2018年8月22日水曜日

8/19「アブラムとサライの不信仰」ローマ4:16-25、創世記12:10-20


                        みことば/2018,8,19(主日礼拝)  176
◎礼拝説教 創世記12:10-20,ローマ手紙4:16-25  日本キリスト教会 上田教会
『アブラムとサライの不信仰』

   牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

12:10 さて、その地にききんがあったのでアブラムはエジプトに寄留しようと、そこに下った。ききんがその地に激しかったからである。11 エジプトにはいろうとして、そこに近づいたとき、彼は妻サライに言った、「わたしはあなたが美しい女であるのを知っています。12 それでエジプトびとがあなたを見る時、これは彼の妻であると言ってわたしを殺し、あなたを生かしておくでしょう。13 どうかあなたは、わたしの妹だと言ってください。そうすればわたしはあなたのおかげで無事であり、わたしの命はあなたによって助かるでしょう」。14 アブラムがエジプトにはいった時エジプトびとはこの女を見て、たいそう美しい人であるとし、15 またパロの高官たちも彼女を見てパロの前でほめたので、女はパロの家に召し入れられた。16 パロは彼女のゆえにアブラムを厚くもてなしたので、アブラムは多くの羊、牛、雌雄のろば、男女の奴隷および、らくだを得た。17 ところで主はアブラムの妻サライのゆえに、激しい疫病をパロとその家に下された。18 パロはアブラムを召し寄せて言った、「あなたはわたしになんという事をしたのですか。なぜ彼女が妻であるのをわたしに告げなかったのですか。19 あなたはなぜ、彼女はわたしの妹ですと言ったのですか。わたしは彼女を妻にしようとしていました。さあ、あなたの妻はここにいます。連れて行ってください」。20 パロは彼の事について人々に命じ、彼とその妻およびそのすべての持ち物を送り去らせた。      (創世記12:10-20)


今日の礼拝説教は、いつにも増して聞き苦しく耳の痛い内容を含みます。できればこの箇所を省いて素通りしてしまいたかったのですが、けれどどうしてもそれは出来ませんでした。神の民とされたイスラエルの、その一番最初の大失敗だからです。しかも彼らはそれを何度も何度も繰り返し、今日に至るまで私たちの間でも、その失敗と過ちとは繰り返されつづけているからです。ですから、どうかおゆるしくださって、少し我慢してお聞きください。神さまから背いて罪と悲惨さの中へ落ちてしまったこの世界を救おうとなさって、神さまは、いよいよ本腰を入れて手を差し伸べはじめます。それが、創世記12章というタイミングです。2段階の救済処置です。(1)ひとにぎりの神の民を生み出すこと。そして、(2)やがて救い主イエスによる決定的な救い。神の民とされた私たちが、神さまを信じて、神さまにこそ信頼し、神さまの御心にかなうことを求めて生活しはじめる。そこでようやく、この世界と私たちのための祝福が現実に実を結びはじめます。

  十分な良い出発をとげたはずの彼らでした。けれど早々に、雲行きが怪しくなってきました。飢饉が起こり、自分たちが食べる食料が日毎に乏しくなってきました。しかもそれは、「あなたの子孫にこの土地を与える」(12:7)と神さまが保証してくださったはずのその約束の土地の只中で。なにしろ食べていけない。背に腹は代えられません。彼らは、約束の土地に踏みとどまることができませんでした。かといって故郷に逆戻りしてしまうこともできず、農産物の収穫が豊かであったエジプトへと一時的に緊急避難することを選びます。すっかり諦めて、神さまに従って生きはじめる以前の故郷へと逆戻りするわけではない。かと言って、約束の土地にそのまましがみつくこともできない。困りました。そこで飢饉が止むまで、ほんの一時的に避難し、やがてふたたび神さまがお示しになったこの土地にきっと必ず戻ってこよう。そして、そのエジプトの地で、大きな試練と誘惑が彼らを待ち構えていたのです。エジプトに入る直前、アブラム(=後に、神ご自身によって『アブラハム』と改名。創世記17:6は妻のサライにこう申し出ます;11-13節、「わたしはあなたが美しい女であるのを知っています。それでエジプトびとがあなたを見る時、これは彼の妻であると言ってわたしを殺し、あなたを生かしておくでしょう。どうかあなたは、わたしの妹だと言ってください。そうすればわたしはあなたのおかげで無事であり、わたしの命はあなたによって助かるでしょう」。妻は夫の申し出に同意し、二人は結託して嘘をつきはじめます。あの彼らをかばって弁護しようとする人たちは今も大勢います、「いいや、嘘といっては言いすぎだろう。実際に、遠い親戚同士でもあり、異母兄弟でもあったのだし」。・・・・・・どう思いますか。いいえ、だって自分の妻であることを伏せて、あの彼は神が結び合わせてくださった自分の妻を「はいどうぞ」とエジプトの王に差し出してしまったのですから。
  「あなたは何ということをしたのか。なぜ彼女が自分の妻であるのを私に告げなかったのか。なぜ、彼女はわたしの妹ですと言ったのか」(18-19)なんということをした。なんと不届きで不忠実なしもべか。神の民とされた人たちよ。たかだか外国人の王が叱りつけていると思ってはなりません。エジプトの王の口を用いて、神ご自身こそがアブラムをきびしく叱りつけています。アブラムとサライを心底から悔い改めさせるため、神の憐れみのもとへと立ち返らせるために、主である神さまは、エジプトの王をご自分の働きのための道具として用いました。旧約聖書にも新約聖書にも、神を知らない・信じないはずの人々を用いて、神さまがその人々に大きな役割を果たさせることが度々ありました。私たちの間でもまったく同じです。神さまを信じていないはずの人々から思いがけなく助けてもらったり、支えられたり励まされたり、あるいは、「お前は何ということをしたのか。どいういう了見か」と厳しく叱っていただいたり。神ご自身がアブラムとサライのはなはだしい裏切り行為に対して直接に介入し、彼らの現実をねじ曲げ、彼らの不信仰を力づくで組み伏せてしまわれます。そして末尾の20節;「パロは彼の事について人々に命じ、彼とその妻およびそのすべての持ち物を送り去らせた」。ハッピーエンドのように見えます。雨降って地かたまる、良かった良かった、と胸を撫で下ろしたくなります。
  けれども、あの彼らの不信仰と裏切りの根はとてもとても深かったのです。まるで印刷製本のミスかと疑いたくなるほどに、あまりによく似た、ほぼまったく同じ出来事がこのあと、同じ創世記の20章、26章と執拗に繰り返されます。まずこの数年後の20章で、別の土地に滞在していたときアブラハムは妻サラを「これは私の妹です。どうぞ、あなたの妻にでも側室でもそばめにでも、好きなようにしてください。はい、どうぞどうぞ」と外国人の王さまに差し上げようとします。そして26章。やがて彼らの子供たちの時代に、彼らの息子イサクは妻リベカのことを「はいはい、私の妹です。誰でもどうぞ望むままに、好きなようになさってください」と。不思議です。こうしたことが性懲りもなく繰り返されつづける理由は、いったいどこにあるのか。この、体裁のよい都合もいい方便を使おうと、いつ彼らは決めたのか、いつからこのあまりに不正な偽善と隠蔽工作を使いつづけてきたのか。そもそもの最初からでした。20章で、「なぜこんなことをしたのか」と外国人の王から尋問されて、アブラハム自身が自分自身の心の思いと判断とを告白しています。20:11-13;「この所には神を恐れるということが、まったくないので、わたしの妻のゆえに人々がわたしを殺すと思ったからです。また彼女はほんとうにわたしの妹なのです。わたしの父の娘ですが、母の娘ではありません。そして、わたしの妻になったのです。神がわたしに父の家を離れて、行き巡らせた時、わたしは彼女に、あなたはわたしたちの行くさきざきでわたしを兄であると言ってください。これはあなたがわたしに施す恵みであると言いました」。え、神が父の家から離れさせ、行き巡らせたとき? つまり、そもそもの最初から、ず~っと。なんということでしょう。どこへ行っても兄ですと言ってくれ。つまりは、この土地、あの土地、向こうの土地に神を畏れることがまったくないとか、「あの人たち、この人たちがちっとも神さまに信頼しない。だから」ということではなかったのです。他の誰のことでもなく、神を信じて生きるはずのあの彼ら自身にこそ神を畏れる心がほんの少しもない。それ以上にその何倍も、神ではない他のモノを恐れる心が多すぎました。この不信仰と生狡い策略は彼らに恵みを施すどころか、大きな災いと罠を招き寄せたのです。今日の箇所、1218-19節で「なんということをしたのか」と叱られて、彼らが反省して心を入れ替えたかに見えました。けれどまた20章で繰り返し、26章でも繰り返し、「なんということをしたのか」。三度か四度きびしく叱られる程度では、彼らは神さまへと思いを向け返しませんでした。背きの根はあまりに深かったのです。
 例えば、「約束どおり、子供がもうすぐ生まれる」と神から告げられたときだって、アブラハムは顔を伏せて苦笑いをしたじゃないですか。「100歳の男にどうして子供が生まれるだろうか。サラはまた90歳にもなって、どうして子供が産めるだろうか。いいや、産めるはずもない」と。妻のサラも同様でした。天幕の陰でその予告を聞きながら、彼女も淋しく笑いました。「私は衰え、主人もまた老人であるのに、わたしにもはや楽しみがあるはずもない」と(創世記17:17,18:12参照)。神さまを信じて生きるあの夫婦は、不信仰に陥ることが度々あったし、疑うことも神さまに背くことも何度も何度もありました。詳しく眺めましたように、神に従う旅に出た直後に、自分の妻を妹だと偽って王に「さあ好きなようにしてください」と差し出しました。お互い同士への、さらに神ご自身へのあきらかな、あまりにはなはだしい裏切りでした。同じことはもう一度あり、そんな親の不信仰に倣って、息子夫婦もまったく同じ裏切りを犯してしまうほどでした(創世記12:10-,20:1-,26:1-。自分の息子イシマエルを連れて女奴隷ハガルが家出しなければならなかったのも、アブラハムが妻サラに、「あなたの女奴隷はあなたのものだ。好きなようにするがいい」と言ったからでした(創世記16:6。自分の大切な妻を「いいえ妹です。どうぞお好きなように」と差し出したのとそっくり同じに。あの彼もあの彼女も、神さまとの約束をすっかり忘れていました。ほかにも色々。不信仰につぐ不信仰。疑いと裏切りの連続、それがあの夫婦の日々でした。困ったとき不都合なとき、なぜ不信仰に落ちいてしまうのか。「困ったとき、生きる道を見いだせないとき、そのときこそただただ神にこそ助けていただこう。この私は神にこそ必死にしがみつこう。きっと必ず助けてくださる神である」とはほんの少しも思っていなかったからです。
  ふと気がつくと、この私たち自身も同じことをしつづけています。恥ずかしいことです。けれど、せっかくこの聖書の神さまを信じたのです。アブラハムの日々と聖書自身を、現実離れした理想や絵空事にしてはなりません。不信仰に陥ることも信仰が弱まることも疑うこともなかったスーパーマンが、一体どうして私たちの『信仰の父』になれるでしょう。どうして私たちが、そんなどこにも存在しないような絵空事の人物を手本として生きられるでしょう。しかもその超人・超善人たちは、私たちが聞き届けてきたはずの福音の真理(ローマ3:21-,テモテ(1)1:12-17の枠外にいるというのでしょうか。私たちはキリストの十字架によって救われたが、けれどあの彼らは、彼ら自身の善行や美徳によって、正しくしっかりした強い信仰によって救われた、というのでしょうか。自分の目と心で確かめてみましょう。聖書のページを開き、また自分自身のこれまでの日々を振り返りながら。ですから今日、創世記12章の前にご一緒に読んだあのローマ手紙4:16-25は、あまりに寛大な、あまりに大目に見た報告であると言えるでしょう。事実に即して、もう少し丁寧に親切に報告を言い直すならば;「アブラハムは、たしかに信仰が弱まった。彼は不信仰に度々陥って、神の約束を何度も何度も疑った。繰り返し神の約束を忘れ、背き、罪を犯しつづけた。けれどなお神は、そんな彼らをさえ見捨てることも見離すこともなく、信仰が弱まる度毎に強めてくださり、背いて離れ去る度毎に連れ戻し、ついにようやく神を讃美して生きる人間としてくださった」と。

アブラハムの子孫たちよ。これが実態だったのです。手紙を書いたパウロ自身も、自分がアブラハムと同じくあまりに寛大な取り扱いを受けてきたことをよくよく知っていました。アブラハムもイサク、ヤコブ、パウロも、そして私たち皆も、《神さまからの憐れみの取り扱い》を受けました。憐れみを受けたのであり、限りなく忍耐され、ゆるされ続けてきたのです。ダビデもモーセもソロモンもノアも、まったく同様です。ここにいるこの私たち一人一人も。弱さや狡さや疑いや迷いや罪深さをそれぞれに山ほど抱えて、けれど、それなのに救われ、そうであるにもかかわらず神の民の一員としていただきました。だからこそ、あの不従順・不信仰の裏切りの連続だった彼こそが「私たちの信仰の父」と呼ばれます。だからこそ、「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」という証言は真実であり、私たちはそのまま信じて受け入れたのです。クリスチャンであるという中身はそのことです。「信仰は弱まらなかった。神の約束を不信仰のゆえに疑うことはせず、かえって信仰によって強められ、栄光を神に帰し、神はその約束されたことを成し遂げることができると確信した」(ローマ手紙4:16-25は、こうして私たち罪人に対する神ご自身の眼差しと取り扱い方法を示したのです。恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される神です(ヨナ4:2,出エジプト34:6,86:5,15。あまりに寛大なその同じ神が、この私たちを、こんな私たちさえも、あのアブラムのように扱ってくださっています。あなたも私もたしかに信仰が弱まった。これまでもそうだったし、多分これからも。不信仰に陥って、神の約束を何度も何度も疑いました。神の約束を忘れ、背き、罪を犯しつづけました。何度も何度も、度々しょっちゅうそうでした。けれどなお神は、そんなあなたをさえ見捨てることも見離すこともなく、信仰が弱まる度毎に強めてくださる。背いて離れ去る度毎に連れ戻し、ついにようやく神を讃美して生きる晴れ晴れとした人間としてくださいます。必ずきっと、そうしてくださいます。このことを心に刻んで生きることのできる人たちは、とても幸いです。