2017年12月18日月曜日

12/17こども説教「あの9人はどこへ行ったか?」ルカ17:11-19

 12/17 こども説教 ルカ17:11-19
 『あの9人はどこへ行ったか?』

     17:11 イエスはエルサレムへ行かれるとき、サマリヤとガリラヤとの間を通られた。12 そして、ある村にはいられると、十人の重い皮膚病の人々に出会われたが・・・・・・。14 イエスは彼らをごらんになって、「祭司たちのところに行って、からだを見せなさい」と言われた。そして、行く途中で彼らはきよめられた。15 そのうちのひとりは、自分がいやされたことを知り、大声で神をほめたたえながら帰ってきて、16 イエスの足もとにひれ伏して感謝した。これはサマリヤ人であった。17 イエスは彼にむかって言われた、「きよめられたのは、十人ではなかったか。ほかの九人は、どこにいるのか。18 神をほめたたえるために帰ってきたものは、この他国人のほかにはいないのか」。19 それから、その人に言われた、「立って行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのだ」。      (ルカ福音書 17:11-19

  とても困って苦しんで生きていた10人の人たちを、主イエスはその苦しみから救い出してあげました。体が清くされた後で、その体を祭司たちに見せるのは、「病気がちゃんと治ったので他の人々の中に戻って暮らしてもよい」と祭司たちに許可してもらうためです。彼らは病気の苦しみだけでなく、他の健康な人から遠く離れて暮らす惨めさや淋しさを抱えて生きていました。
 主イエスのところに戻ってきて感謝したのは、10人の中の1人だけです。「他の9人はどうしたのか?」と主イエスが問いかけます。他の9人のことがとても心配だからです。「立って行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と語りかけてもらえたのは1人だけでした。残りの9人は、このとても大事な言葉を聴きそこねてしまったのです。だから、心配で心配でしょうがない。あの10人も私たち一人一人も皆、「主イエスを信じる信仰がこの私を救った。救い続ける。だから安心して出かけてゆくことができる」とよくよく覚えている必要があります。なぜ、なんのために? この病気は治っても、別の困ったことや苦しいことが次々に起こるからです。誰でもそうです。「主イエスを信じる信仰がこの私を救った。救い続ける。だから」とよく覚えた人は、何度でも何度でもどこからでも、主イエスを信じる信仰によって救われつづけて生きることができます。もし、そうではないなら、次になにかとても困ったことや辛いことが起こったとき、その人はどうなるでしょう? 大丈夫でしょうか?

   【神への感謝を心に刻む理由】
   「神が助けてくださった」と知っている人たちは、だから幸いです。その感謝がますます神に信頼を寄せさせ、神に聴き従って生きさせ、神からの祝福と幸いを受け取りつづけさせるからです。詩篇103:1-5。讃美歌20番;「主をほめよ我が心、いまわのときまで。わが生くる日のかぎり主をたたえまつれ。この身と魂を贈り与えてくださった神を」。


12/17「偽善者の不幸」マタイ23:1-36

          みことば/2017,11,17(待降節第3主日の礼拝)  141
◎礼拝説教 マタイ福音書 23:1-36                 日本キリスト教会 上田教会
『偽善者の不幸』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
23:1 そのときイエスは、群衆と弟子たちとに語って言われた、2 「律法学者とパリサイ人とは、モーセの座にすわっている。3 だから、彼らがあなたがたに言うことは、みな守って実行しなさい。しかし、彼らのすることには、ならうな。彼らは言うだけで、実行しないから。4 また、重い荷物をくくって人々の肩にのせるが、それを動かすために、自分では指一本も貸そうとはしない。・・・・・・8 しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはならない。あなたがたの先生は、ただひとりであって、あなたがたはみな兄弟なのだから。9 また、地上のだれをも、父と呼んではならない。あなたがたの父はただひとり、すなわち、天にいます父である。10 また、あなたがたは教師と呼ばれてはならない。あなたがたの教師はただひとり、すなわち、キリストである。11 そこで、あなたがたのうちでいちばん偉い者は、仕える人でなければならない。12 だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。・・・・・・27 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。28 このようにあなたがたも、外側は人に正しく見えるが、内側は偽善と不法とでいっぱいである。                  (マタイ福音書 23:1-28)
                                               


  この23章全体は、主イエスが神殿の境内でお語りになった最後の説教です。律法学者たちとパリサイ派の人々をきびしく非難していますが、むしろそれらはすべてのキリスト教会とクリスチャンに向けて語られた戒めであると受け止めましょう。律法学者とパリサイ派の人々こそが、とても悪い、それゆえとても良い役に立つ手本であり、普段の私たち自身の姿を映し出す鏡でありつづけるからです。彼らのふり見て我がふり直せ。「主イエスがこの自分自身に向けて語りかけてくださっている。それは愛情深い警告だ」と受け止められるなら、私たちは幸いです――
  まず1-4節については、少しよく考えてみる必要があります。『モーセの座に座っている』2節);聖書に基づいて信仰を教える務めを担っているということです。それならば、(牧師や長老や執事やなにかの委員だけではなく)クリスチャンである私たち皆が、その同じ一つの務めを担っていることを思い起こしましょう。もし誰かが、信仰をもって生きることに関して何事かを誰かに教えたり指図したりするとき、それを聞いている私たちクリスチャン皆は、それが果たして聖書の信仰に基づいて語られているのかどうかを自分自身で判断することができます。よく分からないときには、「失礼ですが、それは聖書の何ページに書いてありますか?」とその人に質問しましょう。神の御心にかなっていると分かったならば、その人に聴き従うことができます。聖書から来た教えではなく、主イエスを信じる信仰から来た教えでもないならば、決して聞き従ってはなりません。また、「それらしいことを言うだけで自分では実行しない」ということと、「重い荷物を人々に持ち運ばせるが、自分では指一本も動かさない」ことについては、大きな疑問が残ります。そもそも、『神が私たちに背負いきれないほどの重く苦しい荷物を運ばせる』などと聖書の何ページに書いてあったでしょうか。いいえ、どこにも書いてあるはずがありません。そんなブラック企業の悪徳雇用主のような神ではないからです。私たちの神は、私たちが支えなければ倒れてしまう神ではなく、私たちが担いで運ばなければ動けない神でもないからです。神を侮ってはなりません(イザヤ1:11,46:1-2,55:1-2。その人々の語る言葉も行いも、両方共が間違っていることも大いに有り得ます。主イエスご自身が、別のときに、「あなたがたは私の語った言葉によってすでに清くされている。わたしにつながっていなさい。もし人が私につながっており、また私がその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる」と、はっきりと保証なさったからです。その人々が語りつづけている言葉と理屈は、もしかしたら主イエスから出てきた、また自分自身と人々を主イエスへと向かわせる言葉ではないかも知れないからです。「重い荷物を人々に持ち運ばせて自分では指一本も動かさない」ことも、そうした福音の中身に反しています。主イエスからの、主イエスご自身の荷物であるならば、それは軽い荷物であり、安らぎをもたらすはずの喜びと慰めにあふれる荷物であるはずだからです。もし重くて苦しすぎるのなら、その荷物はどこか別のところから来た別の荷物であるかも知れません。なぜなら、ご自身がこうおっしゃいました;「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(ヨハネ15:3-4,マタイ11:28-30ちょうど良かった もうすぐ定期総会です。総会前の数週間と当日の長老と執事の選挙のとき、このことを思い起こしていてください。一年前の総会の選挙の際にどんなことが起こったのかも、はっきりと思い出しておきましょう。救い主イエスの「魂に休みを与える。荷は軽い」というこの証言(マタイ11:28-30に反することを、私たちはしてはいけません。神の恵みを無にしてはならないからです。ですから、(1)重すぎる荷物を自分自身で背負ってはいけません。また、(2)他の兄弟姉妹に「この人には重すぎるだろう。担がせると苦しくて困るかも知れない」と分かっていながら、なお荷物を無理矢理に背負わせてはいけません。その人のためにならず、教会のためにもならない上に、自分自身はとても悪いパリサイ人の仲間入りをしてしまうからです。私たちの千倍も万倍も神ご自身が生きて働いておられると分かっているならば、『ごく軽い荷物だけを、軽くて安らかだと分かって喜んでいる人にだけ』背負わせてあげましょう。もし、そうでないなら、神さまに対して申し訳ない。仲間たちにも自分自身にも大きな災いを招きます。そのようにして、もし仮に誰一人も荷物を担う者がいない場合にどうなるのか。神ご自身のものである教会なので、もちろん神ご自身が軽々といくらでも担ってくださいます。神が生きて働いておられるとはそのことです。
  4-12節。「経札(きょうふだ。新共同訳では、「聖句の入った小箱」。申命記6:8「あなたの手につけて、あなたの目の間に置いて覚えとし」,13:9」;聖書の言葉を書いたものを身につけておく道具。「教師。先生」などと呼ばれることはある程度は仕方のない場合もあります。けれど、きびしく戒められていることは覚えておきましょう。宴会やさまざまな席で「上座。上席」に座ることも同様です。そこには、「人様からよく見られたい。尊重されて特別扱いされたい」という欲望やウズウズする自尊心が働きます。神の御前にいることをうっかり忘れてしまわないように、自分自身の身と心をよくよく慎んでいなければなりません。ときどきお互い同士で、「このご立派な偉い先生のとなりに私なんかが座らされて、なんだか」とモジモジしあったり。ええ? 「畏れ多くて」とかしこみ崇めていい相手は、ただただ神さまだけ。先生はただ独り、私たちはみな兄弟同士。尊ばれるべき天にいます御父もただ独り、教師もただ独りキリストだからです。そのことを差し置いてしまいやすい性分を抱える私たちだからです。12節、「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる」。そのとおり。
  少し省略して、23-28節。「はっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を宮に納めておりながら、律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがしている。・・・・・・あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。外側は人に正しく見えるが、内側は偽善と不法とでいっぱいである」。23節で「律法の中で最も重要な公平とあわれみと忠実とを見逃している」。公平とあわれみと忠実とは『隣人を愛すること』と『主を愛すること』の中身を言い直しています。神の御前での公正と憐れみであり、ただただ神に対する忠実です。神から憐れんでいただいた私たちなので、同じく隣人に対しても公正と憐れみとを差し出しつづけねばならない。なにより、主なる神への忠実が私たちにそれを促す。また、隣人を愛し、神への忠実に生きるはずの私たちが制度やしきたりや格式や体裁を取り繕うことばかりに終始し、人に見せることばかりに気をとられ、白く塗った墓に成り下がっているではないか。白い墓そのものではないか。それは、私たち自身のことです。もちろん私たちの教派団体を含めて 今日のキリスト教会の衰退の理由は、なにより、神さまから憐れみを惜しみなく注がれつづけてきたことを忘れてしまったからかも知れません。神への忠実に生きるはずの私たちであることを、そのためすっかり見落としてきてしまったからかも知れません。もう25年も前のことですが、一人の親しい先輩が教会の機関誌に素敵な文章を残してくれました、「わが日本基督教会も今や気息奄々(きそくえんえん=息も絶え絶え)、この時代からはさびしく取り残された遺物のようです。あれも駄目、これも駄目と批判に明け暮れているうちに気づいてみると自らがやせ衰えていたというわけなのです。・・・・・・日本基督教会は、これまであまりにも自らを誇りすぎてきました。神学的にしっかりしている、教会的だ、告白的だというふうに。自画自賛ほど恥ずべきものはありません。傲慢、これほど厄介な罪はありません。罪の中の罪、罪の根であります。言うのもつらいことですが、日本基督教会はいま再起不能に近い状態にあります。しかし私たちはこのときこそ感謝すべきなのです。ようやく恵みの道が見えてきたのですから。『主がこれを負わせられるとき、ひとり座って黙しているがよい。おのれを撃つ者にほおを向け、満ち足りるまでに、はずかしめを受けよ』、『いや治すまい。しかし、わたしはあなたと共にいる。それで十分ではないか』(哀歌3:28-30,コリント手紙(2)12:9,リビングバイブル訳)」(説教「満ち足りるまでにはずかしめを受けよ」宇田達夫,「福音時報」19925月号)
  29-39節。数多くの預言者たちが主なる神のもとから遣わされつづけ、ある者は殺され、十字架につけられ、ある者は会堂でむち打たれ、町から町へと迫害され、主に仕える多くの働き人たちの血が流されました。「それらの血の報いがことごとく私たち自身に及ぶ。みな今の時代に及ぶ」と主イエスがおっしゃいます。それらの中でとくに二人の人間の死が指摘されています。アダムとエバの息子「アベル」のこと。また、バラキヤの子「ザカリヤ」のこと。(1)まず創世記4章。アダムとエバには二人の息子たちがいました。カインとアベルです。兄さんのカインの献げものは神に顧みられませんでした。神に対して腹を立てたカインは、妬んで弟のアベルを殺してしまいました。カインの献げものがなぜ神に顧みられなかったのかは、後から分かります。神さまに対してとてもとても腹を立てて、怒りにゆがんだ顔を地面に伏せたときに。「どうして顔を伏せるのか。どうして怒るのか。もし自分が正しいなら顔をあげたらどうだ。罪が門口でお前を慕い求め、待ち伏せしているぞ。お前はその罪を支配しなければならないが、できるのか? 無理だろう」(創世記4:6-7参照)と神から諫められました。それは感謝の献げものではなく、「人に見せて自慢するための献げもの」でしたし、神をあなどり、人を見下すための傲慢の献げものでした。「なんということをしたのか」と神から問い正されて、「わたしの罰は重くて負いきれません」と人殺しのカインは嘆きます。憐れみと保護のしるしを刻まれて、カインは主の前を去りました。私たち皆は、この憐れなカインの末裔です。神の憐れみなしには生き延びることなど誰にもできません。(2)歴代志下24:20-22。この「ザカリヤ」は祭司エホヤダの子であったようです。彼は、主がお告げになったとおりに主の言葉を告げ知らせました。「神はこう仰せられる、『あなたがたが主の戒めを犯して、災を招くのはどういうわけであるか。あなたがたが主を捨てたために、主もあなたがたを捨てられたのである』」と。そのために人々は主の神殿の庭で彼を撃ち殺しました。

            ◇


 そして、十字架のときがすでに目と鼻の先に近づいています。あとほんの数日のうちに救い主イエスご自身の血が流され、もちろんその尊い血が、この私たち一人一人にまで及んでいます。35-39節、「地上に流された義人の血の報いが、ことごとくあなたがたに及ぶであろう。よく言っておく。これらのことの報いは、みな今の時代に及ぶであろう。ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう。わたしは言っておく、『主の御名によってきたる者に、祝福あれ』とおまえたちが言う時までは、今後ふたたび、わたしに会うことはないであろう」。神の民、新しくされたイスラエルの人々よ。また、生ける神が住んでくださる神の神殿、神ご自身のものである祈りの家とされた新しいエルサレムよ(=それは、神を信じて生きる私たちすべてのクリスチャンのことです)。よくお聞きください。告げられたとおりです。私たちも預言者たちを殺し、主のもとから遣わされた働き人たちを石で打ち殺してきた者たちの仲間です。めんどりがそのヒナを翼の下に集めるように、神は私たちと私たちの子供らを何度も何度も集めようとなさいました。けれど先祖と私たち一人一人は、神の招きに応じようとしませんでした。にもかかわらず、私たち自身と、その家族と、「上田教会という名前の神の祈りの家」も、神の祈りの家すべても、神によって見捨てられたりは決してしません。聖書は語りつづけます。神の独り子イエス・キリスト。その十字架の死と復活による救いと。それは神さまから私たちへの愛の出来事だった、と聖書は語ります。「キリストは罪人たちのために、ただ1回苦しまれた。ただしい方が、ただしくない者たちのために苦しまれた。あなたがたを神のもとへ導くために」(ペトロ(1)3:18)。あの苦しみは罪人たちのためでした。罪人たちとは誰のことでしょうか? ただしい方がただしくない者たちのために苦しまれた。ただしくない者たちとは誰のことでしょう? あなたがたを神のもとへと導くために。あなたがたとは誰と誰と誰のことでしょうか? 主イエスはあざけり笑われました。「十字架から降りて、自分を救ってみろ。他人は救ったのに、自分は救えないのか。今すぐ、十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう」。けれど兄弟たち。私たちの主イエスは、『十字架から降りない』ことを決断なさいました。『自分で自分を救うことを決してしない』と腹をくくったのです。神であられる救い主の尊い血潮が流され、その血がたしかに私たちにまで及び、その血によって私たちは罪から救い出されたのです(ヘブル9:11-28。そのことを、あなたも信じられますか? あの時、神様ご自身の面子も体裁も丸つぶれでした。神さまご自身の品格も格式も尊厳も、すっかり泥にまみれていました。主の名によってこられたお独りの方によって、泥にまみれてメンツも格式も体裁も投げ捨ててくださった主イエスによって、かえって他のどこにもない格別な祝福がもたらされました。その代わりに、偽善者のための呪いと不幸せが、私たちのもとから運び去られつづけます。なんという幸いでしょう。

2017年12月12日火曜日

12/10こども説教「するべきことをする幸せ」ルカ17:7-10

 12/10 こども説教 ルカ17:7-10
 『するべきことをする幸せ』

17:7 あなたがたのうちのだれかに、耕作か牧畜かをする僕があるとする。その僕が畑から帰って来たとき、彼に『すぐきて、食卓につきなさい』と言うだろうか。8 かえって、『夕食の用意をしてくれ。そしてわたしが飲み食いするあいだ、帯をしめて給仕をしなさい。そのあとで、飲み食いをするがよい』と、言うではないか。9 僕が命じられたことをしたからといって、主人は彼に感謝するだろうか。10 同様にあなたがたも、命じられたことを皆してしまったとき、『わたしたちはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません』と言いなさい」。(ルカ福音書 17:7-10

  ケンちゃ~ん。神さまがご主人で、私たちは皆、そのしもべであり召使同士である。これこそ、とても大事な『イロハ』のイです。主人の家で、主人のいいつけに従って、主人に仕える仕事をそれぞれにします。畑を耕したり、牛や豚や鶏などの世話をしたり、草むしりをしたり、掃除や洗濯をしたり、買い物に行ったりご飯支度をしたり。言いつけられた一つの仕事を終えて主人の家に戻ってきたとき、「ごくろうさん。ごくろうさん。さあさあ、すぐに食卓について食事をしなさい」とは言われない。もし、それでカチンときて「えええ、なんで?」と嫌な顔をするなら、いつの間にか自分がしもべであり、主人の召使いであることをうっかり忘れてしまったからでしょう。召使いではなく、自分が主人であるかのように思い違いをしてしまったからかもしれません。8-10節、「かえって、『夕食の用意をしてくれ。そしてわたしが飲み食いするあいだ、帯をしめて給仕をしなさい。そのあとで、飲み食いをするがよい』と、言うではないか。僕が命じられたことをしたからといって、主人は彼に感謝するだろうか。同様にあなたがたも、命じられたことを皆してしまったとき、『わたしたちはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません』と言いなさい」。主人に言いつけられた、すべきことを、心を込めて精一杯にしましょう。してはいけないことを、しないでおきましょう。なにしろとても良い素敵なご主人さまだからです。この主人のことが大好きだからです。それこそが格別に幸せで嬉しい生活だからです。「ふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません。ふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません」。なんと気持ちのよい、晴れ晴れした言葉でしょうか。「私はふつつかなしもべです」と口ずさむ度毎に、心が安らぎます。朝も昼も晩も、この言葉を口ずさみつづけられるなら、とても幸せです。

  【補足/神を自分の主人とする生き方】
   「主なる神」と言い、「主イエス」と言い習わしてきました。神が主人であり、私たちはそのしもべであり召使いです。主人が、この私たち一人一人をご自身に仕えるしもべとして選んでくださいました。しかも、私たちも、この神を自分の主人とすることを自分自身でも選び取りました。「もし嫌なら、別の神々の中から好きなものを選ぶがよい」とも言われながら。「私はふつつかなしもべ。すべきことを」と肝に銘じつづけ、やがて主人から「善かつ忠なるしもべ。よくやった」と誉められるときを夢見ながら暮らします(ヨシュア記24:14-15,マタイ25:23)。


12/10「ダビデの子孫であり、しかも神?」マタイ22:34-40

             みことば/2017,12,10(待降節第2主日の礼拝)  140
◎礼拝説教 マタイ福音書 22:41-46                 日本キリスト教会 上田教会
『ダビデの子孫であり、
しかも神?』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
22:41 パリサイ人たちが集まっていたとき、イエスは彼らにお尋ねになった、42 「あなたがたはキリストをどう思うか。だれの子なのか」。彼らは「ダビデの子です」と答えた。43 イエスは言われた、「それではどうして、ダビデが御霊に感じてキリストを主と呼んでいるのか。44 すなわち『主はわが主に仰せになった、あなたの敵をあなたの足もとに置くときまでは、わたしの右に座していなさい』。45 このように、ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるなら、キリストはどうしてダビデの子であろうか」。46 イエスにひと言でも答えうる者は、なかったし、その日からもはや、進んでイエスに質問する者も、いなくなった。                         (マタイ福音書 22:41-46)
                                               
 
  パリサイ派の人たちとの対話が続いています。主イエスが彼らに問いかけます、「あなたがたはキリスト(=救い主)のことをどう思うか。誰の子なのか」と。彼らは、「ダビデの子です」と答えました。重ねて、主イエスは問いかけます。43-45節、「それではどうして、ダビデが御霊に感じてキリストを主と呼んでいるのか。すなわち『主はわが主に仰せになった、あなたの敵をあなたの足もとに置くときまでは、わたしの右に座していなさい』。このように、ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるなら、キリストはどうしてダビデの子であろうか」」。『』は、詩1101節からの引用です。
  直ちに、主イエスに敵対する者たちは押し黙ってしまいました。一言も言い返すことができなかったからです。かと言って、「わが主よ、わが神よ」と主の弟子のトマスのように主イエスの前にひれ伏して、喜びにあふれて信じはじめることさえもできなかったからです。サドカイ派の人々もパリサイ派の人々も、どちらも聖書を熱心に読んで研究していました。「やがてダビデの子孫の中から救い主が遣わされてくる」(イザヤ9:2-7,11:1-9,エレミヤ23:5-6,33:14-18,エゼキエル34:23-24,37:24,89:20-37と預言されつづけていたこともよく知っていました。けれどその救い主は、ただダビデの子孫にすぎず、自分たちと同じ人間の一人であるとしか認めることができませんでした。「ダビデが御霊に感じてキリストを主と呼んでいる」。神ご自身から教えられて(=御霊に感じて)イスラエルの王が誰かを「わたしの主」と呼ぶならば、その相手は、生身の人間の王をはるかに超えた権威と力をもった存在、つまり神ご自身であるということです。聖書自身は、そのことをはっきりと証言しつづけていましたが、彼らは聖書をあなどり、軽んじて、神ご自身である救い主がこの世に遣わされてくるなどとは思ってもみませんでした。ましてや、目の前に立っているそのイエスという方がその方であるなどとは。たしかに、旧約聖書が約束していたとおりにやがて来られるはずの救い主はダビデの子孫として生まれる。しかも、そのお方は「ダビデが私の主と呼ぶ」とおりに、被造物にすぎない人間をはるかに超えた存在である神ご自身である。天の御父の右の座につき、御父から天と地の一切の権能を授けられた王として、この世界をご支配なさる。やがてご自身に敵対する者たちすべてを自分の足元に置くことになる(マタイ11:27,28:18,ピリピ2:10-11,コリント(1)15:24-2646節、「その日からもはや、進んでイエスに質問する者もいなくなった」。主イエスを言い負かすことができないと痛感させられて、いったんは引き下がりながら、しかもなお彼らはイエスをかたくなに拒んで、救い主イエスを殺して、葬り去ることを決心します。
  讃美歌Ⅱ編195(賛美歌21-522番)の「キリストには代えられません」をこの後で歌います。ずいぶん前に死んでいった一人の友だちがこの歌を大好きでした。もう好きで好きで、朝も昼も晩もずっと口ずさんいるって言ってました。感謝と喜びに溢れて歌うときもあるでしょう。けれど、この歌の心はそれだけではありません。むしろ、信仰の危機に直面して、崖っぷちに立たされて、そこで必死に呼ばわっているように思えます。「キリストには代えられません。代えられません」と繰り返しているのは、ついつい取り替えてしまいそうになるからです。惑わすものにそそのかされ、目も心も奪われて。キリストの代わりに、富や宝を選んでしまいたくなる私たちです。キリストの代わりに、様々な楽しみに手を伸ばしてしまいたくなる私たちです。キリストよりも、目を引く素敵で美しいものを。人から誉められたりけなされたりすることを。うっかり取り替えてしまいたくなるほど、それらが私たちの心を引きつけて止まないからです。なぜ、そうだと分かるのか。繰り返しの部分に目を凝らしてください。あまりに過激です;「世の楽しみよ、去れ。世の誉れよ、どこかへ行ってしまえ」。とても切羽詰っていて、緊急事態のようです。ここまで彼に言わせているものは何なのか。世の楽しみよ、去れ。世の誉れよ、どこかへ行ってしまえ。そうでなければ、私は目がくらみ、今にもキリストをポイと投げ捨ててしまいそうなので。他の讃美歌も同じ一つの心で歌います、「十字架のほかには誇るものあらず、この世のもの皆、消えなば消え去れ(=もし消えるっていうんなら、いいですよ、それでも。構いませんから、どうぞ、さあ消え去ってくださいな)(讃美歌142(2)。主イエスご自身は仰る、「どんな召し使いも二人の主人の両方共に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである」(マタイ6:24,ルカ16:13)。そして気がつくと、心が2つに引き裂かれた、ほどほどのクリスチャンが出来上がっていました。あのイソップ童話のコウモリのようなクリスチャンです。動物たちの間では、「私も動物です。仲良くしましょう」。鳥たちの間では、「ほら見てください。私も鳥です、羽根を広げてパタパタ飛ぶこともできますから」。お前はいったいどっちなんだ。何者なのか、誰を自分の主人として生きるつもりなのかと厳しく問い詰められる日々がきます。あれも大切、これも大切、あれもこれも手放したくないと山ほど抱えて生きるうちに、主イエスを信じる信仰も、主への信頼も、主に聴き従って生きることもほどほどのことにされ、二の次、三の次に後回しにされつづけて、気がつくととうとう動物でも鳥でもない、どっちつかずのただ要領がいいだけの生ずるいコウモリが出来上がっていました。心を鎮めて、よくよく考え、自分で自分に問いただしてみなければなりません。何が望みなのかと、何を主人として私は生きるつもりのかと。どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。誰にもできるはずがない。だからこそ、この祈りの人は、「このキリストが私に代わって死んでくださった、本当にそうだ」と、自分自身に言い聞かせ言い聞かせしています。一途に、目を凝らしつづけています。
  さて、「救い主イエス・キリストが私に代わって死んでくださった。私が神の子供たちの1人とされるためだったし、こんな私をさえ罪と悲惨さから救い出すためだった」と私たちも知りました。それならば、救い出された私たちはどこへと向かうのか。どこで、どのように生きるのかとさらに目を凝らしましょう。代わって死んでいただいた。それなら私たちは、もう死ななくていいのか? あとは、それぞれ思いのままに好き勝手に生きていけばいいのか。いいえ、そうではありません。やがていつか寿命が来てそれぞれに死んでゆくというだけではなくて、クリスチャンとされた私たちは毎日毎日、死んで生きるのです。古い罪の自分を葬り去っていただいて、新しい生命に生きる者とされた。毎日毎日、死んで生きることが生涯続いてゆく。洗礼の日からそれが決定的に始まりました(ローマ手紙6:1-18参照)。『毎日毎日、死んで生きる』というその大事なことは、これまであまり十分には語ってくることができませんでした。いいえ、よく語ってこなかっただけではなくて、うっかり見落としていたのだと思えます。『古い罪の自分を殺していただき、葬り去っていただき、そのようにして新しい生命に生きる』ことが苦しすぎて、嫌だったので、わざと見ないふりをしていました。まったく申し訳ないことです。救い主イエスが代わって死んでくださったので、それでまるで自分は死ななくていいことにされたかのように、そこで救いの御業がすっかり完了して、終わってしまったかのように、だから後はそれぞれ好き勝手に自由気ままに生きていってよいかのように、勝手に思い込んでいました。だから、私たちはたびたび煮詰まりました。たびたび途方にくれて、道を見失いました。実は、主イエスの最初の12人の弟子たちも皆そうでした。十字架の死と復活が待ち受けているエルサレムの都に向かって旅路を歩みながら、主イエスは弟子たちに何度も何度も、ご自分の死と復活についてあらかじめ予告しつづけました。受け入れる準備をさせておきたかったのです。十字架前夜の最後の晩餐の、あのパンと杯の食事も同じでした。パンが引き裂かれるように、私の体は十字架の上で引き裂かれ、ぶどう酒が配られるように、私の血潮も流し尽くされ、あなたがたの上に注がれる。イエスは言われました。「よくよく言っておく。人の子(=イエスご自身のこと)の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。生ける父がわたしをつかわされ、また、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者もわたしによって生きるであろう」(ヨハネ福音書6:53-57)けれど弟子たちは、なかなか信じることも受け入れることもできませんでした。なぜなら、主イエスが死んで復活なさることはただ主イエスお独りだけのことに留まらなかったからです。弟子たち皆も、主イエスに率いられて、古い罪の自分を殺していただき、葬り去っていただいて、それと引換のようにして新しい生命に生きはじめる。それは恐ろしいことでした。ただただ恐ろしくて、嫌なことでした。誰かが私の身代わりとなって死んでくれた。それだけでは、力も勇気も希望も湧いてくるはずがありません。私のために苦しんで死んでくださったその同じお独りの方が、ただ苦しんで死んだだけじゃなくて、この私のためにもちゃんと復活してくださった。やつれて、息も絶え絶えになって死んでいこうとする方に共感や親しみを覚えることはできても、けれど信頼を寄せたり、その方に助けていただけるとは誰にも思えません。死んで三日目に復活させられた方をもし信じられるなら、そのお独りの方に全幅の信頼を寄せることができます。この自分自身も、主イエスに率いられて、古い罪の自分自身と死に別れ、新しい生命に生きることになる。そこに大きな希望があり、喜びと平和と格別な祝福がある。これが、起こった出来事の真相です。十字架の上のやつれて息も絶え絶えのその同じ主が同時に、復活の主でもあると信じられるかどうか、それがいつもの別れ道です。ああ、だから、「このお方が私に代わって死んだ。私に代わって死んだ」と今後も同じく歌いつづけていいのです。そしてその歌の心は、「私に先立って」です。この救い主イエス・キリストというお方が私に先立って死んで、私に先って復活してくださった。今も生きて働いていてくださる。やがて再び来てくださるし、今も共にいてくださる。だから、もうどんなものもキリストには代えられない。世の宝も富も、楽しみも、人から誉められたりけなされたりすることも、良い評判を得ることも冷たく無視されることも、有名な人になることも、どんなに美しいものも。私たちもついにとうとうキリストに固着し、死守する秘訣を体得しました。やったあ。『このお方で心の満たされている今は』、と。私に先立って死んで復活してくださったキリストで、今この瞬間は、私の心はいっぱいに満たされている。神さまはキリストと共に私たちをも死者の中から復活させることができるし、現に復活させつづけてくださる。だから、揺らぎ続ける危うい私であっても、キリストから二度と決して離れないでいることができる。死ぬまでず~っと同じく変わらず、そのような私でありつづけたい。

             ◇

 「あなたがたは救い主のことをどう思うか?」という主イエスご自身からの質問に対して、この私たち自身は、どう答えることができるでしょうか。彼の人格について。彼の働きと成し遂げてくださった救いの御業について。彼の十字架の死と復活について。弟子たちが見ている前で天に昇っていかれたことについて。御父の右の座につき、天と地の一切の力と権威を授けられた王としてこの世界と私たちを治め、ご支配なさりつづけて働かれていることについて。自分自身の腹の思いと好き嫌いといつもの「私が私が」という生臭い自己主張をさえねじ伏せ、足元にギュ~ッと踏みつけて、イエスこそが唯一無二の主人であり王であられる。彼の慈しみ深さと憐れみについて。私たちは、このお独りの方に全幅の信頼を寄せているのでしょうか。この方こそが、他の何にもまして私の支えであり、拠所であり、頼みの綱であると確信しているのでしょうか。彼こそが私の救い主であり、格別な良い羊飼いでありつづけてくださり、「イエス・キリスト。この方による以外に救いはない。私たちを救いうるお方は、天下の誰にも与えられていない」(使徒4:12と自分の魂に刻み、晴れ晴れとして告白する私たちでしょうか。これこそが極めて深刻な問いかけでありつづけます。救い主イエス・キリスト。このお独りのお方のもとに安らぎ、このお方に十分に満たされるのでなければ、私たちには、この世のどこにも心の休まる場所がないはずだからです。生きた信仰によって主イエスとこの自分自身が結び付けられるのでなければ、聖書を読み、キリストについての出来事にどれだけたくさん耳を傾けつづけても、それは虚しいだけです。もう一度、ご自身からの問いかけに耳を傾けましょう;「あなたがたは救い主のことをどう思うか?」



2017年12月4日月曜日

12/3こども説教「ゆるしてあげなさい」ルカ17:1-4

 12/3 こども説教 ルカ17:1-4
  『ゆるしてあげなさい』

17:1 イエスは弟子たちに言われた、「罪の誘惑が来ることは避けられない。しかし、それをきたらせる者は、わざわいである。2 これらの小さい者のひとりを罪に誘惑するよりは、むしろ、ひきうすを首にかけられて海に投げ入れられた方が、ましである。3 あなたがたは、自分で注意していなさい。もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、彼をいさめなさい。そして悔い改めたら、ゆるしてやりなさい。4 もしあなたに対して一日に七度罪を犯し、そして七度『悔い改めます』と言ってあなたのところへ帰ってくれば、ゆるしてやるがよい」。        (ルカ福音書17:1-4

  「罪の誘惑」とか、「罪」と言っています。「罪」とは、人を傷つけたり困らせたりする色々な悪いことを含みますが、第一には、「神さまに逆らい、神に背を向けてしまうこと」です。
  そして誰でも、神さまの御心をそっちのけにして、自分勝手にワガママになってしまいます。してはいけない悪いことをしてしまいます。言ってはいけない悪いことを言い、ついつい心に思ってしまいます。「誰の罪でもゆるしてあげること、何度でも何度でもゆるしてあげなさい」と主イエスから命令されています。けれど、「いいよ、いいよ」と何でもただゆるすわけではありません。まず、「あなたは、これこれの悪いことをしましたね。もう、してはいけません。ダメですよ」と注意する。「ああ悪いことをした」と分かって、その相手が悔い改めたら、そうしたら、ゆるしなさい。そうでなければ、ゆるしてあげてはいけません。例えば、あなたのお父さんお母さんが悪いことをしたら、「だめですよ」と注意してあげて、「ああ悪かった」と分かってくれたら、そうしたら、ゆるしてあげましょう。お友だちもそうです。おまわりさんも学校の先生も裁判所の裁判官も、もちろん教会の牧師も、誰でもみんな、してはいけない悪いことをすることもあるでしょう。誰に対しても「だめですよ」と注意してあげて、「ああ悪かった」と分かってくれたら、そうしたら、何度でも何度でもゆるしてあげましょう。

    【補足/ゆるすこと】
他人の欠点や貧しさは、まるで手に取るように、よく見えます。しかも自分が受けた傷や痛みには、私たちはひどく敏感です。「あんなことをするなんて、ひどい。我慢できない」と私たちは腹を立て、涙も流します。その一方で、自分がどんな悪いことをしているのかは、あまり気づきません。それでも、私たち自身が《ゆるされること》を必要とし、現にゆるされ続けています。毎日毎日、すべきことをしないで、してはならないことをしてしまいます。神の憐れみを受け取り、「本当にそうだ」と心底から味わうために、そのためにこそあなた自身が他者に対して憐れみ深くあるようにと神はお招きになります。神の偉大さ、神の気前のよさをあなたが受け取ることができるためにこそ、神は、あなた自身が他者に対して寛大に気前よくあるように、と促すのです。


12/3「いちばん大切な第一の戒め」マタイ22:34-40

       みことば/2017,12,3(待降節第1主日の礼拝)  139
◎礼拝説教 マタイ福音書 22:34-40          日本キリスト教会 上田教会
『いちばん大切な
第一の戒め』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
22:34 さて、パリサイ人たちは、イエスがサドカイ人たちを言いこめられたと聞いて、一緒に集まった。35 そして彼らの中のひとりの律法学者が、イエスをためそうとして質問した、36 「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。37 イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。38 これがいちばん大切な、第一のいましめである。39 第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。40 これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。      (マタイ福音書 22:34-40)
                                               

  主イエスの福音が語られるとき、そこに波風が立ちます。わたしたちの心の中にも、いつもの普段の在り方にも、大きな波が打ち寄せ、激しい風が吹き寄せます。もうずいぶん前のことです。先輩の牧師が、葉書を1枚書き送ってくれたことがありました。こう書いてありました;「暗闇が、わたしたちの現実を深く厚く覆っているように思える日々がありますね。けれど福音が福音として語られるとき、どんな暗闇も引き裂かれ、そこに光が差し込みます」。

 さて、サドカイ派の人々もパリサイ派も、その当時、この聖書の神さまを信じる人たちの中で深く尊敬される人たちでした。一目も二目も置かれ、大きな信頼を寄せられていました。けれど主イエスが語る福音は、あの彼らが語り、教えていた信仰理解とはずいぶん違うものでした。
  あの彼らは腹を立てました。なんだか、おもしろくないのです。サドカイ派の人たちが主イエスと論争して、大勢の人が見ている前で、こっぴどくやり込められました(23-33)。その噂を聞いて、今度は、パリサイ派の人たちも集まってきました。サドカイ派とパリサイ派とは、本当は、その考え方も教えの内容もお互いにずいぶん違っているのです。互いに、相手とは正反対のことを教えてもいました。それなのに、主イエスを憎む思いでは一緒です。なんとしてでも、あのイエスをやり込めてやりたい。言い負かして、こっぴどく恥をかかせてやりたい。自分たちの正しさや立派さを、どんなに優れているのかを、そうやってもう一度、皆の見ている前ではっきりとさせたい。そうやって、今までのように、多くの人たちから「先生、先生」と尊敬され、一目も二目も置かれ、大きな信頼を寄せられたい。彼らは、主イエスの前に立ちはだかります。
 36節。主イエスと、その福音を試そうとして、彼らはこう質問しはじめます。「先生、律法の中で、どの戒めが一番大切なのですか」。37-40節。主イエスは答えます。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神を愛しなさい』、これがいちばん大切な、第一の戒めである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これらの二つの戒めに、律法全体と預言者とがかかっている」(申命記6:5,10:12,30:6)。この2つの掟こそが律法の心です。それこそ、一番大切な肝心要です。私たちは、よくよく覚えておきましょう。いちばん最初には、この『神さまからの律法』は、モーセがシナイ山の上で神さまからいただき、2枚の石の板に刻まれた10個の約束でした(出エジプト記20:1-17)。けれど長い年月が過ぎ去るうちに、その10個の約束は600にも800にも膨れ上がり、やがて、味もそっけもない細々した規則や細則や条例へと姿も中身もすっかり変えられてしまったのです。誰が変えたのでしょう。神さま? いいえ、もちろん人間がです。元々は『神さまからの約束事』だったものを、いつのまにか、『自分たち人間同士の約束事』へと、すっかりすり替えてしまいました。やがて人々は、いったい何のためにその規則に従い、どういうつもりでそのルールを守っているのか、さっぱり分からなくなってしまいました。ですから、「山ほどある律法の中で、いったい、どの戒めが最も重要でしょうか」。
  40節。「これらの二つの戒めに、律法全体と預言者とがかかっている」。ここで「律法全体と預言者」というのは、直接的には旧約聖書のこと。むしろ、聖書全体のことです。たしかに旧約も新約も聖書66巻全体は、この2つの戒めに基づいており、この2つに集約された『神さまからの願いと約束と、神さまがしてくださったこと』のために書かれています。また、私たちがこの神さまを信じて、神さまに従って晴れ晴れとして生きてゆくことも、ただただ、この2つの戒めにかかっています。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神を愛せよ』、これがいちばん大切な、第一の戒めである。第二も、これと同様である」。いちばん大切な第一の戒め。これと同じように大切な第二の戒め。それじゃあ第一の戒めと第二の戒めは、だいたい同じ程度に大切なのでしょうか。いいえ、決してそうではありません。はっきりした順番があり、順序があり、なにしろ第一の戒め。その後で、それに続いて、第二の戒めです。もう何年も昔のこと。ある先輩の牧師は、「はいはい。神を愛することと隣人を愛すること、2つはだいたい同じくらいに大切です」と言いました。「まったく同列、同格、どっちが先でも後でも、なんの違いもありませんよ。神さまを心から愛する人は、自然に、自動的に、必ず隣人を愛するようになります。逆もまた正しい。隣人を心から愛する人は、自然に、自動的に、必ず、この神さまを愛するようになります」と言いました。ぼくは、「いいえ、違うでしょう」と反論しました。
  先輩の言い分の半分は正しい。けれど、残りの半分は間違っていました。神さまを心から愛する人は、自然に、自動的に、必ず隣人を愛するようになる。ここまでは正しい。なぜなら、その神さまは私たちを心から愛してくださる神さまだからです。あなたや私のことだけじゃなく、他のすべての人のことも愛して止まない神さまです。あなたや私が内心では気に入らない人のことも、神さまはとても大切に思っておられます。あなたや私が、ついうっかりして軽んじたり、傷つけたり踏みにじったり、憎んだり怒ったり軽蔑したりしてしまうその相手のことも、神さまは、私たちを愛し尊んでくださるのとまったく同じに、愛し尊んでおられます。そうだとすると、「神さまを愛している」と口先では言いながら、それとは裏腹に、「あの人は気に食わない。虫が好かない。どうして、あんなことを」と軽んじたり、毛嫌いしたり、押しのけたりしてしまう私たちは、「それでは少しも神さまを愛していることにはならないじゃないか。口先ばかりじゃないか。あなたは、神さまを、すっかりないがしろにしているじゃないか」と突きつけられます。「神を愛していると言いながら兄弟を憎む者がいれば、その人は偽り者です」「わたしは正しい。正しい。と拘りつづけながら、あなたは神を偽り者としているではないか」「礼拝や献げものやその大切な奉仕の前に、けれども、あなたにはすべきことがあるだろう。まず出かけていって、仲直りをしなさい」「あなたのことで、その人が心を痛めるならば。その人が心苦しく、淋しく悲しく思うならば。その人のために、キリストは死んでくださったのだぞ。分かっているのか」(ヨハネ手紙(1)1:10,4:20,マタイ福音書5:23,ローマ手紙14:15)と。そのことを知らされつづけていますので、神を心から愛する私たちは、隣人を愛し尊ぶ私たちに変えられていきます。自然に、自動的に、必ず。神ご自身こそが、私たちをそういう私たちにならせずにはおきません。少しずつですけれど、そういう私たちとされていきます。
 けれど、「逆もまた正しい」と言えるのかどうか。「隣り人を心から愛する人は、自然に、自動的に必ず、この神さまを愛するようになる」のかどうか。いいえ、そうとは限りません。そういう場合もある。そうではない場合も多い。また、「それじゃあ神を知らないはずのあの人たちは、隣り人を愛していないのか」。いいえ、そうではありませんね。この聖書の神を知らず、けれどなお隣り人を心から愛し、尊ぶ無数の人々がおり、今もこれからもおりつづけることを、私たちは知っています。そうであるとして、この私たちは、この聖書の神を他の何にも優って愛するのです。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、わたしたちの神である主を。それなら私たちは、どんなふうに暮らしていきましょうか? 「家族や仲間たちや隣人を愛し、精一杯に人と付き合い、骨惜しみせずよく働き、それからその後で、時間の余裕ができたときに、少しは神さまともお付き合いをする?」。いいえ、とんでもない。もし神を信じて、神さまから恵みと幸いを受け取りつづけて生きていきたいと本気で願うのならば、そうではありません。「第一に、なにより神を愛すること」と聖書は告げました。「なにしろ神が第一」と世々の教会は習い覚えつづけてきました。わざわざそう言うのは、水は低いほうへ低い方へと流れ落ちるからです。私たちはその水のようです。例えば、「神をできるだけ大切にしましょう。少なくとも三番目か四番目くらいには大切に思えるほうがいいでしょう」などと考えはじめます。もし、その程度に留まれるなら、それでもいいかも知れません。けれど、たいていの場合、もっともっと低い所へとどんどん流れ落ちていきます。他に大切な用事や仕事や約束事が次々と出てきて、ふと気がつくと、神を愛することが二の次、三の次にされ、どんどん後回しにされつづけていき、やがて間もなく神のことを少しも思う隙のない、自分自身の腹の思いと周囲の人間たちのことばかり思い煩いつづける、心細く虚しい生活の中に沈み込んでしまうかも知れません。それは恐ろしいことです。「第一に、なにより神を愛すること」は、「しなければならない」という努力目標としてなら、誰にも決して守ることなどできないでしょう。そうではなく、「すべての良いものが、ただ神さまのもとから恵みによって贈り与えられている。ああ、本当に」と実感した者にしか意味をもちません。「神さまからの戒めと祝福のもとでこそ、大切な家族や隣人たちを愛することも、互いに喜び合い、重んじ合うことも、私は少しずつ習い覚えていく」と気づき、「神さまからの恵みを受け取りつづけて、幸いに生きて死んでゆくこともできる。そのための土台がこれだ」と自分自身のこととして分かった人にしか、それを願って生きることなどできません。しかも、あなたも私も、神さまを信じて生きてくる中で、そのことを習い覚えてきたではありませんか。神ご自身から、「本当にそうですよ」とつくづくと教え込まれつづけてきたではありませんか。例えば夫婦が夫婦として、一個の人間同士として愛し合い、尊び合い、一緒に生きることを互いに喜び合いつづけるのは、なかなか難しいことです。「愛している」と言いながら、自分の思い通りに言いなりに従わせたくなります。良かれと思って、けれど相手を苦しめたり、困らせたりしてしまうこともあります。「愛される」ことも難しいです。ゆるすことも信頼することもできなくなって、たとえ長年連れ添った夫婦であっても親子であっても、親しい仲間同士であっても、それでもなお相手が何を考え、何を願っているのかもすっかり分からなくなって、淋しく背を向け合う日々が来るかも知れません。親しい友人同士も同じです。誰でもとても弱くて、心細くて、独りで生きてゆくことなどできません。助けてくれる者が傍らにいてくれなければ。何が起きても、どこからでも、必ず助けてくださる神さまこそがすぐ傍らにいてくださらなければ。しかも兄弟姉妹たち、片時も離れず、ずっといてくださったではありませんか。私たちの主なる神ご自身が。だからこそ私たちは、大切な連れ合いや子供たちを愛し、仲間たちや隣人を自分自身のように尊び、神さまにも人様にも感謝し、そのように幸いに生きることができます。例えば、信仰をもたない連れ合いがいて、神さまのことにあまり関心をもってくれない子供たちがいるとして、それでもなおその家族や大切な連れ合いと仲良く、互いに尊重し感謝し合って一緒に末永く幸いに暮らしてゆくための秘訣は、なんと不思議なことに 『神にこそ信頼を寄せ、聴き従い、神を第一として私たちが生きること』です。私たち人間にできることでありませんが、神にはできるからです。神さまが、こんな私たちにもさせてくださるからです。神さまとすでに出会ってしまったからです。神を信じて生きることを私たちは選び取っているからです。耳を傾け、神にこそ一途に聴き従いつづけて。それが私たちの毎日の暮らしの土台です。
主であられる神さまが、たしかに、生きて働いておられます。私たちにとってもっとも良いものを願い、用意し、贈り与えてくださる神さまがおられます。他のどこからでもなく、ただただ天地を造られた神から、私たち自身のための助けが必ず来ます。主こそが私たちの思いを励まし、戒め、私たちの心を夜ごと諭し、生命の道を教えてくださる。そうであるからこそ、私たちは揺らぐことがない。――これが、聖書自身からの最後の最終的な答えです(テモテ手紙(1)1:15-16,ピリピ手紙2:6-11,16:7-11。だからこそ神さまによくよく信頼し、周囲の人間たちにではなく、自分の腹の思いに聴き従ってでもなく、神さまの御心にこそ聴き従って一日また一日と暮らすことを習い覚え、困ったことや苦しみの只中にあっても神にこそ助けを1つ1つ願い求め、支えられ、助けられつづけて生きることができるなら、もしそうならば、その人たちはとても幸いです。自分自身と家族のためにも、大切な子供たちのためにも、それをこそ心から願い求めます。




2017年11月28日火曜日

11/26「貧しいラザロと金持ち」ルカ16:19-31

 11/26 こども説教 ルカ16:19-31
 『貧しいラザロと金持ち』
     +【補足/(1)ただ恵みによって救われる。
     (2)救われたものは、隣人を自分自身のように愛する者へと少しずつ
少しずつ作り替えられてゆき、誰でも必ず良い実を結ぶようになる。神こそが、主イエスを信じる者たちに、それをしてくださる

16:19 ある金持がいた。彼は紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮していた。20 ところが、ラザロという貧しい人が全身でき物でおおわれて、この金持の玄関の前にすわり、21 その食卓から落ちるもので飢えをしのごうと望んでいた。その上、犬がきて彼のでき物をなめていた。22 この貧しい人がついに死に、御使たちに連れられてアブラハムのふところに送られた。金持も死んで葬られた。23 そして黄泉にいて苦しみながら、目をあげると、アブラハムとそのふところにいるラザロとが、はるかに見えた。・・・・・・27 そこで金持が言った、『父よ、ではお願いします。わたしの父の家へラザロをつかわしてください。28 わたしに五人の兄弟がいますので、こんな苦しい所へ来ることがないように、彼らに警告していただきたいのです』。29 アブラハムは言った、『彼らにはモーセと預言者とがある。それに聞くがよかろう』。30 金持が言った、『いえいえ、父アブラハムよ、もし死人の中からだれかが兄弟たちのところへ行ってくれましたら、彼らは悔い改めるでしょう』。31 アブラハムは言った、『もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう』」。(ルカ福音書16:19-31)

  昔々あるところに、ある金持ちがいました。毎日ぜいたくに遊び暮らしていました。その金持ちの家のすぐ玄関先に、ラザロという名前の貧しい人が座り込んでいました。全身ができ物でおおわれていて、その上、お腹が減ってお腹が減って、「誰かが何か食べ物の残りくずでも恵んでくれないかなあ。ああ腹が減った、腹が減った」と淋しい心細い気持ちで暮らすうちに死んでしまいました。神さまの使いたちがラザロを、アブラハムがいる場所に連れていってくれました。そこは、神さまがご支配なさっている天の国です。金持ちもやがて死んで、彼は、死んだ人たちが苦しみつづけるヨミという名前の地獄に連れていかれました。死んで苦しみつづける金持ちが「私を憐れんでください」とアブラハムに呼びかけました。25節以下、アブラハムは答えました。「子よ、思い出すがよい。あなたは生前よいものを受け、ラザロの方は悪いものを受けた。しかし今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている」。じゃあ、せめて、まだ生きている私の兄弟たちに知らせてください。私のようにならないように、悔い改めて神さまに喜ばれる暮らしをするように伝えてください。「いいや、それでも彼らは悔い改めないだろう。お前がそうだったように、あの彼らも耳を傾けようとしないだろう」とアブラハムは答えました。
それなら私の家族は、どんなふうに生きて死ぬことができるでしょうか?  お姉ちゃんたちや、父さん母さんは? 学校の仲良しの友だちは。私の大切な夫や妻や、あの息子たちや娘たちは。孫たちは? あ そもそも、この私自身はどうだろう?


      +【補足/(1)ただ恵みによって救われる。
     (2)救われたものは、隣人を自分自身のように愛する者へと少しずつ
少しずつ作り替えられてゆき、良い実を結ぶようになる。神が、それをしてくださる
        誤解されやすい、とても難しい問題をふくんでいます。この箇所や、マタイ福音書25:31-46などを読むと、まるで「人に親切にしたり、良い行いをしたら救われて天国に入り、そうでなければ地獄に落とされる」かのように思えます。心を鎮めて、聖書全体がどう語ってきたのかと、つくづく思いめぐらせねばなりません。礼拝説教のメッセージから、日頃の信仰の教えから、この私自身はどう習い覚えてきただろうかと。聖書が語るとおりに、(1)「ただ恵みによって、主イエスを信じる信仰によってだけ救われる。良い行いをどれだけしたか、しなかったのかとは、まったく何の関係もなしに」(ローマ手紙3:21-27,4:5,5:6-11,コリント手紙(2)5:17-21,ヨハネ福音書3:16-18,使徒2:37-39,16:30-31,テモテ手紙(1)1:12-15)です。また、誰が救われ、誰が滅ぼされるのかを、私たち人間ははっきりとは判断できません。「誰が天に上るか、誰が底知れぬ所に下るだろうかと言ってはならない」と戒められ、洗礼を受けた信仰者の中にさえ救いからこぼれ落ちる者さえいると釘を刺されます(マタイ13:25-30「麦と毒麦」)。神のみがご存知であり、私たち皆が深く慎まねばなりません。(2)「良い行いなどどうでもいい」と乱暴に切り捨てているのではありません。「罪のゆるし」と語られつづけてきた福音の中身は、「罪人をゆるして救う神であり、だから生涯ずっと罪深いままで良い」などと放置されるのではありません。それでは何の救いでもなく、信じることが絵空事になってしまうではありませんか。そうではなく、「罪のゆるし」は罪からの解放であり、罪を犯さない者へと新しく造り変えられてゆくことです。救われ、恵みを受けた結果として、神ご自身が、こんな私たちをさえ善いものへと造り変えてくださいます。主イエスを信じる者たちは、必ず善い実を結ぶことができます。私たち人間には逆立ちしても、100200年かかってもできません。いくら頑張っても、堅く決心しても、断食しても滝に打たれて厳しい修行を積み重ねてもできません。なぜなら人間は神ではなく、たかだか人間にすぎないからです。けれど神ご自身こそが、この私たちのためにも、それを成し遂げてくださいます。「神にも人様にも逆らいつづける罪」と、「私が、私が」と頑固に言い張りつづける腹の思いの奴隷状態から、救い出していただけるのです。神の御心に従って生きることが、私たちにもできます。神が、させてくださるからです(ローマ手紙6:1-8:17,マタイ19:25-26「だれが救われることができるだろうか?」。イエスは言われた、「人にはできないが、神にはなんでも出来ないことはない」。)。