2015年9月13日日曜日

9/13「世の光である」マタイ5:13-16

                                       みことば/2015,9,13(主日礼拝)  24
◎礼拝説教 マタイ福音書 5:13-16                      日本キリスト教会 上田教会
『世の光である』   

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC


5:13 あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。14 あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。15 また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。                 (マタイ福音書 5:13-16)


「あなたがたは地の塩であり、世の光である」と主イエスがご自分の弟子たちに向かって仰いました。弟子たちを取り囲んで、主イエスに従ってきた大勢の群衆もこれを聴き、考え込みました。「あの彼らが地の塩であり、世の光である。それは一体どういうことだろうか」と。すでに主イエスの弟子とされた私ども自身も首をひねり、考え込んでいます。「この私たちが地の塩であり、世の光である。それは一体どういうことだろうか」と。
キリストの教会と私たちクリスチャンにとって、塩も塩気も塩の効果も、輝く明るい光も、なにもかも救い主イエス・キリストご自身です。特に『光』については明白で、主イエスご自身が仰いました;「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」。それゆえに、主イエスを信じて生きるクリスチャン皆は「光の子」とされ、「神ご自身の光の中に留まり、光の中を歩む者たち」とされました。「なぜなら、やみは過ぎ去り、まことの光がすでに輝いているからである。『光の中にいる』と言いながら、その兄弟を憎む者は、今なお、やみの中にいるのである。兄弟を愛する者は、光におるのであって、つまずくことはない。兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩くのであって、自分ではどこへ行くのかわからない。やみが彼の目を見えなくしたからである」(ヨハネ8:12,テサロニケ(1)5:5,ヨハネ(1)1:7,2:9-11。救い主イエスご自身から良い贈り物をいただきつづけている私どもです。主は仰った、「あなたがたは、わたしが語った言葉によって既に清くされている。わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである」(ヨハネ福音書15:3-5)これこそが、私たちのための塩気であり、託された唯一の光でありつづけます。キリストとつながっている。それは、キリストからの言葉を抱えて生きているし、聞き取り受け取ってきたその言葉が、私たちを清くし、私たち自身が抱える闇と死の陰を吹き払いつづけ、光のほうへ光のほうへと導き入れつづけている。だから必ず実を結ぶし、光を輝かせる。だから当然、塩気があり、必要なだけ十分に清められてもいる。そうであるはず、である。けれど度々、その塩気と光とはどこかに紛れてしまいました。
  その根本的な理由は、私たち自身のうちに根深くすくっている人間中心の物の考え方です。ペトロが主イエスから厳しく叱られたことを覚えておられますか。主イエスの死と復活についての最初の予告を聴き、「とんでもない。あるはずがないし、あっては困る」と弟子のペトロが主イエスを諌めようとし、「サタンよ、引き下がれ。私の邪魔をする者め。神のことを思わないで、もっぱら自分と人間たちのことばかり思い煩っているじゃないか。いったいどういう了見だ」と厳しく叱られました(16:21-23参照)。その上で改めて弟子たちは、「自分を捨てて私に従ってきなさい」と主イエスから招かれました。神のことを思わないで、もっぱら自分と人間たちのことばかり思い煩ってしまう。自分自身と周囲の人間のことばかり思い煩い、そのあまりに神を思う暇がほんの少しもない。これを『ペトロの病気』と呼びます。クリスチャンがかかりやすい、最も重い病気です。軽く見てしばらく放置すると病気は急速に悪化し、その患者を死に至らせる恐ろしい病気です。みるみるうちに信仰の生命がやせ衰え、神さまがどんな神さまだったか。恵みや救いの道筋はどういうふうだったか。救われた私たちは何者か、どのように生きることができるのかなど、大事なことがすっかり分からなくなります。キリスト教会の世俗化とは、このことです。教会まるごと、団体で、この病気に集団感染してしまいます。闇は深まり、死の土地、死の陰の谷は領土を拡大し、その勢いを強めています。世俗化の波に、キリストの教会も激しく襲われ続けています。教会の世俗化とは、キリストに聴き従うことを私たちがすっかり止めてしまうことです。神さまに信頼を寄せ、神さまの御心を第一として、そこに心から服従して生きようとすることを捨て去ってしまうことです。そこから、キリスト教会の衰弱が始まり、私たちはますます衰え弱っていこうとしています。だからこそ、キリストの教会は「悔い改めよ。あなたは悔い改めて、あなたの在り方と腹の思いの全部を180度グルリと神へと向け返して、今日こそ主イエスの福音を信じなさい。信じて生きることをしはじめなさい」と語りつづけます。まず自分自身の魂に向けてです。
  神さまご自身こそが世を照らす光であり、救い主イエスが真実な光でありつづけます。「暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った」と旧約時代の預言者はあらかじめ告げ、主イエスご自身もまた、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」(イザヤ書9:2,マタイ4:15-16,ヨハネ8:12,12:46-50。天の御父と御子イエス・キリストが光である。それゆえ、『光』とは私たち自身の救いであり、この私たちもまた新しい生命を現実に、一日また一日と生き始めることです。詩篇の祈りの人はこう呼ばわりました、「主は私の光、私の救いだ。私は誰を恐れよう。いいや、誰をも恐れる必要もないし、現に確かに恐れはしない。たとい軍勢が陣営を張って私を攻めてきても、私の心は恐れない。たとい戦が起って、私を攻めても、なお私は自ら頼むところがある」。しかもすでに光に照らされ、光のもとに据え置かれているはずのこの私共のために、こう語りかけられています。「光にさらされる時、すべてのものは、明らかになる。明らかにされたものは皆、光となるのである。だから、こう書いてある、『眠っている者よ、起きなさい。死人のなかから、立ち上がりなさい。そうすれば、キリストがあなたを照すであろう』」(27:1-3参照,エペソ手紙5:13-14)
  讃美歌Ⅱ編28番を、この後でごいっしょに歌います。28番1節の「わがたまの縄目、解き放ちたまえ」を説明しておかねばなりません。「たま」は魂のことです。「縄目」は、Ⅰ編94番の1節でも「み民の縄目を解き放ちたまえ」とよく似た言い方が出てきました。TVの時代劇を見ていると、逮捕された罪人が太いロープで体中をグルグル巻きにされ、お役人に連れられて町中を引き回されていきます。あのグルグル巻きの太いロープ、それが縄目です。罪人が逮捕されることも「お縄にかかる」などと言います。私たちをがんじがらめに縛り付け、身動きできなくしているものこそ、「罪」「汚れた思い」「自分の腹の思い」などと言われつづけてきたものです。グルグル巻きに体を縛り付けるその太いロープを自分自身では解くことができず、他の誰に頼んでもそこから自由にしてもらうことができない。だからこそこの歌も、また待降節のあの94番『久しく待ちにし』も、「主よ、どうか早く来てください。罪のロープを解いて、私たちを救い出してください。私たちを自由の身にしてください。早く早く」と救い主イエス・キリストを待ち望みつづけました。
  Ⅱ編と賛美歌21版、それぞれに長所と短所があり、どっちがいいなどと軽々しく言ってはなりません。ただ、この曲に限って言うなら、同じ中身を見据えながら、けれど賛美歌21は思い切って1歩2歩と踏み込んだ言い方をしています。Ⅱ編28番の1節では「闇を照らす主よ、あなたの光を慕い求めます」と歌ったところを、賛美歌21では「光にいます主よ、われらを照らして」(賛美歌21503)と。主ご自身こそが光そのものである。その光に明るく照らされて、まず私たち自身の罪の実態が明らかにされました。罪の鎖にがんじがらめに縛り付けられている私だと。自分でその鎖を解くことができず、他の誰によっても解き放ってもらえない。その痛みと辛さから、この祈りの人は憐れみと救いをますます請い願って主イエスへと向かっています。罪の鎖を断ち切ってこの私を自由にしてくれるのはただ救い主イエスしかいない、と知っているからです。なぜ私たちは「世の光」であり、「光の子たち」とされているのか。救い主イエス・キリストこそが光であるからです(ヨハネ福音書8:12,9:5,12:35-36)。世を照らす光である救い主イエスを信じているし、そのお独りの方に目を凝らしているし、聴き従っている。だから、私たちは、主イエスの光に照らされつづけ、その光を鏡のように反射しつづけて、光の子たちなのです。それはちょうど太陽光発電の、屋根の上に並べられた反射板のようにして、そのようにして私たちは主イエスの光を反射しつづけます。主イエスの熱を蓄えつづけます。このことは、よくよく覚えておかねばなりません。ですから自分自身の中に何か明るく輝く材料がないかと探すのは、するとお門違いですね。そうではないのです。明るいものも輝く材料も、あなた自身の中からはどこをどう探しても出てきません。それは元々、人間から出る、人間による光ではなく、神さまからだけ出る、神さまからの光であるからです。出所がまったく違います。(コリント手紙(2)4:4-7)「わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために」。闇から光が輝き出よ、という裏腹な輝き方です。粗末で貧相な土の器に、けれど光を入れられている。神のものであり、神からだけ出てきたし、私たちのものではなく、私たちから出たものでもない。だからこそ、値千金なのです。この並外れて偉大な力は、神ご自身のものである。私たちのものではない。私たちから出たものではなく、ただただ神さまからこそ出た、そして贈り与えられた。そのことが、明らかになるために。けれど兄弟たち、明らかになるべきことが惑わされつづけました。覆い隠され、すっかり曇りつづけました。私たちクリスチャンの皆が皆、土の器であるとして、あなた自身は、例えば「松竹梅、中の上、特上」のうち、どれほどの土の器でしょうか。極上品の有田焼、ではありません。備前焼でもなく、高級ブランドの名人のナントカ作の1個数千万円もの土の器、とは一切関係がありません。それなのになぜ、その器の色艶、形の優雅さや貧しさ、あふれる気品とかそうでもないとか、器の良し悪しにばかり目を奪われてしまうのでしょう。クリスチャンである一つの器に見とれて「まあ素敵。すばらしい色艶で、優美で、格調高くて」、それに比べてなどと。いいえ、大急ぎですっかり目を覚ましましょう。「格別に素敵な宝物。しかも、それなのにまったく裏腹に、飛び切りに粗末で貧相なあまりに貧しい器。それが、あなたでありこの私である。それこそがキリストの教会であり、クリスチャンであることの実態である」と同じく語りつづけます。
 Ⅱ編28番の4節も読みましょう。わが主に従い、たじろがず歩もう。主の清らかな山に、どうぞ、こんな私をさえ必ずきっと導いていってください。困難や悩みなど平気だと強がりを言っているわけではありません。朝から晩まで、来る日も来る日も、私たちはほんのささいなことでたじろぎつづけています。強がりを言っても虚勢を張ってみても、誰もが皆とてもとても心細かったのです。そのことにようやく思い至って、この祈りの人は、「この私は主に従って歩んでいこう」とついにとうとう腹をくくりました。何があってもたじろがない私ではなくて、たじろぎっぱなしの私だ。たじろがない私だから主に従ってゆくわけじゃない。むしろ逆。放っておくと朝から晩までアタフタオロオロして、たじろぎっぱなしの私なので、だから 主に従って生きていこうと。そうしたら、主イエス・キリストこそが私の心と思いとを守り、私から心細さや恐れを一つまた一つと拭い去ってくださるに違いない。祈り求めましょう。