2021年11月2日火曜日

10/31「主である救い主」ルカ20:40-47

         みことば/2021,10,31(主日礼拝)  343

◎礼拝説教 ルカ福音書 20:40-47     日本キリスト教会 上田教会

『主である救い主』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

20:40 彼らはそれ以上何もあえて問いかけようとしなかった。41 イエスは彼らに言われた、「どうして人々はキリストをダビデの子だと言うのか。42 ダビデ自身が詩篇の中で言っている、『主はわが主に仰せになった、43 あなたの敵をあなたの足台とする時までは、わたしの右に座していなさい』。44 このように、ダビデはキリストを主と呼んでいる。それなら、どうしてキリストはダビデの子であろうか」。45 民衆がみな聞いているとき、イエスは弟子たちに言われた、46 「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣を着て歩くのを好み、広場での敬礼や会堂の上席や宴会の上座をよろこび、47 やもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈をする。彼らはもっときびしいさばきを受けるであろう」。              ルカ福音書 20: 40-47

 

3:4 ヨナはその町にはいり、初め一日路を行きめぐって呼ばわり、「四十日を経たらニネベは滅びる」と言った。……7 また王とその大臣の布告をもって、ニネベ中にふれさせて言った、「人も獣も牛も羊もみな、何をも味わってはならない。物を食い、水を飲んではならない。8 人も獣も荒布をまとい、ひたすら神に呼ばわり、おのおのその悪い道およびその手にある強暴を離れよ。9 あるいは神はみ心をかえ、その激しい怒りをやめて、われわれを滅ぼされないかもしれない。だれがそれを知るだろう」。10 神は彼らのなすところ、その悪い道を離れたのを見られ、彼らの上に下そうと言われた災を思いかえして、これをおやめになった。……4:4 主は言われた、「あなたの怒るのは、よいことであろうか」。……9 しかし神はヨナに言われた、「とうごまのためにあなたの怒るのはよくない」。ヨナは言った、「わたしは怒りのあまり狂い死にそうです」。10 主は言われた、「あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。11 ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか」。 (ヨナ書 3:4-4:11)

まず41-44節、「イエスは彼らに言われた、「どうして人々はキリストをダビデの子だと言うのか。ダビデ自身が詩篇の中で言っている、『主はわが主に仰せになった、あなたの敵をあなたの足台とする時までは、わたしの右に座していなさい』。このように、ダビデはキリストを主と呼んでいる。それなら、どうしてキリストはダビデの子であろうか」。復活についての教えを語った後で、今度は救い主イエスご自身から、私たちに問いかけます。42-43節の『』は詩篇1101節の引用です。この言葉を、どう理解することが出来るだろうか。ダビデが詩篇の中で、救い主を『わたしの主』と呼んでいる。それはどういう意味だろうかと。それに対して、律法学者たちは答えることが出来ませんでした。けれど、知るべきすべてを知らされている私たちクリスチャンは、今ははっきりと答えることができます。神ご自身の約束どおりに、まことの神であり、同時にまことに人間でもあられる救い主イエス・キリストが、ダビデの子孫の中から生まれ、この世界に遣わされました。(1)人間として、その救い主は「ダビデの子」でもあります。(2)同時に神として、その救い主は、ダビデにとっても私たちや、この世界にとっても「主」であられます。つまり、「まことの神にして、同時に、まことの人」(ピリピ手紙2:6-8参照)でもある救い主です。

詩篇の全150篇は救い主イエスについての証言で満たされており、救い主イエスの十字架の苦しみ、へりくだり、死と復活、やがてこの世界を裁き、世界のための祝福を成し遂げるために再び来られますこと、救い主イエスがそれまで世界の王として働き続けること。そのようにイエスは主であり、救い主であられます。ですから詩篇を読むときにも詩編を歌うときにも、この唯一の主に対する敬意と信頼と感謝をもって読むべきです。しかも、それは詩篇だけのことではなく、救い主イエスを証言する神の言葉として、格別な敬意と信頼とをもって、聖書66巻全体がそのように読まれ、十分な信頼を寄せられ、取り扱われねばなりません。イエスご自身がこう警告し、また勧めます、「また、神がつかわされた者を信じないから、神の御言はあなたがたのうちにとどまっていない。あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない」(ヨハネ福音書5:38-40。つまり、聖書に十分に信頼を寄せ、聴き従い、読み、そのようにして救い主イエスのもとへと来て、そのようにして、あなたがた自身と家族のための命を受け取りつづけなさいと。

今日のもう一つの大切なこと。45-47節、「民衆がみな聞いているとき、イエスは弟子たちに言われた、「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣を着て歩くのを好み、広場での敬礼や会堂の上席や宴会の上座をよろこび、やもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈をする。彼らはもっときびしいさばきを受けるであろう」。民衆がみな聞いているとき、イエスは弟子たちに言われた、「律法学者に気をつけなさい」と。民衆全体ではなく、とくに主イエスに従って生きてきた、またこれからもそうしようとしている弟子たちに向かって、「あなたがたこそは、律法学者によくよく気をつけつづけなさい」です。なぜなら、この私たち自身が、長い衣を着て歩くのを好み、広場での敬礼や会堂の上席や宴会の上座をよろこぶ『偽善者の心』を根深く抱え持っているからです。この私たちこそが、たびたび繰り返して偽善者に成り下がってしまうからです(例えばマタイ福音書23章は、この1つの章だけで8回も「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ」と連呼する。私たちクリスチャンのための警告として)。もし私たちが、礼拝の最中や折々に、兄弟姉妹たちの前で慎み深く敬虔にふるまい、礼儀正しくし、けれども自分の家に帰って家族を困らせたり、苦しめたり、「なんだ。それがクリスチャンか。それでもキリスト教徒か」と家族を深く失望せてしまうならば、その私たちこそが神の憐れみを台無しにしています。神の公正さと正義と慈しみに敵対しています。そのとき私たちは、もっとも恥じるべき存在に成り果ててしまっています。

救い主イエスはなぜ、こんなにも厳しく容赦なく、私たちの偽善を嫌うのか。うわべを取り繕い、自分自身の正しさやふさわしさを言い張ろうとすることを警戒させ、はなはだしく憎むのか。何度も何も、どうして「とくにあなたがたは気をつけなさい」と警告し、釘を刺しつづけるのか。なにより、その自分自身の偽りによって、私たち自身が信仰の危機に直面しているからです。とても危ないからです。偽善に陥り、正しさやふさわしさを言い張ろうとするとき、それこそが最も罪深い在り方だからです(ローマ手紙10:2-3「わたしは、彼らが神に対して熱心であることはあかしするが、その熱心は深い知識によるものではない。なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである」)

なぜなら私たちの主であられます神は、憐み深い神だからです。救いに価しない罪深いものを憐れんで、その罪をゆるして救おうとしつづける神だからです。偽善な律法学者やパリサイ人に成り果ててしまうとき、その私たちは憐みの神に敵対し、その救いからこぼれ落ちようとしているからです。取税人ザアカイを憐れみ、ご自身の十字架の両側にはりつけにされた2人の強盗たちを憐れみ、取税人だったマタイをご自分の弟子としました。キリスト教会とクリスチャンたちを迫害し、苦しめ、追い払い、牢獄に閉じ込めようとしていたサウル(のちのパウロ)を憐れみ、シモンの家で罪深い女を憐れんだ救い主でありつづけるからです。「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ福音書23:34と、ご自分を憎んで十字架につけたはなはだしい罪人である私たちを憐れんで、その救いのために、十字架の死と復活を成し遂げてくださった救い主だからです。「神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」(ピリピ手紙2:6-8からです。

例えば、はなはだしい悪と不法に染まっていたニネベの町と人々と家畜を滅ぼすことを思い返して救ったとき、それをしたのは、同じ憐みの神です。預言者ヨナが「40日を経たらニネベは滅びる」と呼ばわる声を聴いて、ニネベの人々は神を信じ、断食をふれ、大きい者から小さい者まで荒布を着ました。自分自身の罪を恥じ、悔い改めて、祈るしるしにです。このうわさがニネベの王に達すると、王はその王座から立ち上がり、朝服(ちょうふく=王侯貴族、武官、文官などが階級と身分を示すために着る勤務服)を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中に座しました。また王とその大臣の布告をもって、ニネベ中にふれさせてこう言いました、「人も獣も牛も羊もみな、何をも味わってはならない。物を食い、水を飲んではならない。人も獣も荒布をまとい、ひたすら神に呼ばわり、おのおのその悪い道およびその手にある強暴を離れよ。あるいは神はみ心をかえ、その激しい怒りをやめて、われわれを滅ぼされないかもしれない。だれがそれを知るだろう」。ここで、「そうすれば神は私たちを滅ぼさないだろう」ではなく、「あるいは神はみ心をかえ、滅ぼさないかも知れない」と。そして「人も獣も牛も羊もみな、ひたすら神に呼ばわり(「神に呼ばわる」=祈る)、おのおのその悪い道およびその手にある強暴を離れよ」。そして彼らはその悪い道を離れ、彼ら(つまり人と獣と牛と羊みな)がそのように神に祈り、自分自身の罪を深く恥じ入り、悔い改め、それぞれの手にある強暴と不正とよこしまを離れた、その1つ1つを神ご自身が見ました。そして、彼らの上に下そうと言われた災を思いかえして、これをおやめになりました(ヨナ書3:5-10参照)。預言者ヨナは、自分の正しさが踏みつけにされたと感じて、激しく怒ります。そうです。弟を殺した、あのカインのように。自分だけにもてなしをさせて手伝わなかった妹に腹を立てたマルタ姉さんのように。父が弟ばかりを深く愛し、顧み、自分にはよいものをくれたことがないと僻んだ、あの放蕩息子の兄のように。朝早くからぶどう園で働いて同じ1デナリしか与えられなかったことを不満に思って腹を立てた、あの労働者たちのように。同じ独りの神が、その正しいつもりの彼らに問いかけます。「あなたはなぜ憤るのか。なぜ顔を伏せるのか。あなたが腹を立てるのは、正しいことか」と。正しい預言者ヨナに対しても、この私たちに対しても、神はやはり同じ1つのことを問いかけつづけます、「あなたの怒るのは良くない」と。「あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか」(ヨナ書4:10-11参照)十二万あまりの、右左を十分にわきまえている人々と行いの良い家畜を、ではありません。わきまえない人々と、数多くのわきまえない家畜とのいるこの大きな、不正と邪悪の町ニネベを、そのたくさんの人々と家畜たちとを惜しまないでいられない神です。私たちが習い覚え、信じて依り頼んで生きてきた神は、こういう神であられます。

なぜ神は、私たちの偽善を嫌うのか。なぜ、うわべを取り繕い、自分自身の正しさやふさわしさを言い張ろうとすることを警戒させ、はなはだしく憎むのか。何度も何度も、どうして「とくにあなたがたは気をつけなさい」と警告し、釘を刺しつづけるのか。なにより、その自分自身の偽りによって、私たち自身が信仰の危機に直面しているからです。とても危ないからです。偽善に陥り、正しさやふさわしさを言い張ろうとするとき、それこそが最も罪深い、とても危険な在り方だからです。そこで、私たちは死と破滅と滅びに瀕しているからです。私たちの主であられます神は、憐み深い神であり、救いに価しない罪深いものを憐れんで、その罪をゆるして救おうとしつづける神だからです。偽善な律法学者やパリサイ人に成り果ててしまうとき、その私たちは憐みの神にはなはだしく敵対し、その救いからこぼれ落ちようとしているからです。「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ福音書23:34と、ご自分を憎んで十字架につけたはなはだしい罪人である私たちを憐れんで、その救いのために、十字架の死と復活を成し遂げてくださった救い主だからです。しかも、罪人を憐れんで救うために、ただそれだけのためにこの世界に降りてきてくださった救い主イエス・キリストであるからです(1テモテ手紙1:15参照)。