2015年9月22日火曜日

9/20こども説教「とても気前の良い神」マタイ20:1-16

 9/20 こども説教 マタイ福音書 20:1-16    牧師 かねだせいじ
 『とても気前の良い神』


「自分の賃銀をもらって行きなさい。わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。自分の物を自分がしたいようにするのは、当りまえではないか。それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか」             (マタイ20:14-15

  神さまが王様である国がどんなふうか、その国でどんなふうに暮らしていくことができるのかを、主イエスがたとえ話を用いて教えてくださっています。たとえ話は、何が何をたとえているのかを心に留めながら読むのでした。では、この「不思議なぶどう園の不思議な主人」は誰のこと? 神さまですね。じゃあ、その「ぶどう園」が神さまの国ってことか。すると、雇われてそこで働く労働者たちは誰のこと。私たちですね。「わたしのぶどう園に来て、あなたも働きなさい」と主人は朝から夕方まで、何度も何度も労働者たちを呼びに出かけていきます。わざわざ自分で出かけていきます。大事なことをお伝えしておきますけど、神さまは私たち人間とはモノの考え方や感じ方も、することなすこと、だいぶん違っています。『私たち人間とはだいぶん違うことを考えたりしたりする神さまだ』と、覚えておいてください。「猫の手も借りたいほど仕事が忙しくて、人手不足で、それで」なんて思ったら大間違いですよ。わざわざ「私のぶどう園に来て働きなさ~い。あなたも、あなたも」と一日中、何度も何度も出かけて誘っているのには理由があります。分かりますか? 神さまの国である「ぶどう園」に来て、そこで働いている人もいるし、まだ「ぶどう園」に来ていなくて、市場や広場や道端のあちこちでウロウロしていたり、ただボーと立っている人もいます。「なぜ何もしないで、一日中ただボーっと立っているのか?」と神さまが質問します。「誰も雇ってくれなかったんですよお」と彼らが答えます。ただボーッと突っ立ってるのが楽しくてじゃなくて、そうしているのが好きだからじゃなくて、仕方なしに立ってたんですよ。可哀そうでしょ、淋しいですね。そうやって立っているうちに、あっという間にお爺さんお婆さんになって時間切れになっちゃうんですから。だから、「どうして何もしないで立っているのか」と質問してあげました。だから、「じゃあ、あなたがたもぶどう園に行きなさい」と誘ってあげました。だってその人たちが、あんまり可哀そうで惨めだったからです。こういう神さまですよ。
皆に一日一デナリオンずつの約束で仕事に雇いました。一日一デナリは仕事の賃金としてはごく普通です。ヨソの仕事場でも同じくらいの値段で働かせていましたから、「ああ普通のことか。ヨソの働き場所と同じか」と勘違いしやすかったのです。夕方の支払いのとき、朝早くから働いた労働者たちが文句を言って、カンカンに怒っていましたね。12節です、「この最後の者たちは一時間しか働かなかった。私たちは朝早くから一日中、暑い中をクタクタになって働いた。それなのに同じ扱いをするなんて、ずるいじゃないか。ひどいじゃないか、エコひいきだ」。支払いの順番をわざと逆にして、後から来た人たちが皆1デナリオンずつ受け取るのを、先に来た人たちにわざわざ眺めさせたことにも気づきましたね(8節)。それは何のため? プンプン怒らせて、こうやって文句を言わせるためにです。そして、このぶどう園がヨソの仕事場と全然違う、とても不思議な場所だということ。そこで神さまが、私たちが考えることとずいぶん違うことを考えて、行なっていることを教えてあげるためにです。これは、かなり難しいです。「チンプンカンプンで、さっぱり分からない。理解もできないし納得できない」という人がいっぱいいるかも知れません。14-15節;「自分の賃銀をもらって行きなさい。わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。自分の物を自分がしたいようにするのは、当りまえではないか。それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか」。
とても気前のいい神さまなんですって。こういうふうに皆を取り扱うんですって。妬ましくなったり、嫌な気がする人もいるでしょう。神の国はこういう所で、もうすでにどこもかしこも神の国のぶどう園の敷地の中です。「わたしのぶどう園に来て働きなさい」と誘われて、来て働いてみて、それで嬉しかったですか? あなたはどうですか? あなたは、あなたは? ――本当。ああ、それなら良かった。


◎とりなしの祈り

 イエス・キリストの父なる神さま、だからこそ確かに私たちの本当の父になってくださり、主イエスをとおして私たちをあなたの本当の子供たちとして迎え入れ、養い、支え、守りとおしてくださる神さま。心から感謝をいたします。あなたを信じる信仰をますます私たちに与えてください。あなたの御心を思い、あなたの御言葉にますます聴き従って生きる私たちとならせてください。
  神さま。国と国のケンカを戦争というそうです。国と国も、大人同士も、夫婦も親子も、子供同士でも、外国の人とも誰とでも、ケンカをしないでいさせてください。ケンカは、「他の人からやっつけられないように、先に自分から相手をやっつけるんだ。誰かからいじめられないように、自分から誰かをいじめたり、そのいじめの仲間入りをしちゃおう」という誰かの言い訳や、なま狡い考えから始まります。自分たちさえよければそれでいいんだという自分勝手な理屈からはじまります。神さま、この国はいま自分勝手で臆病でなま狡くて自分勝手な国に成り下がろうとしています。げんこつで人を傷つけて、大声でどなって、怖い顔をして相手を脅かせて、偉そうにいばろうとしています。人殺しの道具をたくさん作って売って、お金儲けをしようとしています。その傍らで、貧乏な大人や子供や外国人や貧乏なお年寄りを放ったらかしにしようとしています。困っていても手を差し伸べようとしない国になろうとしています。ですから神さま。まず、この私たちに勇気と優しい心を与えてください。戦争やケンカをはじめようとする人たちに、私たちも、大きな声で「やめて」と言うことができますように。やめて、やめて、やめてと何度でも何度でもずっと諦めないで、その人たちに立ち向かう勇気と辛抱強さを与えてください。困っている人や、貧乏な人や、心や体を弱らせている人たちや、心細く暮らす人たちに、それが日本人でも外国の人たちでも、手を差し伸べる私たちにならせてください。
 主イエスのお名前によって祈ります。アーメン


9/20「律法を成就するために」マタイ5:17-20,23:23-28

                                        みことば/2015,9,20(主日礼拝)  25
◎礼拝説教 マタイ福音書 5:17-20, 23:23-28        日本キリスト教会 上田教会

『律法を成就するために』   

  牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

5:17 わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。18 よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。19 それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。20 わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。           (マタイ福音書 5:17-20)


17-18節。神であられる救い主イエス・キリストは、神であるまま同時に生身の肉体を受け取り、人間となられ、この世界に降りて来られました。神の国を宣べ伝え、十字架にかかって殺され、葬られ、その三日目に復活し、復活したその姿を多くの弟子たちに見せて下さり、弟子たちが見ている目の前で天に昇っていかれ、今も生きて働いておられ、やがて再び来られます。それがどういうことなのか。何のためなのか。この世界と私たちのために何をしてくださり、私たちをどのように導き、どこへと連れ出してくださるのか。そのことが、いよいよここから『律法』との関わりの中で、また同時に、『旧約聖書』との関わりの中で、イエスご自身によって説き明かされます。少し紛らわしいのですが、ここでも、「律法」という言葉は二重の意味で用いられています。(1)神から授けられた、神の民が守るべき生活ルール(=律法)という意味。シナイ山の上で二枚の石の板に刻まれた十の戒めをその中心の内容としています(出エジプト記20:1-17,申命記5:6-21,マタイ福音書22:34-40)(2)旧約聖書を「律法と預言者」あるいは、「律法と預言者と諸書」などと一般に呼び習わしてきました。この(1)(2)二つの意味を含んで、ここで語られています。旧約聖書では、「救い主がやがてこの世界に来られて、世界の救い祝福を成し遂げる」と約束しつづけました。
  「主イエスは律法が嫌いだったんじゃないか。だから度々、律法破りみたいな乱暴なことをわざと次々に行ったし、律法学者と論争したし、神殿も毛嫌いして破壊予告みたいなことを言っていた。過激なテロリストや無政府主義者みたいな人物だったようだ」などと、そそっかしいクリスチャンが誤解して言います。確かに、そういうふうに見えないこともない、かも知れない。けれど実際には、主イエスは神さまからの律法をとても重んじていました。ここで読んでいるとおりです。神殿も、「天の父の家である」と大切に思っておられました。けれど律法と神殿の惨憺たる現状をつぶさにご覧になって心を痛め、「ああエルサレムよ」と嘆き、涙したり、「『わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである』と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」(21:12-13)と神殿境内で商人たちの店や屋台をひっくり返したり、投げ捨てたりとカンカンになって激怒なさり、乱暴狼藉を働きました。「神の宮を打ち壊し、三日の後に建てる」(マタイ26:61,27:40,ヨハネ2:19-21)とも、確かに仰いました。主イエスは律法を重んじました。だからこそ、うわべを取り繕うばかりの律法主義者・ただただ形ばかりの形式主義者たちの言動を憎み、その腹の中の思いにガッカリしつづけました。「あなたがた、偽善者たちよ」と。形式化し、不正と偽善にまみれた神殿の有様を深く悲しみ嘆き、その全面的な再建を思い描き、思い描いただけでなく、成し遂げました。どのようにして? 
  あらゆるすべてのものごとが形だけのものになり、うわべだけの中身も生命もないものに成り下がってしまう危険を孕んでいます。神さまを信じる信仰も。神に従って生きる生活ルールもまた、形骸化し、中身と生命を失ってしまう危険にさらされ続けます。シナイ山の上で授けられた戒めは十項目でした。よくよく考えてみるならば、守るのがかなり難しいような厳しい内容。1500年ほどの時代をへて、それらは600から800個もの細則と運用規則に膨れ上がりました。「ああ、あれね。なんだ、そんなことかあ。私は小さな子供の頃からそれらを全部しっかりと守ってきました。はいはい、他に何か足りないものがありますか、あれば仰ってください」(マタイ19:20参照)と、裕福で家柄のよい人々なら誰でも胸を張れるほどの、ごくごく簡単な約束事に。その分だけ律法は、神さまご自身の元々の願いや心とは遠くかけ離れた、中身と生命のないものへと変質してしまいました。5-7章の、山の上での主イエスの長い長い説教は、中身と生命を失ってしまった、死にかけている律法に、もう一度生命を吹き込もうとするものです。なぜなら神さまからの律法こそが、神さまの御心であったからです。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして主なる神さまを愛すること。隣人を自分自身のように尊び愛すること。ここにこそ、神さまを信じて生きることの生命がありつづけるからです。
  20節。「あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に入ることはできない」。この発言がカギです。十字架直前の一週間の間に、主イエスは祭司長たちや民の長老たちに、つまり律法の専門家であると見なされていた人々に語りかけます。「よく聞きなさい。取税人や遊女は、あなたがたより先に神の国にはいる。というのは、ヨハネがあなたがたのところにきて、義の道を説いたのに、あなたがたは彼を信じなかった。ところが、取税人や遊女は彼を信じた。あなたがたはそれを見たのに、あとになっても、心をいれ変えて彼を信じようとしなかった』」(マタイ21:31-32)福音書の中で、主イエスご自身から、どうして律法学者やパリサイ人たちやその言動が目の敵のようにして非難され、攻撃され、「それは間違っている。間違っている」と指摘されつづけるのか。彼らは、私たちクリスチャン自身を映し出す鏡だからです。あの彼らこそが私たち自身だからです。彼らのふり見て我がふり直せ。それで、5:17以下と共に23:23-28もご一緒に味わいました。あの箇所を読んで胸を痛めることのできるクリスチャンは幸いです。天国はその人たちのものです。彼らと同じく、「私は正しい正しい、ちゃんとやっている」と言い立てている私たちです。そのままでは、決して天国に入ることができません。21:31以下では、祭司長たちや民の長老たちより先に取税人や遊女が神の国にはいる、と断言されました。後になってでも、多少は後回しにされても、もし結局は入ることができるならば上出来でしょう。でも何と言われていたか。「(洗礼者)ヨハネがあなたがたのところにきて義の道を説いたのに、あなたがたは彼を信じなかった。ところが、取税人や遊女は彼を信じた。あなたがたはそれを見たのに、あとになっても、心をいれ変えて彼を信じようとしなかった」。ということは、悔い改めないまま信じようとしないままでは、後になっても天国に決して入れない。立ち止まって、よくよく考えねばなりません。「律法学者やパリサイ人」に無くて「取税人や遊女」にはあるもの。それを何としても見つけ出し、手に入れなければなりません。救われるためには。
「洗礼者ヨハネは義の道を説いたのに」と主イエスは仰った。義の道。ずいぶん長い間、忘れられてきました。互いに相反する二種類の義がありつづけます。神さまご自身の義、そして私たちそれぞれの義。律法の専門家だったはずの彼らこそが、神ご自身の義を覆い隠しました。けれど多くの預言者たちが語りかけ続け、洗礼者ヨハネもそれを指し示し、主の弟子も語りかけました;「しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。すると、どこにわたしたちの誇があるのか。全くない」「なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである。キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである」(ローマ手紙3:21-2710:3-4)。では、律法学者でありパリサイ人でもある兄弟姉妹たち。災いから幸いへと移し替えていただくために、ご一緒に苦い薬を飲みましょう。朝昼晩と夜寝る前と、この同じ薬を飲みましょう。マタイ福音書23:23-29です、「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。はっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を宮に納めておりながら、律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがしている。それもしなければならないが、これも見のがしてはならない。盲目な案内者たちよ。あなたがたは、ブヨはこしているが、らくだは飲みこんでいる。偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。杯と皿との外側はきよめるが、内側は貪欲と放縦とで満ちている。盲目なパリサイ人よ。まず、杯の内側をきよめるがよい。そうすれば、外側も清くなるであろう。偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。このようにあなたがたも、外側は人に正しく見えるが、内側は偽善と不法とでいっぱいである。偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである」。すごく苦いですね。その分、よく効きます。飲みつづければ、2週間、3週間で、みるみる健康になっていきます。「律法学者やパリサイ人や祭司長たちと民の長老たち」に無くて、けれど「取税人や遊女」にはあるもの。それを、私たちもとうとう見つけ出しました。神さまからの憐れみです。神の義を知らないわけではありませんでしたが、聞き流しつづけていました。「自分は正しい正しい、ちゃんとやってきた」と自分の義を言い張りつづけるばかりで、神の義に従わず、逆らってばかりいた私たちでした。この自分自身も含めて すべての人は罪を犯したため神の栄光を受けられなくなっており、だからこそ私たちは、価なしに、ただただ神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされた。神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためだった。神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされた。すると、どこに私たちの誇りがあるのか、どこにもまったくない。ということを度々すっかり忘れてしまいました。この私たちは以前は神の民でなかったが、いまは神の民であり、以前は、あわれみを受けたことのない者であったが、いまは、あわれみを受けた者となっていることも、度々すっかり棚上げし、度外視していました。憐れむ神であり、憐れみを受けた私たちであることを、憐れんで罪をゆるす神であり、罪ゆるされた罪人である私たちであることを、すっかり手放していました(ローマ3:21-,11:30-32,ペトロ(1)2:10,テモテ(1)1:12-17)。だからその結果として 私たちはしばしば不幸せであり、不平不満をつぶやきつづけ、高ぶった思いに囚われ、自分自身と家族と隣人に災いを招き寄せつづけました。なんということでしょう。
けれど、ようやく思い出しました。なぜならばこの私たちのためにも救い主イエス・キリストは来て下さり、律法を成就してくださり、神の御心に従って生きる私たちとしてくださるからです。主イエスが成し遂げてくださったからです。「主は言われる、わたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」(エレミヤ書31:31-34)神さまからの律法が私たちのうちに置かれ、心に刻まれる日が来る。今日こそその日です。くどくどと教えられ、諭されるまでもなく、子供も大人も年配の者たちも賢いものも愚かな者たちも皆が主をよくよく知るようになる。ついにとうとう、名実ともに、ただ形だけ体裁だけでなく中身も本当に 神さまが私たちの神となってくださり、私たちは神の民とされ、神の民として日々を生きる者とされる。神さまが私たちの罪をゆるし、罪と悲惨から日毎に救い出しつづけてくださることによって。救い主イエス・キリストによって、それが、あなたのためにも私のためにも、私たちの大切な家族のためにも、きっと必ず成し遂げられます。



2015年9月13日日曜日

9/13こども説教「怒りんぼうで薄情で偉そうな、とても悪い召使いめ!」マタイ18:21-35

 9/13 ◎こども説教 マタイ福音書18:21-35           
 『怒りんぼうで薄情で偉そうな、
 とても悪い召使いめ    牧師 かねだせいじ


18:21 そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」。22 イエスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい。23 それだから、天国は王が僕たちと決算をするようなものだ。24 決算が始まると、一万タラントの負債のある者が、王のところに連れられてきた。25 しかし、返せなかったので、主人は、その人自身とその妻子と持ち物全部とを売って返すように命じた。26 そこで、この僕はひれ伏して哀願した、『どうぞお待ちください。全部お返しいたしますから』。27 僕の主人はあわれに思って、彼をゆるし、その負債を免じてやった。28 その僕が出て行くと、百デナリを貸しているひとりの仲間に出会い、彼をつかまえ、首をしめて『借金を返せ』と言った。29 そこでこの仲間はひれ伏し、『どうか待ってくれ。返すから』と言って頼んだ。30 しかし承知せずに、その人をひっぱって行って、借金を返すまで獄に入れた。31 その人の仲間たちは、この様子を見て、非常に心をいため、行ってそのことをのこらず主人に話した。32 そこでこの主人は彼を呼びつけて言った、『悪い僕、わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。33 わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか』。34 そして主人は立腹して、負債全部を返してしまうまで、彼を獄吏に引きわたした。35 あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう」。       (マタイ福音書18:21-35)

  「仏の顔も三度まで」と言いました。いくら大人しくて優しい心の人でも、ひどいことを度々されれば怒ることがあるっていうんですね。だから3回もガマンしてあげたら、かなり優しい心の人だということになります。「何回くらい許してあげたらいいですか?」と弟子の1人が質問しました。主イエスは「770倍、つまり490回」とお答えになりました。数えきれませんね。何度でも何度でも、どこまででも、ず~っと許してあげなさい、という意味です。
  23節から、主イエスがたとえ話で説明してくださいました。たとえ話の中の「王様」は誰のこと? 神さまですね。じゃあ、「王様のしもべ」は? 私たち皆のことです。1人の男は王様に対して莫大な借金がありました。1万タラントは、およそ20万年分の年収6000日分の賃金×10,000÷300日。1人当たり40年くらい働けるとして、だいたい5000人分の生涯の労働賃金。アブラハムからキリストまでの系図(マタイ1:1-17参照)14代×351人分の、およそ50往復弱の借金です。返済などとうてい出来ません。自分自身も妻も子供たちも爺さん婆さんも一家揃って身売りして奴隷になり、家も土地も持ち物全部も売り払っても、それでも全然足りません。「どうか待ってください。待ってください待ってください」としきりに願い、すると王様は、少し待つどころか、借金をすべて丸ごと帳消しにしてくれたのです。何の交換条件もなく、ただただ彼を可哀そうに思ったからでした。ゆるされたその男は晴れ晴れとした気持ちで王様のもとから下がり、町の通りに出て、自分に借金をしている1人の友人に出会いました。ゆるされたその男は、自分に対するわずかな借金20万年分の労働賃金に対して、100日分の賃金)をゆるしませんでした。捕まえて首をしめ、「借金を返せ」。友人もまた彼に、「どうか待ってくれ。待ってくれ待ってくれ」としきりに願いました。あの時の彼とそっくり同じに。男は承知しませんでした。無理矢理に引っ張ってゆき、謝金を返すまではと牢獄に閉じ込めました。王はその男を呼び戻して厳しく叱りつけます。「怒りんぼうで薄情で偉そうな、とても悪い召使いめ お前が頼んだし、あんまり可哀そうだったから、借金を全部丸ごとすっかり帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を可哀そうに思ってやったように、お前も自分の仲間を、ほんの少しくらいは可哀そうに思ってやるべきではなかったのか」。
  ぼくもあなたも皆が、この召使いとだいたい同じでした。いいえ、もっと悪かった。山ほどの借金をゆるしてもらいました。ゆるしてもらえた理由は、ただただ王様がかわいそうに思ってくださったからでした。あなたも他の人からひどい目にあったことがあるんでしょう。意地悪されたり、冷たくされたり、邪魔者にされたり悪口言われたり。他人の欠点や貧しさは、まるで手に取るように、よく見えます。「なんて身勝手な、思いやりのない人だなあ」と私たちは他人の振りを見て渋~い顔をします。「そんなことがよく平気でできるものだ。どういう神経をしているんだろう」と呆れます。その一方で、自分がどんなふうに人を扱っているか、人に対して何をしているのかは、私たちはあまり気づきません。可哀そうに思っていただいて、20万年分の借金を丸ごとすっかり帳消しにしていただいたことを、あなたもすっかり忘れていましたね。それで 私たちは度々この男と同じことをし続けています。とても怒りんぼうで薄情で偉そうな、すごく悪い召使いに成り下がりました。そういう私たちに対して、神さまが腹を立てたり、心をとても痛めたり、ガッカリし続けています。ああ残念。ああ惜しい。可哀そうに思っていただいたことと、山ほどの借金をすっかり丸ごとゆるしていただいていることを思い出せさえすれば、そうしたら ものすご~く悪い召使にならずにいられたのに。

 とりなしの祈り
 天と地のすべて一切をお造りになった主なる神さま。造られたすべてのものが産みの苦しみを味わい、呻きつづけています。茨木、栃木、宮城県に及ぶ大雨災害で、今回もまた多くの人々の生命が奪われ、行方不明となり、住む家と地域を壊されました。4年半前の東日本震災からの復興もまだまだ滞っていますし、原子力発電所事故もまだまだ収束できませんし、その見込みもメドも立っていません。神さま、どうか私たちを憐れんでください。復旧には多くの困難があります。救助と復興支援にたずさわる人々、福祉と医療にたずさわる人々を励まし、勇気と忍耐とを与え続けてください。家族や家や仕事を失った人々をどうか支えてください。私たちも、彼らの苦しみと痛みを思い、精一杯に手を差し伸べることができますように。
しかも主よ、それは私たち日本人ばかりではなく、この日本のことばかりではありません。シリア、ウクライナ、コンゴ、ソマリア、中央アフリカなどの紛争地域から多くの難民が逃れて、生き延びるために心細い旅をしつづけています。逃げ延びる危険な旅の途中で、さらに多くの人々が生命を失いつづけます。その彼らに、世界各国が手を差し伸べようとしています。私たちもほんの少し目を上げ、ほんの少し視野を広げて、自分たちの同胞や家族のことばかりではなく、彼らのためにも手を差し伸べ、温かく迎え入れ、住む家と国を失った人々が安心して安全に暮らせるように、毎日の食べ物や着る物や住む家があるように、生命を脅かされずに眠ることができるように、明日への希望をもって生きることができるように、避難してくる人々と日本で暮らす外国人労働者とその家族を迎え入れる公正で思いやり深い心を、この私たちにも贈り与えてください。自分の家族や同胞ではなくても、肌の色や言葉や人種が違っても、自分たちとはほんの少し違う主義主張の人々であってもなお、その彼らを自分自身のように愛し尊ぶことができるようにさせてください。そのようにして彼らもまた、主なる神さまをほめたたえることができるようにさせてください。
  主イエスのお名前によって祈ります。アーメン




9/13「世の光である」マタイ5:13-16

                                       みことば/2015,9,13(主日礼拝)  24
◎礼拝説教 マタイ福音書 5:13-16                      日本キリスト教会 上田教会
『世の光である』   

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC


5:13 あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。14 あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。15 また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。                 (マタイ福音書 5:13-16)


「あなたがたは地の塩であり、世の光である」と主イエスがご自分の弟子たちに向かって仰いました。弟子たちを取り囲んで、主イエスに従ってきた大勢の群衆もこれを聴き、考え込みました。「あの彼らが地の塩であり、世の光である。それは一体どういうことだろうか」と。すでに主イエスの弟子とされた私ども自身も首をひねり、考え込んでいます。「この私たちが地の塩であり、世の光である。それは一体どういうことだろうか」と。
キリストの教会と私たちクリスチャンにとって、塩も塩気も塩の効果も、輝く明るい光も、なにもかも救い主イエス・キリストご自身です。特に『光』については明白で、主イエスご自身が仰いました;「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」。それゆえに、主イエスを信じて生きるクリスチャン皆は「光の子」とされ、「神ご自身の光の中に留まり、光の中を歩む者たち」とされました。「なぜなら、やみは過ぎ去り、まことの光がすでに輝いているからである。『光の中にいる』と言いながら、その兄弟を憎む者は、今なお、やみの中にいるのである。兄弟を愛する者は、光におるのであって、つまずくことはない。兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩くのであって、自分ではどこへ行くのかわからない。やみが彼の目を見えなくしたからである」(ヨハネ8:12,テサロニケ(1)5:5,ヨハネ(1)1:7,2:9-11。救い主イエスご自身から良い贈り物をいただきつづけている私どもです。主は仰った、「あなたがたは、わたしが語った言葉によって既に清くされている。わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである」(ヨハネ福音書15:3-5)これこそが、私たちのための塩気であり、託された唯一の光でありつづけます。キリストとつながっている。それは、キリストからの言葉を抱えて生きているし、聞き取り受け取ってきたその言葉が、私たちを清くし、私たち自身が抱える闇と死の陰を吹き払いつづけ、光のほうへ光のほうへと導き入れつづけている。だから必ず実を結ぶし、光を輝かせる。だから当然、塩気があり、必要なだけ十分に清められてもいる。そうであるはず、である。けれど度々、その塩気と光とはどこかに紛れてしまいました。
  その根本的な理由は、私たち自身のうちに根深くすくっている人間中心の物の考え方です。ペトロが主イエスから厳しく叱られたことを覚えておられますか。主イエスの死と復活についての最初の予告を聴き、「とんでもない。あるはずがないし、あっては困る」と弟子のペトロが主イエスを諌めようとし、「サタンよ、引き下がれ。私の邪魔をする者め。神のことを思わないで、もっぱら自分と人間たちのことばかり思い煩っているじゃないか。いったいどういう了見だ」と厳しく叱られました(16:21-23参照)。その上で改めて弟子たちは、「自分を捨てて私に従ってきなさい」と主イエスから招かれました。神のことを思わないで、もっぱら自分と人間たちのことばかり思い煩ってしまう。自分自身と周囲の人間のことばかり思い煩い、そのあまりに神を思う暇がほんの少しもない。これを『ペトロの病気』と呼びます。クリスチャンがかかりやすい、最も重い病気です。軽く見てしばらく放置すると病気は急速に悪化し、その患者を死に至らせる恐ろしい病気です。みるみるうちに信仰の生命がやせ衰え、神さまがどんな神さまだったか。恵みや救いの道筋はどういうふうだったか。救われた私たちは何者か、どのように生きることができるのかなど、大事なことがすっかり分からなくなります。キリスト教会の世俗化とは、このことです。教会まるごと、団体で、この病気に集団感染してしまいます。闇は深まり、死の土地、死の陰の谷は領土を拡大し、その勢いを強めています。世俗化の波に、キリストの教会も激しく襲われ続けています。教会の世俗化とは、キリストに聴き従うことを私たちがすっかり止めてしまうことです。神さまに信頼を寄せ、神さまの御心を第一として、そこに心から服従して生きようとすることを捨て去ってしまうことです。そこから、キリスト教会の衰弱が始まり、私たちはますます衰え弱っていこうとしています。だからこそ、キリストの教会は「悔い改めよ。あなたは悔い改めて、あなたの在り方と腹の思いの全部を180度グルリと神へと向け返して、今日こそ主イエスの福音を信じなさい。信じて生きることをしはじめなさい」と語りつづけます。まず自分自身の魂に向けてです。
  神さまご自身こそが世を照らす光であり、救い主イエスが真実な光でありつづけます。「暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った」と旧約時代の預言者はあらかじめ告げ、主イエスご自身もまた、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」(イザヤ書9:2,マタイ4:15-16,ヨハネ8:12,12:46-50。天の御父と御子イエス・キリストが光である。それゆえ、『光』とは私たち自身の救いであり、この私たちもまた新しい生命を現実に、一日また一日と生き始めることです。詩篇の祈りの人はこう呼ばわりました、「主は私の光、私の救いだ。私は誰を恐れよう。いいや、誰をも恐れる必要もないし、現に確かに恐れはしない。たとい軍勢が陣営を張って私を攻めてきても、私の心は恐れない。たとい戦が起って、私を攻めても、なお私は自ら頼むところがある」。しかもすでに光に照らされ、光のもとに据え置かれているはずのこの私共のために、こう語りかけられています。「光にさらされる時、すべてのものは、明らかになる。明らかにされたものは皆、光となるのである。だから、こう書いてある、『眠っている者よ、起きなさい。死人のなかから、立ち上がりなさい。そうすれば、キリストがあなたを照すであろう』」(27:1-3参照,エペソ手紙5:13-14)
  讃美歌Ⅱ編28番を、この後でごいっしょに歌います。28番1節の「わがたまの縄目、解き放ちたまえ」を説明しておかねばなりません。「たま」は魂のことです。「縄目」は、Ⅰ編94番の1節でも「み民の縄目を解き放ちたまえ」とよく似た言い方が出てきました。TVの時代劇を見ていると、逮捕された罪人が太いロープで体中をグルグル巻きにされ、お役人に連れられて町中を引き回されていきます。あのグルグル巻きの太いロープ、それが縄目です。罪人が逮捕されることも「お縄にかかる」などと言います。私たちをがんじがらめに縛り付け、身動きできなくしているものこそ、「罪」「汚れた思い」「自分の腹の思い」などと言われつづけてきたものです。グルグル巻きに体を縛り付けるその太いロープを自分自身では解くことができず、他の誰に頼んでもそこから自由にしてもらうことができない。だからこそこの歌も、また待降節のあの94番『久しく待ちにし』も、「主よ、どうか早く来てください。罪のロープを解いて、私たちを救い出してください。私たちを自由の身にしてください。早く早く」と救い主イエス・キリストを待ち望みつづけました。
  Ⅱ編と賛美歌21版、それぞれに長所と短所があり、どっちがいいなどと軽々しく言ってはなりません。ただ、この曲に限って言うなら、同じ中身を見据えながら、けれど賛美歌21は思い切って1歩2歩と踏み込んだ言い方をしています。Ⅱ編28番の1節では「闇を照らす主よ、あなたの光を慕い求めます」と歌ったところを、賛美歌21では「光にいます主よ、われらを照らして」(賛美歌21503)と。主ご自身こそが光そのものである。その光に明るく照らされて、まず私たち自身の罪の実態が明らかにされました。罪の鎖にがんじがらめに縛り付けられている私だと。自分でその鎖を解くことができず、他の誰によっても解き放ってもらえない。その痛みと辛さから、この祈りの人は憐れみと救いをますます請い願って主イエスへと向かっています。罪の鎖を断ち切ってこの私を自由にしてくれるのはただ救い主イエスしかいない、と知っているからです。なぜ私たちは「世の光」であり、「光の子たち」とされているのか。救い主イエス・キリストこそが光であるからです(ヨハネ福音書8:12,9:5,12:35-36)。世を照らす光である救い主イエスを信じているし、そのお独りの方に目を凝らしているし、聴き従っている。だから、私たちは、主イエスの光に照らされつづけ、その光を鏡のように反射しつづけて、光の子たちなのです。それはちょうど太陽光発電の、屋根の上に並べられた反射板のようにして、そのようにして私たちは主イエスの光を反射しつづけます。主イエスの熱を蓄えつづけます。このことは、よくよく覚えておかねばなりません。ですから自分自身の中に何か明るく輝く材料がないかと探すのは、するとお門違いですね。そうではないのです。明るいものも輝く材料も、あなた自身の中からはどこをどう探しても出てきません。それは元々、人間から出る、人間による光ではなく、神さまからだけ出る、神さまからの光であるからです。出所がまったく違います。(コリント手紙(2)4:4-7)「わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために」。闇から光が輝き出よ、という裏腹な輝き方です。粗末で貧相な土の器に、けれど光を入れられている。神のものであり、神からだけ出てきたし、私たちのものではなく、私たちから出たものでもない。だからこそ、値千金なのです。この並外れて偉大な力は、神ご自身のものである。私たちのものではない。私たちから出たものではなく、ただただ神さまからこそ出た、そして贈り与えられた。そのことが、明らかになるために。けれど兄弟たち、明らかになるべきことが惑わされつづけました。覆い隠され、すっかり曇りつづけました。私たちクリスチャンの皆が皆、土の器であるとして、あなた自身は、例えば「松竹梅、中の上、特上」のうち、どれほどの土の器でしょうか。極上品の有田焼、ではありません。備前焼でもなく、高級ブランドの名人のナントカ作の1個数千万円もの土の器、とは一切関係がありません。それなのになぜ、その器の色艶、形の優雅さや貧しさ、あふれる気品とかそうでもないとか、器の良し悪しにばかり目を奪われてしまうのでしょう。クリスチャンである一つの器に見とれて「まあ素敵。すばらしい色艶で、優美で、格調高くて」、それに比べてなどと。いいえ、大急ぎですっかり目を覚ましましょう。「格別に素敵な宝物。しかも、それなのにまったく裏腹に、飛び切りに粗末で貧相なあまりに貧しい器。それが、あなたでありこの私である。それこそがキリストの教会であり、クリスチャンであることの実態である」と同じく語りつづけます。
 Ⅱ編28番の4節も読みましょう。わが主に従い、たじろがず歩もう。主の清らかな山に、どうぞ、こんな私をさえ必ずきっと導いていってください。困難や悩みなど平気だと強がりを言っているわけではありません。朝から晩まで、来る日も来る日も、私たちはほんのささいなことでたじろぎつづけています。強がりを言っても虚勢を張ってみても、誰もが皆とてもとても心細かったのです。そのことにようやく思い至って、この祈りの人は、「この私は主に従って歩んでいこう」とついにとうとう腹をくくりました。何があってもたじろがない私ではなくて、たじろぎっぱなしの私だ。たじろがない私だから主に従ってゆくわけじゃない。むしろ逆。放っておくと朝から晩までアタフタオロオロして、たじろぎっぱなしの私なので、だから 主に従って生きていこうと。そうしたら、主イエス・キリストこそが私の心と思いとを守り、私から心細さや恐れを一つまた一つと拭い去ってくださるに違いない。祈り求めましょう。


2015年9月7日月曜日

9/6こども説教「ただ、主イエスにこそ聴け!」マタイ17:1~8

 ◎こども説教 マタイ福音書 17:1-8         
 『ただ、主イエスにこそ聴け               
                        牧師 かねだせいじ

17:1 六日ののち、イエスはペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。2 ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった。3 すると、見よ、モーセとエリヤが彼らに現れて、イエスと語り合っていた。4 ペテロはイエスにむかって言った、「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。もし、おさしつかえなければ、わたしはここに小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。5 彼がまだ話し終えないうちに、たちまち、輝く雲が彼らをおおい、そして雲の中から声がした、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」。6 弟子たちはこれを聞いて非常に恐れ、顔を地に伏せた。7 イエスは近づいてきて、手を彼らにおいて言われた、「起きなさい、恐れることはない」。8 彼らが目をあげると、イエスのほかには、だれも見えなかった。(マタイ福音書 17:1-8)

  「六日ののち」(1)と、報告がはじまっています。つまり六日前には、主イエスの死と復活についての最初の予告を聴き、「とんでもない。あるはずがないし、あっては困る」と弟子のペトロが主イエスを諌めようとし、「サタンよ、引き下がれ。私の邪魔をする者め。神のことを思わないで、もっぱら自分と人間たちのことばかり思い煩っているじゃないか。いったいどういう了見だ」と厳しく叱られました(16:21-23参照)。その上で改めて弟子たちは、「自分を捨てて私に従ってきなさい」と主イエスから招かれました。この大事な実地訓練から、まだほんの六日の後。主の弟子となるための本気勝負の教育がつづきます。この私たちのためにも、死と復活のときが差し迫っているからです。
  ここで主イエスは3人の弟子だけを連れて、高い山に登りました。一応念を押しておきますが、ゲッセマネの園でもいつもこの3人で、だから彼らが格別に秀でたリーダーで代表格で、というわけではありません。他の弟子と同じくらいに、まだまだ見当外れなことをしつづけます。山の上でとても大切な出来事が起こったので、その証人が3人必要でした。旧約時代の預言者モーセとエリヤが現れて救い主イエスと語り合っていました。語られてきた救いの預言と、救い主イエスによって成し遂げられるその成就についてです。4節で弟子のペトロがとても迂闊で見当外れなことを言い出します、「もし、お差し支えなければ、小屋を3つ建てましょう。主イエスのためと、モーセのためとエリヤのため」。じゃあ質問。主イエスはなんて返事をなさいましたか? ……自分の目で確かめてみましたね。はい、差し支えが大いにあったので、知ら~んぷりで、し~んとして無視。仮小屋3つ建設計画は直ちに却下されました。その証拠に、雲ですべて一切が隠され、御父からの声が聞かれ、弟子たちの心に恐れが生じ、「起きなさい。恐れることはない」と主イエスから声をかけられて目を上げると、イエスの他には誰も見えなかった(余計なことをアレコレ考えつづけ、上の空で、主イエスの言葉に少しも聴こうとしない。だから、恐れや心細さが次々と沸き起こる。イエスにこそ聴くためには、じ~っと目を凝らす必要があったのです。聴きさえすれば恐れを取り除いていただき、起き上がることもできます)。山の上にもあちこちにも、これから先もずっと、ただただもっぱら天の御父のための『父の家』が建てられつづけます。この上田教会もお隣のキリスト教会も、あちこちのキリスト教会も、何派だとか何グループ所属などという以上に、そんなことを遥かに超え出て 天の御父のための『父の家』派出所の一つです。記念の仮小屋や何かの記念事業ですか。いいえ。せっかく心に刻んで覚えるなら、父、子、聖霊なる神さまの御業をこそ記念し、心に刻んで覚える。それを弁え、慎んで立つ。それで十分です。
  そんなことよりも何よりも、ここで最も重要な緊急課題は5節の御父からのご命令と指図。「これは私の愛する子、私の心にかなう者である。これに聞け」と主イエスを名指しして、指差したこと。主イエスの洗礼の時(3:16-17)につづいて二度も念を押されました。とても大事だということです。その土地に一個のキリスト教会が建っている意味も、そこここに私たちクリスチャンが根付いて生活している意味も理由も目的も、ただもっぱら、ここにあります。主イエスに聞くこと。そうか、もしどうしてもしたければ記念の仮小屋を百個も二百個も次々と建ててもよい。○○○記念講座とか、聖ペトロ記念学校など、どんな壮大華麗なイベントや行事もしてよい。注意事項はただ一つ、「これは私の愛する子、私の心にかなう者である。これに聞け」と天の御父が主イエスを名指しして、指差したことをちゃんと覚えて、そのとおりにイエスに聞く。そのためにほんの少しでも役立つなら、それらをしてもいい。けれどもし気を紛らわせて、ますます「神のことを思わないで、主イエスに少しも聞こうとせず、もっぱら自分と人間たちのことばかり思い煩ってしまう」ようなら、決してしてはいけない。それらの記念事業や華々しい活動や成果は、むしろ大きな災いとなります。なぜ? なぜならば、私たちは主イエスから派遣された主の弟子たちだからです(マタイ28:18-20)。主イエスは死んで復活なさり、この私たちのためにも、死と復活のときが差し迫っているからです。

 ◎とりなしの祈り
イエス・キリストの父なる神さま、だからこそ確かに私たちの本当の父になってくださり、主イエスをとおして私たちをあなたの本当の子供たちとして迎え入れ、養い、支え、守りとおしてくださる神さま。心から感謝をいたします。あなたを信じる信仰をますます私たちに与えてください。あなたの御心を思い、あなたの御言葉にますます聴き従って生きる私たちとならせてください。
  神さまお願いします。小さな子供たちの1人1人が愛情を必要だけ十分にたっぷりと注がれて、安心して育つことができるようにしてください。若者たちがこの社会の中に自分の居場所を見つけ出して、自分があたたかく迎え入れられていることを実感できるようにお支えください。老人介護施設や障害者の福祉施設で働く職員たちの心を支えて、彼らが誇りと喜びをもって毎日の仕事に精一杯に取り組むことができるように助けてください。入所し、あるいはそこに通ってくる人々を一人の人間として尊び、敬い、その人々の尊厳を重んじながら、いっしょに過ごすことができるようにさせてください。年老いた親を介護している家族の心と体を支えてください。子供たちが家庭でも学校でも、どこにいても安全に守られて、安心して過ごすことができますように。神さま。私たちは、大人も子供も年寄りも、たびたび心がとても狭く頑固になってしまいました。日本に働きにきている外国人たちとその家族をむやみに憎んだり、押しのけようとする人たちの狭い心を、神さまどうぞ、広く大きく温かい心へと変えさせてください。私たち自身も同じです。すぐ目の前のことばかりでなく、自分や家族の毎日の暮らしのことばかりでなく、自分が嬉しく安心して安全に暮らせるだけでなく、目を高く上げて、大切な隣人たちと、また後につづく世代のことを、深く真剣に思うことができるようにさせてください。よいことを選び取り、悪いことを捨て去り、あるべき正しい場所に踏みとどまり、踏み出してゆくこともできるようにさせてください。世界には悩みと困難が満ちています。ですから神さま。この私たちをもあなたの平和と憐れみの道具として用いて、この世界に平和と喜びとをあふれさせてください。
主イエスのお名前によって祈ります。  アーメン




9/6「地の塩」マタイ5:13、コロサイ4:6

                                         みことば/2015,9,6(主日礼拝)  23
◎礼拝説教 マタイ福音書 5:13,コロサイ手紙4:6        
日本キリスト教会 上田教会

『地の塩』   

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC



5:13 あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。
                                                           (マタイ福音書 5:13)

4:6 いつも、塩で味つけられた、やさしい言葉を使いなさい。そうすれば、ひとりびとりに対してどう答えるべきか、わかるであろう。                                    (コロサイ人への手紙 4:6)


主イエスは群衆をご覧になりました。それぞれの苦しみと悩みを抱え、だからこそ主イエスについてきた人々です。薄暗い死の陰の地に住んでおり、飼う者のない羊のように弱り果て、まただからこそ悔い改めて神へと立ち返る必要のある人々です。主イエスは山に登り、お座りになり、弟子たちがみもとに近寄りました。「あなたがたは地の塩である。世の光である」と主イエスが仰った直接の相手は、弟子たちです。けれど弟子たちのすぐ後ろには、大勢の群衆もすでに詰め寄っており、語りかける主イエスと、その言葉を聴き続けている私たち弟子たちとに目を凝らしています。まだ弟子になってはいない人々は、耳を傾け、目を凝らしながら考え込んでいます、「あの彼らが地の塩であり、世の光である。それは一体どういうことだろうか」と。すでに主イエスの弟子とされた私ども自身も考え込んでいます。「この私たちが地の塩であり、世の光である。それは一体どういうことだろうか」と。そうこうしながら、これらの群衆の中からも一人また一人と、主イエスの弟子に加えられてゆく者たちが起こされてゆきます。
  塩には、様々な役割がありました。食べ物に塩を加えて味つけをしました。塩によって、その食べ物は味わい深くなり、よい風味を加えられました。食品が腐ったり傷んだりしないように、それらを清めて長持ちさせる保存料の働きをしました。「あなたがたは地の塩である。世の光である」と主イエスは弟子たちに、この私たちにもお語りになりました。周囲の人々とどう付き合っていくか。家族に対して、教会の兄弟姉妹たちに対して、地域の隣人たち、職場や学校の友人たち、仲間たちに対してどう振る舞うのか。毎日毎日をどう暮らしてゆくのか。並べて読みましたコロサイ手紙4:6「いつも、塩で味つけられた、やさしい言葉を使いなさい。そうすれば、ひとりびとりに対してどう答えるべきか、わかるであろう」。口から出る言葉が塩で味付けられている。それは、やたらに塩っぱかったり辛口だったりするのではなくて、むしろしんなりとまろやかであり、心優しい。コロサイ手紙は3章からすでに、隣人との付き合い方に厳しく注文をつけていました。どう振る舞うか。何を語り、どういう態度で人と接するべきか。地の塩としての毎日毎日の暮らしぶりです。あなた自身の貪欲を殺してしまいなさい。憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を今日こそキッパリと捨ててしまいなさいと。それ以上に、「あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい。互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい」(コロサイ3:12-13)。しかも主イエスの弟子たちよ、私たちを塩漬けるのは聖霊の火である他なかったのです。「人はすべて火で塩づけられねばならない。塩はよいものである。しかし、もしその塩の味がぬけたら、何によってその味が取りもどされようか。あなたがた自身の内に塩を持ちなさい。そして、互に和らぎなさい」(マルコ福音書9:49-50)。先週、白人至上主義秘密結社、KKKのことを語りました。彼らは昼日中、表通りで他の人々が見ている前では善良なクリスチャンでありつづけた。家の中や自分の家の敷地内で、あるいは薄暗がりの中や、覆面を被りマントに身を隠している間は恐ろしい獣でありつづけた。毎週日曜日に教会で美しく清らかな教えに耳を傾けつづけ、家に帰ると、彼らはしつけと称して黒人奴隷たちをムチ打ち、殴ったり蹴ったりした。それでも心はほんの少しも痛まなかった。美しく清らかな教えと、暴力や差別や非人道的な虐待行為、冷淡で薄情な在り方。それらはなんの不都合もなく両立した。先週はうっかり思い違いをして、「真っ黒い覆面を被り、黒いマントに身を隠して」と話していました。「腹の中が真っ黒なら、衣装や姿形も真っ黒だろう」と思い込んでいました。実際には、彼らの覆面もマントも、いつも洗濯仕立てのシーツのように真っ白でした。むしろ、そのほうが本当に怖い。しかも白く塗った墓、白く塗ったマスク、白く塗ったマント。聖書の報告そのままです;「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。このようにあなたがたも、外側は人に正しく見えるが、内側は偽善と不法とでいっぱいである」(マタイ23:25-28)。わが魂よ、外側を真っ白に塗ったKKKと律法学者のふり見て我がふり直せ。本気で直せ。間に合ううちに。
  キリストの教会とクリスチャンにとって、塩も塩気も塩の効果も、輝く明るい光も、なにもかも救い主イエス・キリストご自身です。救い主イエスご自身から良い贈り物をいただきつづけている私どもです。主は仰った、「あなたがたは、わたしが語った言葉によって既に清くされている。わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである」(ヨハネ福音書15:3-5)私たちのための塩気はこれでした。キリストとつながっている。キリストからの言葉を抱えて生きているし、聞き取り受け取ってきたその言葉が、私たちを清くしつづけている。だから必ず実を結ぶ。当然、塩気があり、必要なだけ十分に清められてもいる。そうであるはず。けれど度々、その塩気はどこかに紛れてしまいました。
 地の塩についてのマルコ福音書からの報告を先程、読み比べました。「人はすべて火で塩づけられねばならない。塩はよいものである。しかし、もしその塩の味がぬけたら、何によってその味が取りもどされようか。あなたがた自身の内に塩を持ちなさい。そして、互に和らぎなさい」(マルコ福音書9:49-50)。あなたがた自身の内に塩を持て。そこで初めて、互に和らぐことができる。塩をうっかり手放してしまうから、それで度々、私たちは互いにトゲトゲしく振舞いました。「自分さえ良ければいい」と了見を狭くし、心を頑固にし、あまりに身勝手になって隣人を押しのけてしまいました。兄弟姉妹がたに対しても、家族に対しても、なにより塩であり光であられる主イエスご自身に対して、まったく申し訳ないことです。けれど、どうやって互いに和らいでよいのか、どうしたらそんなことができるのか分かりませんでした。それで、私たち自身の内に塩を持つために、互いの間に必要なだけ十分にたっぷりと『塩』を持つために、聖晩餐のパンと杯が備えられました。
 ですから今日は、先に申し上げておきましょう。コリント教会のクリスチャンたちは度々、すっかり塩気を失って生臭くなりました。互いに対してトゲトゲしく振舞ってしまいました。「自分さえ良ければいい」と了見を狭くし、心を頑固にし、あまりに身勝手になって兄弟たちを押しのけてしまいました。各自が自分の晩餐をかってに先に食べるので、一方には腹を空かせて飢えた人々が取り残され、他方には好き勝手に酔っている者さえあり、主の家におらせていただいているのではなく自分の家に居るような殿様気分、ボス気分でいる。貧しい人々が軽んじられ、恥かしめられている有様をつぶさに見てとって、「それでは、あの小さな彼らが恥ずかしめられるばかりでなく、神の教会が恥ずかしめられ、神さまご自身が侮られ、恥ずかしめられている」(コリント手紙(1)11:17-22参照)と主の弟子は叱ります。心が痛みます。聖晩餐の制定語、コリント手紙(1)11:27以下は、具体的には、私共のこういう付き合い方や普段の在り方を厳しく諌めます。目の前にパンと杯があってもなくても いつも、どこで誰と何をするにも同じ一つの心得です。コリントの兄弟姉妹たち、どうぞ今日こそ本気でお聞きください;「だから、ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである。だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ杯を飲むべきである。主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分に裁きを招くからである」。
  主の体の肢々とされた者としてふさわしくないことを、この私たちは度々しでかしています。その度毎に、主の体と血とを犯しつづけ、その飲み食いや、口から出るいつもの何気ない言葉や態度や一つ一つの行いや腹の思いによって、朝も昼も晩も、私共は自分自身に裁きを招きつづけています。本当のことです。けれど今にも滅びようとする悪人たちよ、主なる神は仰います;「わたしは悪人の死を好むであろうか。むしろ彼がそのおこないを離れて生きることを好んでいるではないか。……あなたがたが私に対しておこなったすべての咎を捨て去り、新しい心と、新しい霊とを得よ。イスラエルの家よ、あなたがたはどうして死んでよかろうか。わたしは何人の死をも喜ばないのである。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ」(エゼキエル書18:23-32。ふさわしいからではなく、よくよく弁えているからでもなく、むしろ逆 今にも滅びそうな罪人であり、ひるがえって生きるために救い主イエスの血と肉をぜひとも必要としている私共だからこそ、「取って食べなさい。この杯から飲みなさい」と命じられています。死にかけている重病人のための唯一の解毒剤なので、あなたこそはこの生命のパンと杯を受け取りなさい。それで、讃美歌142番をこの後もうすぐ歌います。私たちがぜひとも持つべき必要不可欠な塩は、またそれをもって互いに和みあうことのできる格別な『地の塩』は、ただただ救い主イエスの血潮だからです。ダジャレみたいで申し訳ないですが、これが真相です。他のどこにもないこの塩気は、奇妙なことに、互いに相反する2種類の味がします。「救われる者にとっても滅びる者にとっても、神に対するキリストのかおりである。滅びる者にとっては、死から死に至らせるかおりであり、救われる者にとっては、いのちからいのちに至らせるかおりである」(コリント手紙(2)2:15-16参照)。もし万一、その塩から香りも塩気もなくなり、効き目がなくなれば、イエスご自身が私たちをではなく、この私たちこそが 直ちに救い主イエスを家の外へと放り投げてしまうでしょう。自分自身の魂の外側へとポイと投げ捨ててしまうでしょう。主とは何の関係もない者のように、毎日毎日を暮らし始めるでしょう。礼拝中にも、教会の中でも外でも、そこにまるで神さまがいないかのように身勝手に貪りはじめるでしょう。恐ろしいことです。142番の2節、「消えなば消え去れ」。地位も名誉も良い評判も幸いも何もかも、もし消えるというなら、どうぞいいですよ好きなように、いつでも消え去ってください、という意味です。3節2行目、「こもごも」は入れ替わり立ち代り現れるということですが、まあ、「恵みと悲しみがごちゃまぜになって一緒に」というくらいの意味です。4節ではさらに、「恵みと悲しみ、1つに溶け合う」と言い表しています。不思議な情景です。さて、なにしろこの讃美歌の生命は3節と4節にあります。そこから、歌全体に生命が流れ出て、染み込んでいくようです。3節4節、「(3)見なさい、十字架の主イエスの頭から、そして釘打たれた手や足から、恵みと悲しみが入れ替わり立ち代りに、ごちゃまぜになって流れ落ちてくる。(4)恵みと悲しみは、1つに溶け合って流れ落ちてくる。主イエスの頭に被せられたあのあざけり笑うための茨の冠は、それなのに本物の王冠としてまばゆく輝いている」。主イエスを信じる祈りの人が十字架の主を一途に仰ぎつづけています。流れ落ち、したたってくる主イエスの真っ赤な血潮に目を凝らしていたはずでした。けれど気がつくと、主イエスの血潮はこの人の信仰の目には、『恵みと悲しみ』に見えました。驚きながら、心を深く揺さぶられながら、「ああ、恵みと悲しみが流れ落ちてくる。入れ替わり立ち代りに、ごちゃまぜになって流れ落ちてくる。1つに溶け合って、私たちのための主イエスの恵みと悲しみが流れ落ちてくる」と受け止めています。なんということでしょう。つまり、この人は十字架につけられた主イエスの姿を仰ぎ見ながら、相反する、互いに矛盾する2種類の感情を同時に味わっています。喜びと悲しみと、あるいは感謝と申し訳なさとを。悲しみや苦しみや申し訳なさがある。確かに、けれどそれだけじゃなくて、感謝があり、喜びと希望がある。なぜなら救い主イエスは、ここで今にも死んでいかれようとしているだけじゃなくて、主と私たちの復活の生命がここではじまろうとしているからです。それを見て、この手に受け取ることができるなら、私たちもここで、神さまに対する申し訳なさと感謝とを同時に、満ち足りるまで十分に味わうことができます。復活の生命を、ここでこの十字架の主から、私たちもついにとうとう受け取ることができます。