2021年11月15日月曜日

11/14「古い神殿が崩れ落ちるとき」ルカ21:5-9

           みことば/2021,11,14(主日礼拝)  345

◎礼拝説教 ルカ福音書 21:5-9            日本キリスト教会 上田教会

『古い神殿が崩れ落ちるとき』

 

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

21:5 ある人々が、見事な石と奉納物とで宮が飾られていることを話していたので、イエスは言われた、6 「あなたがたはこれらのものをながめているが、その石一つでもくずされずに、他の石の上に残ることもなくなる日が、来るであろう」。7 そこで彼らはたずねた、「先生、では、いつそんなことが起るのでしょうか。またそんなことが起るような場合には、どんな前兆がありますか」。8 イエスが言われた、「あなたがたは、惑わされないように気をつけなさい。多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がそれだとか、時が近づいたとか、言うであろう。彼らについて行くな。9 戦争と騒乱とのうわさを聞くときにも、おじ恐れるな。こうしたことはまず起らねばならないが、終りはすぐにはこない」。ルカ福音書 21:5-9

 

6:3 それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。4 すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。5 もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。6 わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。7 それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。8 もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。9 キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを、知っているからである。10 なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。11 このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。(ローマ手紙 6:3-11)


5-6節、「ある人々が、見事な石と奉納物とで宮が飾られていることを話していたので、イエスは言われた、「あなたがたはこれらのものをながめているが、その石一つでもくずされずに、他の石の上に残ることもなくなる日が、来るであろう」。救い主イエス・キリストがエルサレム神殿について語りかけておられます。この語りかけはとても大切で、注意深く思い巡らせる必要があります。人々は、その神殿のうわべの美しさや、荘厳華麗さに目を向けています。その大きさや、美術的な装飾の見事さ、またとても高額な費用が掛かったはずの建築物の細部のすばらしさなど。また、見た目の豪華さや華やかさばかりでなく、その神殿には十の戒めを記した石板が収められた『神の箱』が保管されており、神ご自身からのすべての贈り物の中の、もっとも象徴的なしるしがあります。神を信じる人々は一日に三度、神の御名が記されたエルサレム神殿に向かって祈りつづけてきました(列王上8:44,ヨナ書2:4,ダニエル書6:10。けれど、それらのことをよくよく分かった上で、なお、なおさらこう仰る。「あなたがたはこれらのものをながめているが、その石一つでもくずされずに、他の石の上に残ることもなくなる日が、来るであろう」。つまり、自然に偶然に打ち壊されるわけではなく、神ご自身の御心に従って、神ご自身の御手によって、神の神殿が跡形もなく打ち壊され、すっかり崩れ落ちるときがくる。そのときを、神ご自身が来させると。神を礼拝する場所の真実な栄光は、外面的な素晴らしさや装飾品などの見事さ、格調高さや美しさにはよらないという、神の力溢れる真実を私たちに教えるためにです。例えば、イスラエルの最初の王サウルに替わる次の王を選ぼうとしているとき、主は預言者サムエルに語りかけました、「顔かたちや身のたけを見てはならない。わたしはすでにその人を捨てた。わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る」(サムエル記上16:7。心を見る神です。神殿についても、ささげものについても、ささげられる一つ一つの礼拝についても、私たちそれぞれの日常生活についてもそうです。

私たち人間は建物の姿形や、礼拝の美しさや品格や言葉の美しさにばかり心を奪われてしまいやすいのです。けれど主なる神は、霊的な礼拝と、そこに聖霊なる神が共におられて私たちを導くことを願い求めつづけておられます。その心の中身をです。その当時のエルサレムの神殿には、そういう霊的な中身が決定的に欠けていました。救い主イエスは、その神殿と人々の在り方を喜ぶことがどうしても出来ませんでした。だから、救い主イエスは、「わが家は祈りの家であるべきだと書いてあるのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしてしまった」と仰いました。かつて預言者が「見よ、あなたがたは偽りの言葉を頼みとしているが、それはむだである。あなたがたは盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、あなたがたが以前には知らなかった他の神々に従いながら、わたしの名をもって、となえられるこの家に来てわたしの前に立ち、『われわれは救われた』と言い、しかもすべてこれら憎むべきことを行うのは、どうしたことか。わたしの名をもって、となえられるこの家が、あなたがたの目には盗賊の巣と見えるのか。わたし自身、そう見たと主は言われる」(ルカ19:46,エレミヤ書7:8-11と人々を叱ったように。だからこそ、「この神殿をこわしたら、わたしは三日のうちに、それを起すであろう」と主イエスは仰り、そこで、ユダヤ人たちは言った、「この神殿を建てるのには、四十六年もかかっています。それだのに、あなたは三日のうちに、それを建てるのですか」。イエスは自分のからだである神殿のことを言われたのである。それで、イエスが死人の中からよみがえったとき、弟子たちはイエスがこう言われたことを思い出して、聖書とイエスのこの言葉とを信じた(ヨハネ福音書2:19-と報告されています。

7-9節、「そこで彼らはたずねた、「先生、では、いつそんなことが起るのでしょうか。またそんなことが起るような場合には、どんな前兆がありますか」。イエスが言われた、「あなたがたは、惑わされないように気をつけなさい。多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がそれだとか、時が近づいたとか、言うであろう。彼らについて行くな。戦争と騒乱とのうわさを聞くときにも、おじ恐れるな。こうしたことはまず起らねばならないが、終りはすぐにはこない」。あなたがたは惑わされないように気をつけなさい、と警告されています。多くの者が救い主の名を名のって現れ、自分がそれだとか、時が近づいたとか、言う。けれど彼らについて行くな。戦争と騒乱とのうわさを聞くときにも、大きな津波や地震や川の氾濫や大規模な土砂崩れ、新しい恐ろしいウイルスや疫病の噂を聴くときにも、私たちはむやみに恐れてはなりません。こうしたことはまず起らねばならないが、終りはすぐにはきません。

しかも、すぐには来ないとしても、目を覚まして気を配っていなければなりません。こう警告されています、「だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである。このことをわきまえているがよい。家の主人は、盗賊がいつごろ来るかわかっているなら、目をさましていて、自分の家に押し入ることを許さないであろう。だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである」(マタイ福音書24:42-44

 

さて、古い神殿が神ご自身の手によって打ち壊され、崩れ落ちる、その後に、もちろん人間の手によらず、ただ神ご自身の手によってまったく新しい神殿が建て上げられます。そのことを心に留め続けなければなりません。「この神殿をこわしたら、わたしは三日のうちに、それを起すであろう」と主イエスは仰り、「この神殿を建てるのには、四十六年もかかっています。それだのに、あなたは三日のうちに、それを建てるのですか」と問われました。救い主イエスは自分のからだである神殿のことを言われたのだと、弟子たちは主イエスが復活なさった後で、それを悟りました。(1)今あるすべてのキリストの教会が、救い主イエスを土台として立てられた、その新しい霊的な神殿です。(2)また同時に、神を信じて生きるすべてのクリスチャンが、神がその人の体の中に宿ってくださる神の新しい霊的な神殿とされました。「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである」(1コリント手紙3:16-17

(3)だからこそ、神の御心にかなった霊的な礼拝を積み重ね、霊的なささげものとして自分自身のからだと日々の生活とを神にささげながら、日毎に新しく生きる私たちです。折々に献げられる神へのささげものそのものは『自分自身とその生活を神にささげて生きるためのしるし』であるということです。『感謝のささげものである』と言われる、その究極の意味はそこにあります。聖書は証言します、「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。わたしは、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりびとりに言う。思うべき限度を越えて思いあがることなく、むしろ、神が各自に分け与えられた信仰の量りにしたがって、慎み深く思うべきである」(ローマ手紙12:1-3。私たち自身のからだと生活を、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげる。それが、私たちがなすべき霊的な礼拝である。「あなたがたは、この世と妥協してはならない」。この世と妥協するとは、「この世界のやり方や考え方、社会習慣などと同じ形になる」ということです。それでは、そうではない別の、どういう形になるのかというと『キリストの形』になる、ということです。そのことが、ここで具体的に実践的にはっきりと説き明かされています。「心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知る」ことこそが、『キリストのかたち』であり、失われつづけていた『神のかたち』が救い主イエス・キリストを信じる信仰によって、私たちのうちに再び形づくられ、回復されるということです。聖書ははっきりと証言します、「神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである。それでは、これらの事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか」(ローマ手紙 8:29-32。私たちがなすべき霊的な礼拝が一回、また一回と積み重ねられ、自分自身を神さまにささげて日々を生き、そのようにして、救い主イエスを信じる信仰によって、この私たちの生涯の中に『神のかたち』が回復されてゆくという約束です。「わたしは貧しく、かつ乏しい。しかし主はわたしをかえりみられます。あなたはわが助け、わが救主です」(詩40:17