2016年7月5日火曜日

7/3「あなたの罪はゆるされた」マタイ9:1‐8

                                          みことば/2016,7,3(主日礼拝)  66
◎礼拝説教 マタイ福音書 9:1-8                         日本キリスト教会 上田教会
『あなたの罪はゆるされた』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
9:1 さて、イエスは舟に乗って海を渡り、自分の町に帰られた。2 すると、人々が中風の者を床の上に寝かせたままでみもとに運んできた。イエスは彼らの信仰を見て、中風の者に、「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪はゆるされたのだ」と言われた。3 すると、ある律法学者たちが心の中で言った、「この人は神を汚している」。4 イエスは彼らの考えを見抜いて、「なぜ、あなたがたは心の中で悪いことを考えているのか。5 あなたの罪はゆるされた、と言うのと、起きて歩け、と言うのと、どちらがたやすいか。6 しかし、人の子は地上で罪をゆるす権威をもっていることが、あなたがたにわかるために」と言い、中風の者にむかって、「起きよ、床を取りあげて家に帰れ」と言われた。7 すると彼は起きあがり、家に帰って行った。8 群衆はそれを見て恐れ、こんな大きな権威を人にお与えになった神をあがめた。       (マタイ福音書 9:1-8)


 


  1-5節。体の不自由な1人の人がいました。救い主イエスとなんとかして出会おうとして、このただお独りの主こそが自分を救ってくださると深く確信して、この人はやってきました。同じ1つの確信と希望をこの人と分かち合う4人の人たちがいました。身動きできないこの人は、救急車の担架のような戸板に寝かされたままで、主イエスのみもとまで運ばれてきました。主イエスは、「彼らの信仰を見た」(2節)と報告されています。その人たちの信仰。読むたびに、ここで考えさせられます。この人を運んできた4人の仲間たちの信仰。それは、心にかけて大切に思う1人の友だちや家族を、その愛する人を主イエスのもとへと運んでくるという信仰です。主こそがこの人を救い、心強く支え、立たせてくださると確信し、その1つの願いを心底から願い求める信仰です。戸板に乗せられ、運ばれてきた、この1人の人の信仰。それは、身をゆだねるという信仰です。この5人の信仰を、私たちもよくよく見つめたい。だって、私たちは口癖のように、まるで挨拶のように互いの信仰の大きさやグラム数を計り、値踏みし、自分に対しても他者に対しても品定めしあいます。けれど聖書自身が語る信仰は、『私は何かを知っている。何かができる。何かをちゃんと分かっている』という類いの信仰ではありません。4人の仲間たちは、大事に思っている1人の人を主イエスのもとへと連れてきました。「慰めることも励ますことも支えることも、私たち人間にはとうてい無理だが、しかし主イエスこそが救ってくださる」と信じて、ぜひそうしていただきたいと願って、彼らは連れてきました。しかも主ご自身のお働きにこそ1人の家族を、大切に思う1人の友人を委ねました。戸板に寝かされ運ばれてきたこの1人の人は、寝かされるままに寝かされていました。運ばれるままに、ただ運ばれてきました。神さまにも、友人たちにもゆだねて、神さまを仰いでいました。『私がする』ではなく、『この私のためにも、きっと必ず主こそがしてくださる』と。信仰は、委ねて待ち受ける信仰です。待ち受けて、受け取ろうとする信仰です。悩みをもって、担いきれない重い課題を抱えて、辛さや苦しみを抱えて、けれどそこで、だからこそ一途に、イエス・キリストへと愚直に向かう信仰ではありませんか。

       ◇

  しかしこの5人の人々の願いと、主イエスからの答えは食い違っています。体の不自由だったあの人と友人たちは、『起きて歩けること』を願っていたはずです。起きあがって、ごく普通に歩けること。団地の階段を上ったり下ったりできること。やがて近所のスーパーまで自分の足で歩いていって、自由に買い物ができること。若い頃のようにスタスタ歩いてどこへでも出かけてゆき、思う存分に働いたり、食べたり飲んだり、景色を眺めたり、遠くの町に住む親しい友だちを訪ねたり。あるいは自分の寿命が何ヶ月か何年か伸びて、その分よけいに、あともう少しの間、楽しく愉快に過ごせること。つまりは、いま目の前にある困難や不都合が解決することを。けれど主イエスは、「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪はゆるされたのだ」(2)と宣言なさいます。このズレは何でしょうか。さらに主は、この2つを並べて質問をなさいます;「『あなたの罪はゆるされた』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらがたやすいか」(5)。さて、どっちでしょうか? 主イエスご自身の見解は明らかです。『起きて歩くことや、スーパーで買い物をしたり、遠くの町に住む友だちに会いに出かけてゆくこと』のほうが、より簡単。いっそう難しい『罪のゆるし』を何よりまず、あなたのために断固として宣言し、保証したというのです。困りました。「私の目の前にある、いま現に私に立ち塞がっているこの困難と悩みこそが大問題だ。これこそ、私のすべてだ。これさえ解決するなら後は何も望まない。あとは、晴れ晴れ清々として暮らしていけるはずだ」「今の私があまり幸せではない理由は、コレとコレとコレ。こういうことさえ無くなれば」と私たちは心から望みます。その通りです。しかしなお私自身に向かってこう問わねばなりません。本当にそうだろうか。今、目の前にあるこの重い課題が解決するなら、私はそれで幸福になれるだろうか。そもそも私は、いったい何が望みなのか?
 主イエスは、「あなたの罪はゆるされたのだ」と宣言なさいます。これを不満に思い、反発する者たちがいます。律法学者たちです。信仰の権威者であり指導者・リーダーである彼らが、心の中でプンプン怒っています。「この人は神を汚している」3節)と。なぜなら、神おひとりの他に罪をゆるす権威も力ももってはいないからです。またもや、罪の問題です。「平安や、晴れ晴れとした慰めを求めてきたのに、罪だ罪だと、罪人だからゆるしてもらえなどと、教会ではそんなことばかり語られる。バカにされたような気がする。別に警察に捕まったわけでもないのに、法律に背いて刑務所に入れられたわけでもないのに。人様にたいした迷惑をかけているわけでもないのに、それなりにきちんと生きてきたし、ちゃんと税金も払っているのに。いったいどういうつもりだ」と叱られます。「ただ罪と言われても分からないと言われ、それじゃあと丁寧に説明し始めると、「分かった分かった。もういい」とたいてい不機嫌になります。聖書が語る『罪』とは、なにより自分の好き嫌いや、したいとかしたくないとかその時々の気分を先立てて、神さまに逆らうことです。神さまにも人様にも余計な指図は受けたくない、自分の思い通りに好きなように生きてゆくと逆らって、「私が私が」と我を張って心を頑固にさせつづけること。これが罪の土台であり出発点です。私たちの最も奥深いところにある心の病気です。神さまとの関係が壊れてしまう。すると、そこから様々な惨めさや苦しみが末広がりに生み出されてゆきました。自分と他者との関係がゆがみ、壊れ去り、自分とこの世界との関係が崩れ、私は『あるべき喜ばしい私自身』を見失い、恐れと不安と物寂しさの暗闇に閉じ込められてゆく。自分はいったい何者なのか。どこに足を踏みしめて立っているのか。何を目指して何を願って生きているのかを見失って、どこまでもさまよい出てゆく私。『神さまに逆らうこと』から始まるこの惨めさや心細さから、私たちは、自分自身の力によっては救い出されません。『罪をゆるす』とは、その惨めさや心細さから、その深い絶望から救い出すことです。どこへ向かって? 神さまの憐れみのもとへと。隣人や愛する家族のもとへと。大切な友人たちや仲間たちのもとへと。『あるべき喜ばしい自分自身』へと。本人も周囲の人々も『体が不自由だ』と思い込んでいました。けれど体ばかりではなく、この彼も私たち自身もむしろ『心こそがとてもとても不自由』でした。そのために周りの人々を苦しめ、自分自身も苦しみつづけてきました。それなら、いったい誰が、この私を救い出してくれるのでしょう。ぜひ知りたいのです。いったい誰ができるのか?  神おひとりのほかに、誰ができるだろうか。だれも出来ない。ただ、神だけができる。神にできないことは何一つないのだから(創世記18:14,エレミヤ32:17,27,ゼカリヤ8:6,マタイ3:9,19:26,ルカ1:36,-37,ローマ4:17,19-21)。すると、あのプンプン怒って腹を立てていた律法学者たちは、もう一歩のところまでたどり着いていました。神さまにも人さまにも逆らいつづける罪の重荷に縛りつけられて、だから、しっかりしたくても出来ませんでした。あの彼も、この私たちも。主イエスの宣言;『子よ、しっかりしなさい。あなたの罪はゆるされたのだ』に含まれていた真実に、あとほんの一歩のところまで迫り、もう少しでたどり着く寸前でした。神にしか出来ないことを、『できる。私がする』と仰る方が、そこにいる。主はさらに、はっきりと仰います。「人の子(=イエスご自身のこと。主は、しばしばご自分をこう言い表す)は地上で罪をゆるす権威をもっていることが、あなたがたに分かるために」(6節)と。兄弟姉妹たち、ここです。ここに、福音の核心があります。神さまに背を向けて離れ去り、「私が私が。自分で自分で。私のやり方や私の気持ちは」と意固地になり、そこからさまざまな惨めさと心細さ、絶望と恐れが生じて、私たちを苦しめています。その狭くて薄暗い場所から、晴れ晴れとした安らかな場所へと連れ戻すこと。神さまの憐れみのもとへと。罪から救う権威は天上にあり、ただ神さまにしかできない。なのに、なぜ、あの方が地上で罪をゆるす権威を持っているのか。神ご自身である救い主イエス・キリストが、この地上へと降りくだったからです。この地上に、この私たちのいつもの生活の場所へと。あなたにも、こんな私たちにさえも、救いを届けるために。「神を汚している」とあの彼らは腹を立てていました。なるほど。神を汚し、神の権威をはずかしめて冒涜している、と言えるかも知れません。決して犯すことができないはずの神ご自身の神聖さがあり、汚してはならなかったはずの尊厳があります。にもかかわらず、その神聖さと尊厳は、他の誰によってでもなく 神ご自身によって惜しげもなく手放され、ポイと投げ捨てられてしまったのですから。神ご自身によるご自身の冒涜、ご自身で自分を汚し、はずかしめている。そう見えるほどの、徹底したへりくだりでした。私たちの主なる神さまは、神であることの神聖さや力や権威よりも、誉れよりも、まったく別のものを、『私たち罪人が神の憐れみを受け取って生きること』を選び取ってくださいました。そのほうが千倍も万倍も価値がある。そのほうがずっと素敵だと。小さな1つの魂が救われることを喜ぶ神さまには、その大喜びの前に、ご自身の格式も体裁も権威も、取るに足りないつまらない、どうでもよいものと成り下がりました。なんということでしょう。主イエスは中風の者に向かっておっしゃいます。「起きよ、床を取りあげて家に帰れ」6節)。その人はすぐに立ち上がり、皆の見ている前を帰っていきました。もちろん、寝かされていた救急車の担架のような戸板を担いで。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。『担いでゆくべき戸板』とは何でしょう。身動きならず手も足も出ず、横たわっていた、歯がゆく心細い日々です。この私の恐れと不安と無力感です。
 末尾の8節、「群衆はそれを見て恐れ、こんな大きな権威を人にお与えになった神をあがめた」は、やや誤解されやすい報告です。罪をゆるす権威も含めて、天と地のすべて一切の権威を、救い主イエスは天の御父から授けられ、世の終わりまでその権威を一手に握りつづけ、世界の王としてお働きになります。神の権威はただ神ご自身のうちにだけ留まりつづけ、キリスト教会であれ、牧師や司教や歴代数十名のローマ法王であれ、アブラハム、モーセ、ダビデ、ペテロ、パウロ、マザーテレサ、八重の桜や塩狩峠の青年であれ、たかだか人間にすぎない者たちがその権威のおすそ分けにあずかったり、好き勝手に行使したり、まるで神の代理人であるかのようにふるまったりしてはいけません。そんな偽りの権威を、神さまはどの人間にもどんな団体にも許してはいません。だから人間をそのように崇めたり祭り上げたり、神格化してもなりません。それこそ本当に神さまをはずかしめ、神さまを汚すことになってしまいます。「ナザレ村のイエス。このお独りのかたによる以外に救いはない。私たちを救いうる名は天下の誰にも与えられていない」。権威とは、そのことです。もし万一、それを度外視してしまうなら、キリスト教会と私たちクリスチャンは大きな災いを抱え、すべての人の中で最も哀れむべき惨めな存在に成り下がってしまう他ありません。神ご自身である救い主イエスが地上に降りてこられ、私たち罪人の救いのためにご自分の命さえ差し出してくださいました。「権威を人にお与えになった」とは、このことです。「神はそのひとり子を賜ったほどに世を愛された。御子イエス・キリストを信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(使徒4:10-12,ローマ手紙8:32,ヨハネ福音書3:16。救い主イエスの唯一の権威のもとにだけ、私たちは安らかに立つことができます。全世界と私たちの主である方がおられます。私たちを最後の最後まで担いつづけ、全責任を負い通してくださるただお独りの主がおられます。この私のためにも、あなたのためにも。