2018年8月22日水曜日

8/19こども説教「息を引き取った」ルカ23:44-49


8/19 こども説教 ルカ23:44-49
 『息を引き取った』

23:44 時はもう昼の十二時ごろであったが、太陽は光を失い、全地は暗くなって、三時に及んだ。45 そして聖所の幕がまん中から裂けた。46 そのとき、イエスは声高く叫んで言われた、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」。こう言ってついに息を引きとられた。47 百卒長はこの有様を見て、神をあがめ、「ほんとうに、この人は正しい人であった」と言った。48 この光景を見に集まってきた群衆も、これらの出来事を見て、みな胸を打ちながら帰って行った。49 すべてイエスを知っていた者や、ガリラヤから従ってきた女たちも、遠い所に立って、これらのことを見ていた。                 (ルカ福音書23:44-49

  救い主イエスが、とうとう十字架の上で死んでしまいました。男の弟子たちがみな逃げ去る様子が、少し前に報告されていましたね。けれどこの大事な出来事を、「ガリラヤから従ってきた女たちが見ていた」と報告されています。遠く離れてではあっても、けれどこの女の弟子たちがいたと。また47節、ローマの軍隊の中の100人の部下を指導する外国人の百卒長がここにいて、「ほんとうに、この人は正しい人であった」と言っています。この「正しい」という意味は、「父なる神さまをよく信頼して、よく聴き従っている」という意味です。息を引き取るときに、救い主イエスが声高く叫んで「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」と叫んだのを見て、ああ本当にとこの百卒長には分かりました。十字架の上で死んでゆくときにさえ、父なる神さまへの主イエスの信頼は少しも揺れ動いていなかったのです。私たちにもそれぞれ困ったことや恐ろしいことや心細いことが次々とあります。どうしていいか分からないほど、すっかり心が挫けてしまう日々もあります。そうであっても、主イエスを信じて生きる私たちもこの方に導かれ、教えられつづけて、同じように神によく信頼して、よくよく聴き従って生きることができます。それはとても心強く、幸いなことです。


【補足/神に信頼して、ゆだねる信仰】
 この信仰の本質は、神によくよく信頼し、神さまに聴き従い、神にこそすべて一切をゆだねて生きる信仰です。つまり、神への信頼と従順です。信頼し、すべてをゆだねるに値する神と出会うことができるかどうかが、大きな分かれ道です。その信頼の姿を、まず救い主イエスこそが私たちに手本として示してくださいました。死の直前にもそうでした。また、この前夜のゲッセマネの園での祈りの中でも、父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください(ルカ22:42と。主イエスを信じて生きてゆく中で、「~私の思いや願いではなく、み心が成るように」と一日ずつを生きる私たちへと成長させられていきます。
 また、「正しい人は一人もいない」(ロ―マ手紙3:10-18,14:1-2,創世記8:21と聖書ははっきりと断言しています。正しく、またほんとうに善である方は神お独りです。ですから、人間について「正しい人」と聖書が言うとき、それは限界ある、ごく表面的で部分的な正しさであったり、「神を信じて生きようと願う」などという意味であったりします。あるいは、「人間たちの目から見ての正しさ」であったり。すべての人間が神に逆らう罪の根を深く抱えた存在であることを、決して忘れてはなりません(テモテ手紙(1)1:12-17,ローマ手紙3:21-27