2016年7月19日火曜日

7/17こども説教「良いことをするのと悪いことをするのと、どちらが良いか?」ルカ6:6‐11

7/17 こども説教 ルカ6:6-11
 『良いことをするのと悪いことをするのと、
どちらが良いか?』
       ~安息日違反(2)~

6:6 また、ほかの安息日に会堂に はいって教えておられたところ、そこに右手のなえた人がいた。・・・・・・9 そこでイエスは彼らにむかって言われた、「あなたがたに聞くが、安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」。      (ルカ福音書 6:6-9

  安息日にしてはいけないはずのことを、救い主イエスはわざと次々とする。そして当時の信仰の専門家たちと厳しく言い争います。「神さまが決めたはずの律法や安息日が大嫌いで、どうでもいいと思っていた」、わけではありません。むしろ逆で、神さまが決めたはずの律法や安息日をとてもとても大切に思っておられたのです。だから、してはいけないと人々が思い込んでいたことを、わざわざして見せました。安息日(=日曜日)は何のためにあるのか。日曜日から始まる一週間ずつを、どんなふうに生きていくことができるのかを、人々がすっかり見失っていたからです。ただただ形ばかりの、中身のない虚しい約束事に成り下がっていた『神さまからの律法』に、もう一度、中身と生命を吹き込むためにです(*)。もともと安息日は、自分も世界のすべても自分や他のナニカのものではなく神さまのものだと知り、神さまからの祝福を受け取り、その祝福のもとに改めて生きはじめるためにあります。神さまからの祝福を誰もが受け取り、神さまを心から喜び、神さまに聴き従って幸いに嬉しく生きるために。
  さて、安息日に、神さまのものである祈りの家で、主イエスは右手がなえて自由に使えずに困っていた人のその手を治してあげました(他の日、他の場所ではなく、わざわざ安息日に、わざわざ神の祈りの家で。困っていたその人のためであり、また、そこに集まったすべての人々にも、安息日(=日曜日)は何のためにあるのか。日曜日から始まる一週間ずつを、どんなふうに生きて死ぬことができるのかを、もう一度、思い起こさせるためにです。9節、主イエスはそこにいる皆に向かって問いかけました。「あなたがたに聞くが、安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」。しーんとして、誰も答えません。答えが分からなかったからではありません。ほんのちょっと考えてみるだけで、小さな子供にも誰にでもすぐに分かるはずのことでした。けれど、規則をただただ守るのに精一杯で、先生たちも生徒の誰一人も そんなことを少しも考えたことがありませんでした。皆が、いきなり気づきました。『偉い先生たちから教えられてきたことを、何も考えずに、教えられるままに、ただただ鵜呑み(=うのみ。人から知らされた言葉やその内容を、それが正しいか間違っているのかとよく考えもせず、そのまま、ただ受け入れてしまうこと)にしていただけだった。何も考えず鵜呑みにしていたおかげで、善いことをぜず悪いことをしつづけ、命を救わず殺しつづけてきてしまった。おかげで、ぼくも私も悪者たちの仲間になっていた。神さまを大事にするふりをして、神さまの御心なんかそっちのけにしていた。人間のことばかり思い煩いつづけて暮らしていた。ああ、この自分もそうだった』と、いきなり突きつけられてしまいました。激しく怒って、主イエスを殺してしまおうと相談しはじめた人々11節)も、そのことにはっきりと気づきました。よし、良かった ついにとうとう神さまからの祝福を受けて生きはじめるための出発点に、そこにいた全員が立たされたのです。この私たち皆も。目の前には二種類の正反対の道がつづいています。一つの道は、神さまからの祝福を受け取って生きる道。そしてもう一つの道は、神さまからますます離れ去っていく道と。



           【補足説明/律法】
            (*)「律法を廃止するためではなく、むしろ成就するために私は来た」(マタイ福音書5:17)と主イエスは宣言する。宣教活動の冒頭の長い長い一連の説教は、その具体的な実践である(マタイ5-7章,ルカ6:20-49を参照)。長い年月の間に『律法』は『律法主義』に変質し、中身と生命を失っていた。その律法に再び生命を吹き込み、そこに込められた神ご自身の願いを成し遂げること。律法の本来的な働きと目的を、宗教改革者らは『律法の三用益』と説き明かした;(1)自分自身の罪と悲惨を告げ知らせ、(2)憐れみとゆるしを求めて救い主イエスのもとへと罪人らを招き入れ、(3)救われて新しく生きはじめた者のための生活指針となると。救われた者たちは、恵みを受けた結果として、感謝の実を結ぶ。神を愛し、隣人を自分のように愛し尊び、良い働きをしつつ生きる者とされてゆく。神さまが、そうならせてくださる。それが、クリスチャンとされていることの確かな希望である。