2021年5月10日月曜日

5/9「私の子羊を養いなさい」ヨハネ21:15-17

       みことば/2021,5,9(復活節第6主日の礼拝)  318

◎礼拝説教 ヨハネ福音書 21:15-17               日本キリスト教会 上田教会

『わたしの小羊を養いなさい』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC 

21:15 彼らが食事をすませると、イエスはシモン・ペテロに言われた、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」。ペテロは言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に「わたしの小羊を養いなさい」と言われた。16 またもう一度彼に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。彼はイエスに言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を飼いなさい」。17 イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい。         ヨハネ福音書 21:15-17


 復活の主イエスと真向かう中で一人の弟子が主イエスに対する信仰を回復され、その信仰によって堅く立つ者とされてゆきます。「私を愛するか?」と主イエスはその人に問いかけます。不思議なことです。何でも知っておられる主が、わざわざ質問しているのですから。しかも、しつこく3度も繰り返して。いったいなぜでしょう。この問いの意味を私たちもぜひ、はっきりと見極め、受けとめたいのです。

 15-17節、「彼らが食事をすませると、イエスはシモン・ペテロに言われた、『ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか』。ペテロは言った、『主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです』。イエスは彼に『わたしの小羊を養いなさい』と言われた。またもう一度彼に言われた、『ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか』。彼はイエスに言った、『主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです』。イエスは彼に言われた、『わたしの羊を飼いなさい』。イエスは三度目に言われた、『ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか』。ペテロは『わたしを愛するか』とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、『主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています』。イエスは彼に言われた、『わたしの羊を養いなさい』」。まず15節の、「あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」という最初の問いかけ。この問いかけは、彼の心の急所をギュッと掴んで、痛いところを突いています。この人たち以上に。なぜなら、それは主イエスが十字架にかけられて殺される直前の、あの最後の食事の席で、ペテロ自身が主イエスと他の弟子たちの前ではっきりと言った言葉だからです。「あなたのためには命も捨てます」。また、「たとい、みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません。たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」(ヨハネ福音書13:37,マタイ福音書26:33-35と。「わたしこそは。わたしだけは」。そのこだわりが彼の心を貧しくし、また傲慢に思い上がる者にしつづけていました。このペトロも、ここにいる私たちと同じように、ついつい人と自分とを見比べてうぬぼれたり僻んだり、安心したり心配になったりすることに深く囚われて生きてきました。自分自身の正しさや強さにこだわった彼でした。ですからここで、主イエスご自身から、『思い上がってうぬぼれていたあの時のままなのかどうか、ほんの少しも成長していないのか』と問われています。まだまだ他人よりも自分を高く引き上げて誇ろうとしつづけるのか、それとも、あなたは自分自身の低さや弱さ、愚かさや貧しさを、とうとう習い覚えたのかと。

  このペトロのつまずきと挫折を、あなたも覚えておられるでしょうか。ペトロ本人は、彼自身はよくよく覚えています。他の皆があの晩のことをすっかり忘れてしまっても、彼だけは死ぬまではっきりと覚えているでしょう。主イエスが十字架にかかる前の晩に、あのペトロは大きな挫折と失敗を体験しました。「愛するか。愛するか。愛するか」と3度くりかえされた主イエスからのあの質問は、このときのペトロの挫折と深く関わります。熱心で一途な、自信にあふれてゆるぎない彼でした。「たとえ他の弟子たち皆がつまづいても、私だけは絶対に大丈夫。何があっても、たとえ死んでもあなたに付いていきます。この私こそは信仰を堅く守り抜きます」。けれども敵対者たちに囲まれ、大きな危機と恐れにさらされる中で、あの彼もまた主を裏切ってしまいます。主イエスが裁判を受けている間、彼は大祭司の庭でこっそりと様子をうかがっていました。その正体を疑う人々の目にさらされて、彼は主イエスと自分との関係を打ち消しつづけます。「そんな人は知らない。何の関係もない」と必死に言い訳するうちに、夜明けを告げて鶏が鳴きました。そこで彼は、ほんの数時間前に自分に向けて語られていた主イエスの言葉をハッと思い起こしたのでした。「鶏が鳴く前に、あなたは3度わたしを知らないと言うだろう」。主がおっしゃっていたとおりでした(ヨハネ福音書13:38,18:25-27)

 あの彼だけではありません。私たちも同じです。自分自身の弱さや貧しさをつくづくと思い知らされる。それは、だから信仰をもって生きることの出発点でした。主を知らないと3度言ってつまずいた彼は、その深い破れを、3度修復されねばなりませんでした。「わたしを愛するか。愛するか。愛するか」と問いかけながら、そのようにして主は主ご自身からの愛を彼に注ぎかけます。壁の破れ目を新しいコンクリートで塗り固めるように、彼の貧しさと数々の失敗といたらなさと弱さと愚かさを、主イエスの福音こそが埋めるのです。救い主イエスこそが私たちを愛して下さっている。愛して下さっている。本当に、どこまでも愛しぬいてくださる(讃美歌461番を参照)。主イエスは愛を問い、ご自身からの私たちに対する愛を差し出しながら、同時に「主の小羊を飼え。彼らの世話をしなさい」(15,16,17)とお命じになります。聖霊を受けることが身近な隣人や家族や兄弟をゆるすことだった(ヨハネ福音書20:23ように、主を愛することもまた、私たちのいつもの生活の中での具体的なあり方と離れてはありえません。「主を愛する」と言いながら、身近な兄弟や家族や隣人を侮ったり軽んじたり、軽々しく裁いたりもできないはずでした。もし、主を愛そうと願うなら、あなた自身こそが主のものである小さな羊の世話をし、彼らを養うことだと。

  羊のような私たち。羊飼いのような神様です。その神は、かつて、私たちのために《生身の人間たちに過ぎない小さな羊飼い》たちを立ててくださいました。王、祭司、預言者たちのことです。けれど彼らはことごとく失敗してしまう。また、主を裏切ってしまう。獣たちの餌食にされようとする羊を、良い羊飼いである神が見ておられます。散り散りになり、あちこちに迷い出て、飼う者のいない羊のようにすっかり弱り果てている彼らに、けれどなお主は目をこらしつづけます。とうとう主なる神ご自身が立ち上がり、その不従順な羊飼いたちにこう宣言するのです。「もう、お前たちには任せておけない。散り散りにされた群れを私自身が探し出す。私が世話をし、養う」(エゼキエル書34:10-15参照)。そのようにして、主ご自身である格別に良いお独りの羊飼いがやがて、きっと必ず来てくださる。誰のことを言っているのかを、私たちは知っています。やがて来られたその救い主イエスこそが、羊飼いのような救い主です。この約束を聞き続けた人々は待ち望みました。羊飼いのような主が来てくださると。だからなのです。長い年月が過ぎて、ある日、ナザレ村から出てきたイエスという方が《羊と羊飼い》のことを語り始めたとき、人々は、はっとして耳を澄ませました。「ある人が百匹の羊を飼っていて、その一匹が迷子になって」とその方は物語りはじめます。また、「わたしこそが良い羊飼いだ」(ルカ福音書15:3,ヨハネ福音書10:11-)と。そして、「わたしを愛するなら、あなたは私の小さな羊を飼いなさい。ちゃんと彼らの世話をし、私の大切な羊たちを養いなさい」と。

  ペトロと共に、キリストの教会は、また一個のクリスチャンは、主イエスから命じられます。「私の小羊の世話をしなさい。養いなさい」と。それは断固たる命令であり、同時にそれはキリストの教会に対する祝福であり、クリスチャンである私たち自身のための幸いです。主のものである小さな羊たちの世話をし、互いに心を配りあい、養いあう。それこそが、私たちが主からの恵みを受け取る場所です。『世話をし、養い、また世話をされ、養われるその只中で、神様からの恵みと幸いを受け取るあなたになれる』、という約束です。不思議なことが起こっています。小さな羊たちがいます。失われ、追い払われた羊たち、深く傷ついて弱った羊たちがいます。彼らの世話をし、養おうと私たちは心を砕きます。「一体どうしたらいいだろうか」と私たちは悩み、頭を抱えます。そこで、その働きと悩みの只中で《神ご自身の働き》と出会い、神がたしかに生きて働いておられると知りました。ただ独りの大きな羊飼い御自身が、この小さな羊たちの世話をし、養っていてくださると知りました。「この小さな羊たちばかりではなく、私たち自身もまた、このお独りの羊飼いによって世話をされ、養われている。本当にそうだ」と知りました。私たちは羊の世話を互いにし養うものです。私たちも羊であり、心をついつい頑固にしてしまう羊だからです。

 主イエスを信じて生きる人々よ。この1回の礼拝に私たちが集っていることには、目的があります。いっしょに聖書を読んでいる。読まずにはいられない大切な理由が私たちにはあります。「わたしの羊たち。わたしの小羊たち」と私たちが主イエスから呼ばれているからです。なぜ、主イエスのものである羊なのか。主イエスの声を聞き分け、主イエスに従って歩んでいくからです。聞き分け、耳と心に蓄えている主イエスの言葉の1つ1つが私たちを清くしてくれるのであり、主イエスを信じる者とさせ、主の御心にかなった歩みをぜひしたいと願い求めさせるからです(ヨハネ福音書10:8,15:3。だから、ここに来ました。それは私たちが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、信じて、イエスの名により生命を受けるためです(ヨハネ福音書20:30-31)。生命を受け取りつづけて暮らし、主イエスの復活の証人でありつづけるためです。『私が主を愛するか、どこまでどの程度に愛するか』と問われる以前に、また、『この私が兄弟や隣人たちに愛と慈しみを豊かに差し伸べる人間であるのかどうか』と問い正される以前に、それを遥かに越えて救い主イエスこそが、こんな私をさえ愛してくださる。たとえ私が弱くてもです。たとえ私が冷淡で薄情で、あまりにかたくなであってもです。神さまを信じる心が私にまだまだ足りなくても、しばしば神に背き、逆らってばかりいるとしてもです。それでもなお、主なる神さまは、私たちを愛することを決してお止めにならない(ローマ手紙5:6-)。それが、神さまから私たちへの、変わることのないいつもの約束です。兄弟姉妹たち、なんということでしょう。信頼するに足る神です。すべてを委ねて、より頼むに値する神です。

 そうか。だからです。このただ一点によくよく目を凝らしつづけるためにこそ、あのペテロも私たちも、はなはだしく心を痛めなければなりませんでした。深い悲しみを覚え、自分自身の不信仰と不従順と身勝手さをつくづくと思い知らされねばなりませんでした。『主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛する愛も信仰もあまりに貧しくて、とても足りないことを、あなたたがよくご存知です』と十分に身を屈めさせられる必要があります。そこでようやく神にこそ信頼を寄せ、神に聴き従い、神に願い求めて生きる私たちとされつづけます。