2016年7月19日火曜日

7/17こども説教「良いことをするのと悪いことをするのと、どちらが良いか?」ルカ6:6‐11

7/17 こども説教 ルカ6:6-11
 『良いことをするのと悪いことをするのと、
どちらが良いか?』
       ~安息日違反(2)~

6:6 また、ほかの安息日に会堂に はいって教えておられたところ、そこに右手のなえた人がいた。・・・・・・9 そこでイエスは彼らにむかって言われた、「あなたがたに聞くが、安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」。      (ルカ福音書 6:6-9)

  安息日にしてはいけないはずのことを、救い主イエスはわざと次々とする。そして当時の信仰の専門家たちと厳しく言い争います。「神さまが決めたはずの律法や安息日が大嫌いで、どうでもいいと思っていた」、わけではありません。むしろ逆で、神さまが決めたはずの律法や安息日をとてもとても大切に思っておられたのです。だから、してはいけないと人々が思い込んでいたことを、わざわざして見せました。安息日(=日曜日)は何のためにあるのか。日曜日から始まる一週間ずつを、どんなふうに生きていくことができるのかを、人々がすっかり見失っていたからです。ただただ形ばかりの、中身のない虚しい約束事に成り下がっていた『神さまからの律法』に、もう一度、中身と生命を吹き込むためにです(*)。もともと安息日は、自分も世界のすべても自分や他のナニカのものではなく神さまのものだと知り、神さまからの祝福を受け取り、その祝福のもとに改めて生きはじめるためにあります。神さまからの祝福を誰もが受け取り、神さまを心から喜び、神さまに聴き従って幸いに嬉しく生きるために。
  さて、安息日に、神さまのものである祈りの家で、主イエスは右手がなえて自由に使えずに困っていた人のその手を治してあげました(他の日、他の場所ではなく、わざわざ安息日に、わざわざ神の祈りの家で!)。困っていたその人のためであり、また、そこに集まったすべての人々にも、安息日(=日曜日)は何のためにあるのか。日曜日から始まる一週間ずつを、どんなふうに生きて死ぬことができるのかを、もう一度、思い起こさせるためにです。9節、主イエスはそこにいる皆に向かって問いかけました。「あなたがたに聞くが、安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」。しーんとして、誰も答えません。答えが分からなかったからではありません。ほんのちょっと考えてみるだけで、小さな子供にも誰にでもすぐに分かるはずのことでした。けれど、規則をただただ守るのに精一杯で、先生たちも生徒の誰一人も! そんなことを少しも考えたことがありませんでした。皆が、いきなり気づきました。『偉い先生たちから教えられてきたことを、何も考えずに、教えられるままに、ただただ鵜呑み(=うのみ。人から知らされた言葉やその内容を、それが正しいか間違っているのかとよく考えもせず、そのまま、ただ受け入れてしまうこと)にしていただけだった。何も考えず鵜呑みにしていたおかげで、善いことをぜず悪いことをしつづけ、命を救わず殺しつづけてきてしまった。おかげで、ぼくも私も悪者たちの仲間になっていた。神さまを大事にするふりをして、神さまの御心なんかそっちのけにしていた。人間のことばかり思い煩いつづけて暮らしていた。ああ、この自分もそうだった』と、いきなり突きつけられてしまいました。激しく怒って、主イエスを殺してしまおうと相談しはじめた人々(11節)も、そのことにはっきりと気づきました。よし、良かった! ついにとうとう神さまからの祝福を受けて生きはじめるための出発点に、そこにいた全員が立たされたのです。この私たち皆も。目の前には二種類の正反対の道がつづいています。一つの道は、神さまからの祝福を受け取って生きる道。そしてもう一つの道は、神さまからますます離れ去っていく道と。



           【補足説明/律法】
            (*)「律法を廃止するためではなく、むしろ成就するために私は来た」(マタイ福音書5:17)と主イエスは宣言する。宣教活動の冒頭の長い長い一連の説教は、その具体的な実践である(マタイ5-7章,ルカ6:20-49を参照)。長い年月の間に『律法』は『律法主義』に変質し、中身と生命を失っていた。その律法に再び生命を吹き込み、そこに込められた神ご自身の願いを成し遂げること。律法の本来的な働きと目的を、宗教改革者らは『律法の三用益』と説き明かした;(1)自分自身の罪と悲惨を告げ知らせ、(2)憐れみとゆるしを求めて救い主イエスのもとへと罪人らを招き入れ、(3)救われて新しく生きはじめた者のための生活指針となると。救われた者たちは、恵みを受けた結果として、感謝の実を結ぶ。神を愛し、隣人を自分のように愛し尊び、良い働きをしつつ生きる者とされてゆく。神さまが、そうならせてくださる。それが、クリスチャンとされていることの確かな希望である。


7/17「新しいぶどう酒を、新しい皮袋に」マタイ9:14‐17

しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」。                 (エレミヤ書31:33-34)

  ◎とりなしの祈り

 主なる神さま。この国に生きるすべての人々から希望が奪い取られてしまわないように、また私たちが自分だけの狭く小さな世界に閉じこもって、自分の都合と目先の損得にばかり執着して無気力に、どこまでも無責任になってしまわないように、どうぞお守りください。
 神さま。この国は、国家の都合と利益のために、どこへでも出かけて行って戦争をできる国になろうとしています。平和と安全のためではない! 正しくもない戦争に! 無理矢理に駆り出されて、自衛隊員とその家族の多くの生命と生活が無駄に使い捨てにされようとしています。もし黙って見過ごすならば、この私共も、とんでもない悪事の片棒を担ぐことになってしまいます。神さま、いったいどれだけたくさんの生命が無駄に失われたら、私たちはそのことに気づくことができるでしょうか。とても不平等で、ひと握りのごくわずかな人々が豊かさを独り占めし、ますます強く豊かになっていきます。その傍らで、多くの貧しい人々が貧しいままに取り残されつづけ、格差がどんどん広がっていく一方です。政治家と大企業の経営者たちのせいばかりではなく、そういう社会のしくみを、他の誰でもなく私たち大人が選び取ってきたからです。私たち大人の責任です。もちろんキリスト教会とすべてのクリスチャンを含めて、私たちの責任です。日本で暮らす外国人労働者とその家族の生活と生きるための当然の権利が十分に守られず、尊ばれもせず、彼らを憎んで押しのけようとする人々が声高に叫んでいます。沖縄が植民地扱いされ、そこに暮らす人々の生活と権利がないがしろにされつづけています。放射能に汚染された危険で有害な土地に、無理矢理に縛りつけられて暮らす人々が大勢います。まるで何もなかったかのように、とても危ない原子力発電所は次々と再稼働しつづけています。老人たちの生活も若い親たちと子供の生活も、置き去りにされつづけます。非正規雇用で不安定な中で、多くの労働者たちがただ安く便利に使い捨てられつづけています。企業も国家も、彼らの生活に責任を負いません。彼らのはなはだしい苦境に対して、私たち大人には大きな責任があります。神さま、まったく申し訳ないことです。お詫びのしようもありません。
 思いやり深く温かな社会を築いてゆくことを、この私たちにも、今日こそ本気で願い求めさせてください。憐れみを受け、望むべくもないほどあまりに寛大に、思いやり深く取り扱われ、そのように多く愛されてきました私共ですから、この私共も同じくそのように、家族や隣人に対して寛大に、また精一杯に思いやり深く接することができますように。どうか、この一つの願いをかなえてください。主イエスのお名前によって祈ります。アーメン


                                          みことば/2016,7,17(主日礼拝) № 68
◎礼拝説教 マタイ福音書 9:14-17                       日本キリスト教会 上田教会
『新しいぶどう酒を、
新しい皮袋に』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)(ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
9:14 そのとき、ヨハネの弟子たちがイエスのところにきて言った、「わたしたちとパリサイ人たちとが断食をしているのに、あなたの弟子たちは、なぜ断食をしないのですか」。15 するとイエスは言われた、「婚礼の客は、花婿が一緒にいる間は、悲しんでおられようか。しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その時には断食をするであろう。16 だれも、真新しい布ぎれで、古い着物につぎを当てはしない。そのつぎきれは着物を引き破り、そして、破れがもっとひどくなるから。17 だれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、その皮袋は張り裂け、酒は流れ出るし、皮袋もむだになる。だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。そうすれば両方とも長もちがするであろう」。             (マタイ福音書 9:14-17)


14-15節。洗礼者ヨハネの弟子たちが主イエスのところに質問をしに来ました。「わたしたちとパリサイ人たちとが断食をしているのに、あなたの弟子たちは、なぜ断食をしないのですか」。断食をするかしないか。もしするなら、どういう理由で何のためにするのか。しないのなら、その理由は? 立ち止まって、まずこのことを考えます。クリスチャン以外の他の人々が何のために断食をしているのかを私は知りません。知る必要もありません。けれど少なくとも聖書の神を信じている私たちにとって、断食は、祈りの一つの形です。苦しみや悩みを神さまに向けて現し、また悔い改めて神へと立ち返るために、神さまとの親しい交わりを求めて断食をします。年に一度、大贖罪日(だいしょくざいび/レビ記23:23-,ヘブル手紙9:23-10:20)と呼ばれる日に皆が断食をすべきことが、かつて聖書に定められていました。それによって神さまとの親しい交わりがつづき、罪が清められることを願ってです。けれどあらかじめ警告されていたとおりに、その断食は、すぐにも中身と生命とを失って単なる形だけのもの、うわべを美しく取り繕うだけのものとなってしまいました。中身も生命もないその虚しいだけの形式主義は神さまの怒りをかい、神さまの御心をはなはだしく嘆かせました。「わたしが選ぶところの断食は、悪のなわをほどき、くびきのひもを解き、しえたげられる者を放ち去らせ、すべてのくびきを折るなどの事ではないか。・・・・・・飢えた者にあなたのパンを施し、苦しむ者の願いを満ち足らせるならば、あなたの光は暗きに輝き、あなたの闇は真昼のようになる」(イザヤ58:3-10,エレミヤ14:12)。けれど人々は預言者たちの警告に耳を貸しませんでした。ますます中身のないただ形ばかりの断食(=祈り)をしつづけました。洗礼者ヨハネは、滅多にいないほどのとても良い先生でしたその弟子が、こんなふうです。皆さんも、どの先生について習ってもいいでしょう。一日に何回祈ってもいいでしょう。けれど、立派なヨハネ先生がそう仰るんだからと何でもかんでも鵜呑みにしてはなりません。先生の指導が悪かったからではなく、多分、弟子たちの全員が愚かだったわけでもなく、たまたまここに質問しに来たこの弟子たちはうっかり者たちでした。立ち止まって、心を鎮めて考えることを、あまりしたことがなかったのでしょう。何のために、どういう目的と理由でそれをするのかと中身を一つ一つ、毎回毎回、問いつづけなければなりません。せっかく学んだことが実を結ぶためには。ただ形ばかりの虚しい形式主義に陥ってしまわないためには。「偽善者どもめ!」と神さまから厳しく叱られないためには。しかも15節、主イエスがこう答えています。「婚礼の客は、花婿が一緒にいる間は悲しんでおられようか。しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その時には断食をするであろう」。やがて主イエスが十字架につけられて殺され、葬られ、復活の姿を見せた後で天に上っていかれた後、主イエスの弟子たちは、そこでようやく断食をし、祈って待ち望みました。信じて待つ者たちに聖霊なる神さまが贈り与えられるという約束だったからです。約束はかなえられました(ルカ24:44-53,使徒1:4-11,同2:1-39)。

 さて、それよりも他の何よりも、今日のこの箇所で心によくよく刻んでおくべき最も大切なことは、救い主イエスがご自分のことを『花婿』だと仰ったことです。救い主イエスが花婿であり、キリストの教会と一人一人のクリスチャンはその花嫁とされて迎え入れられている(マタイ25:1-,ヨハネ3:29,エペソ手紙5:22-33,イザヤ61:10)。そのことを心に留め、思い巡らせつづけなければなりません。これこそがキリスト教会と一人一人のクリスチャンにとって最も大切な生命の中身だからです。
  花婿イエス・キリストは、その花嫁であるキリスト教会と私たち一人一人を愛してくださっています。結婚式のときの約束のとおりにです。「夫としての道を尽くし、キリスト教会と私たち一人一人を愛し、これを敬い、これを慰め、これを助けて変わることなく、その健やかな時も、その病む時も、この花嫁に対して堅く節操を守ることを誓いますか」。はい、と答えて、そのとおりにしつづけてくださっています。キリストの教会と一人一人のクリスチャンがはなはだしく心病むときにも、花婿に背を向け、花婿を顧みず、離れ去っていこうとするときにも、だからこの花婿イエス・キリストは、教会と私たちを見捨てることも見放すこともなさいません。キリストの教会が今日なお建っている理由と土台は、ただこの一点にあります。私たちがなおクリスチャンであり続けている理由と土台も、ここにだけあります。そうそう、この上田教会が使っている郵便封筒に、そのことが印刷されているそうです。「神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである。神を見た者は、まだひとりもいない。もしわたしたちが互に愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである」(ヨハネ手紙(1)4:9-12)。その通りですね。ただ封筒に印刷してあるばかりでなく、やがて私たち一人一人の心に記され、魂に深々と刻み込まれるなら、またこれを自分の連れ合いや子供たち孫たちに伝え、私たちが家で座っている時も、道を歩く時も、寝る時も起きる時も、これについて語り、手につけて目と目の間に置いて覚えとし、昼も夜もこのことを思えるなら、それはどんなに幸いなことでしょうか。
  けれど、もっとはっきりと語りましょう。神さまに背いて、逆らってばかりいた、心がとても強情で頑固な私たちでした。聖書はそれを『罪』と言い表し、『神に対する借金、負い目』であり、『何よりも厄介な病気』だと説き明かしました。ずいぶん高い代価を支払って、その罪と病気の重荷を主イエスが取り除いてくださいました。また花婿イエス・キリストは、私たちの日毎の必要を満たし、様々な困難と厄介事を案じてくださり、私たちのいたらなさやふつつかさや弱さを思いやり、忍耐し、自分自身を愛するように私たちを愛し、尊び、ご自分の体の一部分とさえしてくださいました。そう、「キリストの教会とその体の肢である私たちを傷つけ、苦しめる者は、花婿イエス・キリストご自身を傷つけ、悩ませ、苦しめている」と朱イエスご自身がおっしゃいました。パウロがかつて教会とクリスチャンとを迫害する者だったときのことです。花婿イエス・キリストは、「サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか」と呼びかけました。「あなたはどなたですか」と問われて、「私は、あなたが迫害しているイエスである」と花婿イエス・キリストはお答えになりました。これこそが、私たちのための祝福であり戒めです。また、「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち私にしたのである。しなかったのは、すなわち私にしなかったのである」(使徒9:4-6,マタイ25:35-46を参照)。天の御父がその御子キリストをさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたので、御子イエス・キリストだけではなく、御子といっしょにすべて一切をも贈り与えてくださる御心だからです。私たちの主キリストイエスによって示された神の愛から私たちを引き離すことはどんな者にもできない(ローマ手紙8:31-39)、と断言されています。神さまが私たちの味方だとは、このことです。しかも、この同じ憐れみ深く慈しみに富む神は、だからこそ! キリスト教会と私たちに立ち向かい、容赦なく厳しく敵対することさえなさいます。つまり、もし私たちが邪な者たちとなり、不正と悪を働き、家族や隣人や他者を苦しめ、傷つけ、悩ませる者となるときには、この花婿イエス・キリストご自身こそが私たちの前に断固として立ち塞がります。だからこそ、「高ぶった思いを抱かないで、むしろ恐れなさい」と戒められています。もし私たちが神さまの慈愛に留まっているならば、その慈愛は私たちにも向けられるでしょう。そうではないなら、私たちもまた切り取られてしまう他ありません。「神の慈愛と峻厳とを見よ」(ローマ手紙11:22)と警告されているのはこのことです。
  17節についても、説き明かしておきます。「だれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、その皮袋は張り裂け、酒は流れ出るし、皮袋もむだになる。だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。そうすれば両方とも長もちがするであろう」。せっかく、わざわざ、「ぶどう酒」と言い、しかも「新しいぶどう酒」と仰ったからには、そこから大切な意味を聞き分けねばなりません。聖晩餐のパンと杯のことであり、花婿イエス・キリストが私たち罪人を救うために死んで葬られ、三日目に復活なさり、その復活の姿を十分に見せてくださったあと天に上られ、天と地のすべて一切を委ねられた王としてこの世界を治めつづけ、やがて再び来られますことです。あの最後の食事の席で、花婿イエス・キリストは、パンをとり、感謝してこれを裂き、「これはあなたがたのための私の体である」と仰り、杯を掲げ、「皆、この杯から飲みなさい。この杯は、わたしの血による新しい契約である」と仰ったからです。つい先々週こども説教で語ったことを、もう一度そのまま申し上げましょう。ちょうど聖晩餐のパンと杯のある礼拝でした。「ぶどう酒とそれを入れる袋。それは、神さまを信じる信仰の中身と、信じている人のいつもの暮らしぶりやいつもの腹の思いのことです。神さまを信じる信仰の中身がすっかり新しくされました。だから! その中身にふさわしい心構えや、毎日の暮らし方があり、その新しい中身にちょうどピッタリするいつもの心の在り方や、人との付き合い方がある」ということです。あのとき申し上げました。周りの大人の人たちがどんなふうにパンを食べ、ぶどう酒を飲むのか。その様子を、子供たちはよくよく観察してみてくださいと。そのときだけではなく、夕方にも何日か後にも家にいても道を歩いているときにも、誰といっしょの時にも! 目の前にいるその大人のクリスチャンが『新しい皮袋』にだんだんとなってゆく様子が分かります。神さまは一切わたしたちの功績なしで、純然たる恵みによって、キリストの完全な償いと義と聖を私たちに贈り与えてくださり、それによって、私たちがまるで罪など犯したことがないかのように、罪があったこともないかのように、また、キリストが私たちのために成し遂げてくださったあの服従のすべてを私たち自身が成し遂げたもののようにみてくださいます(ハイデルベルグ信仰問答,問60-64を参照)。そうであるならば兄弟姉妹たち、私たちはどのように毎日毎日を生きて、やがて死んでゆくことができるでしょうか。「ああそうか。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れるってこういうことだったのかあ」と自分自身も家族も友人たちもよく分かるようになるでしょうか。ぜひ、そうであらせていただきたい。パンと杯を差し出して救い主イエスは仰いました。「これは私の体である。皆、この杯から飲みなさい。わたしの血による新しい契約である」と。「わたしたちが祝福する祝福の杯、それはキリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパン、それはキリストの体にあずかることではないかパンが一つであるから、わたしたちは多くいても一つの体なのである」(コリント手紙(1)10:16-17,11:23-29を参照)。救い主イエスが十字架の上でご自分の体を引き裂き、ご自分の血を流し尽くして、私たちのための救いを成し遂げてくださいました。その体と血を飲み食いさせられている私たちは、だんだんとその中身にふさわしい新しい皮袋になってゆきます。もちろんそうです。神さまの憐れみとゆるしを受けて、神さまの子供たちとされたからです。救い主イエスを信じる信仰によって、このおかたと一つに結び合わされた私たちが感謝の実を結ばないことは有り得ないからです。


2016年7月12日火曜日

7/10こども説教「日曜日の願いと目的」ルカ6:1‐5

 7/10 こども説教 ルカ6:1-5
 『日曜日の願いと目的』

6:1 ある安息日にイエスが麦畑の中をとおって行かれたとき、弟子たちが穂をつみ、手でもみながら食べていた。2 すると、あるパリサイ人たちが言った、「あなたがたはなぜ、安息日にしてはならぬことをするのか」。・・・・・・5 また彼らに言われた、「人の子は安息日の主である」。
               (ルカ福音書6:1-5)

  安息日に、他人の畑の麦を、主イエスの弟子たちが勝手に取って食べました。「してはいけないことをしている」と、パリサイ人たちが文句を言いました。とても意外なことですが、他人の畑の麦を勝手に取ってムシャムシャ食べることについては、ゆるされていました。誰でも、腹一杯になるまでそうしていいのです(申命記23:24-25を参照)。他の国と違って、ユダヤの国には飛びっきりに親切で心優しい法律があって、貧しい人々がそのように食べ物を得て生きることをゆるしてあげるようにと神さまが命じています。びっくりです。それとは別に、「安息日に働いてはいけない」という神さまの律法に違反している、とパリサイ人たちは言いたい。
  すると、私たちがここでよくよく考えなければならないのは、日曜日は何のためにあるのか。日曜日から始まる一週間ずつを、どんなふうに生きていこうかということです。日曜日のはじまりは、創世記1:31-2:3です。神さまが7日間で天と地のすべてのものを造られたとき、6日目にはご自分が造ったすべてのものを一つ一つご覧になり、「とても良い。嬉しい」と大喜びに喜んでくださいました。7日目に、ご自分の仕事を離れてホッと一息つき、ご自分が造ったすべてのものをご自分のものとなさり(=聖別.せいべつ)、祝福なさいました。世界が出来上がったのは6日目ではなく、7日目です。造ったすべてのものをご自分のものとし、祝福したとき。そこで、とうとう世界を造るお働きが成し遂げられました。日曜日毎の安息日は、世界のすべても自分自身も神さまのものとされていることを改めて心に刻み、祝福を受け取るためにあります。それが神さまと私たちの願いであり、日曜日の目的でもあります。自分も世界のすべても自分や他のナニカのものではなく神さまのものだと知り、神さまからの祝福を受け取り、その祝福のもとに改めて生きはじめること。そのためには、神さまがそうなさったように、この私たち自身も! 自分の仕事を離れ、大事に抱えたものを手放して傍らに置き、ホッと一息つく(=安息する)必要があります。もし、そうでなければ、自分も世界のすべても自分や他のナニカのものではなく神さまのものだと知ることも、神さまからの祝福を受け取ることも、その祝福のもとに改めて生きはじめることも誰にも出来るはずがないからです。「日曜日(=安息日)に働いてはいけない」(十戒の第四戒。出エジプト記20:8-11,申命記5:12-15)と戒めたのは、そういう目的と願いからです。誰もが神からの祝福を受け、神さまを喜び、神さまに聴き従って幸いに、安心して生きるために。救い主イエスは、そのために来てくださいました。「安息日の主」(5節)とは、そのことです。


      (*)【補足説明/安息日の祝福の広がりと展望】
      神ご自身の祝福に満ちた平和と喜びにあずかること。もし仮に、7日間のうちの1日だけが祝福を受ける聖なる日で、他6日間が神さまやその祝福と無縁な俗なる日であるならば、その祝福は偽りであり、貧しすぎます。安息日に率いられて、やがて7日間すべてが祝福のうちに据え置かれます。安息日はそのためのしるしであり、先触れです。まったく同様に、もし仮にクリスチャンだけ、人間様だけが神さまの祝福にあずかるなら、その祝福もまた貧相で安っぽく、ケチ臭すぎます。いいえ、そうではありません。神さまからの広々とした、分け隔てしない、惜しみない祝福を、私たち人間こそが狭く貧しくしつづけました。回復されねばなりません。「あなたは祝福の基となるであろう。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地のすべてのやからは、あなたによって祝福される」(創世記12:2-3)と、神さまはアブラムとその子孫のために、この世界のためにも約束なさったからです。世界中のすべての生き物たちのための祝福。その出発点とされた私たちです。神を信じるひと握りの人々が起こされ、救い主イエスが救いの御業を成し遂げてくださった目的はここにあります。やがて、この同じ一つの祝福はすべての生き物と、畑と農作物にさえ及び、終わりの日の主からの祝福へと私たちを導き入れます。これが、最初からの祝福の全体像です(出エジプト記16:1-36,レビ記25:1-28,ヘブル手紙3:7-4:11を参照)。

      こうした恵み深さに照らして、パリサイ人らの反応や心の思いを味わいましょう。彼らは、私たちの過ちと混乱を映し出す鏡です。私たち自身のいつもの姿です。中身と本質を問うことを止めたとき、人は誰もが無味乾燥な、ただただ虚しいだけの形式主義に陥り、そのとき、私たちもまた「偽善者どもめ」と厳しく叱られるでしょう(マタイ福音書6:16-18,同23:1-36)。それをこそ我が事として警戒し、恐れましょう。パリサイ人のふり見て、わがふり直せ!

7/10「医者である神に」マタイ9:9‐13

「さあ、わたしたちは主に帰ろう。主はわたしたちをかき裂かれたが、またいやし、わたしたちを打たれたが、また包んでくださるからだ。主は、ふつかの後、わたしたちを生かし、三日目にわたしたちを立たせられる。わたしたちはみ前で生きる。わたしたちは主を知ろう、せつに主を知ることを求めよう。主はあしたの光のように必ず現れいで、冬の雨のように、わたしたちに臨み、春の雨のように地を潤される」。               (ホセア書 6:1-3)

 ◎とりなしの祈り

 主なる神さま。この国に生きるすべての人々から生きる希望が奪い取られてしまわないように、また私たちが自分だけの狭く小さな世界に閉じこもって、自分の都合と目先の損得にばかり執着して、無気力に、どこまでも無責任になってしまわないように、どうぞお守りください。なぜなら神さま、この国がますます悪い、よこしまな国に成り下がっていこうとしているからです。とても不平等で、ひと握りのごくわずかな人々が豊かさを独り占めし、ますます強く豊かになっていきます。その傍らで、多くの貧しい人々が貧しいままに取り残されつづけ、格差がどんどん広がっていく一方だからです。
 神さま。どんな紛争も武力によっては解決できないことに、平和と安全のための正しい戦争などありえないことに、この私たちに、今日こそはっきりと気づかせてください。しかもこの国はとうとう国家の都合と利益のために、どこへでも出かけて行って戦争をできる国になろうとしています。自衛隊員とその家族の多くの生命と生活が無駄に使い捨てにされようとしています。恐ろしいことです。政治家と大企業の経営者たちのせいばかりではなく、そういう社会のしくみを、他の誰でもなく私たち大人が選び取ってきたからです。この国がますますとても悪い社会になっていこうとするのは、身勝手で自分たちの目の前の損得しか考えてこなかった、この私たち大人の責任です。もちろんキリスト教会とすべてのクリスチャンを含めて。日本で暮らす外国人労働者とその家族の生活と生きるための当然の権利が十分に守られず、尊ばれもせず、彼らを憎んで押しのけようとする人々が声高に叫んでいます。沖縄が植民地扱いされ、そこに暮らす人々の生活と権利がないがしろにされつづけています。放射能に汚染された危険で有害な土地に、無理矢理に縛りつけられて暮らす人々が大勢います。まるで何もなかったかのように、とても危ない原子力発電所は次々と再稼働しつづけています。老人たちの生活も若い親たちと子供の生活も、置き去りにされ、少しも顧みられず、破綻しかけてます。非正規雇用で不安定な中で、多くの労働者たちがただ安く便利に使い捨てられつづけています。企業も国家も、彼らの生活に責任をまったく負おうとしません。痛くも痒くもないからです。彼らのはなはだしい苦境に対して、私たち大人には大きな責任があります。神さま、まったく申し訳ないことです。
 思いやり深く温かな社会を築いてゆくことを、この私たちにも、今日こそ本気で願い求めさせてください。心を新たにされ造りかえられて、何が良いことであなたに喜ばれることなのか、何が悪いことなのかを弁え知って、そのようにして、あなたの御心にかなって生きる私たちにならせてください(ローマ手紙12:1-2を参照)。
 主イエスのお名前によって祈ります。アーメン


                                          みことば/2016,7,10(主日礼拝) № 67
◎礼拝説教 マタイ福音書 9:9-13                        日本キリスト教会 上田教会
『医者である神に』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)(ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
  9:9 さてイエスはそこから進んで行かれ、マタイという人が収税所にすわっているのを見て、「わたしに従ってきなさい」と言われた。すると彼は立ちあがって、イエスに従った。10 それから、イエスが家で食事の席についておられた時のことである。多くの取税人や罪人たちがきて、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた。11 パリサイ人たちはこれを見て、弟子たちに言った、「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか」。12 イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。13 『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。               (マタイ福音書 9:9-13)




  神ご自身であり救い主である主イエスは、貧しい大工の息子として育ちました。初めにこの方の弟子とされたのは、ごく普通の無学な漁師たちでした。次に弟子とされたのは、人々から嫌われ馬鹿にされていた取税人でした。オギャアと生まれる場所のためには、わざわざ家畜小屋のエサ箱を選びました。神の国の教えを広める弟子としては、漁師や取税人たちを、無きに等しい者たちを! わざわざお選びになりました(コリント手紙(1)1:26-31を参照)。人間の知恵や力や賢さによらず、そんなものには全くお構いなしに、神ご自身の知恵と慈しみによって救いを成し遂げてゆくために。
  9節。取税人のことは、少しは説明しておきましょう。なぜ彼らが人々から嫌われ馬鹿にされ、仲間外れにされていたのか。そのころユダヤの国はローマ帝国の植民地にされ、ローマの国の言いなりにされていました。取税人はユダヤ人からお金を集めて、ローマの国に渡しました。家に住むための税金、道路や橋を渡るための税金、食べ物を買うための税金、いろいろな形で集められたたくさんの税金は、しかしユダヤ人のためにではなく、もっぱらローマの国のために使われました。ユダヤ人たちはローマの国にたくさんの税金を払うのも、好きなように利用されるのも、言いなりにされて支配されるのも嫌でした。「そんなことはしたくない。私たちは嫌だ」と言いたかったのです。けれど相手の方が強かったので、逆らうことが出来ませんでした。心の中では、彼らはローマの国を憎みました。また心の中では、言いなりにされて「はい。分かりました。いいえ喜んで従いますよ、はいはい」と従っている自分たちのあり方も大嫌いでした。けれどローマの国や自分自身の悪口を言う代りに、あの彼らの悪口を言いました。自分たち自身の不甲斐なさに腹を立てて嘆く代わりに、あの彼らを馬鹿にしました。自分の不幸や貧しさを彼らのせいにしました。すると、少しは心が晴れました。貧しい不幸な時代には、またそういう貧しく淋しい社会では、人はそういうふうに誰かを馬鹿にしたり、いじめたり憎んだり、仲間外れにしたりするのです。この国や世界中あちこちでそうなりつつあるように。自分の辛さや惨めさをその誰かに肩代わりさせて、それで心の憂さを晴らすために。彼らを踏みつけて惨めにさせて、その分だけ、ほんのちょっと良い気分になろうとして。けれどご覧ください。その踏みつけられた惨めな人々の傍らに寄り添って、そこに! 私たちの主イエス・キリストが立っておられます(マタイ10:42,同18:1-6,同25:31-46)。
  10-11節。主イエスの弟子にしていただいたあの彼は、友だちを大勢招いてパーティーを開きました。どうしてでしょう。何のためでしょうか。とても嬉しかったからです。その喜びをぜひ分かち合いたい、と願ったからです。昔からの友だちや、家族や仕事仲間たち。彼はその人たちをとても大切に思っています。しかも、救われた今となっては、「その一人一人にとっても、主イエスと出会うことが嬉しく心強いことにちがいない。彼らにも格別な喜びや力を与えるだろう。彼らの魂もまた、救い主を必要としている。それがあれば彼らはどんなに慰められ、心強いだろうか」と知っているからです。あの友だちもそうだ。この人もこの人もと。ここでも、信仰のことや神様のことをよく分かっているはずの人たちが怒ったり、文句を言ったり馬鹿にしたりします。このパリサイ人たちの考え方や物の見方をよくよく観察しておきましょう。プンプン腹を立てているあの彼らは、私たちの姿をよく映し出す鏡であり、『悪い先生。真似をしてはいけない悪い手本』であるからです。「なぜ、あんな人たちと一緒に飲んだり食べたりする?」と彼らは言います。どうしてなんだろうかと質問しているのではありません。非難しているのです。「主と共に座るその喜ばしい食卓には、あの人たちはふさわしくない。この立派な私たちこそがふさわしい」と言いたい。
 では質問。神さまの御前でのふさわしさとは、一体どんなものだったでしょうか? コリント手紙(1)1:26-31は、それをはっきりと物語ります。「愚かな者。弱い者。身分の低い者、軽んじられている者を。無きに等しい者をわざわざ選んだ」のだと(ほかにもコリント(1)4:6-,9:22,11:30,ローマ4:17,ルカ1:48-54,マルコ10:31,マタイ18:3,20:26)。私はよく知っている、私は強いと思い込んでいる者をはずかしめるために。どんな人間でも、神さまの前でも人様の前でも誇ったり自惚れたり思い上がってしまうことがないために。そのために、わざわざそうした。もちろん、あなたや私に対してもまったくそうだった、と。これらの言葉を繰り返し聞きつづけながら、朝も晩も読み返しながら、なおいつの間にかずいぶん偉そうな私たちです。賢いつもりの私たちであり、分かっているつもりの、豊かで強いつもりの、大きなつもりの、しっかりしているつもりの私たちです。神の前でも人様の前でもずいぶん誇っている。あるいは逆に、なんだかいじけて首をすくめている。同じことです。どっちにしても主ご自身を誇ることからずいぶん遠い。知恵ある私たちは、その自分自身の知恵について恥をかかねばなりません。力ある私たちは、その私たちの力について恥をかかねばなりません。そこそこの地位と名誉を手に入れている私たちは、そのそこそこの地位と名誉について恥をかかされ、無力な者とされねばなりません。あなたも私も、まだまだ恥をかき足りません。その浅はかな知恵があるために、神の知恵に聞くことができないでいるからです。その小さな力があるために、神の力に信頼することができずにいるからです。そのそこそこの賢さとほどほどの強さがあるために、神の賢さと強さを願い求めることも、「はい。ありがとう」と受け入れることもできずにいるからです。誇るとは何でしょうか? 「それがあるから私は安心だ。心強い」と信頼し、支えとし、頼みの綱とすることです。振り返ってみて、神の前でも人様の前でも、自分自身に向かっても、私たちはあまりにたくさんのものを支えとし、拠り所としています。多くのものを頼みの綱としています。そのあなたのどこに、主ご自身をこそ誇る余地があるでしょう。一日が終わって、私たちはその日を振り返って「よく働いた。私はよくやった」などと思うのです。あるいは「まあまあ、よくやった。ほどほどだった」などと。順調な日々にも、悩みを抱えて途方にくれる日々にも、私たちは私たち自身を思います。そして周囲の人々やモノを眺め回します。私たちの働きと知恵と賢さと、私たちの強さと弱さと、私たちの賢さと愚かさと、私たち自身の豊かさと貧しさと。一体どこに神がおられるのでしょう。私たちの毎日の生活の中の、その眼差しと腹の据え方の中の、一体どこに、生きて働いておられます神がいるでしょうか。私たちは何者だったでしょう。
 12-13節。主イエスはお答えになります;「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」と。ここで一番わかりづらいのは、真ん中に挟まれた『』の部分でしょう。『わたしが好むのは憐れみであって、いけにえではない』。旧約聖書にはこう書かれています;「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、聞くことは雄羊の脂肪にまさる。そむくことは占いの罪に等しく、強情は偶像礼拝の罪に等しいからである」「わたしは慈しみを喜び、犠牲を喜ばない。燔祭よりもむしろ神を知ることを喜ぶ」「あなたはいけにえを好まれません。たといわたしが燔祭をささげても、あなたは喜ばれないでしょう。神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません」(サムエル記上15:22,ホセア6:6,詩51:16-17)。律法学者やパリサイ人たちは、心の中でこう考えます;「私はちゃんといけにえをささげている。掟に従い、正しく立派に行動している。神に仕え、たくさん献げ、精一杯に働いている。それなのにあの彼らは」と。もしかしたら私たちも、神さまに仕え、献げものをし、働くときにあの人たちと同じような気持ちになるかも知れません。それはありえます。けれど、主はおっしゃいます。「私は憐れみをこそ求める。私の声にあなた自身が聞き従うことを願う。打ち砕かれたあなたの心、悔いて神へと立ち返るあなた自身の心をこそ、わたしは求める。他のどんなものが欲しいのでもなく、ただただ、それをこそ私は願っている」と。私たちは思います;「私が仕えている。私たちが献げている。私たちが働いていると。いけにえも憐れみも、私たちが与えている」と。けれど、本当にそうだったでしょうか。それなら、十字架の上で神ご自身が差し出し、献げてくださったものは一体何だったでしょう。神こそが私たちのために、ご自身を犠牲として献げ、ご自身の憐れみを私たちに注ぎかけてくださったのではなかったでしょうか。献げるときも、仕えるときも働くときも、この私たちこそは! そのことをはっきりと思い起こしておきたいのです。救い主がこの地上に来たのは罪人を招くためであり、その罪と悲惨さから救い出し、神の恵みとゆるしのもとへと立ち戻らせるためでした。その罪人は病人のようだったのです。その神は、医者のような神だったのです。十分に健康だから、十分に正しくふさわしいからと招いたのではありません。そうではなく、その病人のような罪人をあわれむからであり、滅びるままに捨て置くことなど出来ないと惜しんでくださったからであり、ぜひとも救い出してあげたいと切望してくださったからでした。あなたも私も病人のようでした。いいえ、いまなお病人です。「わたしは正しい。私はちゃんとやっている。私は私は」と言い立てて止まない病気があります。「人からどう思われるだろ。どう見られてしまうか」と恐れてビクビクする病気があり、「認められたい。受け入れてもらいたい。それなのにどうして」と飢え渇きつづける病気があり、「けっして忘れない。ゆるせない」と憎みつづける病気があり、「貧しい。豊かだ。有り余っている。不足している。それに比べてあの人は、この人たちは」と目くじら立てて見比べつづける病気があります。夏風邪くらいに甘く見て、うまいものでも食べてグッスリ眠ればそのうち治るとでも思っていたのですか。これこそ死に至る病気です。この病気は、あなたの命にかかわります。おもな症状――かたくなさ。了見が狭く、意固地で偏屈。冷淡な批判がましさ。なんとなくイライラすること。悪口や陰口。ごうまんと卑屈。次々とわきあがる恐れと不安。ウツウツ、モヤモヤとした気分。溜め息。物足りなさや淋しさ、心細さ。その他いろいろ。神さまにしか癒せない、あまりに危険な重い病気があり、私たちは度々この病気のとりこにされました。医者のような神であり、病人のような私たちです。いいえ。医者である神さま。病人である私たち。どの1人も例外なくかなりな重病人です。自分が病気だとは知らないでいる病人たち。どの医者にかかっていいか分からずに途方に暮れている病人たち。どうせ無理だ、手遅れだと絶望している病人たち。そして、十分な良い医者ととうとう出会って、病気を治していただいている途中の病人たち。

◇       ◇


 さあ、兄弟姉妹たち。あの宴会の場面を覗いてみましょう。元・取税人のマタイという男が、照れながら、ちょっと緊張しながら挨拶しています;「皆さん、今日はよく来てくださいました。私は主イエスと出会いました。この方です。主というのは、『主治医』という意味です。私の病気と健康にこの主治医こそが全責任を負ってくださり、必ずすっかり健康にして、幸せに生きてやがて幸せに満ち足りて死んでゆくことさえできるようにしてくださる、と太鼓判を押してくださいました。しかも治療費はタダです。びっくりでしょ。病気だなんて思っていなかったので、『お前は病気だ。放っておくと死んでしまうぞ』と最初に言われたとき、腹が立ちました。イカサマ野郎だと思いました。でもだんだん健康になってきて、それがとても嬉しくて! ぜひ、みなさんと一緒に喜びたいと思いました。皆さんにもぜひこの方と出会っていただきたくて、お招きしました。どうぞ遠慮なく、このお医者さんに診てもらってください」。税金取立て人のマタイの仲間たちはワイワイ楽しみ、大いに食べたり飲んだりし、語り合いました。その診療所の医局長である主イエスは、そこでなんと挨拶なさるでしょう。例えばこうおっしゃるかも知れません;「私は医者です。しかも自慢するみたいですが、かの有名なブラックジャック先生の100倍くらい腕がいい。しかも誰にも思い浮かべられないほどにも大金持ちなので、治療費はタダです。なにしろ病人がわたしの所に来てくれると嬉しい。しかも特に、誰にも治せないような、とてもとても難しい病気の、今にも死にそうな、どの医者からも見放されたような難しい病人が来てくれると嬉しい。死んでいた者が生き返り、いなくなっていた者を探し出せると、とても嬉しい。あなたの病気も治してあげますよ。あなたも、あなたも。じゃあ乾杯」(ルカ15:7,10,24を参照)。この風変わりなお医者さんの診察室は、お祝いパーティの宴会場でもあります。それがキリストの教会であり、毎週毎週日曜日毎にそこで起こっている出来事です。お祝いパーティの真っ最中に、診察と治療も同時進行で行われつづけます。その一風変わった病院のお祝いパーティ兼、診察・治療は、この2000年の間くりかえされつづけています。世界中のあちこちで、町中でも田舎でも、日曜日の午前中に主イエス病院の分院、診療所が建てられました。私たちもその同じ診察室の、1つの食事の席に連なりつづけます。主イエスと共にある憐れみの食卓に。救い出された罪人たちが薬を飲みながら、傷に包帯を巻いていただきながら、飲み食いしたり、歌ったりして座っています。なんという恵み、なんという喜びでしょう。祈りましょう。

2016年7月5日火曜日

7/3こども説教「わたしの血による新しい契約、と主イエスがおっしゃった」ルカ5:33‐39

 7/3 こども説教 ルカ5:33-39
 『わたしの血による新しい契約、
と主イエスがおっしゃった』

5:37 まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、新しいぶどう酒は皮袋をはり裂き、そしてぶどう酒は流れ出るし、皮袋もむだになるであろう。38 新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。(ルカ福音書 5:37)

 「わたしたちこそが神さまのことをくわしく知っているし、よくよく信じているし、正しく清らかな生活をしている」と思い込んでいる人々が主イエスに文句を言ってきました。33節。彼らの言い分です。「ヨハネの弟子たちはしばしば断食をし、また祈をしており、パリサイ人の弟子たちもそうしているのに、あなたの弟子たちは食べたり飲んだりしています」。断食は、祈りの一つの形です。もちろんあの彼らも他の皆と同じように、普通に食べたり飲んだりしていました。けれどせっかく断食するときには、まるで何日も何週間も食べていないかのようにすごくお腹がすいている顔つきや様子をわざと取り繕いました。祈るときにも、わざと大勢の人目につくように通りの角や広場で美しく格調高く感動的に祈って見せました。そういう中身のない見せかけばかりのやり方が流行っていました。人様に見せつけるために信仰深そうに振舞っている人々は、「神さま。そして紳士淑女の皆様方。わたしは一週に二度断食しており、たくさんの献げものをし、清く正しく生活し、一日に2時間以上たっぷりと祈りつづけています」などと自慢したり、そうではない他の人々をバカにしたりしていました(ルカ18:9-14,マタイ6:5-18を参照)。「偽善者どもめ」と神さまから叱られますし、とても恥ずかしいことです。
 34-35節。主イエスはご自分が『花婿』であり、キリスト教会とクリスチャン一人一人が『その花嫁』であると教えられました。「花婿が奪い去られる日が来る」とは、主イエスが十字架にかけられ、殺され、葬られることです。けれど、その三日目に復活なさり、今も生きて働いておられ、私たちといつまでも共にいてくださるのでしたね(ヨハネ福音書3:26-30,マタイ福音書25:1-13,エペソ手紙5:23-30,黙示録19:7-10,同21:2)。そのことは、別の機会に改めてお話しましょう。
  さて、37節以下。『新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れる』というのは、どういうことでしょうか。ぶどう酒とそれを入れる袋。それは、神さまを信じる信仰の中身と、信じている人のいつもの暮らしぶりやいつもの腹の思いのことです。神さまを信じる信仰の中身がすっかり新しくされました。だから! その中身にふさわしい心構えや、毎日の暮らし方があり、その新しい中身にちょうどピッタリするいつもの心の在り方や、人との付き合い方がある、ということです。ちょうど今日は聖晩餐のパンと杯のある礼拝です。周りの大人の人たちがパンを食べ、ぶどう酒を飲む様子を、子供たちはよくよく観察してみてください。そのときだけではなく、夕方にも何日か後にも家にいても道を歩いているときにも、誰といっしょの時にも! その人が『新しい皮袋』にだんだんとなってゆく様子が分かってきます。「ああそうか。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れるってこういうことだったのかあ」とよく分かりますよ。パンと杯を差し出して救い主イエスは仰いました。「これは私の体である。皆、この杯から飲みなさい。わたしの血による新しい契約である」と。「わたしたちが祝福する祝福の杯、それはキリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパン、それはキリストの体にあずかることではないかパンが一つであるから、わたしたちは多くいても一つの体なのである」(コリント手紙(1)10:16-17,11:23-29を参照)。救い主イエスが十字架の上でご自分の体を引き裂き、ご自分の血を流し尽くして、私たちのための救いを成し遂げてくださいました。その体と血を飲み食いさせられている私たちは、だんだんとその中身にふさわしい新しい皮袋になってゆきます。「ああ、そうだったのかあ」と自分自身も周囲の人々も、はっきりと気づくときが来ます。神さまの憐れみとゆるしを受けて、神さまの子供たちとされたからです。



    【割愛した部分の補足】
    (*)主イエスの血による新しい契約。神さまは、救われて神の子とされるに価しない、ふさわしくない罪人たちを、けれどゆるし、憐れみ、救うと決めておられました。そもそもの最初からの、救いのご計画です。かつて奴隷にされていたエジプトから連れ出されたときに子羊の血が流されたように、この世界と私たちが罪から救い出されるために、神の独り子イエス・キリストの血が流されました(ローマ手紙3:21-28,同5:6-11,同8:31-39,同11:30-32,ヨハネ福音書1:29-30,同3:14-21,同6:47-66,ピリピ手紙2:5-11,テモテ手紙(1)1:15, コリント手紙(1)10:16-17,同11:23-29,ヘブル手紙2:14-18,ペテロ手紙(1)2:10,エレミヤ書31:33-34「神の律法を彼らのうちに置き、彼らの心に記す。彼らの不義をゆるし、その罪を思わない。彼らは皆、主を知るようになるからである」,出エジプト記12:1-27を参照)。

 ◎とりなしの祈り

 主なる神さま。「わたしたちの日毎の糧を今日も与えてください」と天の御父に向けて願い求めて生きるように、と教えられている私たちです。「わたしたちの~」とは、この私たちのことだけではありませんでした。「わたしたちの~」とは、この私たちのことばかりではありませんでした。自分と家族と、身近な親しい人々のためだけではなく、すべての隣人たちのためにも、生きるための必要十分な糧が贈り与えられること。それを本気で願い求める私たちとならせてください。なぜなら私たちのこの国はとても不平等で、ひと握りのごくわずかな人々が豊かさを独り占めし、ますます強く豊かになっていき、多くの貧しい人々が貧しいままに取り残されつづけ、格差がどんどん広がっていく一方だからです。
 神さま。どんな紛争も武力によっては解決できないことに、平和と安全のための正しい戦争などありえないことに、この私たちに、今日こそはっきりと気づかせてください。しかもこの国はとうとう国家の都合と利益のために、どこへでも出かけて行って戦争をできる国になろうとしています。自衛隊員とその家族の多くの生命と生活が無駄に使い捨てにされようとしています。恐ろしいことです。政治家と大企業の経営者たちのせいばかりではなく、そういう社会のしくみを私たち大人が選び取ってきたからです。この国がますますとても悪い社会になっていこうとするのは、身勝手で自分たちの目の前の損得しか考えてこなかった、この私たち大人の責任です。日本で暮らす外国人労働者とその家族の生活と生きるための当然の権利が十分に守られず、尊ばれもせず、彼らを憎んで押しのけようとする人々が声高に叫んでいます。沖縄が植民地扱いされ、そこに暮らす人々の生活と権利がないがしろにされつづけています。放射能に汚染された危険で有害な土地に、無理矢理に縛りつけられて暮らす人々が大勢います。まるで何もなかったかのように、とても危ない原子力発電所は次々と再稼働しつづけています。老人たちの生活も若い親たちの生活も、置き去りにされ、少しも顧みられず、破綻しかけてます。非正規雇用で安く不安定な中で、多くの労働者たちが働かされています。企業も国家も彼らをただ安く便利に利用するばかりで、彼らの生活に責任を負いません。痛くも痒くもないからです。経済的に貧しい親に育てられた子供たちは貧しいままで、十分な教育を受ける希望をさえ諦めさせられています。毎日の三度三度の食事にも困る子供たちが数多くいます。彼らのはなはだしい苦境に対して、私たち大人には大きな責任があります。神さま、まったく申し訳ないことです。
 あなたから憐れみを受け、罪をゆるされた私どもですから、互いに対して、また隣人に対して温かく憐れみ深くあることができますように。思いやり深く温かな社会を築いてゆくことを、この私たちにも強く願い求めさせてください。心を新たにされ造りかえられて、何が良いことであなたに喜ばれることなのか、何が悪いことなのかを弁え知って、そのようにして、あなたの御心にかなって生きる私たちにならせてください(ローマ手紙12:1-2を参照)。
 主イエスのお名前によって祈ります。アーメン



7/3「あなたの罪はゆるされた」マタイ9:1‐8

                                          みことば/2016,7,3(主日礼拝) № 66
◎礼拝説教 マタイ福音書 9:1-8                         日本キリスト教会 上田教会
『あなたの罪はゆるされた』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)(ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
9:1 さて、イエスは舟に乗って海を渡り、自分の町に帰られた。2 すると、人々が中風の者を床の上に寝かせたままでみもとに運んできた。イエスは彼らの信仰を見て、中風の者に、「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪はゆるされたのだ」と言われた。3 すると、ある律法学者たちが心の中で言った、「この人は神を汚している」。4 イエスは彼らの考えを見抜いて、「なぜ、あなたがたは心の中で悪いことを考えているのか。5 あなたの罪はゆるされた、と言うのと、起きて歩け、と言うのと、どちらがたやすいか。6 しかし、人の子は地上で罪をゆるす権威をもっていることが、あなたがたにわかるために」と言い、中風の者にむかって、「起きよ、床を取りあげて家に帰れ」と言われた。7 すると彼は起きあがり、家に帰って行った。8 群衆はそれを見て恐れ、こんな大きな権威を人にお与えになった神をあがめた。       (マタイ福音書 9:1-8)


 


  1-5節。体の不自由な1人の人がいました。救い主イエスとなんとかして出会おうとして、このただお独りの主こそが自分を救ってくださると深く確信して、この人はやってきました。同じ1つの確信と希望をこの人と分かち合う4人の人たちがいました。身動きできないこの人は、救急車の担架のような戸板に寝かされたままで、主イエスのみもとまで運ばれてきました。主イエスは、「彼らの信仰を見た」(2節)と報告されています。その人たちの信仰。読むたびに、ここで考えさせられます。この人を運んできた4人の仲間たちの信仰。それは、心にかけて大切に思う1人の友だちや家族を、その愛する人を主イエスのもとへと運んでくるという信仰です。主こそがこの人を救い、心強く支え、立たせてくださると確信し、その1つの願いを心底から願い求める信仰です。戸板に乗せられ、運ばれてきた、この1人の人の信仰。それは、身をゆだねるという信仰です。この5人の信仰を、私たちもよくよく見つめたい。だって、私たちは口癖のように、まるで挨拶のように互いの信仰の大きさやグラム数を計り、値踏みし、自分に対しても他者に対しても品定めしあいます。けれど聖書自身が語る信仰は、『私は何かを知っている。何かができる。何かをちゃんと分かっている』という類いの信仰ではありません。4人の仲間たちは、大事に思っている1人の人を主イエスのもとへと連れてきました。「慰めることも励ますことも支えることも、私たち人間にはとうてい無理だが、しかし主イエスこそが救ってくださる」と信じて、ぜひそうしていただきたいと願って、彼らは連れてきました。しかも主ご自身のお働きにこそ1人の家族を、大切に思う1人の友人を委ねました。戸板に寝かされ運ばれてきたこの1人の人は、寝かされるままに寝かされていました。運ばれるままに、ただ運ばれてきました。神さまにも、友人たちにもゆだねて、神さまを仰いでいました。『私がする』ではなく、『この私のためにも、きっと必ず主こそがしてくださる』と。信仰は、委ねて待ち受ける信仰です。待ち受けて、受け取ろうとする信仰です。悩みをもって、担いきれない重い課題を抱えて、辛さや苦しみを抱えて、けれどそこで、だからこそ一途に、イエス・キリストへと愚直に向かう信仰ではありませんか。

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  しかしこの5人の人々の願いと、主イエスからの答えは食い違っています。体の不自由だったあの人と友人たちは、『起きて歩けること』を願っていたはずです。起きあがって、ごく普通に歩けること。団地の階段を上ったり下ったりできること。やがて近所のスーパーまで自分の足で歩いていって、自由に買い物ができること。若い頃のようにスタスタ歩いてどこへでも出かけてゆき、思う存分に働いたり、食べたり飲んだり、景色を眺めたり、遠くの町に住む親しい友だちを訪ねたり。あるいは自分の寿命が何ヶ月か何年か伸びて、その分よけいに、あともう少しの間、楽しく愉快に過ごせること。つまりは、いま目の前にある困難や不都合が解決することを。けれど主イエスは、「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪はゆるされたのだ」(2節)と宣言なさいます。このズレは何でしょうか。さらに主は、この2つを並べて質問をなさいます;「『あなたの罪はゆるされた』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらがたやすいか」(5節)。さて、どっちでしょうか? 主イエスご自身の見解は明らかです。『起きて歩くことや、スーパーで買い物をしたり、遠くの町に住む友だちに会いに出かけてゆくこと』のほうが、より簡単。いっそう難しい『罪のゆるし』を何よりまず、あなたのために断固として宣言し、保証したというのです。困りました。「私の目の前にある、いま現に私に立ち塞がっているこの困難と悩みこそが大問題だ。これこそ、私のすべてだ。これさえ解決するなら後は何も望まない。あとは、晴れ晴れ清々として暮らしていけるはずだ」「今の私があまり幸せではない理由は、コレとコレとコレ。こういうことさえ無くなれば」と私たちは心から望みます。その通りです。しかしなお私自身に向かってこう問わねばなりません。本当にそうだろうか。今、目の前にあるこの重い課題が解決するなら、私はそれで幸福になれるだろうか。そもそも私は、いったい何が望みなのか?
 主イエスは、「あなたの罪はゆるされたのだ」と宣言なさいます。これを不満に思い、反発する者たちがいます。律法学者たちです。信仰の権威者であり指導者・リーダーである彼らが、心の中でプンプン怒っています。「この人は神を汚している」(3節)と。なぜなら、神おひとりの他に罪をゆるす権威も力ももってはいないからです。またもや、罪の問題です。「平安や、晴れ晴れとした慰めを求めてきたのに、罪だ罪だと、罪人だからゆるしてもらえなどと、教会ではそんなことばかり語られる。バカにされたような気がする。別に警察に捕まったわけでもないのに、法律に背いて刑務所に入れられたわけでもないのに。人様にたいした迷惑をかけているわけでもないのに、それなりにきちんと生きてきたし、ちゃんと税金も払っているのに。いったいどういうつもりだ」と叱られます。「ただ罪と言われても分からないと言われ、それじゃあと丁寧に説明し始めると、「分かった分かった。もういい」とたいてい不機嫌になります。聖書が語る『罪』とは、なにより自分の好き嫌いや、したいとかしたくないとかその時々の気分を先立てて、神さまに逆らうことです。神さまにも人様にも余計な指図は受けたくない、自分の思い通りに好きなように生きてゆくと逆らって、「私が私が」と我を張って心を頑固にさせつづけること。これが罪の土台であり出発点です。私たちの最も奥深いところにある心の病気です。神さまとの関係が壊れてしまう。すると、そこから様々な惨めさや苦しみが末広がりに生み出されてゆきました。自分と他者との関係がゆがみ、壊れ去り、自分とこの世界との関係が崩れ、私は『あるべき喜ばしい私自身』を見失い、恐れと不安と物寂しさの暗闇に閉じ込められてゆく。自分はいったい何者なのか。どこに足を踏みしめて立っているのか。何を目指して何を願って生きているのかを見失って、どこまでもさまよい出てゆく私。『神さまに逆らうこと』から始まるこの惨めさや心細さから、私たちは、自分自身の力によっては救い出されません。『罪をゆるす』とは、その惨めさや心細さから、その深い絶望から救い出すことです。どこへ向かって? 神さまの憐れみのもとへと。隣人や愛する家族のもとへと。大切な友人たちや仲間たちのもとへと。『あるべき喜ばしい自分自身』へと。本人も周囲の人々も『体が不自由だ』と思い込んでいました。けれど体ばかりではなく、この彼も私たち自身もむしろ『心こそがとてもとても不自由』でした。そのために周りの人々を苦しめ、自分自身も苦しみつづけてきました。それなら、いったい誰が、この私を救い出してくれるのでしょう。ぜひ知りたいのです。いったい誰ができるのか?  神おひとりのほかに、誰ができるだろうか。だれも出来ない。ただ、神だけができる。神にできないことは何一つないのだから(創世記18:14,エレミヤ32:17,27,ゼカリヤ8:6,マタイ3:9,19:26,ルカ1:36,-37,ローマ4:17,19-21)。すると、あのプンプン怒って腹を立てていた律法学者たちは、もう一歩のところまでたどり着いていました。神さまにも人さまにも逆らいつづける罪の重荷に縛りつけられて、だから、しっかりしたくても出来ませんでした。あの彼も、この私たちも。主イエスの宣言;『子よ、しっかりしなさい。あなたの罪はゆるされたのだ』に含まれていた真実に、あとほんの一歩のところまで迫り、もう少しでたどり着く寸前でした。神にしか出来ないことを、『できる。私がする』と仰る方が、そこにいる。主はさらに、はっきりと仰います。「人の子(=イエスご自身のこと。主は、しばしばご自分をこう言い表す)は地上で罪をゆるす権威をもっていることが、あなたがたに分かるために」(6節)と。兄弟姉妹たち、ここです。ここに、福音の核心があります。神さまに背を向けて離れ去り、「私が私が。自分で自分で。私のやり方や私の気持ちは」と意固地になり、そこからさまざまな惨めさと心細さ、絶望と恐れが生じて、私たちを苦しめています。その狭くて薄暗い場所から、晴れ晴れとした安らかな場所へと連れ戻すこと。神さまの憐れみのもとへと。罪から救う権威は天上にあり、ただ神さまにしかできない。なのに、なぜ、あの方が地上で罪をゆるす権威を持っているのか。神ご自身である救い主イエス・キリストが、この地上へと降りくだったからです。この地上に、この私たちのいつもの生活の場所へと。あなたにも、こんな私たちにさえも、救いを届けるために。「神を汚している」とあの彼らは腹を立てていました。なるほど。神を汚し、神の権威をはずかしめて冒涜している、と言えるかも知れません。決して犯すことができないはずの神ご自身の神聖さがあり、汚してはならなかったはずの尊厳があります。にもかかわらず、その神聖さと尊厳は、他の誰によってでもなく! 神ご自身によって惜しげもなく手放され、ポイと投げ捨てられてしまったのですから。神ご自身によるご自身の冒涜、ご自身で自分を汚し、はずかしめている。そう見えるほどの、徹底したへりくだりでした。私たちの主なる神さまは、神であることの神聖さや力や権威よりも、誉れよりも、まったく別のものを、『私たち罪人が神の憐れみを受け取って生きること』を選び取ってくださいました。そのほうが千倍も万倍も価値がある。そのほうがずっと素敵だと。小さな1つの魂が救われることを喜ぶ神さまには、その大喜びの前に、ご自身の格式も体裁も権威も、取るに足りないつまらない、どうでもよいものと成り下がりました。なんということでしょう。主イエスは中風の者に向かっておっしゃいます。「起きよ、床を取りあげて家に帰れ」(6節)。その人はすぐに立ち上がり、皆の見ている前を帰っていきました。もちろん、寝かされていた救急車の担架のような戸板を担いで。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。『担いでゆくべき戸板』とは何でしょう。身動きならず手も足も出ず、横たわっていた、歯がゆく心細い日々です。この私の恐れと不安と無力感です。
 末尾の8節、「群衆はそれを見て恐れ、こんな大きな権威を人にお与えになった神をあがめた」は、やや誤解されやすい報告です。罪をゆるす権威も含めて、天と地のすべて一切の権威を、救い主イエスは天の御父から授けられ、世の終わりまでその権威を一手に握りつづけ、世界の王としてお働きになります。神の権威はただ神ご自身のうちにだけ留まりつづけ、キリスト教会であれ、牧師や司教や歴代数十名のローマ法王であれ、アブラハム、モーセ、ダビデ、ペテロ、パウロ、マザーテレサ、八重の桜や塩狩峠の青年であれ、たかだか人間にすぎない者たちがその権威のおすそ分けにあずかったり、好き勝手に行使したり、まるで神の代理人であるかのようにふるまったりしてはいけません。そんな偽りの権威を、神さまはどの人間にもどんな団体にも許してはいません。だから人間をそのように崇めたり祭り上げたり、神格化してもなりません。それこそ本当に神さまをはずかしめ、神さまを汚すことになってしまいます。「ナザレ村のイエス。このお独りのかたによる以外に救いはない。私たちを救いうる名は天下の誰にも与えられていない」。権威とは、そのことです。もし万一、それを度外視してしまうなら、キリスト教会と私たちクリスチャンは大きな災いを抱え、すべての人の中で最も哀れむべき惨めな存在に成り下がってしまう他ありません。神ご自身である救い主イエスが地上に降りてこられ、私たち罪人の救いのためにご自分の命さえ差し出してくださいました。「権威を人にお与えになった」とは、このことです。「神はそのひとり子を賜ったほどに世を愛された。御子イエス・キリストを信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(使徒4:10-12,ローマ手紙8:32,ヨハネ福音書3:16)。救い主イエスの唯一の権威のもとにだけ、私たちは安らかに立つことができます。全世界と私たちの主である方がおられます。私たちを最後の最後まで担いつづけ、全責任を負い通してくださるただお独りの主がおられます。この私のためにも、あなたのためにも。