2018年7月10日火曜日

7/8こども説教「ペテロのつまずき」ルカ22:54-62


 7/8 こども説教 ルカ22:54-62
 『ペテロのつまずき』

22:54 それから人々はイエスを捕 え、ひっぱって大祭司の邸宅へつれて行った。ペテロは遠くからついて行った。55 人々は中庭のまん中に火をたいて、一緒にすわっていたので、ペテロもその中にすわった。56 すると、ある女中が、彼が火のそばにすわっているのを見、彼を見つめて、「この人もイエスと一緒にいました」と言った。57 ペテロはそれを打ち消して、「わたしはその人を知らない」と言った。58 しばらくして、ほかの人がペテロを見て言った、「あなたもあの仲間のひとりだ」。するとペテロは言った、「いや、それはちがう」。59 約一時間たってから、またほかの者が言い張った、「たしかにこの人もイエスと一緒だった。この人もガリラヤ人なのだから」。60 ペテロは言った、「あなたの言っていることは、わたしにわからない」。すると、彼がまだ言い終らぬうちに、たちまち、鶏が鳴いた。61 主は振りむいてペテロを見つめられた。そのときペテロは、「きょう、鶏がなく前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われた主のお言葉を思い出した。62 そして外へ出て、激しく泣いた。     (ルカ福音書 22:54-62

 ほんの数時間前に、主イエスとともに最後の食事を皆でたべていたとき、主イエスから「弟子たち皆がつまずく。私を信じて従うことができなくなる」と告げられて、このペテロは「いいえ。主よ、わたしは牢獄にでも、たとえ殺されても、きっと最後の最後まで、あなたの後についてゆきます。覚悟はちゃんとできています」(ルカ22:33参照)と胸を張って、きっぱりと言い張りました。主イエスが捕まえられたとき、ペテロは遠くからこっそりとついていきました。大祭司の家の中庭にも他の人々の間に紛れ込んで、座っていました。でも怖くなりました。「わたしはその人を知らない。いや、それはちがう。あなたの言っていることは、わたしにわからない。イエスなどという人とは何の関係もない、知らない知らない」。そうそう、あのガリラヤの湖の上で、主イエスが湖を歩いてきてくれたときにも、同じことが起こりました。主イエスを信じて生きていこうと決めて、よくよく覚悟をしていたはずだったのに、風がビュービュー吹いて、大きな荒々しい波がザブザブ~ンと打ち寄せて、それを見たらとてもとても怖くなって、ペテロは水の中にブクブクと沈みはじめました。あのときと、そっくり同じです。周りにいる人間たちや風や波ばかりが気にかかって気にかかって、そればかりが心の中にいっぱいになって、主イエスを信じる心がすっかり吹き飛ばされてしまいそうでした。けれどあのときも ペテロは沈んでしまいませんでした。どうしてでしょう? 「主よ、お助けください」と叫ぶことができたし、差し出されていた主イエスの手に気づいて、その手を本気になって掴むことができたからです(マタイ14:22-33参照)


7/8「すべてのものを祝福する神」創世記1:26-2:3


                       みことば/2018,7,8(主日礼拝)  170
◎礼拝説教 創世記 1:26-2:3                          日本キリスト教会 上田教会
『すべてのものを祝福する神』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC 

 1:26 神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。27 神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。28 神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。29 神はまた言われた、「わたしは全地のおもてにある種をもつすべての草と、種のある実を結ぶすべての木とをあなたがたに与える。これはあなたがたの食物となるであろう。30 また地のすべての獣、空のすべての鳥、地を這うすべてのもの、すなわち命あるものには、食物としてすべての青草を与える」。そのようになった。31 神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第六日である。2:1 こうして天と地と、その万象とが完成した。2 神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。3 神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。                                                           (創世記 1:26-2:3)


 ある人々はこういうことを語ります、「この世界に生命が誕生したことはまったくの偶然だった。たまたまちょうど良い具合で、いろいろな材料と条件がそろって、最初はごく簡単な造りの、バクテリアやアメーバーやミジンコのような小さな小さな生命が生まれ、それらは発展し改良され、より複雑なものへと進化していった。世界や自然の条件にたまたまピッタリ合う都合の良いものや、数の多いものや強くて優れたものたちが勢力を増し、生き残り、そうではない弱くて数が少なくて劣ったものたちは片隅へ片隅へと押し退けられ、ついに滅びていった。弱肉強食の、とても冷たく厳しい世界。だから、私たちもうかうかしてはいられない。賢く立ち回り、強くなり数と勢力を増し、優れたものにならなければ」などと。そんなふうに家庭でも学校でも社会でもいつもの職場でも教え込まれ、そんなふうに習い覚えてきたからです。けれど、まったく違うことを聖書は語りつづけます。「神さまが、この世界すべてとすべての生き物と私たちをお造りになった」と。科学的で合理的な物の見方や考え方が身に着いた私たちには、それがなんだか絵空事のような、根も葉もない夢物語のような馬鹿げた作り話に思えるかも知れません。人から笑われるかもしれません。けれど、私たちはそれを信じています。神さまが、この世界のすべてと私たち一人一人を造ってくださった。神によって造られた私たちであると。創世記1章は神がこの世界をお造りになったと証言し、そこでは「神は見て、良しとされた」(1:3,10,12,18,21,25)と6回繰り返されます。世界創造のそれぞれの区切りのところで「神は見て、良しとされた」とシンバルや太鼓のように鳴り響きつづけ、すべての仕事を終えて、「神が造ったすべてのものを見られたところ、それは、はなはだ良かった」(1:31)。一日毎に、神は「よし。なかなか素敵じゃないか。これもよし。これもよし」と喜んだのです。海と陸地を見て「よし」。草木が芽生えるのを見て「よし」。太陽と月と星々を見て「よし」。魚と鳥を見て「よし」。地上の生き物たちと人間を見て「よし」。神はご自分がお造りになったすべてのものをご覧になり、「とてもとても良い、はなはだ良い。よかった」と大喜びに喜んでくださいました。それが6日目までの出来事でした。第7の日に、神はご自分の仕事を離れ、安息なさいました。その満ち足りた安らかさの中で、神は造られたすべてのものをご自分のものとし(=聖別せいべつ)、祝福されました。ここで、ついにようやく神の仕事が完成したのです。
  けれども、その6日目の人間の創造の記録は、私たち人間の目と心を曇らせつづけました。26-28節、「神はまた言われた、『われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう』。神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。神は彼らを祝福して言われた、『生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ』」。「神のかたちに人が創造された」という意味内容は理解が難しく、今日でも十分には説明されていません(諸説あり。人間は「思いと良心をもって神に近づく存在」「魂、自意識、道徳性をもつ存在」「神との交わりのうちに生きる存在」等など。けれど、それは人間だけの専有的な特権なのか? 「鳥や獣と違って、神さまに祈れるのは私たち人間だけですからね」などと言われる。どうでしょう。いいえ、全被造物は神との交わりのうちに存在しています。創世記2:1-3の祝福。同7:14-15の箱舟の招きに応じて集まってきたものたち。同9:9-10-17の虹の契約。ローマ手紙8:19-30参照)ともかく、私たち人間こそは特別に優れた存在であり、価値も高く、他の何にもまさって尊い。しかもだからこそ、「治めさせよう。従わせよ、治めよ」と命じられた。私たちこそがこの世界の王さまであり、ご主人さまであり、支配者だ。思いどおりに、好き勝手に、他の生き物や大地や空や海を従わせ、服従させ、この世界を自分のものとしていいのだと。いいえ とんだ大間違いでした。
  なぜ、とんだ大間違いであると分かるのか? 神さまこそが、この世界すべてを造ったのであり、神さまこそがこの世界のただお独りの絶対の主人であるからです。私たち人言をそそのかす最も大きな罪は傲慢の罪であり、「自分たちこそは正しく強く、とてもふさわしい」と自惚れることです(ローマ手紙10:1-4。「地を治め、すべての生き物を治めよ」という言葉こそが私たちの心を曇らせ、惑わせ続けました。何千年もの間ずっと。「天に主人がおられることをあなたがたはよくよく知っているはずじゃないか。その場合、天の主人に仕える管理人に要求されるのは、主人に対して忠実であること」(コロサイ手紙4:1,コリント手紙(1)4:1-2と何度も何度も釘を刺されつづけています。例えば、大きな船を作って商売人たちとともにキリスト教会は世界の果てまで出かけていって、自分たちと肌の色も文化や言葉使いも違う人々を捕まえ、奴隷として売りさばいて大儲けをし続けました。毎週日曜日には教会で「隣人を自分自身のように愛しなさい」と教えられつづけ、「天に主人がおられることをあなたがたはよくよく知っている」とも習い覚えておきながら、けれど、その彼らが隣人であるとは思いもよりませんでした。天におられる主人をないがしろにしつづけて、何百年もたちました。踏みつけにされ、ないがしろに扱われつづけるおびただしい数の人々が、今でも呻きつづけています。世界中で、そしてこの日本でも。天に主人がおられることと、この世界全部が主人のものである一軒の家であり、やがて主人が帰ってくると知らされています。覚えておられますね、「主人がその家の僕たちの上に立てて、時に応じて食物をそなえさせる忠実な思慮深い僕は、いったい、だれであろう。主人が帰ってきたとき、そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである。よく言っておくが、主人は彼を立てて自分の全財産を管理させるであろう。もしそれが悪い僕であって、自分の主人は帰りがおそいと心の中で思い、その僕仲間をたたきはじめ、また酒飲み仲間と一緒に食べたり飲んだりしているなら、もしそうなら」(マタイ2445-50。私たち一人一人も、主人から大切な仕事を任せられた管理人として立てられています。その第一の役割は食べ物を皆に公平に配ることでした。主イエスが教えてくださった主の祈りの、『我らの日用の糧を今日も与えたまえ』を心に刻んでいる私共です。生きるために必要な糧を神さまが与えてくださる。だからこそ何の不足もなく、安らかに満たされて生きている。感謝し、信頼し、期待を寄せて神さまから一日分ずついただく。そのとき、『わたしの日用の糧』ではなくて、『わたしたちの日用の糧』をと願い求めさせられたのでした。願い求めるべき、また互いに配慮すべき兄弟や隣人たちが私たちの傍らにいます。けれどなお、私たちは度々ワガママ勝手になりました。「自分さえ良ければそれでいい」と小さく閉じこもって、心を狭く貧しくしてしまいました。それゆえ、神さまからの律法こそが改めて差し出されています。『神さまを愛すること』と『仲間たちを愛し、互いに尊び合って、その世話を誠実に行うこと』とは一組のこととして命じられます(マタイ22:34-40。仲間たちに時間どうりに食事を与えること。そのために、家の主人の全財産の管理という大きな重い責任さえも委ねられました。けれど、あるしもべたちは愚かになり、悪いものに成り下がってしまいました。よくよく考えめぐらせてみるべきなのは、この管理人でもある召し使いはクリスチャンであり、それだけではなく、またすべて18歳以上の大人たちです。多く与えられ、仲間の召し使いたちの間に、彼らの上に立てられた管理人たちよ この私たちは主人に対して忠実に賢く生きることもでき、あるいは逆に、不忠実に愚かに生きることもできます。――考えてみましょう。なぜ、あの彼は自分勝手になり、不忠実になり、愚かに成り下がってしまったのでしょうか。なぜ、仲間の大切な下男や女中を殴ったり、蹴ったりし、彼らが腹を空かせているのを横目で見ながら、自分たちだけ食べたり飲んだりできたのでしょう。そういう仲間の管理人を黙って見ているだけで、「悪いことだから止めなさい。ご主人様に申し訳ないしね」と、なぜ忠告できなかったでしょうか。もし自分で何一つ手出しをしなくたって、黙って眺めるだけで見過ごしにしてしまったならば、目の前の悪者たちと同じだけ私たちもとても悪い。子供たちや大人の職場でのいじめの場面も同じです。管理人として立てられ、主人から「よろしく頼むよ」と任された最初の数日は、数ヶ月、2、3年くらいは、まあまあ忠実に働いたかも知れません。時間どおりに公平に食べ物を分配し、心配りもし、互いに助けたり助けられたり、支えたり支えられたりし合って暮らしていたかも知れません。そのうちに、天に主人がいることをうっかり忘れてしまいました。その主人がきっと必ず帰ってくることも忘れてしまいました。まるで自分や他の誰彼が主人や殿様であるかのように勘違いしました。『天に主人がおられる。その主人はきっと必ずこの家に帰ってくる。もしかしたら明日か明後日にでも』;これだけは、二度と決して忘れてはなりません。
 また、その神は、ご自分が造ったものすべて一つ一つをご覧になり、「はなはだ良い」と大喜びに喜んだのであり、だからこそご自分のものとなさり、祝福を与えました。神のものとされ、神ご自身からの祝福を与えられたものたちを、たかだか人間ごときが思いどおりに、好き勝手に取り扱い、従わせ、服従させ、自分のものとしていいでしょうか。いいえ、決してそうではありません。そのことは、折々に念を押されつづけました。例えば創世記2章は、1章と対になっていてひと組です。神さまによってこの世界が造られたその初めのとき、地上は草一本も生えない、虚しく物淋しい大地だったと報告されます。「地を従わせよ。治めよ、支配せよ」と語られていたその同じ中身が、創世記2章では、「エデンの園に連れて来られたのは、ゆだねられたその土地を耕させ、守らせるためである」(創世記2:15参照)と、はっきりと告げられていました。さらに、創世記910-17節の『虹の契約』です。「『またあなたがたと共にいるすべての生き物、あなたがたと共にいる鳥、家畜、地のすべての獣、すなわち、すべて箱舟から出たものは、地のすべての獣にいたるまで、わたしはそれと契約を立てよう。わたしがあなたがたと立てるこの契約により、すべて肉なる者は、もはや洪水によって滅ぼされることはなく、また地を滅ぼす洪水は、再び起らないであろう』。さらに神は言われた、『これはわたしと、あなたがた及びあなたがたと共にいるすべての生き物との間に代々かぎりなく、わたしが立てる契約のしるしである。すなわち、わたしは雲の中に、にじを置く。これがわたしと地との間の契約のしるしとなる」。

              ◇

  だからこそ、神ご自身によって祝福と救いのための時が満たされました。薄暗い死の陰の谷に、すべての生き物たちと私たち人間は住みつづけたからです。天と地のすべて一切をお造りになった神は、ご自分がお造りになった世界を、見捨てることも見放すことも決してなさらないからです。主なる神さまこそが、この世界と私たちを憐れむからです。預言者は呼ばわりました。「荒野に主の道を備え、さばくに、われわれの神のために、大路をまっすぐにせよ。もろもろの谷は高くせられ、もろもろの山と丘とは低くせられ、高低のある地は平らになり、険しい所は平地となる」(イザヤ書40:3-4と。荒野や砂漠に主の道を備えることは、けれども私たち人間には至難の業でした。かえってますます私たちは、荒れ果てた乾いた土地に成り下がり、曲がりくねった凸凹道になり、自惚れて思い上がり高い山や丘のようになりました。いじけてひがんで薄暗い谷間のようになりました。私たちの庭には茨と雑草が生え伸びて、日が差す隙間もないほどにすっかり覆い尽くされようとしました。そのようにして、素敵な庭になるはずのエデンの園は荒れ果てて乾いた地になり、薄暗い谷間に成り下がりました。何度も繰り返して。神ご自身が主の道を備えてくださるほかなかったのです。神ご自身が、高い山や丘のようになった私たちを低く押し下げてくださり、薄暗い谷間のようだった私たちを高く持ち上げてくださるほかありませんでした。荒れ果てた乾いた土地であったわたしたちを耕し、曲がりくねった凸凹道であった私たちをまっすぐな広い道に整備し、茨と雑草を抜いて手入れをしつづけてくださる必要がありました。その通りです。しかも、それをしていただき続けてきたのです。この私も、みなさん一人一人も。救い主イエスはおっしゃいました、「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ福音書1:15と。



2018年7月3日火曜日

7/1こども説教「剣や棒をもって」ルカ22:47-53


 7/1 こども説教 ルカ22:47-53
 『剣や棒をもって』

22:47 イエスがまだそう言ってお られるうちに、そこに群衆が現れ、十二弟子のひとりでユダという者が先頭に立って、イエスに接吻しようとして近づいてきた。48 そこでイエスは言われた、「ユダ、あなたは接吻をもって人の子を裏切るのか」。49 イエスのそばにいた人たちは、事のなりゆきを見て、「主よ、つるぎで切りつけてやりましょうか」と言って、50 そのうちのひとりが、祭司長の僕に切りつけ、その右の耳を切り落した。51 イエスはこれに対して言われた、「それだけでやめなさい」。そして、その僕の耳に手を触れて、おいやしになった。52 それから、自分にむかって来る祭司長、宮守がしら、長老たちに対して言われた、「あなたがたは、強盗にむかうように剣や棒を持って出てきたのか。53 毎日あなたがたと一緒に宮にいた時には、わたしに手をかけなかった。だが、今はあなたがたの時、また、やみの支配の時である」。    
(ルカ福音書 22:47-53

  前の前の週にすっかり説明したことですが、弟子たちが二人ずつ組にして町や村に遣わされていったとき、ほとんど何一つも持たず手ぶらで出かけていって、けれど何も困りませんでした(ルカ9:1-6,10:1-20。それを思い出させた上で、「しかし今は財布も袋も持て。剣も、自分の上着を売ってでも手に入れて持て」(ルカ22:36-38と主イエスは弟子たちに指図しました。何も困らなかったあのときと、きっと困るはずの『今』と、何がどう同じで、どう違うのかを立ち止まってよくよく考えてみる必要があります。主イエスが十字架につけられ、殺され、葬られ、まだ墓からよみがえらないうちは、そのほんの数日間の緊急事態の間だけは、この主に守っていただくことが出来ません。主イエスが墓からよみがえった後でなら、それまでと同じで、主イエスの弟子たちは手ぶらでどこへでも安心して出かけてゆくことができます。主イエスがいつでもどんな時にも、何が起こっても必ず守ってくださるからです。だからこそ49-51節、剣や棒をもった恐ろしい人々に取り囲まれても、主イエスはご自分の弟子に、「止めなさい止めなさい」とせっかくの剣をほとんど使わせません。剣や棒やお金の力によってではなく、人間のどんな力によってでもなく(使徒4:10-12,19、ただただ主イエスにこそ必要なだけ十分に守っていただける。何があっても大丈夫。なぜならこの私たちも主イエスの弟子なので。分かりますか? 今もこれからも、同じ一つの心得です。

     【補足/剣や棒か? 別の権威か?】
この世界は、実は《剣や棒を握るものたちの王国》でありつづけています。強さや羽振りのよさや多数であることや、自慢できる得意な何かをもっていることや他人様より一歩でも二歩でも優れていることが、その王国で勝ち抜いていくためのルールでありつづけます。それとも、別の《強さ,権威》のもとに立つか。むしろ、剣や棒や強さや数の多さ、富や力や品格や良い評判などに目が眩んだままでは、この方の《強さ,権威》に気づくことができません。この方に信頼を寄せ始めることができません。


7/1「罪人を救う救い主」Ⅰテモテ1:12-17


                     みことば/2018,7,1(主日礼拝)  169
◎礼拝説教 テモテ手紙(1) 1:12-17                日本キリスト教会 上田教会
『罪人を救う救い主』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

1:12 わたしは、自分を強くして下さったわたしたちの主キリスト・イエスに感謝する。主はわたしを忠実な者と見て、この務に任じて下さったのである。13 わたしは以前には、神をそしる者、迫害する者、不遜な者であった。しかしわたしは、これらの事を、信仰がなかったとき、無知なためにしたのだから、あわれみをこうむったのである。14 その上、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスにある信仰と愛とに伴い、ますます増し加わってきた。15 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。16 しかし、わたしがあわれみをこうむったのは、キリスト・イエスが、まずわたしに対して限りない寛容を示し、そして、わたしが今後、彼を信じて永遠のいのちを受ける者の模範となるためである。17 世々の支配者、不朽にして見えざる唯一の神に、世々限りなく、ほまれと栄光とがあるように、アァメン。    (テモテ手紙(1) 1:12-17


 12節「私たちの主キリスト・イエスに感謝する」と彼は言いはじめます。ただ口先で言うだけではなく、主イエスに対する感謝と信頼を自分自身の心に刻んでします。いま心に刻んでいるだけでなく、これまでも「ありがとうございます。本当に、ありがとうございます」と言い、心に刻むことを積み重ねつづけてきました。「イエス・キリストに感謝する」と言うとき、彼は、その感謝すべき相手とその中身に目を凝らし、しみじみと味わっています。私たちの主であるイエス・キリストと。「ああ。こういう方だった。こんなことをしていただいた」と。例えばこの私たち自身は、初めからずっと強かったわけではなく、自分で自分を鍛え上げて自分で強くしてきたということでもなく、キリストによってこそ強くされました。そして主キリストによって、その務めやその場所にふさわしいと見做していただき、そこに据え置いていただきました。《キリストのもの。主キリストに仕えて生きる者》であるという場所と務めに。あのただお独りの方が、私を強くしてくださって、あの方がこそが、こんな私をさえふさわしいと見做してくださった。私たちの主であるイエス・キリストというお方が。「私は強くしていただいた」と噛みしめる彼は、それ以前の、『弱く不確かだった頃の自分のいつもの在り方』を覚えています。その弱く不確かだった自分自身が、いつ、どんなふうにして強くされてきたのかをよく自覚しています。
 13-16節。「憐れみをこうむった」「主の恵みがますます増し加えられた」「憐れみをこうむった」「限りない寛容を示された」と彼はクドクドと繰り返します。憐れみ、憐れみ憐れみ。「恵みや憐れみはもう分かった。何か別のことを言ってくれ」と言われても、うんざりしたような嫌な顔をされても、がんとして、彼はしつこく繰り返します。「憐れみ、憐れみ、憐れみ。主の恵み、主の恵み、主の恵み」と。言い表すことにおいても、自分自身の心に刻み込むことにおいても、もう十分ということはありません。まだまだ言い足りない。いいえ、それよりも、まだまだ自分自身の心に刻み足りない。憐れみをこうむった私である。主の恵みをますます増し加えられた私である。限りない寛容を示され、何度も何度もゆるされつづけてきた私。それが、それこそがこの私という一個の人間の中身であると。15節「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来てくださった」。この一点に聖書全体がかかっており、世界中のすべてのキリストの教会と一人一人のクリスチャンの全存在がかかっています。キリスト・イエスは罪人を救うために世に来てくださった。掛け値なく、まったく真実であり、そのまま丸ごと受け入れるに足るものである。だから、この私自身も、そのまま受け入れている。あなたにも、ぜひそうしていただきたい。キリスト・イエスは罪人を救うために、ただ、そのためにこそこの世に来てくださった。この言葉こそ真実。少なくともキリストの教会と私たちクリスチャンには、『はいどうぞ』と言って差し出してあげられる真実は、これしかありません。キリスト・イエスは罪人を救うために、ただただ、そのためだけにわざわざこの世界に来てくださった――という、ただ一点の真実。「真実です。はい、信じます」と受け入れた者たちによって、キリストの教会とクリスチャンの一人一人は形造られ、その営みをつづけてきました。この上田の地でも、他どこででも。
「罪人を救うため」と言います。直ちにつづけて、「他の誰でもなくこの私こそが、その罪人の頭なのだ。罪人中の罪人、神さまに背きつづける最低最悪のどうしようもない私だ」と。兄弟姉妹たち。ここが、決定的な分かれ道です。「一般的に誰でも、わがまま自分勝手であり、ズルく立ち回り、他人を押しのけたり苦しめたりする。多かれ少なかれ、誰だってそうだ。え私? まあ多少はそういう所があるかも知れないけど、さあて、どうかなア」というだけでは全然足りません。実は、《わたしは、その罪人の中で最たる者。罪人中の罪人、飛び抜けて罪深い。ほかのどんな悪人よりも、この私こそが最低最悪》ということが、もしピンと来ないのなら、この言葉の真実さや喜びはたとえ洗礼を受けて5060年たった後でも、ちっともその人の骨身にしみてきません。恐ろしいことですが、「キリストは罪人を救うために来てくださった。本当ですよ」と知らされつづけても、なお多くのクリスチャンたちはつまらなそうな顔をして聞き流し、聞き飛ばしつづけます。「まあ、いいけど。罪人を救うだけじゃなく、もっと他に、世のため人のために色々と素敵なことをしてくれればいいのに」などと。例えば、自分は正しいと自惚れて他人を見下している人々が「キリストは罪人を救うために来てくださった」と聞いても嬉しくもなんともない理由は、自分自身がとても悪いなどと思ってもいないし、正直な所、そんなことは認めたくもないからです。それで、「罪人を救うためだって。また誰か他の人たちのことを話しているんですね。だって私は罪人なんかじゃないですから。警察に捕まったわけでもないし。それなりにちゃんとやってるし、しっかりしているんですよ」などと上の空で聞き流しつづけているからです。「わたしこそがその罪人の頭。罪人の中の最たる者である」。単なる謙遜でも社交辞令でもありません。控え目なふりを装って、ただ口先だけで「私は小さい。弱い。かなり身勝手で、意固持で、つまらない私だ」と言っているわけではありません。そうではなく受け取った恵みの大きさに比べて、私は小さい。差し出されたゆるしと慈しみの豊かさに比べて、私は貧しかった。あまりに身勝手で了見が狭かった。にもかかわらず与えられ、受け取った。――心底そう言い、そう自覚しています。《私は罪人の中の最たる者。あの人やこの人がではなく、この私こそが飛び抜けて罪深い。この私こそ最低最悪だ》と分かったからこそ、「罪人を救うためにこの世に来てくださった。ああ、本当にそうだ」と分かりました。イエスという方こそが救い主であるということも、神の独り子であるその方が、いったいどうしてわざわざこの世界に降って来なければならなかったのかも、そこでようやく分かりました。「あの人は罪深い。この人もこの人もこの人も、ずいぶん」というだけでなく、そう言っているこの私こそが、他人の5倍も6倍も、あまりに罪深い。なぜキリストがこの世界に降りて来られねばならなかったのか。それは「こんな私の罪と悲惨のためだった。本当にその通りだ」とつくづく認めさせられるまでは、神さまのことも、その恵みも、その救いも何も分かりません。ただ口先だけの理屈であり、上っ調子で軽々しいだけの安っぽい教養や知識にすぎません。いつまでも他人事であり、あなたが生きていく普段のいつもの生活とはまったく何の関係もない。肝心要はここから先です。では、あなた自身はどうなのか? 

 16節。「しかし、わたしがあわれみをこうむったのは、キリスト・イエスが、まずわたしに対して限りない寛容を示し、そして、わたしが今後、彼を信じて永遠のいのちを受ける者の模範となるためである」。憐れみをこうむり、救われて生命を受け取った。それは、この私たちが『模範・見本』になるためだった、といいます。模範や見本。例えば、食堂やレストランの入り口脇のガラス・ケースに、献立の見本を載せた皿やどんぶりが並べられています。お客は、それを眺めながら、「さあ、何がおいしそうだろうか。何を食べようか」「あんまりおいしそうじゃないなあ。やっぱり別の店に行こうか」などと品定めします。この私たちが模範・見本にされたとは、このことです。神の国の食堂やレストランの入り口脇のショーケースに、皿やどんぶりや小鉢に盛られて、この私たちは並べられています。店の前を通りかかる人々が、それを眺めています。「さあ、何を食べようか。どの店に入ろうか」と。主イエスを信じて、その主によって永遠の生命を得ようとする人々が、店先のガラスケースの前を通りかかります。そして、ふと立ち止まって、あなたを眺めます。もし、おいしそうに見えれば、その店に入ってみるかもしれません。あまりおいしそうでなかったら、通り過ぎて、別の店に入るでしょう。不思議なことに、その食堂のショーケースは、ほかのどこの食堂やレストランともまったく違っていました。無学な者、知恵のない愚かな者、無に等しい者たちという皿が並べられていました。賤しい者、身下げられていた者という器や小鉢やどんぶりが並べられていました。力のない弱々しい者、貧しい者、飢え渇いていた者という小皿や椀が並べられていました。その、なんだかパッとしない、見栄えも悪い粗末な土の器の中から、光があふれていました(コリント手紙(1)1:26-31,(2)4:6-。まぶしいほどに明るく輝く光が、その見栄えも悪い粗末な器からあふれていました。皿の中の料理は、『強くしていただいた。ありがとうございます』という食材で作られています。『主イエスが、こんな私をさえ、強くしてくださった。主が、ここに憐れみをもって据え置いてくださった』というスープで煮込まれています。『憐れみ。憐れみ。憐れみ。主の恵み。主の恵み。主の恵み』という具が盛り付けられています。『憐れみを受けた私だ。主の恵みをあふれるほどに与えられた私だ。限りない忍耐を示され、何度も何度もゆるされてきた私だ。それが、この私というモノ。驚いて、ただただ感謝する他ない私だ。そこが、私の立っている場所だ』というソバが盛られています。『キリスト・イエスは罪人を救うために、この世界に来られた。この一点に、私の全存在もかかっている。真実だった。確かに、そのまま受け入れるに値した。大正解だった。そのまま受け入れて、それを大事に大事に抱えて生きてきたこの私が保証します。太鼓判を押します。本当です』と、つくづく味わっている私だ。さあ、あなたも一口どうぞ。と誘っています。

              ◇

 実は、ほんの30年ほど前まで、この僕自身も食堂やレストランがいくつもいくつも並んだ店先をブラブラ歩いていました。満たされない思いや心細さや、言いようもない虚しさを抱えて。だからこそ物欲しそうに、そして疑い深そうに、「なんか美味いものがないかなあ」とキョロキョロジロジロ眺め渡しながら。なんとなく一つの店に入り、席に着き、試しに一口食べてみました。また一口、また一口、そしてまた一口と。病みつきになり、常連になり、とうとうこの食卓から離れられなくなって、ず~っっと食べつづけています。なにしろ、旨かったからです。主なる神さまの御前に集うこのひとときが、私の一週間の悪戦苦闘を支えます。主へと向かうこの回の祈りが、私の一日一日を支え、心強く押し出し、また忍耐して踏み止まるように促します。そのようにして一日一日、一週間一週間を生き延びてゆく私です。神さまの御前で、また世間様や人様の前でも、恥じることも恐れることもなく、晴れ晴れして生きることができる。それは、ただただ主であるイエス・キリストの救いの業によりました。他には、私の正しさの理由は何もありません。私が神の憐れみを受けてその子供たちの1人とされている理由も、ふさわしいとされている理由も根拠も裏付けも、他には何一つありません。ただただキリストの恵みとゆるしによって、です。
 ですから、度々いじけたり僻んだり、苛立ったり、がっかりして挫けそうになるあなたは。「どうせ私なんか」と度々くすぶっているあなたは。「罪深い私です。何の取り柄もない、つまらない小さな小さな私です」と口癖のように言っているあなたこそは、むしろ今日からは、こう言いなさい。「罪深い私だ。それなのに神さまは」と。「何の取り柄もない、つまらない私だ。それなのに神さまは」と。「見下げられていた貧しい私だ。膝を屈めさせられていた私だ。けれど、にもかかわらず神さまは」と。その通り。だからこそ、あなたはここにいる。だからこそ、そんなあなたでさえクリスチャンとされた。なにしろ主の忍耐は限りなかったので。主の慈しみは惜しみなく、あなたに対してさえ絶えることがなかったので。だって私たちは食堂入り口脇に並べられている見本ですから。でも、どんな模範や見本でしょうか? 「こんなに素晴らしい私ですよ」という模範や見本なら、それは難しいでしょう。そういう類いの薄汚れた安っぽい模範や見本なら、この食堂には要りません。間にあっています。「こんな素晴らしいご立派な私」ではなくて()、「何しろ、こんなに素晴らしい神さまです。ほら、この神さまを見てください。一口食べて、その恵みを味わってごらん」という見本なら。それならば、私たちにも晴れ晴れとして務まりそうです。






2018年6月25日月曜日

6/24こども説教「なぜ、なんのために祈るのか?」ルカ22:39-46


 6/24 こども説教 ルカ22:39-46
 『なぜ、なんのために祈るのか?』

22:39 イエスは出て、いつものようにオリブ山に行かれると、弟子たちも従って行った。40 いつもの場所に着いてから、彼らに言われた、「誘惑に陥らないように祈りなさい」。41 そしてご自分は、石を投げてとどくほど離れたところへ退き、ひざまずいて、祈って言われた、42 「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」。43 そのとき、御使が天からあらわれてイエスを力づけた。44 イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた。そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた。45 祈を終えて立ちあがり、弟子たちのところへ行かれると、彼らが悲しみのはて寝入っているのをごらんになって46 言われた、「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさい」。           (ルカ福音書 22:39-46

  十字架につけられ、殺されてしまうその前の晩に、主イエスは祈りの格闘をなさいました。43-44節と、その祈りがどれほどのものだったのかも知らされています。御使いが支えて、力づけるのでなければ、すっかり弱り果ててしまうほどの厳しい祈りを。「苦しみもだえて、ますます切に祈られた。そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちる」ほどの祈りを。救い主イエスは本当に神でありながら、同時に人間でもあられ、私たちと同じ弱さや危なっかしさをもご自分の身に引き受けておられるからです。十字架につけえれ、人々から見捨てられ、恥とあざけりの中で罪人の死を味わうことは、主イエスにとっても苦しく辛いことだったからです。それでもなお、「わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」と、御父への信頼と従順の中に留まりつづけることは、苦しみ悶えて、血の汗をしたたらせつづけるような戦いであるからです。
  しかも、その主イエスは弟子たちにも、「目を覚ましていて、同じように心底から必死になって祈りつづけなさい」とお命じになり、強く励ましつづけます40,46節)神さまに背かせようとする誘惑が、この私たちをも付け狙っているからです。神さまの支えなしには、誰一人も罪の誘惑に負けずに、神さまの恵みのもとに立ち続けることなどできないからです。ついつい眠っているうちに、神に逆らう罪の奴隷にされて、この私たちも、あまりに惨めで虚しい生き方へと転げ落ちてしまいかねないからです。それは恐ろしいことです。

【補足/弱く危うい者たちこそ、必死に祈りつづけよ】
弱く、案外に不信仰な自分であると自覚することができますか? それなら、あなたも祈りなさい。「悪魔の策略に対抗して立ちうるために・・・・・・祈りつづけなさい」「心は熱しているが、肉体が弱いのである」(エペソ手紙6:11-18,マタイ26:41参照)。


6/24「委ねられ、約束されている」マタイ28:16-20


                     みことば/2018,6,24(主日礼拝)  168
◎礼拝説教 マタイ福音書 28:16-20(最終回)    日本キリスト教会 上田教会
『しかし疑う者もいた』
               +これから14回の礼拝説教予定

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
28:16 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行って、イエスが彼らに行くように命じられた山に登った。17 そして、イエスに会って拝した。しかし、疑う者もいた。18 イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。19 それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、20 あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。                   (マタイ福音書 28:16-20)


  主イエスは十字架につけられ、死んで葬られ、その3日目に墓から復活なさいました。「故郷のガリラヤに帰り、あの山に登りなさい」と、その主から命じられていました。ですから命じられたとおりに、11人の弟子たちはガリラヤに行き、その山に登りました16節)。そこで約束どおりに、復活なさった主イエスにお会いしました。17節で「イエスに会って、拝した」と書いてあります。主イエスに対してひれ伏し、この方を拝んでいます。旧約聖書の時代にも新約聖書の時代にもその後もずっと、彼らも私たちも、『ひれ伏したり、よくよく聞き従ったり拝んだりする相手は、ただただ神さまだけ』と決めている者たちです。主イエスが十字架におかかりになる前、弟子たちはイエスさまのことを「先生、先生」と呼んで、たいへんに尊敬したり、慕ったりしていました。けれど、だからと言って、ひれ伏したり拝んだりは滅多にしなかった。ご立派な偉い大先生だとは思っていても、いままではそんなことはほとんどしませんでした。復活したイエスさまと出会って、ここで弟子たちは『ああ。やっぱり神さまだったのか』とようやく信じて、主イエスに対して、ひれ伏し拝んでいるのです(マタイ28:9,17,エステル3:1-8,列王記上19:18
  主イエスは命令なさいました。「わたしの弟子として、彼らに洗礼を施し、あなたがたに命じておいた一切のことを守るように教えよ」(19-20)。伝道伝道と、教会ではいつも熱心にいっています。そしてこの頃は、なんだかあまりうまくいかなくなって、チラシを山ほど配っても、友だちや近所の人や親戚や家族をいっしょうけんめいに誘っても、「じゃあ行ってみようか」と来てくれる人はほんの少ししかいないようです。そして皆は、「あら困った。どうしたらいいだろうか」と心細そうな顔つきで首を傾げているらしい。――え、どうしましょうですって。なんて言われていたんでしたっけ? 「わたしの弟子として、彼らに洗礼を施し、あなたがたに命じておいた一切のことを守るように教えよ」。主イエスが仰ったことは、はっきりしています。主イエスの弟子にし、また主が教えてくださったことを守るように教えること。そして、主が教えてくださったその中身こそが、主イエスの弟子である私共を、がっちりと堅く守りつづけます。なぜするかといえば、ただただ主のご命令であり、「よろしく頼みますよ」と主が私たちに大事な仕事を任せてくださったからです。それなら私共は、すべきことをすればよい。「しなさいよ」と命じられていることを、私共は心を込めて精一杯にすればよい。
  ひれ伏して、主イエスを礼拝する弟子たちの中には「疑う者もいた」(17)、と報告されています。正直な報告です。でも正直すぎるんじゃありませんか?「そこまで報告しなくたっていいじゃないか。体裁が悪いし、世間様からの評判にも立派な格式にも傷がつく」と嫌な顔をする弟子たちもいるでしょう。「ちゃんと皆が信じた」と書いたほうが見栄えも体裁もいいのに。あるいは、「命じられていたとおりに山に登った。ひれ伏して拝んだ。すると主はこう仰った」とだけ報告しておけばいいのに。あまりにバカ正直すぎます。でも、なぜ? このように聖書を読んでいて引っかかる場所に出会うとき、私たちは立ち止まって、そこでよくよく考え込みましょう。「中には疑う者もいた」とわざわざ報告しているからには、そうすべき理由もあるはずです。主イエスは仰いました;「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。本当かな、どうだろうかと疑う者たちも含めて、弟子たち皆に向かってそう仰ったのです。だから、「さあ、どうだろうか」と心配になったり迷ったりする弟子たちも、嫌々渋々と、主イエスの福音を宣べ伝えるために出かけていきました。尻込みしはじめ、逃げ腰になっていた弟子たちも、こわごわ恐る恐る出かけていきました。
 では、考えてみましょう。「そんな疑ったり迷ったりする弟子たちに大切な仕事を任せたって仕方がないじゃないか。そんなことでは、立派に務めをはたせるわけがない。主イエスをちゃんと十分に信じている、しっかりした弟子たちだけに福音を宣べ伝えさせたらいいじゃないか」と思いますか? いいえ、そうではありません。だって、主イエスは仰ったではありませんか、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから」と。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。だから」と。ね、よくよく覚えていてください。これがキリストの教会のための主イエスご自身からの約束なのです。疑ったり迷ったり、たびたび心配になったりオロオロしたりする弟子たちです。それでも疑いながらでも、命じられたとおりに出かけていきました。命じられたとおりに、洗礼を施し、主イエスの弟子とし、教えつづけました。今でもそうです。これからもずっとそうです。そしてまた、はじめにはよくよく信じていたはずの弟子たちも、出かけていって途中で、やっぱり疑ったり恐れたり、尻込みしたりし始めたでしょう。どうしましょう。大丈夫。あのときと同じように主イエスは近づいて来て、「私は天と地の一切の権能を授かっている。だから」と語りかけてくださるからです。情けないような、ひどく惨めな気持ちになって、心がすっかり折れてしまいそうになる日々は誰にでも来ます。これからもそうでしょう。1個のキリスト教会にとっても、クリスチャンの家族1人1人にとっても。恐れや不安が山ほどあって、すっかり弱り果てて。そうしたら、ガリラヤの山の上で弟子たちに語りかけておられたその同じ主イエスが、その弟子たちの傍らにも近寄ってきて、語りかけます;「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ」(使徒18:9-10)。ね、あなたも聞きましたか。同じ主イエスからの同じ約束です。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから」と。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。だから」と。しかも、この町には私の民が大勢いると主は仰るのです。「ほんの1人か2人くらいだろう。もしかしたら、主を信じる人なんて、この町には誰もいないのかも知れない」と諦めかけていました。そうではなかった。たとえ私たちが知らなくても、まだ顔も見たことがなくたって、その人たち自身が『自分は主イエスの弟子の1人だ』なんて、今はまだ全然思ってもいなくたって、けれど何しろ、「わたしの民が大勢いる。この町にいる」と断固として仰るのですから。それならこの上田市にも、佐久平にも川上村にも長野市周辺にも塩田地区、長瀬地区、中之条地区にも必ずきっと大勢いるでしょう。同じ1軒の家に暮らす家族の中にも、主ご自身の民が隠れていて、探し出されるのを今か今かと待ち詫びているかも知れません。「いつでもどこでもどんな時にも、私こそがちゃんと一緒にいる。だから」と約束してくださった主イエスが、私共に命令しておられます。「わたしの弟子にしなさい。精一杯に教えなさい。あなたも尻込みしないで、さあ語りつづけなさい」と。
 復活の主イエスにお会いしたあの山の上、疑う者もいました。主の弟子たちの疑いは何度も何度もブリ返します。たちの悪い風邪のように、治ったかと思ったら、またぶり返し、治ったかと思ったら、またぶり返し。どうしましょうか。そう言えば、聖書の中に登場する信仰者たちは、あまりに不信仰で、ほとんどみな疑う者たちばっかりです。例えば、信仰の父と母であるアブラハムとサラも夫婦共々に、ずいぶん長く待たされた後で「救いの約束をかなえますよ」と神さまから告げられて、「嘘オ、100才の私にどうして子が生まれよう。妻も90才にもなって、どうして子を産むことができようか。できるはずもない」「私は衰え、主人もまたお爺さんになったのに、私たちに楽しみなどあるはずもない」と疑って、苦々しく笑いました。例えば士師のギデオンも格別に臆病で、「本当ですか。証拠を見せてください。もう1回もう1回」と羊の毛皮を表にしたり裏返したり表にしたり裏返したりと神さまを疑いつづけました。洗礼者ヨハネの父さんザカリヤもそうでした。主の弟子トマスも、かなり徹底して疑いつづけました(創世記17:17,18:12,士師記6:36-40,ルカ1:18,ヨハネ20:25すると多分、あなたや私も似たような者です。そうだとしてもなお私たちも、心を新たにされ、造りかえられてゆき、何が神の御旨であるか、何をすべきか何をすべきではないのか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかをだんだんと弁え知る者たちとされてゆくでしょう。生きて働いておられます神さまが、うかつな、気もそぞろの、あまりに不信仰なこの私たちにさえも、ちゃんと1つ1つ教えてくださるからです。なにしろ私たちは、主イエスの弟子とされ、主イエスから学びつづけよと命じられているのですから。教えられてきたことを守るようにと主イエスご自身から直々に命じられているのですから。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから」と。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。だから」と。
 ひれ伏して礼拝する弟子たちの中には、疑う者たちもいた。「疑う」とは、「心が引き裂かれて分かれること、信じ切れない有様」です。それが主イエスに従う弟子たちのいつもの姿でありつづけました。例えば、ガリラヤ湖を粗末で小さな舟で漕ぎ渡ったとき、またその湖の湖畔で、彼らは度々、「疑って」「主を礼拝して」「疑って」「主を礼拝して」と繰り返しました。湖の上を歩く主イエスを弟子たちが見た(マタイ14:13,31-33とき、わずかなパンと魚しかなかったのに多くの者が満たされたとき、疑い、心をさまよわせて、主から心を遠ざけようとしたとき、その度毎に彼らは主の格別な権威と力に深く驚いて、目を真ん丸に見開いて、膝を屈めさせられつづけました。主イエスとの間に距離を置こうとする弟子たちの方へ、復活の主の方から近づいて来られ、語りかけつづけます。心が引き裂かれ、信じ切れないでいる者たちも含めて弟子たち皆に、復活の主イエスは神の国の福音宣教を命じられる。つまりは主のものである働きに従事する只中でこそ、その疑いや信じ切れなさは少しずつ拭い去られていく他ないからです。主ご自身が近づいてこられ、語りかけてくださり、小舟の外側でも、自分自身の魂の内側でも吹き荒れる風や波を鎮めてくださる中で。私たちは信じたい。ますますはっきりと。
  さて、もう一つのこと。私たちが行って、主イエスの弟子とし、洗礼を施し、主イエスから命じられていたいっさいのことを守るように教えるべき「すべての国民」(19)とは、諸国民であり、諸民族です。やがてペンテコステの日に集まった人々は「自分の故郷の言葉で。わたしたちの言葉で」神の大きな働きを聞くのだし、そもそもアブラムへの祝福は「地のすべてのやから。地上の生き物たちすべて」(使徒2:6,11,創世12:3)のための祝福でした。またエジプトから脱出した神の民には、「多くの入り混じった群衆。種々雑多な人々」が新たに加えられてもいました(出エジプト12:38。預言者イザヤに対して語られた宣教命令もまた、諸国、諸民族、様々な生まれや育ちや入り混じった境遇の者のためのものでありつづけます(イザヤ42:6,49:6,51:5,60:3。しかも彼らは、それぞれ自分たちのいつもの生活の言葉で、神の大きな働きを、神の国の福音を聴くはずなのです。何とかして何人かでも救いに案内するため、むしろこの自分自身が福音に共にあずかる者となるために、その彼らのようになりなさいと私たちは促されつづけています(コリント手紙(1)9:22-23)。「わたしの弟子にしなさい。洗礼を施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えなさい」(19-20)

               ◇

なぜ、伝道であり宣教なのか。いったい何をするのか。何のために、それをするのか。19-20節の主のご委託とご命令はあまりに明確です。けれど、それと私たち自身の目の付けどころ、腹の据え方は、ちゃんと、よくよく一致しているでしょうか。主イエスの弟子にし、また主が教えてくださったことを守るように教える。主が教えてくださった中身こそが弟子たちを守るのです。なぜするかといえば、店が傾きかけているからでもなく、赤字続きで倒産しかけているからでもなく、閑古鳥が鳴きはじめているからでもありません。ただただ主のご命令とご委託であり、私たち自身と家族のための救いの約束だからです。それなら、すべきことをすればよい。できることを、せよと命じられたことを、精一杯になせばよい。してはならないと戒められていることは、決してしてはなりません。そのとき強い風や荒々しい大波に気がついて、私たちは怖くなるでしょうか。足元から沈みかけ、波が打ち寄せ、怖くなるでしょうか。なります。それならば、「主よ助けてください」(マタイ14:30と叫べばよい。必死に、主にしがみつけばよい。大慌てで、主の足元に駆け戻ればよい。主イエスの弟子たち、よくよく習い覚えてきたのはこのことです。疑う者も心をまよわせる者もいる。疑いや迷いは再燃し続けます。大丈夫。教えと、一切の権威を携えた主ご自身は、いつでも、どこで何をしていても、私どものすぐ近くにおられます(申命記30:11-14,ピリピ手紙4:5。ご主人さまであられる救い主イエス。その主にこそ全幅の信頼を寄せ、聴き従って一日また一日と生きる弟子である私たちです。



          +これから14回の礼拝説教の予定
7 1   テモテ手紙(1)1:12-17『罪人を救う救い主』
     8  創世記 1:26-2:3    『すべてのものを祝福する神』
    15    2:4-25        『荒れ果てた世界のために』
    22日  同3:1-24         『神への反逆のはじまり』
    29日  同4:1-16         『どうして怒るのか?』
 85日  同8:20-9:17      『悪いけれども救う』
  12日  同12:1-9          『祝福の出発点とされた』(召天者記念)
    19日  同12:10-20        『アブラムとサライの不信仰』
    26  出エジプト記14:1-18『鎮まれ、主の救いを見よ
9 2   同16:1-21, 31-36   『天からの恵みのパン』
     9  士師記7:1-8         『民が多すぎるので』
    16日 サムエル記上17:28-40『羊飼いの心得』
    23  列王記上19:1-14     『私ひとりだけが』
    30  ヨナ書3:1-4:11  『罪人をあわれむ神』