2016年10月9日日曜日

10/9「悔い改めない町を叱る」マタイ11:15-24

                                          みことば/2016,10,9(主日礼拝)  80
◎礼拝説教 マタイ福音書 11:15-24                      日本キリスト教会 上田教会
『悔い改めない町を叱る』


 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
11:15 耳のある者は聞くがよい。・・・・・・なぜなら、ヨハネがきて、食べることも、飲むこともしないと、あれは悪霊につかれているのだ、と言い、19 また人の子がきて、食べたり飲んだりしていると、見よ、あれは食をむさぼる者、大酒を飲む者、また取税人、罪人の仲間だ、と言う。しかし、知恵の正しいことは、その働きが証明する」。20 それからイエスは、数々の力あるわざがなされたのに、悔い改めることをしなかった町々を、責めはじめられた。21 「わざわいだ、コラジンよ。わざわいだ、ベツサイダよ。おまえたちのうちでなされた力あるわざが、もしツロとシドンでなされたなら、彼らはとうの昔に、荒布をまとい灰をかぶって、悔い改めたであろう。22 しかし、おまえたちに言っておく。さばきの日には、ツロとシドンの方がおまえたちよりも、耐えやすいであろう。23 ああ、カペナウムよ、おまえは天にまで上げられようとでもいうのか。黄泉にまで落されるであろう。おまえの中でなされた力あるわざが、もしソドムでなされたなら、その町は今日までも残っていたであろう。24 しかし、あなたがたに言う。さばきの日には、ソドムの地の方がおまえよりは耐えやすいであろう」。              (マタイ福音書 11:3-12) 






  多くの人々は、神のもとからつかわされた預言者たちを拒み、洗礼者ヨハネを拒み、救い主イエスご自身をさえ拒んで十字架につけて殺し、主イエスの弟子たちの語りかけに耳を塞ぎつづけます。けれど19節。人々が主イエスに対して悪口のつもりで言った言葉、「取税人、罪人の仲間だ」というのは本当のことです。しかも悪口どころか、とても素敵な格別な誉め言葉です。人々から見下されていた取税人や、罪人だと決めつけられて除け者にされていた人々の友だちになり、彼らを神の子供たちとして神の国へと迎え入れるために、そのためにこそ救い主イエスはこの世界に降りて来られました。救い主イエス・キリストは「ご自分の民をそのもろもろの罪から救う」のであり、「罪人を救うためにこそ世に来られた」(マタイ福音書1:21,テモテ手紙(1)1:15のです。
  おさらいですが聖書が語る『罪』とは、神に逆らって、「私は私は」と強情を張りつづけることです。しかも誰と誰が神に逆らう罪人かと問うならば、「誰でも一人残らず神に逆らう罪人であり、そうではない正しい人など一人もいない」というのが聖書からの証言です(ローマ手紙3:9-「そりゃあ、聖書には書いてあるかも知れませんが、でも本当ですかア」なんて嫌な顔をして首を傾げるクリスチャンが今でもたくさんいます。え? 聖書には書いてあるかも知れないけど本当かどうか分からない? せっかく本気で神さまを信じるつもりなら、聖書に書いてあることをこそ本気で受け止めなくちゃあ。たとえ気に入らなくても、自分の性分に合わなくても、嫌でも苦くても飲み込んで、自分の腹にちゃんと収めなくちゃ。そうでなけりゃ、100年たっても200年たっても本気で神さまを信じるクリスチャンが出来上がるわけがない。例えば、「礼拝に来るたび、『罪だ罪だ。罪人だ、お前は罪深い』などと言われる。だいたい俺は一回も警察に捕まったこともないし、刑務所に入れられたこともない。俺はまっとうに生きてきたんだ。何が罪人だ。もう聞き飽きた」などと苦情を言われます。キリスト教会の礼拝で告げ知らされるはずの『救い。祝福。幸い』を、あなたはどう考えていますか。『救い』とか『わたしは救われている』って、何でしょう。それは、どういうことでしょうか。『救われる』ことを、「神からの祝福と恵みを受けて、しあわせに暮らす」などと普通に思い浮かべることができます。そういうことも含みますが、聖書が語る救いは、「神に逆らう罪から解放され、自由にされて、神にすなおに聞き従って生きる」(ローマ手紙3:21-28,マタイ福音書1:21,ヨハネ福音書1:29,使徒4:12,5:31ことです。クドいようですが念を入れて言いつづけています。救いに関しては、良い行ないをしたかどうかではなく、何の資格もふさわしさも問われず、救い主イエスを信じるかどうかというただ一点だけが問われます。この教会の『こどものための問答」でも、「主イエスを信じる信仰によって、ただ恵みによって救われている」と強調します(ヨハネ福音書3:16,ローマ手紙5:5-11,10:9-13。これこそが、もっとも大切な最重要ポイントです。しかも、その救いの入口が悔い改めです。自分自身の罪深さをはっきりと分かり、神へと立ち返ること。ここでもどのキリスト教会でも、「罪だ罪だ。罪人だあ。お前は罪深いし、誰も彼もが神に逆らっていて、とてもとても罪深い」などと毎週毎週語られます。どうか、勘弁してください。嫌な思いをさせるためではなく、あなた様をバカにしているのでもなく、『罪のゆるし。罪からの解放』という飛びっきりの格別な幸いを受け取っていただくためです。
  悔い改めなかった町々が一つ一つ名をあげられて、主イエスから厳しく叱られています。とくにカペナウムへの語りかけに目を留めましょう。23-24節、「ああ、カペナウムよ、おまえは天にまで上げられようとでもいうのか。黄泉にまで落されるであろう。おまえの中でなされた力あるわざが、もしソドムでなされたなら、その町は今日までも残っていたであろう。しかし、あなたがたに言う。さばきの日には、ソドムの地の方がおまえよりは耐えやすいであろう」。格別な愛情と親しみをこめて、「お前」とカペナウムの町とその人々に呼びかけています。カペナウムは最初の頃の伝道の拠点でした。ここを「自分の町」と呼び、何日も滞在し、会堂で宣べ伝え、議論をし、この町で取税人のマタイを弟子とし、多くの人々を癒しました(マタイ9:1-9,ヨハネ2:12,ルカ4:23,マルコ1:21-28,2:1-12,9:33-37。それだけ、彼らが主イエスの福音に耳を傾けようとしなかったことに対する落胆は深かったでしょう。いいえ。カペナウムだけでなく、名をあげられた町々すべては神の宝の民とされたイスラエルが住む町々です。神を信じて生きるはずの人々が、今や、心をかたくなにし、耳を塞いで、救い主イエスとその福音に背をむけています。だからこそ今日、神を信じて生きるはずのキリスト教会とすべてのクリスチャンとは、この23-24節の厳しいお叱りの言葉に耳を傾けねばなりません。この私たちこそが、救い主イエスから深く愛されたカペナウムだからです。

  救いへと至る入口が悔い改めです。『罪のゆるし』という名前の救いを得させる悔い改めです。神に逆らう自分自身の罪深さを知り、認め、神へと立ち返ること。
 洗礼者ヨハネは、「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、おまえたちはのがれられると、だれが教えたのか。だから、悔改めにふさわしい実を結べ。自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ。斧がすでに木の根もとに置かれている」と宣べ伝え、人々は自分の罪を告白して洗礼を受けました。救い主イエスも、「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」と宣べ伝え、主イエスの弟子たちも、「だから、イスラエルの全家は、この事をしかと知っておくがよい。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである」。人々はこれを聞いて、強く心を刺され、ペテロやほかの使徒たちに、「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」と問いかけ、主の弟子たちは答えました、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。この約束は、われらの主なる神の召しにあずかるすべての者、すなわちあなたがたと、あなたがたの子らと、遠くの者一同とに、与えられているものである」(マタイ3:7-10,マルコ1:14-15,使徒2:36-39。さらに別の弟子は、「神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救を得させる悔改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる。見よ、神のみこころに添うたその悲しみが、どんなにか(神ご自身へと向かわせる)熱情をあなたがたに起させたことか」と語りかけました。また別の弟子は、「すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」(コリント手紙(2)7:10-11,黙示録3:19-20深く愛しているからこそ叱ったり、こらしめたりもする。滅びるままに捨て置くことなどとても出来ない、と主なる神はおっしゃる。叱りながら懲らしめながら、あなたの魂の戸口に立って、コンコンコンコンと戸を叩いている。聞く耳のある者は聞きなさい。神のみ心にそった悲しみがあなたの胸にわき起こるとき、あなたは神のみもとへと立ち戻ってきなさい。あなたをがんじがらめに縛りつけていた罪の奴隷状態から救い出していただくために。そこから、自由な晴れ晴れした場所へと導き出していただくために。
 詩篇の祈りの人もまた、その自由な晴れ晴れした場所を味わい知りました。恵みの場所からこぼれ落ちようとする度毎に、だからこの人は、主に向かって呼ばわりました。「神よ、わたしのために清い心をつくり、わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください。わたしをみ前から捨てないでください。あなたの聖なる霊をわたしから取らないでください。あなたの救の喜びをわたしに返し、自由の霊をもって、わたしをささえてください」(詩51:10-12。なぜならこの人もまた、自分自身の罪深さと悲惨さに深く囚われていたとき、『神によって救われたその喜び』も『自由で晴れ晴れ清々した魂』もまったく失っていたのだと気づいたからです。
 兄弟姉妹たち。キリストの教会とその教えは、何度も何度も泥にまみれ、世俗化し、中身のない形式主義に堕落しました。その度毎に、ほんのひと握りの人々が立ち上がって、「それは間違っている。そんなことはしてはいけない、主なる神さまに背いてしまうではないか」と。もう500年も前のこと。『罪のゆるし。罪からの解放』は、中身のない、まったく形ばかりのものへ、教会のただの金儲けの道具へと変質していました。『免罪符、天国行きの格安チケット』です。自分のためにも、家族や友人たちのためにも人々は我も我もと、その『天国行きチケット』を買い求めました。すっかり売り尽くして、けれどまだまだ儲けるうまい手口を教会は思いつきました。「お~い、皆の衆。何年か前に死んだあなたのジイチャン、バアチャン、ヒイバアチャンの魂はどうするつもりだ。このまま地獄に置き去りにしておいていいのかね。すでに死んだ親戚のためにも、一人分300円だ。ほれほれ、安いよ安いよ~オ」。キリスト教会は天国行きチケットを売り歩く行商人たちを世界各地に送り出して、大儲けをしつづけました。当時の戯れ歌は歌いました。「チケット代の料金箱にチャリンと金が入ると、あら不思議、ジイチャン、バアチャン、ヒイバアチャンの魂がヒュードロドロと天国に昇っていった。あ~ら、めでたい、めでたい」。一人の修道士が教会の扉に、キリスト教会のやり方に対する猛烈な抗議文を釘打ちして、「天国行きチケットなんて嘘っ八だ。イカサマだ。もう騙されちゃいけない」と自由な討論を呼びかけました。同じ内容の抗議文を、教会上層部にも送りつけました。もし、ここで黙っているなら、神の御心にはなはだしく背くことになるとはっきり気づいたからです。それは、まったく文字通りに、命がけの挑戦でした。『罪の赦免の効力を明らかにするための95箇条の提題』。彼の異議申し立ては、キリスト教会を真っ二つに引き裂く大論争となって、今に至ります。それが、ローマカトリック教会と私たちプロテスタント教会との決定的な分かれ道でした。罪人は何によって罪をゆるされ、どのように生きることができるのか。救いとは何なのか。孤独な、ただ独りの修道士が呼ばわりました。「キリストの民に向かって『心安かれ、心安かれ』と叫ぶ預言者はすべて立ち去れ。そこに平安はないからである。しかしキリストの民に向かって『十字架、十字架』と叫ぶ預言者に祝福あれ。そこに十字架はないからである。キリスト者は、罰、死、そして地獄を通ってでも懸命にかしらなるキリストに従おうとすること。かくしてキリスト者をして、平和の虚しい保証によってよりは、むしろ多くの苦難を通してこそ、神の国に入るのだと堅く信じることである」(Mルター,15171031日,提題中、92-95。では、仕上げをしておきましょう。よい行ないをどれほど積み重ねても、あるいはキリスト教会にどれほどたくさん献金をささげ、たくさん奉仕をして働き、どれほど勤勉に礼拝出席に努めても、それで神の国に入ることなどできません。天国行きチケットを再びキリスト教会が売り始めたとしても、それは嘘っ八であり、恐るべき恥ずべきイカサマです。なぜなら誰も彼もが罪人であり、あまりに罪深く、どんな良い業によっても、誰によっても救われるはずがありませんでした。神は、その私たちをかわいそうに思ってくださいました。人間はだれでも神に逆らう罪人であり、神はその罪人をかわいそうに思って、ただ恵みによって救ってくださいます。救いに関しては、良い行ないをしたかどうかではなく、資格もふさわしさも問われず、救い主イエスを信じるかどうかというただ一点が問われます。こどもたちのための交読文でも、「主イエスを信じる信仰によって、ただ恵みによって救われている」「主イエスこそが、私たちをすべての罪から救い出すことができる」と強調します(ヨハネ福音書3:16,ローマ手紙5:5-11,10:9-13。これこそが、二度と決して忘れてはならない、もっとも大切な最重要ポイントです。
  時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、あなたも主イエスの福音を信じなさい。あなたにもきっとできるから、主イエスを信じて生きることをしはじめなさい。



2016年10月2日日曜日

10/2こども説教「多くの罪をゆるされたから」ルカ7:36-50

10/2 こども説教 ルカ7:36-50
 『多くの罪をゆるされたから』

7:37 するとそのとき、その町で罪の女であったものが、パリサイ人の家で食卓に着いておられることを聞いて、香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、38 泣きながら、イエスのうしろでその足もとに寄り、まず涙でイエスの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、そして、その足に接吻して、香油を塗った。39 イエスを招いたパリサイ人がそれを見て、心の中で言った、「もしこの人が預言者であるなら、自分にさわっている女がだれだか、どんな女かわかるはずだ。それは罪の女なのだから」。40 そこでイエスは彼にむかって言われた、「シモン、あなたに言うことがある」。彼は「先生、おっしゃってください」と言った。41 イエスが言われた、「ある金貸しに金をかりた人がふたりいたが、ひとりは五百デナリ、もうひとりは五十デナリを借りていた。42 ところが、返すことができなかったので、彼はふたり共ゆるしてやった。このふたりのうちで、どちらが彼を多く愛するだろうか」。・・・・・・47 それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」。48 そして女に、「あなたの罪はゆるされた」と言われた。49 すると同席の者たちが心の中で言いはじめた、「罪をゆるすことさえするこの人は、いったい、何者だろう」。50 しかし、イエスは女にむかって言われた、「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。   (ルカ福音書 7:36-50

  シモンという名前の一人のパリサイ人が主イエスを自分の家に招いて、いっしょに食事をしようとしました。シモンは主イエスにあまり親切にしなかったし、ほどほどの、ほんの少しのおもてなしをしただけでした。神さまに背くとても罪深いことをしたことのある女性もその家に入ってきて、大きな愛情と感謝の気持ちを主イエスに対して現しました。37-38節に書いてあるとおりです。「香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、泣きながら、イエスのうしろでその足もとに寄り、まず涙でイエスの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、そして、その足に接吻して、香油を塗った」。シモンは、こっそりと心の中で主イエスをバカにしました。39節。「なアんだ、このイエスという奴もたいしたことないなあ。神さまに背く悪いことをした女だと知らずに、あらあら、まあまあ」。41節からの主イエスとシモンのやりとりを見てください。主イエスは語りかけました、「ある金貸しに金をかりた人がふたりいたが、ひとりは五百デナリ、もうひとりは五十デナリを借りていた。ところが、返すことができなかったので、彼はふたり共ゆるしてやった。このふたりのうちで、どちらが彼を多く愛するだろうか」。
 シモンは答えました。「多くゆるしてもらったほうだと思います」。誰でも分かります。そのとおりですね。47節、主イエスはおっしゃいました、「この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」(*)50節。最後に、イエスは女にむかって言われました、「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。主イエスを信じる信仰がほんの少ししかないのに救われた人々もたくさんいます。それどころか、ほんの少しもないのに救われて、大きな祝福を受け取りつづけている人もいるくらいです。それでも、主イエスを信じる信仰こそが何より大切です。「あなたの信仰があなたを救った」とまで誉められ、大いに喜んでいただけた人は、聖書の中でも外でもほんのわずかしかいません。だから、もしあなたも、主イエスを信じる信仰によって救われたいと願うならば、この女性の信仰を見習って、自分のための良い手本とする価値があります。では質問。この女性の信仰はどういう信仰でしょうか? 『神さまが、こんな私をさえ、とてもとても愛して、すごく親切にしてくださって、神に逆らう罪深さも山ほどあったのにゆるしてくださった。ありがとうございます、ありがとうございます。ああ、嬉しい嬉しい嬉しい。本当に嬉しい』という信仰です。この一人の人は、頭のてっぺんからつま先まで全部、『そうされる資格も値打ちもなかったはずなのに、けれど神さまからとても多く愛された私だ。わあい、わあ~い、嬉しいなあ』という中身でできています。びっくりですね。

        【補足説明】
        (*)47節。「多く愛したから、その多くの罪はゆるされている」。とても大事な急所です。注意して読みましょう。「~したら、~してもらえる」という交換条件や取り引きとはまったく違います。順序が逆なのです。『まず最初に、多くの罪をゆるされ、多く愛された。その恵みの結果として』多く愛することのできる人間にしていただいた、という意味です。よく分かりますか? 
 神は愛する相手を選んでおらず、無条件に、手当たり次第に、誰でも彼でも分け隔てなく愛そうとしつづけます。けれど、このシモンのように、神からの愛を受け取り損ねる者たちが数多くいます。その結果としてシモンは、神をも隣人をも愛することに失敗しつづけています。「私なんかは愛される資格がない」などと誰かが言います。そのとおり 資格がなく、ふさわしくないのに、けれど愛された。だからこそ感謝して、大喜びに喜ぶことができるのです。あの女性のように。「神に感謝せよ。主をほめたたえよ」(詩103:1-2と聖書が呼ばわりつづけるのは、このためです。受け取っている恵みを自分の魂に深々と刻み込み、神への感謝を覚えつづけるのでなければ、私たちもこのシモンのように批判がましく不満げで、心の冷え切った、さびしいクリスチャンに成り下がってしまうからです。魂も信仰も、いつの間にか枯れ果ててしまいます。恐ろしいことです。


10/2「約束された救い主か?」マタイ11:2-19

                                          みことば/2016,10,2(主日礼拝)  79
◎礼拝説教 マタイ福音書 11:2-19                       日本キリスト教会 上田教会
『約束された救い主なのか?』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
  11:3 「『きたるべきかた』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」。4 イエスは答えて言われた、「行って、あなたがたが見聞きしていることをヨハネに報告しなさい。5 盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり、耳しいは聞え、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。6 わたしにつまずかない者は、さいわいである」。7 彼らが帰ってしまうと、イエスはヨハネのことを群衆に語りはじめられた、「あなたがたは、何を見に荒野に出てきたのか。・・・・・・預言者を見るためか。そうだ、あなたがたに言うが、預言者以上の者である。10 『見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、あなたの前に、道を整えさせるであろう』と書いてあるのは、この人のことである。11 あなたがたによく言っておく。女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起らなかった。しかし、天国で最も小さい者も、彼よりは大きい。12 バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている。
                                                (マタイ福音書 11:3-12)
  



  まず2-3節。洗礼者ヨハネはまもなく殺されます。自分に残された時間があとわずかだと知って、牢獄の中からヨハネは自分の弟子たちを救い主イエスのところへ遣わし、「来るべき方は、つまり神によって約束されていた救い主は。あなたなのですか?」と質問させました。約束された救い主がイエスご自身であると、ヨハネ自身は、そもそもの初めからはっきりと知っていました(イザヤ40:1-5,エレミヤ31:31-34,エゼキエル34:1-24,マラキ4:5他)。つまり質問は、弟子たちのためであり、彼らにはっきりと気づかせるために。主イエスを信じて生きる幸いの中へと、自分の大切な弟子たちを送りだしてあげるためです。4-6節。主イエスは答えます、「行って、あなたがたが見聞きしていることをヨハネに報告しなさい。目の不自由な人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病をわずらう人はきよまり、耳の不自由な人は聞え、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。わたしにつまずかない者は、さいわいである」と。
  ヨハネの弟子たちが帰った後で、主イエスは洗礼者ヨハネが果たした大きな役割について人々に語りきかせます。とくに10(=イザヤ書40:3,マラキ書3:1からの引用)、「『見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、あなたの前に、道を整えさせるであろう』」。救い主に先立ってつかわされて道を整える使いである『この人』とは、洗礼者ヨハネです。天の父なる神さまが独り子イエスを救い主としてこの世界に送り出してくださる。それに先立って、使いをつかわし、救い主を迎え入れるための道備えをさせると。また14節で、来るべきエリヤと呼ばれた『この人』もまた、洗礼者ヨハネです。かつてのエリヤそのままに、ヨハネは荒野に住まい、ラクダの毛衣を身にまとい、野蜜を食べつつ、「悔い改めにふさわしい実を結べ」と呼ばわり、「わたしは悔改めのために、水でおまえたちにバプテスマを授けている。しかし、わたしのあとから来る人はわたしよりも力のあるかたで、わたしはそのくつをぬがせてあげる値うちもない」(マタイ3:11-12と語りかけ、そのように自分の後から来られる救い主イエス・キリストをこそ指し示しつづけていたのですから。ヨハネこそが救い主イエスを指差す最後の預言者であり、私たちが救い主を信じて生きはじめるために、救いの道を備える使者でした。だからこそ11節、「女の産んだ者の中で、つまり人間の中でこの地上で、洗礼者ヨハネこそが最も大きい人物」だと。それにつづけて、「しかし、天国で最も小さい者も、彼(=洗礼者ヨハネ)よりは大きい」。主イエスを信じて神の国に迎え入れられる者たちは、どんなに小さく弱く貧しく見える者さえもすでに洗礼者ヨハネよりも大きい。もはやそこでは大きいも小さいもなく、つまり誰も彼もが十分に大きい。ただ憐れみを受け、恵みによってだけ救われた者たちの国では、人と人を区別し分け隔てしていたものがすっかり取り払われて、皆が皆、平らなまっすぐな心で生きることができるようにされます。なぜなら遠い昔、預言者の口を通して神ご自身が高らかに告げ知らせました。「わたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」(エレミヤ書31:33-34。小より大に至るまで、いいえ むしろ、「小さな子供のようになり、天の御父に信頼し、聴き従って生きる者とされなければ、神の国に入ることなど誰にも決してできない」と主イエスご自身が釘を刺しました。『小さな子供の心』こそが神からの格別な贈り物です。「大きい者も小さい者も皆共々に主を知り、主を信じ、主の民とされる」。その格別な祝福の中では、人を分け隔てしていた生臭い区別も差別も打ち壊されます(マタイ福音書18:3,マルコ福音書1:15,エペソ手紙2:13-22,ローマ手紙3:21-27
  さて、ここまで読み味わってきて、12節の主イエスのきびしい警告が私たちの心を騒がせます。ご覧ください。「バプテスマの(=洗礼を授けている。洗礼者)ヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い合っている」。立ち止まって、この私たちこそは、心を鎮めてよくよく考え込まねばなりません。これは、一体どういうことでしょうか。主イエスは何を言おうとなさっているのでしょう。天国、神がご支配なさるはずの国が激しく襲われ、襲う者たちが神のものであるはずの国を自分たち自身のものにしようと、互いに争いながら奪い合っている。『天の国、または神の国』とは、神さまこそが王様として力を発揮し、目を配り、生きて働いておられる領地です。主イエスは、そのお働きのはじめに、断固としてはっきりとおっしゃいました。「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」、また「神の国はあなたがたの只中にある」(マルコ福音書1:15,ルカ福音書17:21と。なぜなら、神の国の働きを背負って、神ご自身である救い主イエスが地上に降り立ち、神の国を述べ伝え、王の中の王として力を発揮し、働きはじめたからです。救い主イエスを信じて生きる者たちが一人また一人と生み出され、「天の御父よ、あなたの御名をあがめさせてください。あなたの御国を来らせてください。あなたの御心をこの地上に、私たちの普段のいつもの生活の只中に成し遂げてください。あなたの御心にこそかなって生きることを、この私共にも本気で願い求めさせてください」と祈りつつ暮らしはじめたからです。だから、神ご自身の御国は、主イエスを信じて生きる私たちの只中にある。
  けれど、いったい誰が、神がご支配なさるはずの神の国に激しく襲いかかり、神のものであるはずの国を自分たち自身のものにしようと互いに争いながら奪い合っているのでしょうか。謎をかけた主イエスご自身が、その答えをただちに差し出そうとしています。弟子たちと、主イエスの話を聞こうとして集まっているたくさんの群衆が耳を傾けています。まず13節「すべての預言者と律法が預言したのはヨハネの時までである」。『すべての預言者と律法』とは旧約聖書の愛称です。このように旧約聖書を呼び習わしてきました。つまり、やがて救い主が地上に現れる。そのすぐ前に、救い主を指し示し、人々が救い主を迎え入れ、信じて生きはじめるための道備えをする使者として洗礼者ヨハネが荒野で呼ばわり、洗礼を授けると。次に14節、「そして、あなたがたが受け入れることを望めば、この人こそは、来るべきエリヤなのである」。冒頭ですでに触れましたが、10節のおわりと14節で『この人』と呼ばれているのは、救い主を指し示し、救い主を迎え入れるための道備えをする人物、洗礼者ヨハネです。旧約聖書の最後の書、マラキ書がこう予告してあったからです。「見よ、わたしはわが使者をつかわす。彼はわたしの前に道を備える。見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす。・・・・・・彼は父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる。これはわたしが来て、のろいをもってこの国を撃つことのないようにするためである」(マラキ書3:1,4:5-6。父と子が互いに心を向け合い、心を通い合わせる。それは、ただ単に人間同士のことではありえない。神ご自身と、神の民とされたイスラエルとが心を通わせ合うことである。そのためにこそ、預言者エリヤのような使者(=洗礼者ヨハネ)がつかわされ、さらに主ご自身である救い主イエスがこの世界に降り立つ。神との平和、神からの祝福をこの地上に満ちあふれさせるために。14節で、ぜひとも心に留めなければならないことは、「もし、あなたがたが受け入れることを望めば」と、はっきりと条件づけられている点でしょう。洗礼者ヨハネの語りかけと救い主イエスを受け入れることを、もし私共が望むならば、望むとおりに、私たちは救い主イエス・キリストを迎え入れ、救い主を信じて生きて死ぬことができます。
 15-19節。「耳のある者は聞くがよい。今の時代を何に比べようか。それは子供たちが広場にすわって、ほかの子供たちに呼びかけ、『わたしたちが笛を吹いたのに、あなたたちは踊ってくれなかった。弔いの歌を歌ったのに、胸を打ってくれなかった』と言うのに似ている。なぜなら、ヨハネがきて、食べることも、飲むこともしないと、あれは悪霊につかれているのだ、と言い、また人の子(=主イエスのこと。主はご自分のことを度々、このように言い表した)がきて、食べたり飲んだりしていると、見よ、あれは食をむさぼる者、大酒を飲む者、また取税人、罪人の仲間だ、と言う。しかし、知恵の正しいことは、その働きが証明する」。「洗礼者ヨハネが来て、救い主イエスご自身も来られ、弔いの笛を吹き、弔いの歌を歌うように、人間に背を向けられてしまった神ご自身の嘆きと哀しみ、また人間や他の被造物への憐れみを告げ知らせたのに、けれどほとんど誰一人も、神の悲しみと嘆きを受け止めて踊ることをせず、自分の胸を打って嘆く者もいなかった。これが、今の時代の正体だ」と、主イエスは嘆きながら語りかけます。しかも、「耳のある者は聞くがよい」と前置きをしつつ。救い主イエスご自身からの語りかけが、あなたの耳にも届いていますか? 18-19節、多くの者たちが神からの招きの声に耳を塞ぎ、背を向けつづけている。「なぜなら」、洗礼者ヨハネに対しては、人々は禁欲的にきびしく節制して暮らしているからと「あれは悪霊につかれている」と悪口を言って拒み、救い主イエスをも「普通に飲んだり食べたりしている。食をむさぼり、大酒を飲み、取税人や罪人とも友だち付き合いしている。なんて奴だ、ろくなものじゃない」などと退けつづけているではないか。様々な理由をつけて、洗礼者ヨハネを拒み、救い主イエスご自身をさえもはねのけ、退けつづけているではないかと。
  神がご支配なさるはずの神の国に激しく襲いかかり、神のものであるはずの国を自分たち自身のものにしようと互いに争いながら奪い合っているのは、誰なのか? はじめのうち、ぼくは、この聖書の神を信じない人々のことかと漠然と考えていました。他の信仰をもつ人々や無宗教の人々のことではないか。けれど、それでは、つじつまが合いません。むしろ旧約聖書がきびしく指摘しつづけていたのは、他の誰のことでもなく神の民とされたイスラエルの、つまり私たち自身の 神への反逆です。神を疑い、神をすっかり忘れ果て、神に背き、さまよいつづけた不信仰と不従順の連続。それが旧約聖書の歴史であり、私たち自身の右往左往の日々とそっくり同じ。だからこそ目をこらして読み味わうに値します。心を鎮めて、我が身を振り返って、ここに集められたこの私たちこそがよくよく問いかけてみなければなりません。神と私自身との間の道はよく整えられているだろうか。高い山や丘のように思い上がっていたこの私は 十分に低くされただろうか。薄暗い谷間のようにいじけてひがんでいた私は高くあげられただろうか。凸凹道や曲がりくねった道のようだった私の心は今では広々とした平らな真っ直ぐな道にされているだろうか。救い主イエスを迎え入れ、救い主イエスが語りかける声に耳を澄まし、目を凝らしつづけて日々を生きようとしている私だろうか。もしかしたら、キリストの教会とクリスチャンこそが神のものであるはずの国に激しく襲いかかり、神の尊厳と主権とを何度も何度も繰り返して奪い取ろうとしつづけてきたのでは。神ご自身の真実と、神が生きて働いておられますことを。昔々2000年前にそうだったというだけではなく、今に至るまで、今日でもキリストの教会とクリスチャンが。いいえ 他の誰でもなくこの私自身こそが、救い主イエスを片隅へ片隅へと押しやり、あなどり、神の恵みを無にしつづけてきたのでは? 主イエスはおっしゃいました、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでも私によらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ福音書14:6。救い主イエスによらないでは、誰にも決してできない。つまり 救い主イエスというただ一本の道をゆくならば、誰でも必ず天の御父のもとへと辿り着くことができる。救い主イエスに聴き従うならば、誰でも必ず知るべき十分な真理を知り、格別な生命を生きることとなる。

祈り求めましょう。

2016年9月25日日曜日

9/25こども説教「神の国では、大きいも小さいもない」ルカ7:24‐35

 9/25 こども説教 ルカ7:24-35
 『神の国では、大きいも小さいもない』

7:26 では、何を見に出てきたのか。預言者か。そうだ、あなたがたに言うが、預言者以上の者である。27 『見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、あなたの前に、道を整えさせるであろう』と書いてあるのは、この人のことである。28 あなたがたに言っておく。女の産んだ者の中で、ヨハネより大きい人物はいない。しかし、神の国で最も小さい者も、彼よりは大きい。             (ルカ福音書 7:26-28)

 (先週読んだ18-23節のおさらい⇒ 洗礼者ヨハネはまもなく殺され、この世界から立ち去ってゆきます。自分に残された時間があとわずかだと知って、牢獄の中からヨハネは自分の弟子たちを救い主イエスのところへ遣わし、「来るべき方はあなたなのですか」と質問させました。約束された救い主がイエスご自身であると、ヨハネ自身は、そもそもの初めからはっきりと知っていました。つまり質問は、弟子たちのためであり、彼らにはっきりと気づかせるために。主イエスを信じて生きる幸いの中へと、自分の大切な弟子たちを送りだしてあげるために)。

  主イエスは、洗礼者ヨハネが果たした大きな役割について人々に語りきかせます。悪い領主に捕まえられ牢獄に入れられるまでは、荒野で洗礼者ヨハネは、『約束されていた救い主がもうすぐ来られる。だから皆、洗礼を受け、悔い改めて、救い主を迎え入れる準備をしなさい』と呼ばわり、洗礼を授けていました。聖書はあらかじめこのヨハネの働きについて予告していました、「荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』。すべての谷は埋められ、すべての山と丘とは、平らにされ、曲ったところはまっすぐに、わるい道はならされ、人はみな神の救を見るであろう」(イザヤ書40:3-5,ルカ3:4-6。荒野の声とは、洗礼者ヨハネのことでした。主の道を備え、その道筋をまっすぐにする。それは、主なる神と出会い、主に従って生きる道を歩みはじめるために、私たち自身の在り方を大きく変えることです。思い上がって高くそびえ立ってしまった山や丘のような心や在り方は低く平らにされ、いじけて低く薄暗い谷間のようになってしまった心は土を埋められて平らになり、かたくなに了見を狭くしてしまった、曲がりくねった凸凹道のような心や在り方はまっすぐにされる。私たち自身のことが語られていました。平らに広々とした道のような人間になってから救い主を迎え入れるのか。むしろ逆です。救い主を迎え入れる中で、山や丘のように思い上がった私たちの心は低くされ、薄暗い谷間のようにいじけて低くなっていた心も平らにされ、ねじ曲がった凸凹道のような心もならされ、だんだんとまっすぐになってゆく。「思いを神へと向け返しなさい。もうすぐ救い主が来られるのだから」と洗礼者ヨハネは、人々が救い主を迎え入れるための道備えをしました。28節。だから女の産んだ者の中で、つまり人間の中でこの地上で、洗礼者ヨハネこそが最も大きい人物だと。
  さて28節の後半は、どういう意味でしょう。「しかし、神の国で最も小さい者も、彼(=洗礼者ヨハネ)よりは大きい」。主イエスを信じて神の国に迎え入れられる者たちは、どんなに小さく弱く貧しく見える者さえもすでに洗礼者ヨハネよりも大きい。もはやそこでは大きいも小さいもなく、強いも弱いも豊かだとか貧しいもなく、賢いも愚かだとかもなく、役に立つとか仕事がよくできるとかもなくなり、つまり誰も彼もが十分に大きい。ただ憐れみを受け、恵みによってだけ救われた者たちの国では、人と人を区別し分け隔てしていたものがすっかり取り払われて、皆が皆、平らなまっすぐな心で生きることができるようにされます。すでに神の国はこの地上にはじまっており、着々とその領地を広げつつあります。しかも私たちは すでにその神の国の住民とされ、その自由で晴れ晴れした国に朝も昼も晩も住んでいるのですから(*)

         【補足/神の国】
         (*)遠い昔、預言者は告げ知らせました。「わたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」(エレミヤ書31:33-34)。むしろ、「小さな子供のようになり、天の御父に信頼し、聴き従って生きる者とされなければ、神の国に入ることなど誰にも決してできない」と主イエスご自身が断言しました。いいえ、『小さな子供の心』こそが神からの格別な贈り物なのです。「大きい者も小さい者も皆、主を知り、主を信じ、主の民とされる」。その格別な祝福の中では、人を分け隔てしていた区別も差別も打ち壊されます。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と救い主イエスが呼ばわったときから、主イエスを信じる者たちは神の国に住む者とされ、神の支配のもとに生きる幸いな者たちとされました(マタイ福音書18:3,マルコ福音書1:15,エペソ手紙2:13-22,ローマ手紙3:21-27)。


9/25「この小さな一人の者に」マタイ10:40‐42,同25:31‐40,士師記7:1‐3

          日本キリスト教会 上田教会    みことば/2016,9,25(主日礼拝)  78
◎礼拝説教 マタイ福音書 10:40-42,同25:31-40,士師記7:1-3   
『この小さな一人の者に』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
  10:40 あなたがたを受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。わたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。41 預言者の名のゆえに預言者を受けいれる者は、預言者の報いを受け、義人の名のゆえに義人を受けいれる者は、義人の報いを受けるであろう。42 わたしの弟子であるという名のゆえに、この小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはない」。                           (マタイ福音書 10:40-42)

  


 救い主イエスがどうして「この小さな一人の者に」とおっしゃったのか? それは、マタイ福音書  10:40-42を読んだだけでは分かりません。聖書全体に照らして、この発言を受け止めなければなりません。それで、マタイ福音書25:31-40と士師記 7:1-3も合わせて読み味わいます。

まず、このマタイ福音書10:40-42と同25:31以下とは、対になっていて、ひと組です。両方共で、「この小さな一人の者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」「この小さな一人の人にしてくれたことは、わたしにしてくれたのである。してくれなかったのは、わたしにしてくれなかったのである」と主イエスは仰る。1042節で「わたしの弟子であるという名のゆえに~」と書いてあるので、もし仮にここだけを読むと、つい早合点して『この小さな一人の者』とは主イエスを信じるクリスチャンたちのことか、ご自分の弟子だからと格別に目をかけ、ヒイキ(=自分が好意をもつ相手や店などに格別な便宜をはかったり、力添えをすること)にしてくれるのか、と勘違いしてしまいます。けれど2531節以下にまで目を広げると、決してそうでなかったと気づかされます。クリスチャンも『小さな者』の中に含まれるけど、そればかりではないと。クリスチャンであろうとなかろうと、主イエスを信じる者であろうがそうではなかろうが、そんなこととは何の関係もなしに、なにしろその小さな一人の者に神の憐れみは注がれつづけます。ただただ『小さな一人の者』です。例えば、大きくてご立派な大人物や優れた大人物たちのためには「親切にして手助けしてやれ」などとわざわざ言いません。その必要もありません。けれど、小さく弱く貧しい者たちは手助けを必要としており、うっかりすると、いつまでも踏みつけにされ、ないがしろに扱われつづけます。小さな弱い貧しいものがないがしろに扱われつづけることを、神はお許しになりません。なぜ、そうだとはっきり分かるかと言うと、マタイ福音書2531節以下がはっきりと告げているからですし、それだけでなく、聖書全体がそのことを語りかけて止まないからです。どんな神さまを、どのように告げ知らされて、この私たちはどう信じてきたでしょうか。天と地のすべて一切をお造りになり、ご自分が造ったすべてのものをご覧になって、「とてもいい。良かった、嬉しい」(創世記1:31-2:3,9:10-17,12:1-3,マタイ福音書24:45-51,ローマ手紙8:18-22,コリント手紙(1)15:22-28と大喜びに喜び、それらすべてを祝福なさった神。天地万物の造り主なる神です。この世界をご自分のものとしつづけ、支え、保ちつづける王さまである神だからです。ご自分が造ったすべて一切を憐れむ神であり、神の憐れみはそれらすべて一切に及びます。しかも主イエスを信じる私たちは、『神からの平和と和解の使者』(コリント手紙(2)5:17-21の役割を託されているからです。そのことをよくよく弁え、心に収めつづけながら、10:40-42を読みましょう。
  「この小さい者のひとりに」と、主イエスは目を凝らしつづけます。「大きい者」ではなく、「強く賢い、役に立つ、取り柄のある優れた者」でもなく、わざわざ「この小さい者のひとりに」と。それこそがこの世界を愛し、独り子イエスを救い主としてこの世界に贈り与えてくださった神の憐れみの御心です。神の民とされたイスラエルは、そもそもの初めから強さや大きさや数の多さを誇る世界の只中に、『小さい者。数少ない者。弱い者』たちとして据え置かれつづけました。強い者や大きく数の多い者どもを恐れつづけ、心を惑わされて生きる他なかったのです。その彼らに神は、「恐れるな」と語りかけ、励ましつづけます。もし、強い者や大きく数の多い者どもを恐れないで生きていきたいと心底から願うならば、それらよりも遥かに強く大きい神と出会い、その神を知り、信じて、その神にこそ十分な信頼を寄せつづけて生きる他ありません。けれど神の民イスラエルは、つまり先祖とこの私たちは、神に十分な信頼を寄せて生きることに失敗しつづけました。だからこそ、神ではない様々なものを恐れ、おじけずき、アタフタオロオロしつづけています。遠い昔に預言者の口を通して神がこう呼びかけていました、「主なる神、イスラエルの聖者はこう言われた、「『あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る』。しかし、あなたがたはこの事を好まなかった」(イザヤ書30:15-17と。この自分自身こそが『小さい、数少ない、弱い者たち』であることをよくよく心に覚えて、それゆえますます神にこそ十分な信頼を寄せて生きること。けれど、先祖と私たちはそれを好まなかった。プライドが許さず、性分にも合わなかった。だからこそますます、神ではない様々な人やモノゴトを恐れつづけました。なんと哀れで、虚しい生き様でしょうか。
  その私たちに、神は目を留め、憐れみの心を寄せつづけます。「飼う者のない羊のように弱り果て、倒れている」(マタイ9:36その哀れな痛ましい姿を見て、深く憐れんだからです。私たちが生き延びてゆく道筋は二通りありつづけます。一つは、神にこそ十分な信頼を寄せること。もう一つは、無理矢理にでも何としてでも『強い、大きく数の多い私たち』になることです。神に信頼することを好まなかった先祖と私たちは、『強くて賢い、大きく、数の多い私たち』になることを願い求めつづけました。例えば、敵の強大な軍勢を前にして、ハロデの泉のほとりに陣を敷いたとき、ギデオンは、知恵を振り絞って必死に戦局の分析をしていました。何度も何度も戦略会議を開いたかもしれません。たった32,000人の軍勢で、どうやってこのきびしい戦いを勝ち抜くことが出来るだろうか。待ち構える困難と苦戦を予想して、身の縮む思いでした。たったの32,000人の軍勢、それだけしかありません。どう考えても無理です。彼の恐れと不安は尽きません。ますます募ってきます。2-3節の、その彼らに向けて語られた主の言葉は、きわめて理不尽な、まったく道理にかなわない非常識な発言でした;「あなたと共におる民はあまりに多い。ゆえにわたしは彼らの手にミデアンびとをわたさない。おそらくイスラエルはわたしに向かってみずから誇り、『わたしは自身の手で自分を救ったのだ』と言うであろう」(士師7:2)。え? 聞き間違いかと思いました。あるいは悪い冗談かと。もっと兵力の増強を、もっと生産性と作業効率をあげて増収を、というのではありません。「多すぎる。削減を」というのです。そして直ちに、主なる神さまは、ご自身の兵力を削減なさいます。心痛む、彼らの願いも希望も粉々に打ち砕きかねない、恐るべき兵力削減。32,000から10,000へ、さらに300へ。300人を選んだ時の選び方(=水の飲み方の区別,5-7節)にどんな意味があるのか、あるいは300という数字にどんな意味があるのかなどと詮索する必要はありません。むしろ、それら一切の理由は、士師記7:2-3の主ご自身の言葉の中にこそ凝縮されていきます。目を凝らしましょう。神さまの目から見た時、その32,000人という数は多すぎた。だから減らした。まだまだ多すぎた。だから、さらにもっともっと減らして、目の前に待ち構える圧倒的多数の強大な軍勢に対して、300人を残した。多分これなら、多すぎないだろうと。
 なにしろギデオンの目にも、イスラエルの1人1人の目から見ても、「無に等しい。これでは、何もないのと同じじゃないか」としか思えませんでした。「とてもとても無理だ。こんな貧弱な私たちには勝てるわけがない。もし万一、これで生き延びることができたとすれば、それは到底、自分の力と手の働きで勝ち取ったものではない」と言えるほどの兵力です。まるで、思いがけない贈り物のようにして与えられた幸いは、驚きと感謝となり、魂に深々と刻まれて、1つまた1つと積み重ねられ、大切に語り継がれ、やがて主に対する大きな信頼へと育まれていく。主に対する熱い期待と、それゆえ心安く聞き従っていくことへと彼らの腹の据え方を方向づけていく。《この神こそ、私たちの主である》という確信の中に、少しずつ少しずつ、彼らの営みを揺るぎないものへと成長させていく――そのはずでした。朗読しませんでしたが、あの驚くべき戦いの結末は士師記8:24-27です。ギデオンは戦利品に飛びついて我が物とし、欲望のまま思いのままに貪りました。他の人々も、ギデオンにならって戦利品に飛びつき、欲望のまま思いのままに貪りました。心がおごってしまったからです。贈り物のようにして与えられた輝かしい勝利は、主に対する驚きと感謝を、生み出しませんでした。魂に深々と刻まれることも、ありませんでした。積み重ねられることも、大切に語り継がれることも、ありませんでした。主に対する信頼へと育まれていくことも、ありませんでした。《この神こそ、私たちの主である。主なる神は生きて働いておられます》という確信にも、その勝利は結び付きませんでした。なんということでしょう。驚くべきことには、たった300人でも多すぎたからです。彼らは思い上がり、主に対して心をおごらせてしまいました。「自分の力と手の働きで勝ち取った」という腹の据え方が、それこそが、彼らと私たちのための『罠』(士師8:27とされました。
 不思議です。神の民は、いつもごく少数でありつづけました。どうしてでしょう。そうでなくても良かったはずなのに、多数ではなく少数、格別に賢く優秀な強い者たちではなく、ごく普通の、どこにでもいるような、弱く無に等しい者たちこそが神さまからの格別な招きを受け取りました。また、「そのことをよくよく覚えているように」と、たびたび勧められました(コリント手紙(1)1:26-。立ち塞がる圧倒的多数の強大なものたちを前にして、その彼らは、自分たちの小ささ、弱さ、貧しさをつくづくと思い知らされました。「自分は強い。豊かで賢い。自信があるし、ちゃんと心得ている」と思っていた者たちも、まったく同じ扱いを受けました。何度も何度も打ち砕かれ、追い返され、引き下ろされ、惨めさと心細さを味わう中で、自分自身のふつつかさと限界を知らされてきました。これでもか、これでもかと。けれど兄弟たち、それは一体なぜでしょうか?
  小さな弱い者たちであることは恐ろしくて、とても心細いことです。どこにも居場所がないような惨めさを度々味わってきました。その中で、ある者たちはすっかり絶望し、諦めました。別の者たちは、ほかの強くて数の多い者たちに助けと支えを求めました。かつてアッシリアやエジプトに助けを求めて、その戦車や馬の数の多さに頼ろうとしたように。今日でも、そのように様々な助けと支えが私たちの周りには豊かに溢れ、私たちを取り囲み、私たちの目も心も奪おうとするのですから。けれど、ご覧ください。残ったさらにわずかの者たちは、憐れみ深い主の御前に膝を屈め、そこにこそ助けと支えを求めて仰ぎ見ました。文字通りに、社交辞令でも謙遜なふりでもなんでもなく、彼らはとても小さな、愚かで弱い、ものすごく数少ない者たちでした。不思議なことに、そこは晴れ晴れしていました。そこで、深く息を吸って楽~ゥになることができました。なぜなら、そこにはもはや、大きいも小さいもなかったからです。かなり信頼できる秀でた人物だとか、まあまあだ、ほどほどだなどという小賢しい品定めもなく、強い賢い豊かでよく働いて役に立つとか、あんまりそうでもないなどという騒がしさもなかったからです。なにしろ神さまが大きい。なにしろ神さまこそが、強く賢くあってくださる。なにしろ、神さまが生きて働いておられ、憐れみ深くあってくださる。その膝を屈めた無力な場所こそ、自分があるべき居場所と思い定め、その新しい彼らは、そこで主と出会いました。「主の恵みは、すでに私に十分である」(コリント手紙(2)12:7-10と聞き分けました。主の力と豊かさは、ただただ、私の弱さの中で働く。そこでようやく、十分に発揮される。私のためにもぜひ発揮してあげたいと主は願い続けてくださったが、これまでは、私の強さと数の多さによって邪魔されていた。私の小さな賢さと貧しい豊かさが、主を愚かにし。主にこそ恥をかかせつづけていた。主からの助けも支えも、取るに足りない貧しいものとし、この私自身こそが、神さまを侮って退け続けていたのか」と。
 クリスチャンであろうがなかろうが、顔見知りであろうが見ず知らずの赤の他人であろうが。通りすがりの小さい者の一人に冷たい水一杯を飲ませ、あるいはもっと多くの親切や心遣いを、どうして喜んでしてあげられるのか。不思議なことです。小さな一人の者を慈しむ神が自分と共におられると、ついにとうとう彼らは知ったからです。しかも、この自分自身こそが多くの親切を贈り与えられた小さい者だと、ようやく思い出しました。なんという恵み、なんという喜びでしょう。













2016年9月19日月曜日

9/18こども説教「来るべき救い主か?」ルカ7:18‐23

 9/18 こども説教 ルカ7:18-23
 『来たるべき救い主か?』

7:18 ヨハネの弟子たちは、これらのことを全部彼に報告した。するとヨハネは弟子の中からふたりの者を呼んで、19 主のもとに送り、「『きたるべきかた』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」と尋ねさせた。20 そこで、この人たちがイエスのもとにきて言った、「わたしたちはバプテスマのヨハネからの使ですが、『きたるべきかた』はあなたなのですか、それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか、とヨハネが尋ねています」。21 そのとき、イエスはさまざまの病苦と悪霊とに悩む人々をいやし、また多くの盲人を見えるようにしておられたが、22 答えて言われた、「行って、あなたがたが見聞きしたことを、ヨハネに報告しなさい。盲人は見え、足なえは歩き、重い皮膚病の人はきよまり、耳しいは聞え、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。23 わたしにつまずかない者は、さいわいである」。  
  (ルカ福音書 7:18-23

  18-19節。「旧約聖書によって約束され、予告されつづけていた、来るべき救い主はあなたですか」と、洗礼者ヨハネは二人の弟子を送り出して、主イエスに直接に質問させました。なぜ質問させたのかが分かりますか? 洗礼者ヨハネは、自分自身では、『イエスこそ救い主である』と、初めからはっきりと分かっていました(ルカ1:76-77,3:1-22,ヨハネ福音書1:35-42,3:27-30。しかも洗礼者ヨハネは領主ヘロデに捕らえられて牢獄におり、間もなく殺されようとしています。「自分に残された時間があとわずかしかない」と、自分ではっきりと分かっています。残されたわずかな時間をどう使おうか。このまま大切なことを弟子たちに伝えずに自分が死んでしまえば、弟子たちは何も分からないまま、何を信じていいか、どう生きていいかもよく分からないままに、道端に虚しく放り出されてしまうことになります。「来るべき方はあなたですか。それとも、他に誰かをなおまだまだ待たなければなりませんか?」と質問しなさい。その最も大切な答えを、あなたたちは、自分自身の耳と頭と心で掴み取りなさい。ですから、自分自身のための質問ではなく、自分の愛して止まない弟子たちのための質問だったのです。彼らもまた、ついにとうとうイエスこそ約束されていた救い主だと信じて、この方によって、永遠の生命を得ることができるために。22-23節、主イエスは彼らに答えました。「行って、あなたがたが見聞きしたことを、ヨハネに報告しなさい。目の不自由な人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病の人はきよまり、耳がよく聞こえない人は聞えるようになり、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。わたしにつまずかない者は、さいわいである」。
  例えばユダヤ教徒たちは、「約束どおりに救い主がきっと来てくださる。来年か再来年か、あるいは40年後か50年後か1000年か2000年後くらいには多分」と、他の誰かを今でもずっと待ちつづけています。例えば洗礼者ヨハネの弟子たちのうちの何人かは、主イエスの弟子とされました(ヨハネ福音書1:35-42。けれど多くの者たちは、ただただ首を傾げながら、誰かほかの者を、ほかの何かを待ち侘びつづけています。今日でもおびただしい数の人々が、キリスト教会の玄関口まではなんとか辿り着いて、けれど、しばらくウロウロしたあげくに首を傾げながら、あるいは悲しみながら立ち去っていきます。戸口は狭すぎるわけではありません。見分かりにくい玄関ではないはずなのに、「どうしても探し当てられなかった」と多くの人々が言います。どうしたわけか、十分に広く開けてあるはずの戸口から入って、格別な祝福と幸いへと至る者はいつもごく少ない。不思議なことです(マタイ福音書7:13-14を参照)。「来るべき方はイエスではないかも知れない。やがていつか、もしかしたら別の誰かが現れるかも知れない。来年か再来年か、あるいは40年後か50年後か1000年か2000年後くらいには多分」などと。他の人々のことは、ほどほどのことです。けれども あなた自身はどうでしょう。十分に見聞きしましたか。確かな福音を耳にしたでしょうか、それとも、そうではなかったでしょうか。最も大切な答えを、私たちは、年配の方々も若い父さん母さんも、小学生や中学高校生や大学生も、自分自身の耳と頭と心で掴み取らねばなりません。ナザレ村から出て来られたこのイエスというお独りの方。「この方による以外に救いはない。わたしたちを救いうる名は、天下の誰にも与えられていない」(使徒4:10-12。主イエスにつまずかない者は幸いです(*)。この方につまずく者はとても不幸せで、あまりに残念なことです。


         【補足/つまずきの石=十字架につけられたキリスト】

        (*)「わたしにつまずかない者は幸いである」(23節)と主イエスは言いました。「多くの者らが救い主につまずく」と旧約聖書であらかじめ予告されていました。ただただ憐れみによって、恵みによって救われるからであり、救い主が十字架の上で殺され、復活することをとおして救いが成し遂げられるからです。その救いの有様や道筋は私たち人間の思いとははるかに隔たって、遠く離れていたからです。神ご自身が、その人に気づかせ、受け入れさせてくださるのでなければ、誰一人も救い主とその救いの御業を信じることができません(ヨハネ福音書6:52-65,マタイ福音書26:31-35,イザヤ書28:16,ペテロ手紙(1)2:6-10,コリント手紙(1)1:18-31,ローマ手紙9:27-33)。