2020年11月23日月曜日

11/22「高ぶる者は低くされて」ルカ14:7-11

           みことば/2020,11,22(主日礼拝)  294

◎礼拝説教 ルカ福音書 14:7-11                 日本キリスト教会 上田教会

『高ぶる者は低くされて』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

14:7 客に招かれた者たちが上座を選んでいる様子をごらんになって、彼らに一つの譬を語られた。8 「婚宴に招かれたときには、上座につくな。あるいは、あなたよりも身分の高い人が招かれているかも知れない。9 その場合、あなたとその人とを招いた者がきて、『このかたに座を譲ってください』と言うであろう。そのとき、あなたは恥じ入って末座につくことになるであろう。10 むしろ、招かれた場合には、末座に行ってすわりなさい。そうすれば、招いてくれた人がきて、『友よ、上座の方へお進みください』と言うであろう。そのとき、あなたは席を共にするみんなの前で、面目をほどこすことになるであろう。11 おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。  (ルカ福音書 14:7-11)

                                               

2:1 そこで、あなたがたに、キリストによる勧め、愛の励まし、御霊の交わり、熱愛とあわれみとが、いくらかでもあるなら、2 どうか同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、一つ思いになって、わたしの喜びを満たしてほしい。3 何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。4 おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。5 キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。6 キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、7 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、8 おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。9 それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。10 それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、11 また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。(ピリピ手紙2:1-11)

(1)へりくだること

 「上座に座ってはいけない。いつも末席に、慎み深く座っていなさい」と、救い主イエスが教えておられます。宴会の席ばかりでなく、普段のいつもの心得であり、しかも単なる人付き合いや社交的な礼儀作法を教えようとしているわけではありません。神の国の祝宴に集うための心得であり、救いに至る狭い道を選び取るための心得です。慎ましい心になって、へりくだって生きることが出来るなら、その人はとても幸いです。11節、「おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる」。まわりにいる人間たちが私たちをそのように取り扱うだけでなく、なにより神ご自身が私たちを、そのように低くしたり高く引き上げたりなさる。

 「思いあがってはいけない」と、聖書は何度も何度も私たちに厳しく警告を与えます。不思議なことです。なぜ、ほとんどこのことばかりが繰り返して警告されつづけるのか。思い上がり、傲慢になることが、私たちにどんな不都合や災いをもたらすのでしょう。それは、私たちが神の救いにあずかることができるかどうかの、決定的な別れ道です。だからこそ、自分自身の心によくよく気を配っていなければなりません。

 神の救いについて、聖書は、徹底して最初から最後まで、それは「ただ恵みである」と宣言しつづけます。なんの区別も分け隔てもなくと。だからです。だからこそ思い上がりと傲慢は、私たちの目をくらませ、この根本的な救いの道理を分からなくさせます。聖書は証言します、「それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである」(ローマ手紙3:22-27。神の義、つまり神からのゆるしと救いが、ただ救い主イエスを信じる信仰によって贈り与えられる。そこにはなんの差別も分け隔てもない。なぜなら、誰もが罪を犯して神の栄光を受け取る資格を失い、失格者となってしまったからだというのです。救われる資格のない私たち人間を救おうとするなら、「価なしに、ただ神の恵みによって、キリストによるあがないによって、義とされ、救われるのだと。ただ恵みによる、無条件の救いである理由は、誰も彼もが皆、失格者とされており、そうでなければ救われる者など一人もいなくなるからである」と。『ただ恵みによる』という、驚くべき救いの道筋です。へりくだった謙遜な心をもっていることは、神さまからの他の何よりも素敵な贈り物です。なぜなら、自分自身の罪深さ、弱さや貧しさを知り、それゆえ救い主イエスの助けをこの自分が必要としているとはっきりと感じることができることこそが、『私たち自身を救うことのできる信仰』の最初の第一歩だからです。

 では、へりくだった心は何を土台として、どのように人の魂に湧き起ってくるでしょうか。へりくだった心の土台とその中身は、『正しい知識』です。もしその人が自分自身をよく知り、自分の心の中にいったいどんなものがあるのかを知り、神を知り、神の尊厳とその神聖さを知り、救い主イエスを知り、罪から救い出されることのかけがえのない価値を知るならば、もしそうであるなら、その人は思いあがった傲慢な人間になど決してなれません。つまり、それと正反対に、自分を誇り、思いあがってしまう理由は、その人が自分自身が何者であるのかをまったく知らず、どんな神なのかも知らず、救い主イエスが何をしてくださったのかも少しも知らないためだったのです。自分自身が何者であるのかを知る者は、誇るべきものはこの自分に何一つもないことについにとうとう気づきます。

しかも、神が全能の神であられ、なんでもおできになり、まったく善意のお方であることを知るだけでは、私たちは神にすっかり信頼して、自分の救いを安心して委ねることなどできません。神にすべての信頼を置いて生きるためには、どうしたらよいのか。古い信仰問答は答えます、「救いにまったく値しないにもかかわらず、なお神が私たちを愛し、私たちを憐れんで、救ってくださろうとしていることを心から確信する必要があります。そのためには、救い主イエス・キリストにある憐みを知り、神をキリストにおいて知ることです」(ジュネーブ信仰問答 問8-14を参照)

 

(2)自分を低くしてくださった神

価なしに、ただ恵みによって、罪人をただ憐れんでゆるして救う神です。その憐みは救い主イエス・キリストのうちにあり、キリストにおいて私たちに差し出されます。

ピリピ手紙2:5-11は証言します、「キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである」。ピリピ教会の人たちは、いつの間にか、自分がどうしてついつい思いあがってしまうのかが分からなくなりました。どうしたらへりくだった思いになれるのかも、なぜそれが必要なのかも分からなくなりました。そこで主イエスの弟子は、そのへりくだりの心をキリストの例によって勧めはじめます。キリストの真似をし、キリストに従い、キリストと同じ心を持つようにと。そのように勧めているのは、救い主イエス・キリストを信じて生きる私たちには誰でも、キリストに従い、キリストと同じ心になることができるからです。「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず」;キリストのへりくだりは、栄光と栄誉の最も高い場所から虚しさと恥の最も低い場所までも身を屈めることでした。それゆえ私たちのへりくだりは、思いあがって自分を高くしてしまわないことです。神の形は、ここでは神であられることの栄光と尊厳です。その中身にふさわしく崇められることです。けれどキリストは、その栄光や尊厳にしがみつこうとはしませんでした。もちろん神であられることのその本質はそのままに、その栄光と尊厳を捨てて、姿形を低く卑しくなさいました。「ご自身をむなしくして」も同様で、神であられることの本質を捨て去ったわけではなく、それをひとたび隠してしまわれました。

「おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」。「しもべとなる」と約束し、「人々に仕えられるためではなく、仕えるために来た」(マタイ20:28とおっしゃったとおりに、救い主イエスはしもべとなられ、さらに、罪人としての無残な死を耐え忍ぶまで父なる神への従順を徹底して貫き通してくださいました。御父へのこの従順のささげものこそが、十字架の上で成し遂げた御業の中身でした。この従順こそが、救われた者たちの結ぶ実りです。救い主イエスの死と復活は、これによって神への従順を成し遂げ、それを私たちのためにも差し出してくださったことです。「ご自分の民をそのもろもろの罪から救う」と約束されていました。罪のはじまりとその究極の中身は、神に逆らうことです。こどものための交読文はこう説き明かします、「主イエスは罪を犯さず、神に逆らったことは一度もないのですか」「そうです。私たちも、主イエスに導かれて、神に逆らうことを止めて神に素直に従う者たちとされてゆきます」(こども交読文3)。救い主イエス・キリストのもとに罪のゆるしがあり、だからこそキリストに従い、キリストと同じ心を持つ者とされる私たちです。「罪から救われる・罪からあがなわれる」とは、このことです。しかも救い主イエスがこの世界に降りて来られたのは、ほかの何のためでもなく、「罪人を救うため」(1テモテ手紙1:15)でした。極めつけの罪人をさえ救う必要があったのです。罪人の中の罪人を、その飛びっきりの頭であり最たる罪人をさえ、ぜひとも救い出したい。神の憐れみの子供たちとして迎え入れたいと。極めつけの罪人。罪人の中の罪人。それがこの私であり、あなた自身です。

 自分自身を低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで父なる神への従順を貫き通してくださった御子イエス・キリストが私たちを招きます。高ぶる者がなぜ、なんのために低くされるのか。その低さと、へりくだりの場所に何があるのか。罪のゆるしがあり、罪からのあがないがそこにあります。私たちは、このように自分自身の罪深さと貧しさを知りながら、憐みとゆるしを請い求めて、救い主イエスへと向かうのです。自分自身のいたらなさ、身勝手さ、よこしまさを知りながら、救い主イエスへと向かうのです。救い主イエス・キリストは罪人を救うために世に来られたのですし、この自分こそがその罪人の中の最たるものであり、最低最悪のものであることをこの私たちもよく知っているからです。しかもなお、神は憐み深い神であられ、救い主イエス・キリストのもとにこそ、私たちのためにもゆるしがあるからです。