2018年8月28日火曜日

8/23聖書研究録「神への従順。その破綻と回復過程」


 聖書研究                                      2018,8,23 金田聖治
『神への従順。その破綻と回復過程』
                                                   

                                         P
                1.結論 (前篇)   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  1-4
                  2.事例研究   ①モーセ神格化の経緯/②士師ギデオンが招き寄せ 
           た罠と落とし穴/③サウル王の二度の背反/④ヤラベアム王の「金
           の子牛×2倍効果」/⑤マタイ24:45-51 なぜ、しもべは悪くなっ
           たか? 3-7
           3.結論 (後篇) 
           1).キリストのかたちに似たものとなる   ・・・・・・・・・   9
            2).幼子のようになるという秘儀     ・・・・・・・・・・・・・  9-14


  1.結論 (前篇)
  地上に生きる人間たちの間に大小様々な権威者たちが立てられつづけます。聖書自身は、そこに多様な視点を与えます――
 「すべての人は、上に立つ権威に従うべきである。なぜなら、神によらない権威はなく、おおよそ存在している権威は、すべて神によって立てられたものだからである」(ローマ13:1
  (王を与えよという民の要求に)彼らが捨てるのはあなたではなく、わたしを捨てて、彼らの上にわたしが王であることを認めないのである。彼らは、わたしがエジプトから連れ上った日から、きょうまで、わたしを捨ててほかの神々に仕え、さまざまの事をわたしにしたように、あなたにもしている」(サムエル上8:7-8
  「神に聞き従うよりもあなたがたに聞き従う方が正しいかどうか、判断してもらいたい」「人間に従うよりは、神に従うべきである」(使徒4:19,5:29
  「龍(=悪魔)は自分の力と位と大いなる権威とを、この獣に与えた」(黙示録13:2

  これらの証言の出発点は、創世記1章と2章の互いに補完しあう証言です。「神はまた言われた、『われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう』。神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。神は彼らを祝福して言われた、『生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ』」(創世記1:26-28。「神のかたちに人が創造された」という意味内容は理解が難しく、今日でも十分には説明されていません。ともかく、私たち人間こそは特別に優れた存在であり、価値も高く、他の何にもまさって尊い。しかもだからこそ、「治めさせよう。従わせよ、治めよ」と命じられた。私たちこそがこの世界の王さまであり、ご主人さまであり、支配者だ。思いどおりに、好き勝手に、他の生き物や大地や空や海を従わせ、服従させ、この世界を自分のものとしていいのだと。いいえ とんだ大間違いでした。なぜ、とんだ大間違いであると分かるのか? 神さまこそが、この世界すべてを造ったのであり、神さまこそがこの世界のただお独りの絶対の主人であるからです。「天に主人がおられることをあなたがたはよくよく知っているはずじゃないか。その場合、天の主人に仕える管理人に要求されるのは、主人に対して忠実であること」(コロサイ手紙4:1,コリント手紙(1)4:1-2と何度も何度も釘を刺されつづけています。例えば創世記2章は、1章と対になっていてひと組です。神さまによってこの世界が造られたその初めのとき、地上は草一本も生えない、虚しく物淋しい大地だったと報告されます。その理由は、(1)雨が大地を潤しておらず、また(2)土を耕す人もいなかったからです(創世記2:5。土を耕す人も、わざわざ土の塵から形づくりました(6,7)。神さまがその鼻に生命の息を吹き入れた。それで人は生きる者となった。そのことを、ずっと考え巡らせてきました。「地を従わせよ。治めよ、支配せよ」と語られていたその同じ中身が、創世記2章では、「エデンの園に連れて来られたのは、ゆだねられたその土地を耕させ、守らせるためである」(創世記2:15参照)と、はっきりと告げられていました。幸いな豊かな土地になるために、その土地を耕し守る働き人として、私たちはそれぞれの持ち場に据え置かれた。これが、他の様々な生き物たちと共に、この世界に私たちが置かれたことの根本の意味です。さらに、創世記910-17節の『虹の契約』です。「『またあなたがたと共にいるすべての生き物、あなたがたと共にいる鳥、家畜、地のすべての獣、すなわち、すべて箱舟から出たものは、地のすべての獣にいたるまで、わたしはそれと契約を立てよう。わたしがあなたがたと立てるこの契約により、すべて肉なる者は、もはや洪水によって滅ぼされることはなく、また地を滅ぼす洪水は、再び起らないであろう』。
  宗教改革者らは、地上に建てられた大小様々な権威者たちと私たちとがどのように共存しうるかについて熟慮し、十戒の第五戒に着目しました。「あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである」(出エジプト記20:12。ジュネーブ信仰問答は、ここでまず、地上の幸いや長寿という祝福についてこう説き明かします、「地上の生活はどんなに悲惨なものでも、信仰のある人にとっては神の祝福です。それは、その中で神が彼を支えてくださることで、父の慈愛を確証なさるからにほかありません」「神が地上の幸いについて約束してくださることはすべて、それが私たちの霊的救いのために好適であるからという条件のもとに受け取られるべきです。このことが他すべてのことに先立っていなければ、情けないことです」(問189191。また「父母」への眼差しはさらに押し広げられます。「父母についてしか語られていないとはいえ、すべて上に立つ者を含んでいると理解しなければなりません。同じ理由があるからです」と。「神が彼らに優位をお与えになったということです。父たちも、王侯も、その他のどんな種類の上に立つ人でも、神が任命なさったものでなければ権威がないからです」(問195
  さて、生身の父母を第一の参考例とされ、他すべての権威者たちとの共存の仕方もこれとまったく同様であると断言されました。判断材料はこれで十分に出揃いました。彼らを「敬え」と命じられ、また彼らには神から「優位が与えられ」、「権威がある」と説き明かされました。その通りです。それならば、私たちはどのようにして、目の前にいるその彼らを敬うことができるでしょう? 町内会の世話役、親戚の叔父さん叔母さんもいます。学校の担任教師、校長、教頭。職場の主任、上司。警察官、裁判官、政府や総理大臣など。そして教会の牧師、長老、執事なども(もちろん教会の牧師も例外ではありません。「敬われ」「ちょっとした優位と権威を与えられ」て、その彼らがモルデカイの前に立ちふさがった悪大臣ハマンや、ヤラベアム王(事例研究④)に成り下がることは大いに有り得ます。新しい教会に赴任して、「今日からは先生の思い通りに教会を建てあげてください」「思う存分にお働きください」と持ち上げられて、ついついその気になってはいけません。自分の理想とする教会を建て上げようと、牧師は思い上がって独裁者になってはなりません。「○○牧師の志と神学を受け継いで」などと言われて、けれど立ち止まって頭を冷やし、よくよく熟慮せねばなりません。「教会が活性化し賑やかになって、子供や若者が多く集う教会になってなってもらいたい」と願っても良い。もちろんです。けれど、それが最優先の第一の願いとなるなら、あまりに本末転倒です。「~してください。ただし、私たちの願い通りではなく、神さま、あなたの御心のままになさってください」と。牧師のものではなく、他だれのものでもなく、ただただ神のものであるキリスト教会だからです。心を鎮めて、はたして教会の頭であられるキリストの御心にかなっているかどうかと、一つ一つ熟慮せねばなりません)父さん母さんを敬う子供たちはどんなふうに育ってゆき、やがて大人になってゆくでしょう。敬うからと言って、自分の父さん母さんが何をしても、何を言っても、どんな振る舞いをしても、「だって父さんがそう言うからァ~」と何でもかんでも聞き従って、どこへでも、どこまででも黙って付いて行って良いでしょうか?  もしそうであるなら、その親は子供の育て方をたいそう間違えてしまいました。親が悪さを働こうとするとき、越えてはいけない一線を踏み越えようとするとき、そうではなく、「お父さん、申し訳ありませんが、それは間違っています。そんなことをしてはいけません。止めてください」とその息子や娘は断固として立ちふさがることができるでしょうか。もしそうならば、苦労して養い育ててきた甲斐がありました。良い育て方ができたというものです。なぜなら、父母を敬う以上に、その千倍も万倍も主なる神をこそ敬うはずの私たちだからです。彼らの優位に先立って、神こそが独占的・絶対の優位に立っておられ、彼らの権威の前に立ちふさがって、御父から託されて、救い主イエスこそが天と地の一切の権威を手にしつづけておられるからです。彼らへの抵抗権の行使がいつ始まるのか。いいえ、とんでもない。そもそもの最初から始まっていて、連続活動状態にあって、スイッチが切れて休止状態になるときなどないからです。それは、そもそも『神への従順と服従』に含まれる一要素にすぎないからです。だからこそ、モルデカイは悪い大臣ハマンに膝を屈めず、敬礼もしませんでした。火の燃える炉やライオンの穴が待ち構えているとしても、あの青年たちは神にだけ祈り願いました。預言者ナタンは王をきびしく叱りつけました。神の民とされた私たちは、他のすべての民の法律と異なる法律のもとに据え置かれており、(その法律と主なる神の御心に反するものならば)どんな王の法律にも命令にも決して従ってはならないからです。
  もう一つ、「あなたの父母を敬え」と命じる同じ一つの神が同時に、「あなたの父と母から離れなさい。二人が結び合って、一体となるために」(創世記2:24-25と。アブラムとサライ夫婦の出発の時にもそっくり同じことが命じられました。「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい」。やがてずいぶん後になって主イエスの弟子たちも同じように招かれました。「舟と網と父親」を残して、主イエスに従ったのです(創世記12:1-, マタイ4:22。父さん母さん、親戚の叔父さん叔母さん、生まれ故郷も離れて、けれどこれからは 主なる神こそが私たちの支えや助けとなり、心強い後ろ盾ととなり頼みの綱となるのです。「やや優位に置かれ」「そこそこの権威」を委ねられた者たちとの関係はほどほどのこととと弁えねばなりません。神にこそ指図され、ご主人さまはただ神お独りであり、ほか全員がその手下であり、その部下であるからです。何を頼みとし、支えとし、聞き従って生きるのか。それは直ちに、『あなたは誰を主人として生きるのか』という根本命題を突きつけます。誰も、二人の主人に兼ね仕えることなどできないからです。一方を憎んで他方を愛し、一方に親しんで他方をうとんじるからです。「主イエスにこそ聴け」(ルカ16:13,3:22,9:35と二度も重ねて 釘を刺されてきたではありませんか。

  2.事例研究
  ①モーセ神格化の経緯
 サムエル記上8章で、民は「人間の王が欲しい。人間の王に統治してもらえるなら、他の国々のように繁栄できるだろうから」と預言者に要求します。これがイスラエルの王政と王国時代の発端です。主なる神が預言者に打ち明けます、「(王を与えよという民の要求に)彼らが捨てるのはあなたではなく、わたしを捨てて、彼らの上にわたしが王であることを認めないのである。彼らは、わたしがエジプトから連れ上った日から、きょうまで、わたしを捨ててほかの神々に仕え、さまざまの事をわたしにしたように、あなたにもしている」(サムエル上8:7-8。エジプトから連れ上った日から、きょうまで、わたしを捨ててほかの神々に仕えつづけている。え? とわが目を疑いました。モーセ時代から、ずっとそうだったと。本当だろうか? 神の民イスラエルにとって、はじめはモーセもどこかの馬の骨で、ただの人間にすぎませんでした。やがて人々からの信頼を増し加えられ、度を越して信頼を寄せられすぎるようになっていきました。紅海を渡った直後、出エジプト記14章末尾に、「イスラエルはまた、主がエジプトびとに行われた大いなるみわざを見た。それで民は主を恐れ、主とそのしもべモーセとを信じた」と報告されています。主とそのしもべモーセと、両方を信じたのですね。何対何くらいの割合で信じたでしょう。9対1か、それとも6対4くらいか。出エジプト記32章。二枚の石の板を受け取りに出かけて、モーセが4040夜も長期出張したとき、その信頼の中身が判明しました。321節、「さあ、わたしたちに先立って行く神を、わたしたちのために造ってください。わたしたちをエジプトの国から導きのぼった人、あのモーセはどうなったのかわからないからです」。ここです、分かりますか? モーセがいなくなって、もう帰ってこないかも知れない。「じゃあ、新しい指導者を選ぼう」、それなら道理があります。けれど「新しい指導者を」ではなく一足飛びに、「新しい神を造ろう」。モーセの姿が見えなくなり、モーセの声が聞こえなくなった途端に、彼らの目には主なる神さえも同時に消えてなくなった。いつのまにか、目の前にいる指導者の声や姿を通して神に聞き、神に従うことに慣れすぎてしまった彼らの鈍った目には、モーセと神が一心同体に見えていました。神もいなくなった。神ではなく、モーセが導きのぼった。神ではなく、偉大なモーセが頼みの綱だったと。素敵な金の子牛の神を造って、人々は言いました。「イスラエルよ、これはあなたをエジプトの国から導きのぼったあなたの神である」。自分たちの手で造った自分たち好みの神。するとアロンは暦を確かめるまでもなく、何曜日でも不都合もなく、「あすは主の祭である」と布告し、好き放題に飲み食いして戯れあうばかりのどんちゃん騒ぎの祭りをしはじめました。
  さて34章。きびしく叱られた後、モーセの権威は後光が射してまぶしいほどとなり、「モーセを見ると彼の顔の皮が光を放っていたので、彼らは恐れてこれに近づかなかった」34:30。このあと、モーセだけが神と語り、皆の前でモーセは畏れ多いし眩しいので顔覆いをして過ごすようになりました。私たち人間には自己神格化や自己崇拝に向かう根深い傾向があります。私たちが度を越して上品ぶって、自らの格式と権威を誇ろうと思い上がるとき、その後光はきびしく取り除かれます。ずいぶん後になって、主の弟子パウロがようやく異議申し立てをしました。「モーセが、消え去っていくものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、顔におおいをかけたようなことはしない。実際、彼らの思いは鈍くなっていた。今日に至るまで、彼らが古い契約を朗読する場合、その同じおおいが取り去られないままで残っている。それは、キリストにあってはじめて取り除かれるのである。今日に至るもなお、モーセの書が朗読されるたびに、覆いが彼らの心にかかっている」(コリント手紙(2)3:13-18。生身の人間を王として、また大先生、偉大なる指導者として立てようとするとき、立てたいと渇望するとき、今日でもやはり同じく、私たちも「主なる神を捨てて、自分たちの上に神ご自身が王であることを拒み、神を捨てて他の神々に仕え」ようとする誘惑にさらされる。サムエル記上8章で神が人間の王を渋々許容したのは、このあまりに苦い実地訓練を味あわせるためだったでしょう。これら王や指導者たちの歴代誌は私たちに対する警告であり、戒める訓戒です。

 ②士師ギデオンが招き寄せた罠と落とし穴       士師記7:1-8, 8:23-27
  7章。ミデアン人たちとの戦いで兵の数を32,000人から10,000人へ、さらに300人へと減らされた理由は、勝って心がおごることがないためだった。「あなたと共におる民はあまりに多い。ゆえにわたしは彼らの手にミデアンびとをわたさない。おそらくイスラエルはわたしに向かってみずから誇り、『わたしは自身の手で自分を救ったのだ』と言うであろう。それゆえ」7:2-3と。けれどなお、どうしたわけか、それでもやっぱりギデオンも兵たちも心がおごり、自身の手で自分を救ったと誤解してしまいました。
 戦いが終わって、8:23-27、「ギデオンは彼らに言った、『わたしはあなたがたを治めることはいたしません。またわたしの子もあなたがたを治めてはなりません。主があなたがたを治められます』。ギデオンはまた彼らに言った、『わたしはあなたがたに一つの願いがあります。あなたがたのぶんどった耳輪をめいめいわたしにください』。ミデアンびとはイシマエルびとであったゆえに、金の耳輪を持っていたからである。彼らは答えた、『わたしどもは喜んでそれをさしあげます』。そして衣をひろげ、めいめいぶんどった耳輪をその中に投げ入れた。こうしてギデオンが求めて得た金の耳輪の重さは一千七百金シケルであった。ほかに月形の飾りと耳飾りと、ミデアンの王たちの着た紫の衣およびらくだの首に掛けた首飾りなどもあった。ギデオンはそれをもって一つのエポデを作り、それを自分の町オフラに置いた。イスラエルは皆それを慕って姦淫をおこなった。それはギデオンとその家にとって、罠となった」。エポデは祭司だけが着る式服。耳輪、月形の飾り、紫の衣、首飾りなどすべて神のものであるはずの戦利品の中から、高額な金品が分け前としてギデオンに不当に献げられ、祭司が神に仕えて職務にあたるために着るはずの式服をさえ自分のために作って、自分の町に安置した。イスラエルの人々は皆それを慕って姦淫した。姦淫は姦淫そのものでもあるかも知れませんが、神を脇へ押しのけて偶像礼拝にふけることを聖書は「姦淫」として告発しつづけました。人々がそうしたのは、ギデオンの傲慢に習ったのでしょう。自ら誇り、『わたしたちは自身の手で自分を救ったのだ』と。8:23「私ではなく、主こそがあなたがたを治められる」。けれど、その言葉とは裏腹に、ほんの少しの謙遜も神への従順もなかった。皆共々に心がおごって、罠と落とし穴8:27を我が身に引き込んでしまった。恐るべきことです。

 ③サウル王の二度の背反            サムエル記上13:1-14  15:1-23
  一度目は、サムエル記上13:1-14。ペリシテ人との戦いで、敵軍は浜辺の砂のように多く、民は皆ふるえた。しかも祭司サムエル戦いの開始日に一週間も遅れた。サウル王は祭司の代わりに燔祭をささげた。「やむを得ず燔祭をささげました」「あなたは愚かなことをした。あなたは、あなたの神、主の命じられた命令を守らなかった。もし守ったならば、主は今あなたの王国を長くイスラエルの上に確保されたであろう。しかし今は、あなたの王国は続かないであろう。主は自分の心にかなう人を求めて、その人に民の君となることを命じられた。あなたが主の命じられた事を守らなかったからである」。
  二度目は、15:1-23。王も民も主の声に聞き従わないで、ぶんどり物にとびかかり、主の目の前に悪をおこなった。「たとい、自分では小さいと思っても、あなたはイスラエルの諸部族の長ではありませんか。主はあなたに油を注いでイスラエルの王とされた。そして主はあなたに使命を授け、つかわして言われた、『行って、罪びとなるアマレクびとを滅ぼし尽せ。彼らを皆殺しにするまで戦え』。それであるのに、どうしてあなたは主の声に聞き従わないで、ぶんどり物にとびかかり、主の目の前に悪をおこなったのですか」。・・・・・・あなたと一緒に帰りません。あなたが主の言葉を捨てたので、主もあなたを捨てて、イスラエルの王位から退けられたからです」(注。「皆殺しにせよ」はやや不明確で多義的な用語。むしろ『聖別』『聖絶』と対にされる概念で、すべてを神のものとして献げる意味。違反行為は、ただ「分捕り品に飛びかかって私物化、横領した場合のみが報告されている。本事例、②ギデオンらの戦利品横領、またアカンの横領(ヨシュア記7:18-26)」など)

 ④ヤラベアム王の「金の子牛×2倍効果」       列王記上12:25-33
 さらに歳月が過ぎ去って、イスラエルの王国が南と北とに引き裂かれたとき、北王国の王ヤラベアムはちょっと困りました。都合の悪いことがあったのです。だって、礼拝の場所が南王国のエルサレムの町ただ一箇所だけだったからです。すると礼拝の度毎に、国民が皆こぞって国境を越えてヨソの国に出かけていく。困りました。「・・・・・・そうだ。良い考えがあるぞ」。ヤラベアムは飛びっきりの名案を思いつきました。ちょうど今朝も、出エジプト記32章を読んでいたばかりでしたから。あのとき、モーセが帰って来なくて途方にくれていた人々は、今の自分そっくりだです。「放っておけば皆連れ立って南王国に流れ出してしまう。さあ今こそ、我々に先立って進む神々を自分の手で造ってしまおう」。どんな形の神にしようか。そうだ。やっぱりあの金の子牛だ。しかも今度は2つ造っちゃおう。そしたら2倍の効果がある。「あなたがたはもはやエルサレムに上るには及ばない。イスラエルよ、あなたがたをエジプトから導き上ったあなたがたの神を見よ」(列王記上12:28)。北イスラエルの王ヤラベアムは金の子牛の像1体をベテルに、もう一体をダンに置きました。兄弟たち。このとき、ここで、責任者が誰であるのかが明らかになりました。もちろん王はイスラエル王国の責任者です。けれど彼だけが責任者なのかというと、それは違います。王様と共に、そこに住む全員が責任者であったのです。「優位が与えられ」「権威がある」王たちの悪い行いに対して、私たちはどう振る舞うことができるのか。「その子牛たちは神ではない」とほんの一握りの人々が立ち上がるなら、その国はヤラベアムの国ではなく神の国でありつづけることができます。「祭司を勝手に任命してはいけない。自分が造った子牛にいけにえをささげたり、自分の造った高き所のための祭司をベテルに立てたり、勝手に祭りを定めたり、王であっても自ら祭壇に上って香をたいてはいけない。それは、はなはだしく主に背いている」(列王上12:31-33)と、もし信仰をもって生きる1人の人間が立ち上がって叫ぶなら、その国は神の国であり続けることができたでしょう。ヤラベアムに信頼してもいいのです。ただしヤラベアムが主に背くとき、「それは間違っている。そんなことはしてはいけない」と判断できる国民がそこにいるならば。主を信じ、ヤラベアムをも信じるとは、そのことです。ヨセフであれモーセであれ、他のどんな王様たちであれ、神に代わることなどできません。人間を神に代えることなど、してはいけないのです(注。「祭司を勝手に任命し、勝手に祭りを定め、祭司ではない者が祭儀行為を行う」主への背信行為。金の子牛事件のとき。士師ギデオンが祭司服を作って自分の町に配置したこと。サウル王が祭儀を執り行ったことと関連する)

 ⑤マタイ24:45-51 なぜ、しもべは悪くなったか?
  マタイ福音書2445-50節;「主人がその家の僕たちの上に立てて、時に応じて食物をそなえさせる忠実な思慮深い僕は、いったい、だれであろう。主人が帰ってきたとき、そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである。よく言っておくが、主人は彼を立てて自分の全財産を管理させるであろう。もしそれが悪い僕であって、自分の主人は帰りがおそいと心の中で思い、その僕仲間をたたきはじめ、また酒飲み仲間と一緒に食べたり飲んだりしているなら、もしそうなら」。大きな大きな、とっても大きな一軒の家があり、大勢の召し使いたちが一緒に暮らしています。その家には、小さな小部屋がたくさんあって細々区切られていたりする。それでも、なんと地球1個を丸ごと包み込むほどの1つの大きな大きな家です。さまざまな生き物たちがその1つの家に住んでいます。彼らは皆、その家のただお独りの主人に仕える召し使い同士である。しかも44節で「思いがけないときに人の子が来る」と言われたので、救い主イエス・キリストこそがその家の主人であるとはっきり分かります。これがこの世界全体と私たち全員を包む『神の真実・神の現実』である、と聖書は語りだします(創世記1:26,28「支配せよ。従わせよ」,コリント手紙(1)4:1-5「管理人」,コロサイ手紙4:1「天に主人」,マタイ福音書11:28-「わたしの軛を負え、学べ」,20:25-28「しもべになり、仕えよ」,そして本箇所)。私たちの役割を確認しておきましょう。ぜひともすべきことがあり、また、してはいけないこともある。管理人として立てられていることの第一の役割は食べ物を皆に公平に配ることでした。この箇所全体を振り返ってみますと、神さまからの律法こそが改めて差し出されていることに気づかされます。『神さまを愛すること』と『仲間たちを愛し、互いに尊び合って、その世話を誠実に行うこと』とは一組のこととして命じられます(マタイ22:34-40。仲間たちに時間どうりに食事を与えること。そのために、家の主人の全財産の管理という大きな重い責任さえも委ねられました。けれど、あるしもべたちは愚かになり、悪いものに成り下がってしまいました。よくよく考えめぐらせてみるべきなのは、この管理人でもある召し使いはクリスチャンであり、またすべての18歳以上の大人たちであるということです。多く与えられ、仲間の召し使いたちの間に、彼らの上に立てられた管理人。私たちは主人に対して忠実に賢く生きることもでき、あるいは逆に、不忠実に愚かに生きることもできます。

  3.結論 (後編) 
 1).キリストのかたちに似たものとなる

  「神のかたちに人が創造された」(創世記1:26という意味内容は理解が難しく、今日でも十分には説明されていないと申し上げました。
 長い時間をへて、新約聖書の時代に主の弟子たちは、「キリストのかたち」と繰り返し語りはじめました。「神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである」(ローマ手紙8:29-30
 「御子は見えない神のかたちであって」(コロサイ手紙1:15
 「あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、造り主のかたちに従って新しくされ、真の知識に至る新しき人を着たのである。そこには、もはやギリシヤ人とユダヤ人、割礼と無割礼、未開の人、スクテヤ人、奴隷、自由人の差別はない。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにいますのである」(コロサイ手紙3:9-11
 「私たちはみな、顔覆いなしに、種の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられてゆく」(コリント手紙(2)3:18などと。
  「わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。こうして、わたしたちはもはや子供ではないので、だまし惑わす策略により、人々の悪巧みによって起る様々な教の風に吹きまわされたり、もてあそばれたりすることがなく、愛にあって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達するのである。また、キリストを基として、全身はすべての節々の助けにより、しっかりと組み合わされ結び合わされ、それぞれの部分は分に応じて働き、からだを成長させ、愛のうちに育てられていくのである。・・・・・・21 あなたがたはたしかに彼に聞き、彼にあって教えられて、イエスにある真理をそのまま学んだはずである。すなわち、あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、23 心の深みまで新たにされて、24 真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである」(エペソ手紙4:13-24
  「キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである」(コリント手紙(1)1:30

  2).幼子のようになるという秘儀

  エルサレムの都への旅路が終わりに近づいて、死と復活のときを間近に見据えて、主イエスは弟子たちに仰った。「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。この幼な子のように自分を低くする者が、天国で一番偉いのである」(マタイ18:3-4。「よく聞きなさい」と仰って、そして語られました。けれどよく聞くことも聞き分けることも、理解して受け止め、受け入れることもされず、ただただ聞き流され、聞き捨てにされました。きっかけは弟子たちが主イエスのもとに来て質問したことです。「いったい、天国では誰がいちばん偉いのですか」と。幼な子のようにならなければ天国に入ることはできない、と断言されました。幼な子のようになることの中身として、ただ一点、「自分を低くする」ことが説き明かされました。「誰がいちばん偉いだろう、偉くなりたい偉くなりたい」と思い煩い、ひどく気に病み、渇望しつづけている間は、天国に入れていただいた後で第何位くらいの階級と順位と名声と権威を獲得できるのかどころではなく、門前払いされつづけ、滅びに落ちる他ないと宣告されています。もし本当に天国に入れていただきたいのなら、よく聞いて、なんとしてもその秘密を聞き分けねばなりません。これこそ、神を信じて生きる者たちにとって、最優先の緊急課題です。しかも、幼な子のようになることの中身として、「自分を低くする」以外の中身は、ここではすっかり伏せられています。幼な子とは何者なのか。どういう中身なのか。なぜ、そうでなければ誰一人も決して天国に入ることができないのか。
  主イエスご自身の口から、よく似た発言が他に二つなされていました。ヨハネ福音書3:3と、マタイ福音書5:17-20、「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない」。

     マタイ18:3-4  幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできない。この幼な子のように自分を低くする者が、天国で一番偉い。
    
ヨハネ3:3  だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない。
    
マタイ5:20   あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。

律法が主イエスによって成就され、律法のことごとくがまっとうされる。だから、「これら(律法)の最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれる」。つまり、律法を軽んじて、その中の小さい戒めのいくつかを自分で破り、他人にもそうするように、そうして良いからなどと教え、そそのかす者でさえ、かろうじて天国に入れていただける。他方、きびしく明言されているのは、「あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない」と。つまり、『律法学者やパリサイ人の義』と同程度の義しか手に入れられないのならば、私たちも他の誰一人も天国には入ることが決してできない。天国の門の外に締め出され、滅びに落ちるほかない。なんということでしょう。天国に決して入れない典型的な決定的な実例が、主イエスご自身の口によって示されました。しかも『幼な子のようになる』中身としてただ点だけ示されたのは、「自分を低くする」こと。そのとき鋭く対比されていたのは、「偉くなりたい。高くなりたい」と渇望し続ける弟子たちの姿です。主イエスの教えと対立しつづけていた『律法学者やパリサイ人の義』もまた表面を取り繕いつづけて、「私は偉い。立派だ。正しい」と見せかけ、言い張ろうとする大きな大人のつもりの偽りの義でありつづけました。「幼な子のようになる」ことと「自分の偉さ、立派さ、正しさや高さを言い張り続ける律法学者やパリサイ人の在り方」とは対極にあって正反対です。18:3-45:20とは、同じ一つのことを告げているのかも知れません。
  律法学者やパリサイ人の在り方と、主イエスの教えとの対立の経緯を辿りましょう。その時代と社会には、とても世俗化された形式的な信仰があふれていました。良い行いを人々の前に積み重ねて、神からも人々からも認められて救いに入れられると考えられていました。その代表例が律法学者やパリサイ人です。彼らの日頃のあり方を想起しながら、主イエスは山上の説教を語りつづけます。マタイ6:1-18;「自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。・・・・・・また断食をする時には、偽善者がするように、陰気な顔つきをするな。彼らは断食をしていることを人に見せようとして、自分の顔を見苦しくするのである。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。あなたがたは断食をする時には、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。それは断食をしていることが人に知れないで、隠れた所においでになるあなたの父に知られるためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いて下さるであろう」。彼らの信仰は、自分自身の正しさの主張と宣伝にすり替えられています。
 少し後で、まず9:9-13。取税人マタイを弟子としたとき、マタイがした最初の仕事は盛大で親しく愉快な大宴会を開いて、取税人仲間や「罪人」とレッテルを貼られた人々を招いて、主イエスと引き合わせることでした。主イエスを信じて、主に従って生きる者とされたことが、とても嬉しかったからです。その喜びと幸いに仲間たちにも預からせてあげたかったからです。パリサイ人たちはこれを見て、「なぜあなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか」と弟子たちに文句をつけ、するとイエスご自身が答えます、『丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである』」。神に背く罪を、主イエスは『病気』と言い換え、良い医者である神ご自身が病人である罪人を招き、その病気を治すのだと説き明かします。とても病状の進んだ重病人はむしろパリサイ人たちでした。けれど病識がなく、「自分こそはとても健康だ」と思い込んでいました。だから、良い医者である神のもとへと駆け戻ることもできず、救いを願うこともできず、そのお働きに身を委ねることもできませんでした。良い医者から「診てあげるから来なさい」と呼ばれても、見向きもしませんでした。本当は彼らこそが重篤な病人であり、医者の治療を緊急に必要としていましたが、自分は丈夫で健康だと思い込んでいましたから、医者もその治療も拒んでいました。しかも聖書の専門家を自負していたのに、「わたしが好むのは憐れみであって生け贄ではない」というホセア書6:6はどういう意味か、聖書をちゃんと読んで、いよいよ本気になって学べと命じられて嫌な気がしました。罪人を憐れんで救うし、そういう神であるという根本の道理も見失っていました。
 次に同じ9:14-17、ヨハネの弟子たちが断食の件で討論をしかけてきます。「そのとき、ヨハネの弟子たちがイエスのところにきて言った、『わたしたちとパリサイ人たちとが断食をしているのに、あなたの弟子たちは、なぜ断食をしないのですか』。するとイエスは言われた、『婚礼の客は、花婿が一緒にいる間は、悲しんでおられようか。しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その時には断食をするであろう。だれも、真新しい布ぎれで、古い着物につぎを当てはしない。そのつぎきれは着物を引き破り、そして、破れがもっとひどくなるから。だれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、その皮袋は張り裂け、酒は流れ出るし、皮袋もむだになる。だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。そうすれば両方とも長もちがするであろう』」。ヨハネの弟子たちでさえ、ここではパリサイ人らの形式主義に深く汚染され、かぶれています。「施し、祈り、断食」は代表的な良い行いであり、救われるための自分の義の内容と根拠になっていました。それぞれに積み重ねた総合得点で「誰がいちばん偉いか。誰が正しく、信仰深く、誰が救われて天国に入れられ、そこでの高貴さと権力の地位は第何位くらいか」と競い合いつづけます。断食も、荒布を着ることも、灰をかぶることも、それらは神へと向かう祈りであり、悔い改めて神へと立ち返ろうとするひたすらな願いであるはずでした。けれど、それらはすっかり変質して、自分を誇って他者を軽蔑するためだけの卑しい道具に成り下がりました。神をそっちのけにして。中身のない、ただただ形式的なだけの信仰深さの装い。それが古い皮袋の正体であり、もしそこに福音の中身が入れられてしまうなら、古い罪の皮袋・偽善の皮袋は張り裂けてしまうほかない。彼らの形式主義と主イエスの福音とは相容れず、並び立つことが決してできません。虚しい形式主義を突きつけられて、彼らは主イエスとその教えを激しく憎みはじめます。それらは燃え上がって、間もなく、「イエスを殺してしまおう」12:14参照)と策略を練りはじめます。
 さて昨年のこの集会で、『キリストの従順』という題で登家勝也牧師がくわしく語っておられました;「キリストは、人となってからも御父への従順をまっとうするという第一の任務・目的を持ち続けておられます。それは徹底的な従順です。救い主イエスによっていったい何事が成し遂げられたのかということが徹底的に聖書を見つめる中で探求され、そこから汲み出され、描き出されなければなりません。ところがなおまだ十分には語られておらず、今日に至るまで通り一遍のことしか語られてきませんでした。『そもそもの初めに神が私たちの造り主であられ、ご自身の永遠の憐れみによって私たちを救いへと選んでおられること。世の終わりに、キリストによる審判をへて私たちを永遠の御国へと受け入れてくださること。その希望』という初めと終わりがスッパリ切り捨てられ、ほとんど顧みられないままでいる。そのせいで、教会はとても悪い状況に置かれつづけています。私たちのために定められている終わり。審判のはてに御国に受け入れられるという希望に向けて今を生きているのかどうかと、私たち自身も自分に向けて本当に問わねばなりません。その希望なしには、福音はなんら人を生かさないし、救うことも有り得ないからです。・・・・・・神が受け入れてくださる従順は、キリストが成し遂げてくださった従順であるほかありません。ですから私たちはキリストのものであることによって、その従順に預かりつづけて生きるのです。キリストがいつも共にいてくださり、キリストの御霊にいつも助けられ教えられている人間は、その従順の賜物を喜び祝う祝典に預かりつづけます。私たちは罪人であるので、キリストに依り頼んであること。全面的に、全生涯にわたってです。キリストのもとへと赴きつづけて生きることです。何をなすべきか、どうあるべきかが御言葉によって教えられている教会の秩序の中でこそ、それは成し遂げられます。それこそが、キリストに捕えられており、キリストの中に入れられている人間であるということです(登家勝也『キリストの従順』 2017,8, 16 夏の教理教育学校にて)
  「幼な子のようになる」とは何か。自分を自分で低くする、あるいは誰かに押さえつけられて低くされる。けれど、それだけでは何の手がかりも与えません。神の国(=天国)に入るとは、御父、神のご支配への服従・従順を生きることであり、するとそれは(神に対して自分を低くすることであり、御父・神への従順であるほかありません。しかも幼な子さえ、幼い時から心に悪事を思い図ると神からはっきりと見透かされています(創世記8:21,ローマ手紙3:9,3:21-27参照)。幼な子100人中100人までが、天国に入れていただける合格点に達しません。これが聖書的な答えの到達点です。要求されている中身を満たす幼な子はただ一つの実例しかありません。つまり、唯一の手本は主イエスご自身です。ローマ手紙8:14-17。「すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは『アバ、父よ』と呼ぶのである。御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである」。子たる身分を授ける霊を受け、その御霊に導かれつづけ、神の子とされた。その霊によって、わたしたちは『アバ、父よ』と呼ぶ。「アバ、父よ」と御父に全幅の信頼を寄せ、聞き従って生きる幼な子です。「新しく生まれて神の国を見る」ことをニコデモはあの内密の面談の夜には気づくことができませんでしたが、後になって、幼な子とする霊を受けました(ヨハネ3:3,19:39。もちろん年をとってから新しく生まれて幼な子として生きはじめることができます。神の霊がその人を新しく生まれさせてくださるならば。ここでようやく、神の子とされた者たちが神の霊によって『アバ、父よ』と呼ぶ。呼ばわりつつ、生きることをし始める。謎が説き明かされました。ゲッセマネの園での、主イエスの祈りの格闘です。

      「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」。   (マルコ福音書 14:36

はじめにそのように造られ、けれど堕罪以降失われつづけていた「神のかたち」がここに回復しています。それは救い主イエスのかたちであり、神への従順への回復です。ピリピ手紙2:5以下は、「キリストは神のかたちであられたが神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」、またローマ手紙の冒頭と末尾は「主イエス・キリストの御名のために、すべての異邦人を信仰の従順に至らせる」(ピリピ手紙2:5-8,ローマ手紙1:5,16:26と指し示します。御父への御子イエスの従順。神のかたち。このように、私たちも「~してください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」と生きはじめ、ますますそのことを切に願って生き続けることができます。




8/26こども説教「イエスの葬り」ルカ23:50-56


 8/26 こども説教 ルカ23:50-56
 『主イエスの葬り』

23:50 ここに、ヨセフという議員がいたが、善良で正しい人であった。51 この人はユダヤの町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいた。彼は議会の議決や行動には賛成していなかった。52 この人がピラトのところへ行って、イエスのからだの引取り方を願い出て、53 それを取りおろして亜麻布に包み、まだだれも葬ったことのない、岩を掘って造った墓に納めた。54 この日は準備の日であって、安息日が始まりかけていた。55 イエスと一緒にガリラヤからきた女たちは、あとについてきて、その墓を見、またイエスのからだが納められる様子を見とどけた。56 そして帰って、香料と香油とを用意した。それからおきてに従って安息日を休んだ。              (ルカ福音書23:50-56

  ケンちゃん。救い主イエスが十字架につけられて殺され、墓に葬られました。やがて三日目に、墓の中からよみがえることになっています。さて、救い主イエスを墓に葬ったヨセフという人のことです。彼は「善良で正しい人だった」と書いてあります。どんなふうに善良だったのか、どこがどう正しかったのか。その中身は51節、彼が「神の国を待ち望んでいた」というただ一点です。「神の国」とは、神が王さまとして力を発揮し、王としての役割や仕事をきちんと果たし、国の隅から隅まで十分に心を配っているということです。つまり、神が生きて働いておられて、その働きとご支配の只中に自分自身も生きるということです。神を信じて、神の国を待ち望む人たちは、すでにもう、その神さまのお働きとご支配の中に生きています。その神さまのお働きとご支配の中に自分が置かれていることを知っているし、だからこそ 神さまの御心にかなって生きていきたいと願いながら、毎日毎日を生きています。主イエスが少し前に言いました、「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」、また「神の国はあなたがたの只中にある」(マルコ福音書1:15,ルカ福音書17:21と。

    【補足/神の国,天国】
     「神の国」とは、神が王さまとして力を発揮し、王としての役割や仕事をきちんと果たし、国の隅から隅まで十分に心を配っているその領土です。その国に生きる者たちの幸いと希望は、王である神さまがどんなお方かにかかっています。十分に力があり、また慈しみ深い王であるなら、そこに住む住民は幸いです。つまり、神が生きて働いておられて、その働きとご支配の只中に自分自身も生きるということです。「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」、また「神の国はあなたがたの只中にある」と主イエスが仰ったのは、神ご自身である主イエスご自身が地上に降りてこられ、その働きと力を私たちの上にも及ぼしはじめたからです。そこで「悔い改めて」とは、自分自身や周囲の人々の考え方ややり方、働きを第一とするモノの考え方や在り方をすっかり改めて、グルリと神へと向き直り、神のお働きと御心をこそ中心に据えて新しく生きはじめることです。そのようにして、神のご支配に服従して、御心にかなって生きようとする者たちが起こされています。


8/26「鎮まれ、主の救いを見よ!」出エジプト14:1-18


                      みことば/2018,8,12(主日礼拝)  175
◎礼拝説教 創世記12:1-9                          日本キリスト教会 上田教会
『しずまれ。主の救いを見よ』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

14:1 主はモーセに言われた、2 「イスラエルの人々に告げ、引き返して、ミグドルと海との間にあるピハヒロテの前、バアルゼポンの前に宿営させなさい。あなたがたはそれにむかって、海のかたわらに宿営しなければならない。3 パロはイスラエルの人々について、『彼らはその地で迷っている。荒野は彼らを閉じ込めてしまった』と言うであろう。4 わたしがパロの心をかたくなにするから、パロは彼らのあとを追うであろう。わたしはパロとそのすべての軍勢を破って誉を得、エジプトびとにわたしが主であることを知らせるであろう」。彼らはそのようにした。・・・・・・10 パロが近寄った時、イスラエルの人々は目を上げてエジプトびとが彼らのあとに進んできているのを見て、非常に恐れた。そしてイスラエルの人々は主にむかって叫び、11 かつモーセに言った、「エジプトに墓がないので、荒野で死なせるために、わたしたちを携え出したのですか。なぜわたしたちをエジプトから導き出して、こんなにするのですか。12 わたしたちがエジプトであなたに告げて、『わたしたちを捨てておいて、エジプトびとに仕えさせてください』と言ったのは、このことではありませんか。荒野で死ぬよりもエジプトびとに仕える方が、わたしたちにはよかったのです」。13 モーセは民に言った、「あなたがたは恐れてはならない。かたく立って、主がきょう、あなたがたのためになされる救を見なさい。きょう、あなたがたはエジプトびとを見るが、もはや永久に、二度と彼らを見ないであろう。14 主があなたがたのために戦われるから、あなたがたは黙していなさい」。15 主はモーセに言われた、「あなたは、なぜわたしにむかって叫ぶのか。イスラエルの人々に語って彼らを進み行かせなさい。16 あなたはつえを上げ、手を海の上にさし伸べてそれを分け、イスラエルの人々に海の中のかわいた地を行かせなさい。17 わたしがエジプトびとの心をかたくなにするから、彼らはそのあとを追ってはいるであろう。こうしてわたしはパロとそのすべての軍勢および戦車と騎兵とを打ち破って誉を得よう。18 わたしがパロとその戦車とその騎兵とを打ち破って誉を得るとき、エジプトびとはわたしが主であることを知るであろう」。   (出エジプト記 14:1-18)


アブラハムに対して語られていた約束の通り(創世記15:13-に、彼らは400年の間エジプトの国で奴隷にされていました。主なる神は彼らを憐れみ、そこから連れ出しました。神の民とされたイスラエルは、私たちの先祖たちは、葦の海を渡りました。1-4節。神の民は袋小路に追い込まれました。行く手は海、そしてエジプト兵が迫ってくる。どこにも逃げ道がない。たまたま偶然に、ではありません。主なる神こそが、わざわざそうなさったのです。パロの心が頑なになったのも、それもまた、主なる神ご自身が彼の心をかたくなにしたのだと念を押されます(4,8)どうしてなのか。なぜ、そうする必要があったのかと問わねばなりません。4節を見てください、「わたしがパロの心をかたくなにするから、パロは彼らの後を追うであろう。わたしはパロとそのすべての軍勢を破って誉れを得、エジプト人にわたしが主であることを知らせるであろう」。主が主であることを知るようになる。何度も何度も申し上げます。神と私たちとの関係で最も大切な肝心要は、それが『主従関係』であるということです。どっちがどっちでしょう。神さまがただお独りのご主人さま、私たちはその主人に仕える召し使いであり、手下の者たちにすぎません。「天に主人がおられ、その主人に仕えて忠実に働くはずのしもべたち同士」(コロサイ手紙4:1,コリント手紙(1)4:1-2参照)であると自分の魂に言い聞かせ言い聞かせしながら生きる私たちです。「主なる神」と申し上げ、「主イエス」と呼ぶ弟子であるとは、このことです。「~しなさい」と命じられ、「はい。分かりました」とご主人さまが命じるとおりに行い、このご主人さまにこそ十分に信頼を寄せ、主なる神さまによくよく聞き従って生きてゆくこと。エジプトの王も兵隊たちも、神の民イスラエルも、そして今日ここに集まった私たち自身も。今日ここに集まっている目的も、私たちがクリスチャンとされたことも、主が主であられることを知るためです。本当にそうだと、つくづくと知りつつ生きるために。
 救い主イエス・キリストによる救いの出来事は、『第二の過越し』と呼び習わされてきました。最初の過越しがあり、第二の過越しがあった。かつて子羊の血が家の戸口に塗られて災いが過ぎ越し、神の民が救い出されたように、やがて神の子羊である救い主イエスの血が流し尽くされて、私たち神の民が救われたと。神の民である私たちにとっては祭りは礼拝です。そこに集う者たちのいつもの心得は、そこで語られ、行われている救いの出来事を自分自身のこととして喜び味わうことです。それが、いつもの基本の心構え。なぜなら主なる神さまはかつてエジプトの国から彼らを救い出しただけではなく、今ここにいるこの私たち一人一人をさえ救い出そうとしているからです。かつて彼らに手を差し伸べてくださっただけではなく、今ここにいる私たちにも同じ救いの手を差し伸べておられるからです。エジプト脱出を祝う過越祭で、祭りに集う人々は皆で神さまへの感謝を魂に刻んで祈ります。神さまの慈しみと恵みの一つ一つを覚えるための、長い長い感謝と信頼の祈りがささげられます。『それでもなお満足』という祈りです。かいつまんで、簡略にご紹介します;

「なんと多くの素晴らしい恵みを聖なる神さまから私たちはいただいていることだろう。もし仮に、神がエジプトから私たちを導き出しながら、けれど私たちに向かって海を真っ二つに引き裂いてくださらなかったとしても、それでもなお私たちは満足である。……まして私たちは遍在者にして聖なる神さまから、その二倍も三倍もの何と素晴らしい恵みをいただいていることだろう。それは神さまがエジプトから私たちを導き出してくださり、海を私たちに向かって真っ二つに引き裂き、海の中の乾いた所を渡らせてくださった。また40年間の荒れ野での日々において私たちの必要を満たしてくださり、天からの恵みのマナをもって、天からの恵みの肉をもって、また岩からの恵みの水をもって私たちを養いとおしてくださり、安息日を与えてくださり、シナイ山に私たちを導いて十の戒めを授けてくださった。さらに、乳と蜜の流れる安息の地カナンに入らせてくださり、私たちのあらゆる罪をあがなうために、お望みになる神殿の建設を私たちに許してくださったからである」。
         (『過越祭のハガダー』山本書店より)

友だちは言います;「なるほどねえ。ユダヤ教徒もクリスチャンの方々も、神さまへの絶対的な信頼をもっているんですか。素晴らしいですね。けれど現在の私にはそれがなかなかできず、尻込みしてついつい二歩も三歩も下がってしまいます」。神への全面的な信頼。だから神にこそよくよく聞き従いつづけて生きること。確かに聖書と神ご自身は、これを私たち人間に要求しつづけました。けれど私たち人間は、ユダヤ教徒もキリスト教徒も、神さまに信頼することに失敗しつづけました。神さまに十分な信頼を寄せつづけて生きて死んだ人など一人もいない、と聖書自身は証言します(ローマ手紙3:9-,3:21-27。「神ではないものを恐れるな」と命じられつづけ、けれど神さまになかなか信頼できず、神ではない他アレコレを恐れたり信頼したりしつづけて。それが聖書全体の一貫する証言です。神さまへの信頼と感謝が日毎に増し加わり、「私たちの神は確かに生きて働いておられます」とその存在が色濃くなってゆくはずでした。が、どうしたわけか、そうはなりませんでした。神さまは片隅へ片隅へと押しのけられ続けて、今日に至るまで、ずっと影が薄いままです。なんということでしょう。だからこそ強がって見せても、誰も彼もが皆とても心細い。『それでもなお満足』という美しく素晴らしい祈りを、けれども神を信じて生きるはずの私たち自身の、その腹の思いは裏切りつづけました。あまりに裏腹な現実です。出エジプト記149節以下;「エジプトびとは彼らのあとを追い、パロのすべての馬と戦車およびその騎兵と軍勢とは、バアルゼポンの前にあるピハヒロテのあたりで、海のかたわらに宿営している彼らに追いついた。パロが近寄った時、イスラエルの人々は目を上げてエジプトびとが彼らのあとに進んできているのを見て、非常に恐れた。そしてイスラエルの人々は主にむかって叫び、かつモーセに言った、『エジプトに墓がないので、荒野で死なせるために、わたしたちを携え出したのですか。なぜわたしたちをエジプトから導き出して、こんなにするのですか。わたしたちがエジプトであなたに告げて、『わたしたちを捨てておいて、エジプトびとに仕えさせてください』と言ったのは、このことではありませんか。荒野で死ぬよりもエジプトびとに仕える方が、わたしたちにはよかったのです』。モーセは民に言った、『あなたがたは恐れてはならない。かたく立って、主がきょう、あなたがたのためになされる救を見なさい。きょう、あなたがたはエジプトびとを見るが、もはや永久に、二度と彼らを見ないであろう。主があなたがたのために戦われるから、あなたがたは黙していなさい』」(14:9-14)。パロとその軍勢はすでに間近に迫っています。イスラエルの人々が目を上げて見ると、エジプト軍はすでに背後に襲いかかろうとしていました。あの感謝の歌とは裏腹に、イスラエルの人々は非常に恐れ、主に向かって叫びました。「エジプトに墓がないので、荒野で死なせるために、わたしたちを携え出したのですか。なぜわたしたちをエジプトから導き出して、こんなにするのですか。わたしたちがエジプトであなたに告げて、『わたしたちを捨てておいて、エジプトびとに仕えさせてください』と言ったのは、このことではありませんか。荒野で死ぬよりもエジプトびとに仕える方が、わたしたちにはよかったのです」。この後も、彼らは「食べるものがない」と言っては不平不満をつぶやき、「水がない」と言ってはつぶやき続けます。あの感謝と信頼と喜びの歌とは裏腹に。読んでいて気づいたのですが、この、恐れと心細さに揺さぶられて不平不満をつぶやき続ける神の民イスラエルと、あの心を頑なにし続けるエジプト王パロとはよく似ていると思えます。10円玉の表と裏のように。鏡のこちら側とあちら側のように。『喉もと過ぐれば熱さを忘るる』と言いました。苦しみを忘れてしまうだけではありません。喜びも感謝も、主への驚きも信頼も、簡単に忘れてしまう。困ったものです。
 13-14節、モーセは民に答えました。「あなたがたは恐れてはならない。かたく立って、主がきょう、あなたがたのためになされる救を見なさい。きょう、あなたがたはエジプトびとを見るが、もはや永久に、二度と彼らを見ないであろう。主があなたがたのために戦われるから、あなたがたは黙していなさい」。どうしたら、恐れないでいられるでしょう。一体どうしたら、主なる神さまへの感謝と信頼のうちに、心安く晴れ晴れとした私たちであることができるでしょうか? 主の救いを見ることによってです。ご主人であられる神さまが、この私のためにさえ、先頭を切って第一に戦ってくださる。その姿をつくづくと見て、「本当にそうだ」と知ることによってです。「きょう、あなたがたはエジプトびとを見るが、もはや永久に、二度と彼らを見ないであろう」。それはつまり、これからも何度も何度も、度々繰り返して、彼らを見るという意味です。この私たちを奴隷にしようとするものたちが追いかけてきます。目の前に海が立ち塞がります。袋小路に据え置かれて、私たちは恐れと心細さに打ちのめされそうになります。いつもの職場でも、茶の間に座っていても、道を歩いているときにも。あなたの目の前にいる、あまりに気難しく頑固で偏屈な
パロは「ゆるす」と言い、すぐに心を変えて「ゆるさない」と言うでしょう。そのとき、あなたや私はどうするでしょうか。そのとき、恐れないあなたであることができるでしょうか。それともただただ言いなりにされ、臆病風に吹かれるでしょうか。恐れたりおじけたり、神ではないものを仕方なしに拝んだりさせられてしまうでしょうか。「仕方がない、仕方がない」と都合のよい言い訳を並べ立てながら。貧しく身を屈めさせられる日々が来ます。年老いる日々が来て、若者たちさえ疲れ、弱り果てる日々が来ます。歴戦の勇士たちもつまずき倒れる日々が、この私たちそれぞれのためにも来ます(イザヤ43:12。様々な悩みと思い煩いが海のように行く手を塞ぐときが、この私たちそれぞれのためにも来るでしょう。
 16節、「海の中の乾いた地を行かせなさい」と主がお命じになり、そのとおりにしていただきました。その後も、「海の中の乾いた地を。海の中の乾いた地を」22,29節)としつこく繰り返されます。泥水だらけのぬかるんだ道ではなく、乾いて歩きやすくしていただいた道を安心して落ち着いて渡りました。ここが、心に留めるべき大切な点です。だからこそ、年寄りや赤ちゃんや小さな子供、足腰衰えた者、病弱な者たちもも大勢いる中で、けれど皆で渡りきることができました。主なる神の慈しみ深い取り扱いが民の一人一人に及びつづけます。燃える火の中や大水の下をくぐる時にもです。苦難の只中にあっても、主はあなたを見放すことも見捨てることも決してなさらないからです。さて、生きることは、いつまでもどこまでも望むままに生きることを意味しません。若い日々にも健康で旺盛な日々にも、小さな子供の頃でさえ、生きることは死と隣り合わせ・背中合わせだったではありませんか。限りある、ほんの束の間のごく短い生命のときを、それじゃあ、この私自身はどうやって使おうか。どのように生きてゆこうか。やがて必ず来る死と終りを見据えて、だからこそ、そこで私たちは「じゃあ、この私はどんなふうに生きていこうか」と腹を据えたのでした。腹をくくって、よくよく心を鎮めましょう。たとえ予想できる最低最悪の事態がこの身に起こるときにも、「それでいい。分かりました」と受け入れ、従うことができます。あってよいことと、あってはならないことを決める立場に私たちはいません。私たちは神さまではないのですから、神より賢くあってはならないのですから(コリント手紙(1)1:18-25,ヨハネ手紙(2)9参照)。むしろ神さまにこそ信頼を寄せ、願い求め、神さまの真理と慈しみにすがって生きるはずの私たちですから。

             ◇

大切なことをお伝えします。2つです。(1)神さまがこの世界の全部を造り、神を信じる人たちをあらかじめ救いへと選んでくださっています。(2)やがて世界の終わりに、主イエスを信じて生きる人たちは、ただ「イエスを信じる」という一点だけで救われ、神の永遠の御国(=天国,神の国)に迎え入れられます。そこで、神さまと一緒に、幸いにいつまでも生きることになります。もし、聖書の神さまを信じて生きるなら、「死んだあとにも幸いな生命がある」と、ここまで信じることができるならば信じた甲斐があります。なぜなら、もし、この希望がないなら、聖書の教えも福音も人を少しも生かさないし、その人自身と家族を救うことも決して有り得ないからです。これが、神を信じて生きることの希望の中身です。その希望をもって一日一日を生きることができるなら、その人たちはとても幸いです。「天にいますわたしの御父の御心なしには髪の毛一本も私の頭から虚しく落ちることがない」、これからもそうです。しかも現に髪は抜けて薄くなり、白髪頭・ハゲ頭になり、足腰衰え、物忘れもひどくなりました。この私たち一人一人も、やがて間もなく次々と死んでいきます。しかも祝福と恵みを十二分に受け取りながら、天の御父の御心によって。


2018年8月22日水曜日

8/19こども説教「息を引き取った」ルカ23:44-49


8/19 こども説教 ルカ23:44-49
 『息を引き取った』

23:44 時はもう昼の十二時ごろであったが、太陽は光を失い、全地は暗くなって、三時に及んだ。45 そして聖所の幕がまん中から裂けた。46 そのとき、イエスは声高く叫んで言われた、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」。こう言ってついに息を引きとられた。47 百卒長はこの有様を見て、神をあがめ、「ほんとうに、この人は正しい人であった」と言った。48 この光景を見に集まってきた群衆も、これらの出来事を見て、みな胸を打ちながら帰って行った。49 すべてイエスを知っていた者や、ガリラヤから従ってきた女たちも、遠い所に立って、これらのことを見ていた。                 (ルカ福音書23:44-49

  救い主イエスが、とうとう十字架の上で死んでしまいました。男の弟子たちがみな逃げ去る様子が、少し前に報告されていましたね。けれどこの大事な出来事を、「ガリラヤから従ってきた女たちが見ていた」と報告されています。遠く離れてではあっても、けれどこの女の弟子たちがいたと。また47節、ローマの軍隊の中の100人の部下を指導する外国人の百卒長がここにいて、「ほんとうに、この人は正しい人であった」と言っています。この「正しい」という意味は、「父なる神さまをよく信頼して、よく聴き従っている」という意味です。息を引き取るときに、救い主イエスが声高く叫んで「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」と叫んだのを見て、ああ本当にとこの百卒長には分かりました。十字架の上で死んでゆくときにさえ、父なる神さまへの主イエスの信頼は少しも揺れ動いていなかったのです。私たちにもそれぞれ困ったことや恐ろしいことや心細いことが次々とあります。どうしていいか分からないほど、すっかり心が挫けてしまう日々もあります。そうであっても、主イエスを信じて生きる私たちもこの方に導かれ、教えられつづけて、同じように神によく信頼して、よくよく聴き従って生きることができます。それはとても心強く、幸いなことです。


【補足/神に信頼して、ゆだねる信仰】
 この信仰の本質は、神によくよく信頼し、神さまに聴き従い、神にこそすべて一切をゆだねて生きる信仰です。つまり、神への信頼と従順です。信頼し、すべてをゆだねるに値する神と出会うことができるかどうかが、大きな分かれ道です。その信頼の姿を、まず救い主イエスこそが私たちに手本として示してくださいました。死の直前にもそうでした。また、この前夜のゲッセマネの園での祈りの中でも、父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください(ルカ22:42と。主イエスを信じて生きてゆく中で、「~私の思いや願いではなく、み心が成るように」と一日ずつを生きる私たちへと成長させられていきます。
 また、「正しい人は一人もいない」(ロ―マ手紙3:10-18,14:1-2,創世記8:21と聖書ははっきりと断言しています。正しく、またほんとうに善である方は神お独りです。ですから、人間について「正しい人」と聖書が言うとき、それは限界ある、ごく表面的で部分的な正しさであったり、「神を信じて生きようと願う」などという意味であったりします。あるいは、「人間たちの目から見ての正しさ」であったり。すべての人間が神に逆らう罪の根を深く抱えた存在であることを、決して忘れてはなりません(テモテ手紙(1)1:12-17,ローマ手紙3:21-27

8/19「アブラムとサライの不信仰」ローマ4:16-25、創世記12:10-20


                        みことば/2018,8,19(主日礼拝)  176
◎礼拝説教 創世記12:10-20,ローマ手紙4:16-25  日本キリスト教会 上田教会
『アブラムとサライの不信仰』

   牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

12:10 さて、その地にききんがあったのでアブラムはエジプトに寄留しようと、そこに下った。ききんがその地に激しかったからである。11 エジプトにはいろうとして、そこに近づいたとき、彼は妻サライに言った、「わたしはあなたが美しい女であるのを知っています。12 それでエジプトびとがあなたを見る時、これは彼の妻であると言ってわたしを殺し、あなたを生かしておくでしょう。13 どうかあなたは、わたしの妹だと言ってください。そうすればわたしはあなたのおかげで無事であり、わたしの命はあなたによって助かるでしょう」。14 アブラムがエジプトにはいった時エジプトびとはこの女を見て、たいそう美しい人であるとし、15 またパロの高官たちも彼女を見てパロの前でほめたので、女はパロの家に召し入れられた。16 パロは彼女のゆえにアブラムを厚くもてなしたので、アブラムは多くの羊、牛、雌雄のろば、男女の奴隷および、らくだを得た。17 ところで主はアブラムの妻サライのゆえに、激しい疫病をパロとその家に下された。18 パロはアブラムを召し寄せて言った、「あなたはわたしになんという事をしたのですか。なぜ彼女が妻であるのをわたしに告げなかったのですか。19 あなたはなぜ、彼女はわたしの妹ですと言ったのですか。わたしは彼女を妻にしようとしていました。さあ、あなたの妻はここにいます。連れて行ってください」。20 パロは彼の事について人々に命じ、彼とその妻およびそのすべての持ち物を送り去らせた。      (創世記12:10-20)


今日の礼拝説教は、いつにも増して聞き苦しく耳の痛い内容を含みます。できればこの箇所を省いて素通りしてしまいたかったのですが、けれどどうしてもそれは出来ませんでした。神の民とされたイスラエルの、その一番最初の大失敗だからです。しかも彼らはそれを何度も何度も繰り返し、今日に至るまで私たちの間でも、その失敗と過ちとは繰り返されつづけているからです。ですから、どうかおゆるしくださって、少し我慢してお聞きください。神さまから背いて罪と悲惨さの中へ落ちてしまったこの世界を救おうとなさって、神さまは、いよいよ本腰を入れて手を差し伸べはじめます。それが、創世記12章というタイミングです。2段階の救済処置です。(1)ひとにぎりの神の民を生み出すこと。そして、(2)やがて救い主イエスによる決定的な救い。神の民とされた私たちが、神さまを信じて、神さまにこそ信頼し、神さまの御心にかなうことを求めて生活しはじめる。そこでようやく、この世界と私たちのための祝福が現実に実を結びはじめます。

  十分な良い出発をとげたはずの彼らでした。けれど早々に、雲行きが怪しくなってきました。飢饉が起こり、自分たちが食べる食料が日毎に乏しくなってきました。しかもそれは、「あなたの子孫にこの土地を与える」(12:7)と神さまが保証してくださったはずのその約束の土地の只中で。なにしろ食べていけない。背に腹は代えられません。彼らは、約束の土地に踏みとどまることができませんでした。かといって故郷に逆戻りしてしまうこともできず、農産物の収穫が豊かであったエジプトへと一時的に緊急避難することを選びます。すっかり諦めて、神さまに従って生きはじめる以前の故郷へと逆戻りするわけではない。かと言って、約束の土地にそのまましがみつくこともできない。困りました。そこで飢饉が止むまで、ほんの一時的に避難し、やがてふたたび神さまがお示しになったこの土地にきっと必ず戻ってこよう。そして、そのエジプトの地で、大きな試練と誘惑が彼らを待ち構えていたのです。エジプトに入る直前、アブラム(=後に、神ご自身によって『アブラハム』と改名。創世記17:6は妻のサライにこう申し出ます;11-13節、「わたしはあなたが美しい女であるのを知っています。それでエジプトびとがあなたを見る時、これは彼の妻であると言ってわたしを殺し、あなたを生かしておくでしょう。どうかあなたは、わたしの妹だと言ってください。そうすればわたしはあなたのおかげで無事であり、わたしの命はあなたによって助かるでしょう」。妻は夫の申し出に同意し、二人は結託して嘘をつきはじめます。あの彼らをかばって弁護しようとする人たちは今も大勢います、「いいや、嘘といっては言いすぎだろう。実際に、遠い親戚同士でもあり、異母兄弟でもあったのだし」。・・・・・・どう思いますか。いいえ、だって自分の妻であることを伏せて、あの彼は神が結び合わせてくださった自分の妻を「はいどうぞ」とエジプトの王に差し出してしまったのですから。
  「あなたは何ということをしたのか。なぜ彼女が自分の妻であるのを私に告げなかったのか。なぜ、彼女はわたしの妹ですと言ったのか」(18-19)なんということをした。なんと不届きで不忠実なしもべか。神の民とされた人たちよ。たかだか外国人の王が叱りつけていると思ってはなりません。エジプトの王の口を用いて、神ご自身こそがアブラムをきびしく叱りつけています。アブラムとサライを心底から悔い改めさせるため、神の憐れみのもとへと立ち返らせるために、主である神さまは、エジプトの王をご自分の働きのための道具として用いました。旧約聖書にも新約聖書にも、神を知らない・信じないはずの人々を用いて、神さまがその人々に大きな役割を果たさせることが度々ありました。私たちの間でもまったく同じです。神さまを信じていないはずの人々から思いがけなく助けてもらったり、支えられたり励まされたり、あるいは、「お前は何ということをしたのか。どいういう了見か」と厳しく叱っていただいたり。神ご自身がアブラムとサライのはなはだしい裏切り行為に対して直接に介入し、彼らの現実をねじ曲げ、彼らの不信仰を力づくで組み伏せてしまわれます。そして末尾の20節;「パロは彼の事について人々に命じ、彼とその妻およびそのすべての持ち物を送り去らせた」。ハッピーエンドのように見えます。雨降って地かたまる、良かった良かった、と胸を撫で下ろしたくなります。
  けれども、あの彼らの不信仰と裏切りの根はとてもとても深かったのです。まるで印刷製本のミスかと疑いたくなるほどに、あまりによく似た、ほぼまったく同じ出来事がこのあと、同じ創世記の20章、26章と執拗に繰り返されます。まずこの数年後の20章で、別の土地に滞在していたときアブラハムは妻サラを「これは私の妹です。どうぞ、あなたの妻にでも側室でもそばめにでも、好きなようにしてください。はい、どうぞどうぞ」と外国人の王さまに差し上げようとします。そして26章。やがて彼らの子供たちの時代に、彼らの息子イサクは妻リベカのことを「はいはい、私の妹です。誰でもどうぞ望むままに、好きなようになさってください」と。不思議です。こうしたことが性懲りもなく繰り返されつづける理由は、いったいどこにあるのか。この、体裁のよい都合もいい方便を使おうと、いつ彼らは決めたのか、いつからこのあまりに不正な偽善と隠蔽工作を使いつづけてきたのか。そもそもの最初からでした。20章で、「なぜこんなことをしたのか」と外国人の王から尋問されて、アブラハム自身が自分自身の心の思いと判断とを告白しています。20:11-13;「この所には神を恐れるということが、まったくないので、わたしの妻のゆえに人々がわたしを殺すと思ったからです。また彼女はほんとうにわたしの妹なのです。わたしの父の娘ですが、母の娘ではありません。そして、わたしの妻になったのです。神がわたしに父の家を離れて、行き巡らせた時、わたしは彼女に、あなたはわたしたちの行くさきざきでわたしを兄であると言ってください。これはあなたがわたしに施す恵みであると言いました」。え、神が父の家から離れさせ、行き巡らせたとき? つまり、そもそもの最初から、ず~っと。なんということでしょう。どこへ行っても兄ですと言ってくれ。つまりは、この土地、あの土地、向こうの土地に神を畏れることがまったくないとか、「あの人たち、この人たちがちっとも神さまに信頼しない。だから」ということではなかったのです。他の誰のことでもなく、神を信じて生きるはずのあの彼ら自身にこそ神を畏れる心がほんの少しもない。それ以上にその何倍も、神ではない他のモノを恐れる心が多すぎました。この不信仰と生狡い策略は彼らに恵みを施すどころか、大きな災いと罠を招き寄せたのです。今日の箇所、1218-19節で「なんということをしたのか」と叱られて、彼らが反省して心を入れ替えたかに見えました。けれどまた20章で繰り返し、26章でも繰り返し、「なんということをしたのか」。三度か四度きびしく叱られる程度では、彼らは神さまへと思いを向け返しませんでした。背きの根はあまりに深かったのです。
 例えば、「約束どおり、子供がもうすぐ生まれる」と神から告げられたときだって、アブラハムは顔を伏せて苦笑いをしたじゃないですか。「100歳の男にどうして子供が生まれるだろうか。サラはまた90歳にもなって、どうして子供が産めるだろうか。いいや、産めるはずもない」と。妻のサラも同様でした。天幕の陰でその予告を聞きながら、彼女も淋しく笑いました。「私は衰え、主人もまた老人であるのに、わたしにもはや楽しみがあるはずもない」と(創世記17:17,18:12参照)。神さまを信じて生きるあの夫婦は、不信仰に陥ることが度々あったし、疑うことも神さまに背くことも何度も何度もありました。詳しく眺めましたように、神に従う旅に出た直後に、自分の妻を妹だと偽って王に「さあ好きなようにしてください」と差し出しました。お互い同士への、さらに神ご自身へのあきらかな、あまりにはなはだしい裏切りでした。同じことはもう一度あり、そんな親の不信仰に倣って、息子夫婦もまったく同じ裏切りを犯してしまうほどでした(創世記12:10-,20:1-,26:1-。自分の息子イシマエルを連れて女奴隷ハガルが家出しなければならなかったのも、アブラハムが妻サラに、「あなたの女奴隷はあなたのものだ。好きなようにするがいい」と言ったからでした(創世記16:6。自分の大切な妻を「いいえ妹です。どうぞお好きなように」と差し出したのとそっくり同じに。あの彼もあの彼女も、神さまとの約束をすっかり忘れていました。ほかにも色々。不信仰につぐ不信仰。疑いと裏切りの連続、それがあの夫婦の日々でした。困ったとき不都合なとき、なぜ不信仰に落ちいてしまうのか。「困ったとき、生きる道を見いだせないとき、そのときこそただただ神にこそ助けていただこう。この私は神にこそ必死にしがみつこう。きっと必ず助けてくださる神である」とはほんの少しも思っていなかったからです。
  ふと気がつくと、この私たち自身も同じことをしつづけています。恥ずかしいことです。けれど、せっかくこの聖書の神さまを信じたのです。アブラハムの日々と聖書自身を、現実離れした理想や絵空事にしてはなりません。不信仰に陥ることも信仰が弱まることも疑うこともなかったスーパーマンが、一体どうして私たちの『信仰の父』になれるでしょう。どうして私たちが、そんなどこにも存在しないような絵空事の人物を手本として生きられるでしょう。しかもその超人・超善人たちは、私たちが聞き届けてきたはずの福音の真理(ローマ3:21-,テモテ(1)1:12-17の枠外にいるというのでしょうか。私たちはキリストの十字架によって救われたが、けれどあの彼らは、彼ら自身の善行や美徳によって、正しくしっかりした強い信仰によって救われた、というのでしょうか。自分の目と心で確かめてみましょう。聖書のページを開き、また自分自身のこれまでの日々を振り返りながら。ですから今日、創世記12章の前にご一緒に読んだあのローマ手紙4:16-25は、あまりに寛大な、あまりに大目に見た報告であると言えるでしょう。事実に即して、もう少し丁寧に親切に報告を言い直すならば;「アブラハムは、たしかに信仰が弱まった。彼は不信仰に度々陥って、神の約束を何度も何度も疑った。繰り返し神の約束を忘れ、背き、罪を犯しつづけた。けれどなお神は、そんな彼らをさえ見捨てることも見離すこともなく、信仰が弱まる度毎に強めてくださり、背いて離れ去る度毎に連れ戻し、ついにようやく神を讃美して生きる人間としてくださった」と。

アブラハムの子孫たちよ。これが実態だったのです。手紙を書いたパウロ自身も、自分がアブラハムと同じくあまりに寛大な取り扱いを受けてきたことをよくよく知っていました。アブラハムもイサク、ヤコブ、パウロも、そして私たち皆も、《神さまからの憐れみの取り扱い》を受けました。憐れみを受けたのであり、限りなく忍耐され、ゆるされ続けてきたのです。ダビデもモーセもソロモンもノアも、まったく同様です。ここにいるこの私たち一人一人も。弱さや狡さや疑いや迷いや罪深さをそれぞれに山ほど抱えて、けれど、それなのに救われ、そうであるにもかかわらず神の民の一員としていただきました。だからこそ、あの不従順・不信仰の裏切りの連続だった彼こそが「私たちの信仰の父」と呼ばれます。だからこそ、「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」という証言は真実であり、私たちはそのまま信じて受け入れたのです。クリスチャンであるという中身はそのことです。「信仰は弱まらなかった。神の約束を不信仰のゆえに疑うことはせず、かえって信仰によって強められ、栄光を神に帰し、神はその約束されたことを成し遂げることができると確信した」(ローマ手紙4:16-25は、こうして私たち罪人に対する神ご自身の眼差しと取り扱い方法を示したのです。恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される神です(ヨナ4:2,出エジプト34:6,86:5,15。あまりに寛大なその同じ神が、この私たちを、こんな私たちさえも、あのアブラムのように扱ってくださっています。あなたも私もたしかに信仰が弱まった。これまでもそうだったし、多分これからも。不信仰に陥って、神の約束を何度も何度も疑いました。神の約束を忘れ、背き、罪を犯しつづけました。何度も何度も、度々しょっちゅうそうでした。けれどなお神は、そんなあなたをさえ見捨てることも見離すこともなく、信仰が弱まる度毎に強めてくださる。背いて離れ去る度毎に連れ戻し、ついにようやく神を讃美して生きる晴れ晴れとした人間としてくださいます。必ずきっと、そうしてくださいます。このことを心に刻んで生きることのできる人たちは、とても幸いです。

2018年8月13日月曜日

8/12こども説教「いっしょに楽園にいる」ルカ23:39-43


 8/12 こども説教 ルカ23:39-43
 『いっしょに楽園にいる』

23:39 十字架にかけられた犯罪人のひとりが、「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ」と、イエスに悪口を言いつづけた。40 もうひとりは、それをたしなめて言った、「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。41 お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」。42 そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。43 イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。        
                         (ルカ福音書23:39-43

  ケンちゃん。救い主イエスがとうとう十字架の上で殺されようとしています。その両側には二人の罪人がいっしょに十字架につけられて殺されようとしています。一人は、主イエスを信じない罪人、もう一人は主イエスを信じる罪人。いまでも、救い主イエスを信じない多くの人々にとって、この場面はただ残酷で、恐ろしくて惨めなだけの場面です。けれど、救い主イエスを信じて生きている私たちにとっては、生きる希望をはっきりと告げているとても大切な場面です。なぜなら、救い主イエスを信じるこの罪人と同じに、この私たち一人一人も、やがて死んでいくときに、同じく救い主から、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいる。とても素敵な楽園に、いっしょにいる」と約束されるからです。多くの人たちは、死んだらそれでおしまいだと思っています。誰でも皆やがて死んでしまいますが、でも 死んでそれでおしまいではありません。死んだあとにも生命がつづき、しかも救い主イエスを信じる人々は、この救い主イエスと一緒にとても素敵な楽園に住むことになります。本当のことです。これを信じることができる人たちはとても幸せです。もし、聖書の神さまを信じて生きるなら、「死んだあとにも生命がある」と、ここまで信じることができると信じた甲斐があります。なぜなら、もし、この希望がないなら、聖書の教えも福音も人を少しも生かさないし、その人自身と家族を救うことも決して有り得ないからです。

   【補足/神を信じて生きる希望】
    大切なことを伝えますから、よく覚えていてください。(1)神さまがこの世界の全部を造り、神を信じる人たちをあらかじめ救いへと選んでくださっていました。(2)やがて世界の終わりに、主イエスを信じて生きる人たちは、ただ「イエスを信じる」という一点だけで救われ、神の永遠の御国(=天国,神の国)に迎え入れられます。そこで、神さまと一緒に、幸いにいつまでも生きることになります。(1)(2)これが、神を信じて生きることの希望の中身です。その希望をもって一日一日を生きることができるなら、その人たちはとても幸いです。