29-31,3:11,22-23と。しかも、私やあなたの肩にすべてがかかっているわけではない。バアルに膝を屈めない7000人の仲間たちと共に、それよりも神ご自身こそが第一に、先頭を切って、全面的に生きて働いてくださっている。私のエリシャよ。よくよく弁えておきなさい。それさえ分かれば、あなたは安心して晴れ晴れして働くことができ、満ち足りて休むことができ、進むことも退くこともできるだろう。悪い王妃イザベルが100人来ようが1000人で脅かしても、今日からは、この私たちはもうビクともしないだろう。


2018年9月18日火曜日

9/16こども説教「目が開けて分かった」ルカ24:29-32


 9/16 こども説教 ルカ24:29-32
 『目が開けて分かった』

24:29 そこで、しいて引き止めて言った、「わたしたちと一緒にお泊まり下さい。もう夕暮になっており、日もはや傾いています」。イエスは、彼らと共に泊まるために、家にはいられた。30 一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、31 彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。32 彼らは互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。                      (ルカ福音書24:29-32

  愚かにされ心が鈍くされて、神さまのお働きも救いの約束もなにもかも分からなくなってしまいそうだった二人の弟子のために、そしてこの私たちのためにも、救い主イエスはいっしょに道を歩いて、聖書を説き明かしてくださいました。28節で、村についてなお先へ進んで行こうとするそぶりをわざわざ見せた。それは、「ぜひ一緒に泊まってください。まだまだ教えてください」とあの彼らに引き止めさせるためです(注意深く読まなければ、だれでも簡単に見過ごしてしまうでしょう。先へ進もうとする様子が、わざと目の前に見せられました。「しいて引き止めるか」、あるいは、「それじゃあ、さようなら」と別れるか。私たちの心にあることがあらわになるために、わざわざ救い主が私たちを試みてくださっています。主を知ることを心から願い求める私たちなのかどうかと。例えば荒野で飢えさせられた日々のように。申命記8:1-5参照)。「ぜひ欲しい」と求めて捜す者たちにしか、良いものを贈り与えることができないからです(ルカ11:9-13参照)30節以下。一緒に食卓についてパンを取り、祝福して裂き、手渡されるとき、とうとう彼らの目と心が開かれて、それがイエスだと分かりました。(聖晩餐の)パンと杯を受け取るときにも、聖書を説き明かされるときにも、私たちの目と心がそのようにはっきりと開かれて、神さまのお働きも自分と家族のための救いの約束も、受け取ってきたすべての恵みも、神さまへの信頼も希望も喜びもなにもかも、いつも、よくよく分かるようにしていただけると嬉しいですね。ぜひ、そうしていただきたい。