2015年9月28日月曜日

9/27「腹を立て、バカと言う者は」マタイ5:21-26

                                         みことば/2015,9,27(主日礼拝)  26
◎礼拝説教 マタイ福音書 5:21-26                      日本キリスト教会 上田教会
『腹を立て、バカと言う者は』   

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

5:21 昔の人々に『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。22 しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。23 だから、祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、24 その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい。25 あなたを訴える者と一緒に道を行く時には、その途中で早く仲直りをしなさい。そうしないと、その訴える者はあなたを裁判官にわたし、裁判官は下役にわたし、そして、あなたは獄に入れられるであろう。26 よくあなたに言っておく。最後の一コドラントを支払ってしまうまでは、決してそこから出てくることはできない。                                             (マタイ福音書 5:21-26)


すぐ目につく、とても特徴的な言い方が、救い主イエスご自身の口によって5回繰り返されます。「昔の人々に~と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、私はあなたがたに言う」(5:21,27,33,38,43)と。昔から語られ聞かれていたはずの神さまからの律法は、長い歳月をへるうちに割り引かれ、骨抜きにされ、生命のない形ばかりのものにされていました。そこにもう一度、生命が吹き込まれはじめます。救い主イエスは死にかけていた律法にもう生命を吹き込み、律法を成就し、ことごとくまっとうするために来られたからです(17-18)。しかも私たちの主なる神さまは、人の心の奥深くに隠されているものをすっかり見抜く神であるからです。神からの律法は、神さまの御心であるからです。
  21-22節。「昔の人々に『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう」。律法を立て直し、再び生命を吹き入れようとする、5-7章に至る主イエスのひと続きの長い長い説教は、終始一貫して人間の魂の奥深くへと目を凝らしつづけます。表に現れた行動や発言だけではなく、態度も、心の奥底に秘めた思いも。その両方共が、神の眼差しの前に隠しようもなくさらされていると。恐ろしいことです。しかも、だからこそ、そこに確かに私たちを活かす生命があります。かつてシナイ山で授けられた十戒の中の第六戒、「あなたは殺してはならない」について、主イエスのこの二歩も三歩も踏み込んだ教えを受けて、500年前の古い信仰問答はこう説き明かします。「問105。この第六戒において神は何を要求しておいでですか」「わたしが、わたしの隣人を、思いや言葉、態度、ましてや行いをもってでも、自分みずから、あるいは他の人を通して、ののしったり、憎んだり、侮辱したり、殺したりしないことです。また、わたしが、むしろ、すべての復讐心を捨てて、わたし自身が自分を傷つけたり、無理に危険を冒したりしないことです。それゆえに 政府の役人は殺人を防ぐために剣を帯びているのです」「問106。それでは、この戒めは、単に殺すことについてのみ語っているのではないのですか」「答。神様が、殺人を禁じることを通して教えようとされるのは、神様が、ねたみ、憎しみ、怒り、復讐心のような、殺人の根をお憎みになるということです。そして、これらすべてが、神様の前では、隠れた殺人であるということです」(『ハイデルベルグ信仰問答,問105106』,1563)。殺人の根。隠れた殺人。誰にでもそれはあり、この自分自身も決して例外ではない。そのことをはっきりと告げ知らされている私たちは幸いです。「ねたみ、憎しみ、怒り、復讐心を、この私自身がついつい心に抱いてしまうとき、それはすでに『殺人の根。隠れた殺人』であり、神さまがそれを憎み、悲しみ、その一つ一つに対してとても心を痛めておられる」と告げ知らされるとき、私たちは幸いです。信仰問答はさらにつづけて、私たちに対する神さまの御心を明らかにしてくれます;「問107。しかし、わたしたちが、わたしたちの隣人を、そう告げられたように殺さなければ、それによって、この戒めを既に十分に満たしていることになるのですか」「答。いいえ、違います。なぜなら神様は これによってねたみ、憎しみ、怒りを呪っておられ、わたしたちが、隣人をわたしたち自身のように愛することを望んでおられるからです。隣人に対しては忍耐、平和、柔和 、憐れみ、友情を示し、その人の受ける害を力の限り防いで、わたしたちの敵にもまた、良いことをなす事を望んでおられるのです」(同上、問107)
  23-26節。「だから、祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい。あなたを訴える者と一緒に道を行く時には、その途中で早く仲直りをしなさい。そうしないと、その訴える者はあなたを裁判官にわたし、裁判官は下役にわたし、そして、あなたは獄に入れられるであろう。よくあなたに言っておく。最後の一コドラントを支払ってしまうまでは、決してそこから出てくることはできない」。とくにこの前半23-24節、「祭壇に供え物をささげること」と「自分に対して何かうらみを抱いているらしい兄弟との和解」の問題は、聖書の時代から今日に至るまでの、私たち自身の現実問題です。神さまを信じて生きるとはどういうことなのか。どのように生きることができるのかと。「祭壇に供え物をささげること」と「自分に対して何かうらみを抱いているらしい兄弟、家族、同僚、隣人との和解」と、もちろん両方共がとても大事です。しかも、もっと踏み込んで語るならば、「自分に対して何かうらみを抱いているらしい兄弟との和解」という現実問題を棚上げして、それを脇に押しのけて、どんな素晴らしい供え物もありえません。するとこれは、前回の『あなたがたは地の塩、世の光である』問題の具体的・現実的な展開です。塩で味付けられた心優しい言葉を用い、そのように振舞い、そのように心にも思うことが、もし万一なかなか始まらないなら。もし、信じている中身と私たちの具体的な生活が裏腹でありつづけるならば、私たちが神さまを信じ、神を礼拝し、美しい言葉で敬虔そうにご立派に祈ることがいったい何の役に立つというのでしょう。形ばかりの信仰であり、それは虚しいことです。主イエスご自身が世を照らす光でありつづけます。その光と親しく接しつづけ、そのお独りの方との交わりのうちに生きる者とされた私たちも、この世界と地域と職場と、自分の家族と自分自身を明るく照らし出すはずの光とされました。しかも兄弟たち、私たちはすでに燭台の上に置かれています。家の中のすべてのものを照らすために。「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい」(マタイ 5:16)と主イエスから直々に、私たちは命じられております。
  主イエスはおっしゃいます、「『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう」(マタイ12:7。主イエスはおっしゃいます、「口にはいってくるものは、みな腹の中にはいり、そして、外に出て行くことを知らないのか。しかし、口から出て行くものは、心の中から出てくるのであって、それが人を汚すのである。というのは、悪い思い、すなわち、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、誹りは、心の中から出てくるのであって、これらのものが人を汚すのである。しかし、洗わない手で食事することは、人を汚すのではない」(マタイ15:17-20)
  主イエスはおっしゃいます、「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。はっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を宮に納めておりながら、律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと神への忠実とをすっかり見逃している。それもしなければならないが、これをこそ、決して見逃してはならない」(マタイ23:23参照)。モノをどう取り扱うか。作法や体裁をどうするか。礼拝をどう厳かに、万事つつがなく、滞りなく、しめやかに格調高く執り行うか。「いいや、そういうことではない。ぜんぜん違う」と口を酸っぱくして告げられつづけます。食事や儀式の前にきれいに手を洗うか洗わないか、そういうことでもない。もっともっと、その千倍も万倍も大切なことがあると。預言者の口を用いて主なる神ご自身が、悲しみながら呼ばわりつづけました。「人よ、彼はさきによい事のなんであるかを、あなたに告げられた。主のあなたに求められることは、ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか」(ミカ書6:8)
  主イエスにとって、律法は神の御心を言い表したものです。神の御心は永遠につづき、変更されません。主イエスは律法を都合のいいように水で薄めることをなさらず、割り引くこともなさらず、好き勝手に解釈を変更することもなさいません。なぜなら律法を私たちのために成就し、私たちの現実生活の只中にことごとくまっとうするためにこそ主は来られたからです。律法の心を問題にし、そこにある神の御心をこそ重要視なさった主イエスは、だからこそ、しばしば「書かれた律法」の二歩も三歩も先へ踏み込んで語らざるをえませんでした。鉄砲や包丁で殺さなければそれでよいわけではない。怒ったり、愚か者と言ったり、バカと言う者は、心で思う者もまた、裁判を受け、議会に引き渡され、地獄の火に投げ込まれるだろう。そのとおり。それらは信仰告白が見てとったように、すでに決定的に「殺人の根」であり、「隠れた、密かな殺人」であるからです。しかも「父と母を敬え。殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。隣人について、偽証してはならない。隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない」(出エジプト記20:12-17)と厳しく命じられた神さまは、それらの禁止事項をもって、私どもが隣人を自分自身のように愛し尊ぶことをこそ心から願い求めておられます。私たちが自分の好き嫌いや気分や腹の思いに従ってではなく、むしろそれらを投げ捨てて、御父の御心にかなったことを行なって生きる私たちになることを。だから500年前の古い信仰問答は、「そういう意味で殺さなければそれで十分か」と問い、直ちに、「いいや、そうではない」と答えました。神さまの御心は、「なぜなら神様はこれによってねたみ、憎しみ、怒りを呪っておられ、わたしたちが、隣人をわたしたち自身のように愛することを望んでおられるからです。隣人に対しては忍耐、平和、柔和、憐れみ、友情を示し、その人の受ける害を力の限り防いで、わたしたちの敵にもまた、良いことをなす事を望んでおられるのです」と。その通りです。

                                     

主に仕える思いをもって生きることを、主イエスは要求なさいます。本気で、心からそうしなさいと。しかも、主イエスを信じる者たちにはそれが誰でも必ずできる、と太鼓判を押されています。なぜ? どのようにして。信じる私たちにはすでに主イエスの霊が与えられ、罪と死の法則からすでに私たちは解放されているからです(ローマ手紙8:4-11参照)もしあなたが誰かをねたんだり、憎んだり、ついつい腹を立ててしまう自分自身に気がつくとき、誰かを「愚か者。バカ」と言って軽んじ、見下してしまうとき、しかも、「そう言えば、朝から晩までそんなことを繰り返している自分だ。なんということか」と思い当たるとき、ついつい思いやりのない冷淡な態度をとって人を恐れさせたり恥じ入らせたりしている私だと気づくとき、そのとき、あなたは幸いです。心に痛みを覚えて、そこでとうとう神さまへと立ち返ることができる、かも知れないからです。自分自身の罪深さと傲慢さに気づかない間、「なんという惨めな私か」と気づかず、心が少しも痛まなかった間中ずっと、私たちは他の誰かの心を傷めさせ、踏みつけにしつづけていました。けれど、ようやく自分の心が痛みました。神さまに対しても人様に対しても、まったく申し訳なかった。お詫びのしようもないと。おめでとう、憐れみを受けたクリスチャン。あなたの内に確かに宿っているキリストの霊こそが、それをあなたに、させ始めているからです。正義と公平をおこない、慈しみと憐れみを差し出すことを喜び、へりくだって主なる神さまと共に歩む私たちとならせていただけるからです。神ご自身が、あなたのためにも私のためにも、それをきっと必ず成し遂げてくださるからです。
祈りましょう。