2020年11月9日月曜日

11/8「母鳥がヒナを集めるように」ルカ13:31-35

 みことば/2020,11,8(主日礼拝)            292

◎礼拝説教 ルカ福音書 13:31-35            日本キリスト教会 上田教会

『母鳥がヒナを集めるように』

 

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

13:31 ちょうどその時、あるパリサイ人たちが、イエスに近寄ってきて言った、「ここから出て行きなさい。ヘロデがあなたを殺そうとしています」。32 そこで彼らに言われた、「あのきつねのところへ行ってこう言え、『見よ、わたしはきょうもあすも悪霊を追い出し、また、病気をいやし、そして三日目にわざを終えるであろう。33 しかし、きょうもあすも、またその次の日も、わたしは進んで行かねばならない。預言者がエルサレム以外の地で死ぬことは、あり得ないからである』。34 ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人々を石で打ち殺す者よ。ちょうどめんどりが翼の下にひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。35 見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう。わたしは言って置く、『主の名によってきたるものに、祝福あれ』とおまえたちが言う時の来るまでは、再びわたしに会うことはないであろう」。    

                                         (ルカ福音書 13:31-35)

                                              

8:3 律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。4 これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。5 なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。6 肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。7 なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。8 また、肉にある者は、神を喜ばせることができない。9 しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない。……11 もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。            (ローマ手紙8:3-11)

(1)三日目に成し遂げる

 まず31-32節、「 ちょうどその時、あるパリサイ人たちが、イエスに近寄ってきて言った、『ここから出て行きなさい。ヘロデがあなたを殺そうとしています』。そこで彼らに言われた、『あのきつねのところへ行ってこう言え、『見よ、わたしはきょうもあすも悪霊を追い出し、また、病気をいやし、そして三日目にわざを終えるであろう』。領主ヘロデがあなたを殺そうとしていて危ないから、どこかへ逃げてゆきなさいと数人のパリサイ人たちが主イエスに語りかけます。実は、ヘロデもパリサイ人たちも、それぞれに主イエスと敵対する人々であり、主イエスとその弟子たちをユダヤの国から追い払ってしまいたいと考える者たちです。もしかしたら主イエスとその弟子たちを追い出すために、領主ヘロデからの命令を受けて、パリサイ人たちがイエスにこのように語りかけたのかも知れません。けれど誰から何を言われても、脅かされても、主イエスはエルサレムの都へ向かって旅路を歩んでいかなければなりません。都で十字架につけられて殺され、墓に葬られ、その三日目に死人の中からよみがえることこそが、神の救いの御計画だからです。「見よ、わたしはきょうもあすも悪霊を追い出し、また、病気をいやし、そして三日目にわざを終えるであろう」と主イエスは答えます。ここで、ただ普通に、「今日、明日、三日目」という時の流れの順序が語られているのではなく、「十字架の上で殺され、墓に葬られ、その三日目に復活する」と教えられてきたことを私たちははっきりと思い起こします。「三日目にわざを終える」。救い主イエスが成し遂げるべき最も大切な働きは、ご自身の死と復活によって救いの御業を成し遂げることです。神ご自身の御心とその救いの御業を、だれも邪魔することなどできません。

 

(2)さらに、主の働きは進み続ける

33節、「しかし、きょうもあすも、またその次の日も、わたしは進んで行かねばならない。預言者がエルサレム以外の地で死ぬことは、あり得ないからである」。預言者がエルサレム以外の地で死ぬことはありえない。旧約聖書の時代から、数多くの預言者たちが神のもとから遣わされ、神の民とされた者たちに「悔い改めて、悪い行いを捨て去り、神へと立ち返って生きるように」と語りかけました。その呼びかけは虚しく聞き流され、拒まれつづけました。なぜ、神から遣わされた数多くの預言者たちがエルサレムの都で死んだのか。悔い改めを命じて、預言者たちは命がけで人々に語りかけ、拒まれ、そればかりか神を信じて生きるはずのその同胞たちの手によって殺されつづけたからです。神の民とされたすべての人々の耳に、悔い改めを求める神からの言葉を届けなければなりませんでした。王やその側近たちにも、祭司たちにも語りかけねばなりません。役人や貴族、身分の高い者たちばかりでなく、ごく普通の大人にも子供の耳にも、悔い改めを求める神からの言葉が届かなければなりません。それで、だからこそその最も重要な救いへの招きを、預言者たちはエルサレムの都で語り、神殿の入り口の門や境内でも、人々に向かって呼びかけつづけました。

 独り子である神、救い主イエスは父なる神から遣わされ、『王、祭司、預言者』という3つの職務を担って働かれました。数多くの預言者たちが、悔い改めを求める神からの御言葉を語りかけ、そのためにエルサレムの都で殺されていきました。けれど救い主イエスお独りだけは、他のすべての預言者たちと違って、神の言葉を語りかけ、拒まれ、殺されたというだけではなく、エルサレムの都で『死んで、その三日目に復活』なさいました。神に背きつづける罪人である私たちが、古い罪の自分と死に別れて、神の御前で新しく生きはじめるためにです。救いの御業がこの私たちのためにも成し遂げられるためにです。

 さて、救い主イエスの死と復活によって救いの御業が成し遂げられた後、それを土台として、なお神の御業は進み続けます。主イエスが天に昇り、王としてこの世界を治めつづけます。また神を信じて生きる私たち一人一人の体に聖霊なる神が住んでくださり、神の御心に従って新しく生きるように教え、導きつづけます。「肉の思いは死であるが、霊の思いはいのちと平安である」と約束され、この私たちも、神のいのちと平安のうちに生きる者たちとされたからです(ローマ手紙6:1-18,8:1-11参照)。このように、神の救いの御業は進み続けます。

 

(3)ヒナを集める

34-35節、「ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人々を石で打ち殺す者よ。ちょうどめんどりが翼の下にひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう。わたしは言って置く、『主の名によってきたるものに、祝福あれ』とおまえたちが言う時の来るまでは、再びわたしに会うことはないであろう」。神の民とされた先祖と私たちは、けれども神に聴き従って生きることをしばしば拒みつづけました。「預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人々を石で打ち殺す者よ。ちょうどめんどりが翼の下にひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった」。それは遠い昔の先祖たちのことでもあり、今日を生きるキリスト教会と、この私たちすべてのクリスチャンのことでもあります。独り子である神、救い主イエスは深く嘆きながら、私たちを憐れみつづけます。母鳥である神が、そのヒナ鳥である私たちを翼の下へと呼び集めようとし、けれども母鳥の翼を好まない親不孝なヒナ鳥たちは、この私たちは、憐み深い母鳥に背を向けて、遠ざかりつづけました。それでもなおこの母鳥は、ヒナ鳥を集めようとしつづけます。

 「見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう」。お前たちの家とは、神ご自身のものであったはずの神殿のことです。神が「わたしの家」とおっしゃるはずの神殿を、わざわざ「お前たちの家」とおっしゃり、その家が見捨てられてしまうとまで断言なさる。そこには、神ご自身の深い悲しみと嘆きが込められます。神が、そのおとしめられた神殿と人々のために、心を痛めておられます。荒野を旅した40年の間、移動式のテント仕立ての祈りの家(=幕屋・まくや)もまた、もちろん「神の家」でありつづけました。ソロモンによって建てられた荘厳で華麗な神殿もまた、人の手を用いながらも、なお断固として「神ご自身の家」でありつづけるはずでした。けれども神を信じて生きるはずの人々は神に背き、神から心を離れさせ、神の御心をそっちのけにして、それらの神殿を知らず知らずのうちに「自分たちの家、自分たちのものである神殿」としてしまいました。今日の私たちの間でも、そうしたことは起こりえます。それは恐ろしいことです。

 だからこそ救い主イエスは、「人間のものとなってしまった古い罪の神殿を打ち壊し、三日で新しく立て直す」(ヨハネ福音書2:19,マタイ福音書27:40を参照)と約束なさいました。三日で新しく立て直す神殿とは、ご自身の復活の体のことでした。そのように、救い主イエスの死と復活を土台として、神ご自身のものである新しい神殿が建てられました。さらに、神を信じて生きる一人一人のクリスチャンが、神の霊が住まう聖なる神殿ともされました。聖書は証言します、「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである」(1コリント手紙3:16-17。「お前たちの家は見捨てられてしまう」と救い主イエスが仰った本意は、人間のものとされてしまった古い罪の神殿を見捨てて、打ち壊し、その後に神ご自身のものである新しい『神殿。祈りの家』を救い主ご自身が建て上げるということです。この上田教会も、私たち一人一人も、そのようにして神ご自身によって新しく立てられた、神のものである祈りの家だとはっきり知らねばなりませrん。

 どのようにして、私たちは、神ご自身の神殿・祈りの家として、新しく生き始めることができるでしょうか。私たちが神の憐みによってふさわしいものとされるために、自分自身が無価値であることを、神の恵みにふさわしくないものであることを神の御前に差し出すことです。神の憐みによって慰められるために、自分自身においては絶望することです。神によって立ち上がらせていただくために、自分自身としてはへりくだることです。神の憐みによっていきるために、自分自身においては古い罪の自分と死に別れさせていただくことです。自分は貧しい者として、慈しみ深い贈り主のもとに来て、重い病いを患う重病人として良い医者であられる神のもとに来て、罪人として義の創始者であられる神のもとに来ることです。そして最後的には、死んでいる者として、生命を与え、生かしてくださる御方のもとに来るのです(『キリスト教綱要』4741-42節 Jカルヴァン)。これこそが、「お前たちの家は見捨てられる」と嘆き、「母鳥がヒナを翼のもとに何度も何度も集めようとしたが、お前たちは応じようとしなかった」と悲しんだ神の、私たちに対する真意です。道に迷いつづける親不孝なヒナ鳥を憐れんで止まない母鳥の心です。

 そのヒナ鳥である私たちが、やがて顔と顔を合わせるようにして救い主イエスとお会いするときがきます。

 ほんの3、4回前の礼拝で、「18年間もの間、屈んだままで体を伸ばすことができずにいた女性を主イエスが癒してくださった出来事」(ルカ福音書13:10-17をごいっしょに読みました。なぜ病気を治してやるのかと問われて、救い主イエスは、「この女性もアブラハムの娘であり、神を信じて生きてきた者たちの一人である」と断固としておっしゃいました。ヒナを翼のもとに何度も何度も集めようとしつづける母鳥である神です。かなりな親不孝者であり、心をしばしばかたくなにしてしまうヒナ鳥であるとしてもなお、この私たちもまた、アブラハムの息子であり、娘である者たちです。忍耐深く、あまりに憐み深くあられる神が、ご自身の御翼のもとへと私たちを招きつづけます。私たちの貧しさや心の頑なさ、それぞれにかなり傲慢であること、とても不従順であることもよく分かったうえで、なおご自身の御翼のもとへとこの私たちと家族を招きます。私たちを憐れんでやまないからです。