2015年9月7日月曜日

9/6こども説教「ただ、主イエスにこそ聴け!」マタイ17:1~8

 ◎こども説教 マタイ福音書 17:1-8         
 『ただ、主イエスにこそ聴け               
                        牧師 かねだせいじ

17:1 六日ののち、イエスはペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。2 ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった。3 すると、見よ、モーセとエリヤが彼らに現れて、イエスと語り合っていた。4 ペテロはイエスにむかって言った、「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。もし、おさしつかえなければ、わたしはここに小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。5 彼がまだ話し終えないうちに、たちまち、輝く雲が彼らをおおい、そして雲の中から声がした、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」。6 弟子たちはこれを聞いて非常に恐れ、顔を地に伏せた。7 イエスは近づいてきて、手を彼らにおいて言われた、「起きなさい、恐れることはない」。8 彼らが目をあげると、イエスのほかには、だれも見えなかった。(マタイ福音書 17:1-8)

  「六日ののち」(1)と、報告がはじまっています。つまり六日前には、主イエスの死と復活についての最初の予告を聴き、「とんでもない。あるはずがないし、あっては困る」と弟子のペトロが主イエスを諌めようとし、「サタンよ、引き下がれ。私の邪魔をする者め。神のことを思わないで、もっぱら自分と人間たちのことばかり思い煩っているじゃないか。いったいどういう了見だ」と厳しく叱られました(16:21-23参照)。その上で改めて弟子たちは、「自分を捨てて私に従ってきなさい」と主イエスから招かれました。この大事な実地訓練から、まだほんの六日の後。主の弟子となるための本気勝負の教育がつづきます。この私たちのためにも、死と復活のときが差し迫っているからです。
  ここで主イエスは3人の弟子だけを連れて、高い山に登りました。一応念を押しておきますが、ゲッセマネの園でもいつもこの3人で、だから彼らが格別に秀でたリーダーで代表格で、というわけではありません。他の弟子と同じくらいに、まだまだ見当外れなことをしつづけます。山の上でとても大切な出来事が起こったので、その証人が3人必要でした。旧約時代の預言者モーセとエリヤが現れて救い主イエスと語り合っていました。語られてきた救いの預言と、救い主イエスによって成し遂げられるその成就についてです。4節で弟子のペトロがとても迂闊で見当外れなことを言い出します、「もし、お差し支えなければ、小屋を3つ建てましょう。主イエスのためと、モーセのためとエリヤのため」。じゃあ質問。主イエスはなんて返事をなさいましたか? ……自分の目で確かめてみましたね。はい、差し支えが大いにあったので、知ら~んぷりで、し~んとして無視。仮小屋3つ建設計画は直ちに却下されました。その証拠に、雲ですべて一切が隠され、御父からの声が聞かれ、弟子たちの心に恐れが生じ、「起きなさい。恐れることはない」と主イエスから声をかけられて目を上げると、イエスの他には誰も見えなかった(余計なことをアレコレ考えつづけ、上の空で、主イエスの言葉に少しも聴こうとしない。だから、恐れや心細さが次々と沸き起こる。イエスにこそ聴くためには、じ~っと目を凝らす必要があったのです。聴きさえすれば恐れを取り除いていただき、起き上がることもできます)。山の上にもあちこちにも、これから先もずっと、ただただもっぱら天の御父のための『父の家』が建てられつづけます。この上田教会もお隣のキリスト教会も、あちこちのキリスト教会も、何派だとか何グループ所属などという以上に、そんなことを遥かに超え出て 天の御父のための『父の家』派出所の一つです。記念の仮小屋や何かの記念事業ですか。いいえ。せっかく心に刻んで覚えるなら、父、子、聖霊なる神さまの御業をこそ記念し、心に刻んで覚える。それを弁え、慎んで立つ。それで十分です。
  そんなことよりも何よりも、ここで最も重要な緊急課題は5節の御父からのご命令と指図。「これは私の愛する子、私の心にかなう者である。これに聞け」と主イエスを名指しして、指差したこと。主イエスの洗礼の時(3:16-17)につづいて二度も念を押されました。とても大事だということです。その土地に一個のキリスト教会が建っている意味も、そこここに私たちクリスチャンが根付いて生活している意味も理由も目的も、ただもっぱら、ここにあります。主イエスに聞くこと。そうか、もしどうしてもしたければ記念の仮小屋を百個も二百個も次々と建ててもよい。○○○記念講座とか、聖ペトロ記念学校など、どんな壮大華麗なイベントや行事もしてよい。注意事項はただ一つ、「これは私の愛する子、私の心にかなう者である。これに聞け」と天の御父が主イエスを名指しして、指差したことをちゃんと覚えて、そのとおりにイエスに聞く。そのためにほんの少しでも役立つなら、それらをしてもいい。けれどもし気を紛らわせて、ますます「神のことを思わないで、主イエスに少しも聞こうとせず、もっぱら自分と人間たちのことばかり思い煩ってしまう」ようなら、決してしてはいけない。それらの記念事業や華々しい活動や成果は、むしろ大きな災いとなります。なぜ? なぜならば、私たちは主イエスから派遣された主の弟子たちだからです(マタイ28:18-20)。主イエスは死んで復活なさり、この私たちのためにも、死と復活のときが差し迫っているからです。

 ◎とりなしの祈り
イエス・キリストの父なる神さま、だからこそ確かに私たちの本当の父になってくださり、主イエスをとおして私たちをあなたの本当の子供たちとして迎え入れ、養い、支え、守りとおしてくださる神さま。心から感謝をいたします。あなたを信じる信仰をますます私たちに与えてください。あなたの御心を思い、あなたの御言葉にますます聴き従って生きる私たちとならせてください。
  神さまお願いします。小さな子供たちの1人1人が愛情を必要だけ十分にたっぷりと注がれて、安心して育つことができるようにしてください。若者たちがこの社会の中に自分の居場所を見つけ出して、自分があたたかく迎え入れられていることを実感できるようにお支えください。老人介護施設や障害者の福祉施設で働く職員たちの心を支えて、彼らが誇りと喜びをもって毎日の仕事に精一杯に取り組むことができるように助けてください。入所し、あるいはそこに通ってくる人々を一人の人間として尊び、敬い、その人々の尊厳を重んじながら、いっしょに過ごすことができるようにさせてください。年老いた親を介護している家族の心と体を支えてください。子供たちが家庭でも学校でも、どこにいても安全に守られて、安心して過ごすことができますように。神さま。私たちは、大人も子供も年寄りも、たびたび心がとても狭く頑固になってしまいました。日本に働きにきている外国人たちとその家族をむやみに憎んだり、押しのけようとする人たちの狭い心を、神さまどうぞ、広く大きく温かい心へと変えさせてください。私たち自身も同じです。すぐ目の前のことばかりでなく、自分や家族の毎日の暮らしのことばかりでなく、自分が嬉しく安心して安全に暮らせるだけでなく、目を高く上げて、大切な隣人たちと、また後につづく世代のことを、深く真剣に思うことができるようにさせてください。よいことを選び取り、悪いことを捨て去り、あるべき正しい場所に踏みとどまり、踏み出してゆくこともできるようにさせてください。世界には悩みと困難が満ちています。ですから神さま。この私たちをもあなたの平和と憐れみの道具として用いて、この世界に平和と喜びとをあふれさせてください。
主イエスのお名前によって祈ります。  アーメン