2021年11月22日月曜日

11/21「耐え忍ぶことが出来る」ルカ21:10-19

              みことば/2021,11,21(主日礼拝)  346

◎礼拝説教 ルカ福音書 21:10-19                   日本キリスト教会 上田教会

『耐え忍ぶことが出来る』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

21:10 それから彼らに言われた、「民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。11 また大地震があり、あちこちに疫病やききんが起り、いろいろ恐ろしいことや天からの物すごい前兆があるであろう。12 しかし、これらのあらゆる出来事のある前に、人々はあなたがたに手をかけて迫害をし、会堂や獄に引き渡し、わたしの名のゆえに王や総督の前にひっぱって行くであろう。13 それは、あなたがたがあかしをする機会となるであろう。14 だから、どう答弁しようかと、前もって考えておかないことに心を決めなさい。15 あなたの反対者のだれもが抗弁も否定もできないような言葉と知恵とを、わたしが授けるから。16 しかし、あなたがたは両親、兄弟、親族、友人にさえ裏切られるであろう。また、あなたがたの中で殺されるものもあろう。17 また、わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう。18 しかし、あなたがたの髪の毛一すじでも失われることはない。19 あなたがたは耐え忍ぶことによって、自分の魂をかち取るであろう。               ルカ福音書 21:10-19

 

16:25 真夜中ごろ、パウロとシラスとは、神に祈り、さんびを歌いつづけたが、囚人たちは耳をすまして聞きいっていた。26 ところが突然、大地震が起って、獄の土台が揺れ動き、戸は全部たちまち開いて、みんなの者の鎖が解けてしまった。27 獄吏は目をさまし、獄の戸が開いてしまっているのを見て、囚人たちが逃げ出したものと思い、つるぎを抜いて自殺しかけた。28 そこでパウロは大声をあげて言った、「自害してはいけない。われわれは皆ひとり残らず、ここにいる」。29 すると、獄吏は、あかりを手に入れた上、獄に駆け込んできて、おののきながらパウロとシラスの前にひれ伏した。30 それから、ふたりを外に連れ出して言った、「先生がた、わたしは救われるために、何をすべきでしょうか」。31 ふたりが言った、「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」。       (使徒行伝16:25-31)


10-14節、「それから彼らに言われた、「民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろうまた大地震があり、あちこちに疫病やききんが起り、いろいろ恐ろしいことや天からの物すごい前兆があるであろう。しかし、これらのあらゆる出来事のある前に、人々はあなたがたに手をかけて迫害をし、会堂や獄に引き渡し、わたしの名のゆえに王や総督の前にひっぱって行くであろう。それは、あなたがたがあかしをする機会となるであろう。だから、どう答弁しようかと、前もって考えておかないことに心を決めなさい」。まず最初に、「民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう」と救い主イエスが、この私たちに向けて仰います。身近な人々との争いや、もめ事、なかなか心が通じ合わない、分かってもらえないということは私たちにとってもありうる。国と国、またそれぞれの国の中でも、厳しく恐ろしい対立や迫害や弾圧などもあちこちで起こりつづけています。この日本の中でも、アジア諸国でも、アフリカでも、世界中のあちこちでも。心が痛みます。

また、「大地震があり、あちこちに疫病やききんが起り、いろいろ恐ろしいことや天からの物すごい前兆があるであろう。しかし、これらのあらゆる出来事のある前に、人々はあなたがたに手をかけて迫害をし、会堂や獄に引き渡し、わたしの名のゆえに王や総督の前にひっぱって行くであろう。それは、あなたがたがあかしをする機会となるであろう」と。さまざまな争いや対立があちこちで起こりつづけ、大地震があり、あちこちに疫病やききんが起り、いろいろ恐ろしいことや天からの物すごい前兆もあり、けれど、それらのごく一部分を私たちは目撃しているにすぎません。また、多くの人々は神の国の福音を拒みつづけます。

救い主イエスがふたたびこの世界に来られる、その終わりの日が近づいています。約束されている通りにです。神を信じて生きる私たちクリスチャンがなすべき務めは、とても単純明快で、はっきりしています。いつどこででも、何が起こっても、他の人たちがどんなふうに暮らしているとしても。なお神の招きに応えて、救いへと選ばれていることを確かな現実としようと務めて、その神さまの御心に対して忠実に生きることです。他の何よりも、神の国と神の義をこそ求めて生きることです。そのように生きるなら、大地が揺れ動き、土や泥水が押し寄せるときにさえ、その人は、大きな堅い岩の上に足を踏みしめて立っています。

また救い主イエスは、ご自身の弟子である私たちを襲う困難な状況についても、あらかじめ告げ知らせておられます。「人々はあなたがたに手をかけて迫害をし、会堂や獄に引き渡し、わたしの名のゆえに王や総督の前にひっぱって行くであろう。それは、あなたがたがあかしをする機会となる」と。迫害されることもあり、牢獄に閉じ込められる日々もあり、「王や支配者たちの前にひっぱって行かれ」、「裏切られ」、見捨てられることもあり、殺されることもありうると。救い主イエスの名のゆえに、このお独りのお方を信じて、この方に聴き従って生きていることを理由にして、ひどく憎まれることもありうると。使徒行伝16章でも、予告されていた通りのことが起こりました;「群衆もいっせいに立って、ふたりを責めたてたので、長官たちはふたりの上着をはぎ取り、むちで打つことを命じた。それで、ふたりに何度もむちを加えさせたのち、獄に入れ、獄吏にしっかり番をするようにと命じた。獄吏はこの厳命を受けたので、ふたりを奥の獄屋に入れ、その足に足かせをしっかりとかけておいた。真夜中ごろ、パウロとシラスとは、神に祈り、さんびを歌いつづけたが、囚人たちは耳をすまして聞きいっていた」(使徒16:22-25。何度も何度も読み返してきたように、繰り返しムチ打たれ、足かせをはめられ、牢獄に閉じ込められたその真夜中に、主イエスの弟子たちは、神をほめたたえる讃美の歌を歌っていました。ほかの囚人たちも、その歌声や祈りに耳を傾け、聴き入っていました。その牢獄の中は、不思議な静かさと穏やかさに満ちていました。なぜなら主の弟子たちは、神さまへと向かい、神の御前に据え置かれていたからです。また、そのために与えられていた信仰の道具を用いていました。神へと向かう讃美の歌と祈りと。それらの歌と祈りによって、彼らは思い煩うことから自由にされていました。その歌と祈りによって、『主がすぐ近くにいてくださる』ことを「確かに。本当にそうだ」と鮮やかに実感することもできました。その歌と祈りによって、彼らは神に打ち明け、神さまからの打ち明け話を聞き分けていました。そのようにして彼らは、自分自身の心と考えとをキリスト・イエスによって守られていました(ピリピ手紙4:6-7参照)。だからこそ、その驚くべき光景に目を見張る者たちがいました。耳を澄ませて、「その歌と祈りの秘密はいったい何だろうか、ぜひ知りたいものだ」と考えめぐらせる者たちがいました。ほかの囚人たちです。突然に大地震が起き、牢獄の土台が揺れ動きました。牢獄の戸がみな開き、すべての囚人たちの鎖も足枷も外れてしまいました。主なる神が、これをなさったのです。牢獄の土台が揺さぶられ、戸がみな開き、すべての囚人たちの鎖も足枷も外れ、にもかかわらず弟子たちも他の囚人たちも誰1人としてそこから逃げ出さない。彼らを助け出すためではなく、1人の看守を救い出すためにこそ、1人の看守とその家族に救いをもたらすためにこそ、神は働かれました。驚くべきことです。あのとき、「救われるために、この私はどうすべきでしょうか」と看守は主イエスの弟子たちに問いかけました。奇妙な質問です。地震が起きて牢獄の戸が開き、囚人たちの鎖も足枷も外れてしまった。けれど囚人たちは逃げなかった。お咎めなしです。つまり、逃げ出さずに留まっていた他の囚人たちも、同じことを問いかけ、同じ答えを聞き届けていることになります。衣服をはぎとられても、はぎ取られない豊かさです。ムチ打たれ、苦しめられても萎まない平和です。鎖につながれ、足枷をはめられ、牢獄の奥深くに閉じ込められても、なお晴々として、穏やかでいられる安らかさです。あの歌とあの祈りの声をもっと聞いていたい。「自分もあのように歌い、あのように祈ることができたらどんなに幸いだろうか」と彼らは思いました。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(使徒16:31。これが、神さまからの約束です。このことについて先週も話しましたが、もう少し念を押しましょう。救われるために、神さまからの恵みと平和を受け取るために、どうしたらいいのか。主イエスを信じること。ただ、これだけです。

さて15-19節、「あなたの反対者のだれもが抗弁も否定もできないような言葉と知恵とを、わたしが授けるから。しかし、あなたがたは両親、兄弟、親族、友人にさえ裏切られるであろう。また、あなたがたの中で殺されるものもあろう。また、わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう。しかし、あなたがたの髪の毛一すじでも失われることはない。あなたがたは耐え忍ぶことによって、自分の魂をかち取るであろう」。末尾の19節で、「あなたがたは耐え忍ぶことによって、自分の魂をかち取るであろう」と告げられます。これは、「あなたがたは最期の最期まで耐え忍ぶことが出来る」という神からの保証であり、確かな約束です。私たちの教会がよって立つ信仰は、改革教会の伝統のもとにあります。それは、神中心の信仰であり、神の恵みによくよく目を凝らしつづける信仰です。カルヴァン主義の信仰の5原則(全面的堕落、無条件の選び、限定的贖罪、拒むことのできない恩恵、聖徒の堅忍)として教えられ、習い覚えてきた5項目のうちの最後の1つは、「神を信じる者たちが最後まで耐え忍ぶことができる」と断言します。神が、私たちを支え続け、神こそが私たちをその信仰のうちに耐え忍ばせ、やがて死の川波を乗り越えて永遠の御国へ辿り着かせてくださるという神の約束であり、神への信頼です。その要点は、(その人自身の側の信仰深さや、忍耐力などとは何の関係もなく)、ただただ憐み深い神の御心とその御力こそが何よりも強く確かであることです。神があらかじめ救いへと選び入れておられる者たちを、最期の最期まで御手のうちに固く守り抜いてくださること。そのことへの絶対的な信頼です。だからこそ、この信仰は、どこまでも神中心の信仰であり、神の恵みによくよく目を凝らしつづける信仰です。

例えば、「両親、兄弟、親族、友人にさえ裏切られることもありうる。無残に殺されることもありうる。また、救い主イエスの名のゆえに、イエスを信じて生きることのためにすべての人に憎まれ、踏みつけにされ、退けられることも有り得る」。たとえそうであっても、それでも何の不都合も不足もない。その安らかさと幸いの根拠は、ただただ、私たちを救いへと選び取り、守り、支え、保ち続けてくださる憐みの神のもとにあります。

「あなたがたの髪の毛一すじでも失われることはない」と保障されます。これは、やや言葉足らずな説明です。この約束の本意は、『憐み深い天の御父の御心によらないでは~失われない。憐み深い御心のもとに一本一本抜け落ちおてゆく』という約束です。もちろん、「いつまでも黒髪がふさふさしていて」ということではありません。いつまでも若々しく見える人もいますが、ほんの少しの個人差があるばかりで結局は誰の髪の毛も、一本また一本と抜け落ちていきます。そのように、物忘れをするようになり、足腰弱り、ほんの少し前までは簡単に出来ていたはずのことが次々と出来なくなります。身も心も、日に日に衰え弱ってゆき、さまざまな不具合や不自由や困難をも抱えつづけて生きて、やがて神さまが決めておられる時期と順番と在り方で必ず死んでゆく私たちです。しかも、私たちの頭の髪の毛一本一本と同じように、この私たち自身の心も体もしだいに衰え弱っていきます。

そのとおり。そのことを恐れなくても良いし、悲しみ嘆かなくてもよい。なぜなら、神の憐れみとゆるしのもとにそれぞれの頭の髪の毛が一本、また一本と抜け落ちてゆくように、私たちは神の憐れみのもとに衰え弱り、やがて死んでゆくからです。やがて神の永遠の御国に辿り着かせていただき、自分の朽ちることのない魂と生命を、神の憐れみによって贈り与えられることになっているからです。それで十分であるからです。 (終りのとき②/全4回)