2020年10月5日月曜日

10/4「悔い改めなければ滅びる」ルカ13:1-5

             みことば/2020,10,4(主日礼拝)  287

◎礼拝説教 ルカ福音書 13:1-5                       日本キリスト教会 上田教会

『悔い改めなければ滅びる』

 

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

13:1 ちょうどその時、ある人々がきて、ピラトがガリラヤ人たちの血を流し、それを彼らの犠牲の血に混ぜたことを、イエスに知らせた。2 そこでイエスは答えて言われた、「それらのガリラヤ人が、そのような災難にあったからといって、他のすべてのガリラヤ人以上に罪が深かったと思うのか。3 あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう。4 また、シロアムの塔が倒れたためにおし殺されたあの十八人は、エルサレムの他の全住民以上に罪の負債があったと思うか。5 あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう」。    (ルカ福音書 13:1-5)

                                               

18:23 主なる神は言われる、わたしは悪人の死を好むであろうか。むしろ彼がそのおこないを離れて生きることを好んでいるではないか。……25 しかしあなたがたは、『主のおこないは正しくない』と言う。イスラエルの家よ、聞け。わたしのおこないは正しくないのか。正しくないのは、あなたがたのおこないではないか。26 義人がその義を離れて悪を行い、そのために死ぬならば、彼は自分の行った悪のために死ぬのである。27 しかし悪人がその行った悪を離れて、公道と正義とを行うならば、彼は自分の命を救うことができる。28 彼は省みて、その犯したすべてのとがを離れたのだから必ず生きる。死ぬことはない。29 しかしイスラエルの家は『主のおこないは正しくない』と言う。イスラエルの家よ、わたしのおこないは、はたして正しくないのか。正しくないのは、あなたがたのおこないではないか。30 それゆえ、イスラエルの家よ、わたしはあなたがたを、おのおのそのおこないに従ってさばくと、主なる神は言われる。悔い改めて、あなたがたのすべてのとがを離れよ。さもないと悪はあなたがたを滅ぼす。31 あなたがたがわたしに対しておこなったすべてのとがを捨て去り、新しい心と、新しい霊とを得よ。イスラエルの家よ、あなたがたはどうして死んでよかろうか。32 わたしは何人の死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ」。(エゼキエル書18:23-31)


 1-5節。「ちょうどその時」と、報告がつづきます。12章の後半(とくに54-59節)と深く結びついた報告の仕方です。「終わりの日の審判に備えをして暮らすように、神との和解のために心を砕いているように、そうでなければ厳しい裁きが待ち構えている」と救い主イエスは集まった人々と弟子たちとに警告していた「ちょうどその時」に、不幸な目にあったガリラヤ人たちのことを告げる人がいました。口をはさんできたその人は、「終わりの日の神の裁判所に辿り着く前に私たちを訴える神と和解しておくべきだったのに、あの哀れなガリラヤ人たちはそれをし損なったのだ」と、早合点したのかも知れません。主イエスはみなに向かって仰います、「それらのガリラヤ人が、そのような災難にあったからといって、他のすべてのガリラヤ人以上に罪が深かったと思うのか。あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう。また、シロアムの塔が倒れたためにおし殺されたあの十八人は、エルサレムの他の全住民以上に罪の負債があったと思うか。あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びる」と。

ある一人のクリスチャンは、こういうことを自分ではよく分かっているつもりでした。他の人たちにも、『ゆるす神であり、ゆるされるべき罪人たる私である。すべての人間がそうであり、キリストの教会もクリスチャンも例外ではない。罪人の集団にすぎない。分かりますか』などと偉そうに説明したりもしていました。でも、当の自分自身こそがちっとも分かっていませんでした。クリスチャンでもあるその人の家族が重い病いに苦しんでいたとき、訳知り顔の偉そうなそのクリスチャンは、苦しむその家族を可哀そうに思ってあげることができませんでした。それどころか、「いやいや、あれは自業自得だから。因果応報だ」などと涼しい顔をしていました。なんということでしょう。しばらくして、ようやく彼はハッと気づきました。この自分こそが何も分かっていなかった。苦しむあの哀れな彼に負けず劣らず、この自分もうしろめたいことを山ほどしでかし、不義と悪行を散々積み重ねてきたではないか。神さまの恵みとゆるしを、この自分こそが台無しにしていた。自分を欺き、神さまを偽り者としつづけていたのは他の誰でもなく、この自分自身だったと(詩130篇『自業自得ではない』2016,1,3 礼拝説教)。因果応報? 自業自得? いいえ、とんでもありません。『もし仮に、以前に自分がしてしまった悪い行いの償いと報いを自分自身で受けなければならない』のでしたら、誰一人もその罪と不義を背負いきれず、とうてい生きることなどできません(創世記4:13-16参照)。誰かに殺されるか、絶望のあまりに自分で自分の命を絶ってしまうかどちらかでしょう。けれど確かに、ゆるしが主のもとにあったのです。救い主イエス・キリストというゆるしです。『キリストによる罪のあがない』というゆるしです。このお独りの方を信じる者に無条件で分け隔てなく贈り与えられる、罪のゆるしです。

 「私は罪人である。神に背いてばかりいる、ふさわしくない、恵みに価しない私だ」などと互いに言いあいます。それでもなお平穏無事である日々、目の前の他人のした不始末や悪い行いをとても厳しく冷淡に受け止め、腹を立てながら、自分自身の過ちに対してはとても寛大です。私こそが正しくふさわしい人間だと、ついつい思い込んでしまいやすい性分を抱えている私たちです。はなはだしい罪人であった私たちが、なお御子イエスの血によって、すべての罪から清められ続けます。けれどもし、「罪がない」と言い、「私は罪など犯したこともない」などと言い張るなら、神のその憐みを跳ねのけつづけることになります。あの律法学者やパリサイ人たちのように。すると、どうなるでしょう。罪深さと心の頑固さを深く抱えながら、なおその只中で、自分自身と周囲の人間たちのことばかり思い煩いつづけ、ウトウトと毎日の暮らしの中にただ虚しく眠り込んでしまうかも知れません。

 また、「シロアムの塔が倒れたためにおし殺されたあの十八人は、エルサレムの他の全住民以上に罪の負債があったと思うか。あなたがたに言うが、そうではない」と語りかけて、それは先祖と私たちに対する戒めであり、私たちのために警鐘がならされていると主イエスは気づかせようとしています。「神に対して、罪の負債がどれほどあるだろうか。この私自身は」と自分の胸に手を当てて、よくよく考え巡らせてみる価値があります。終わりの日の神の裁きに対して、私たちは無自覚であってはなりません。私たちを愛して止まない神の憐みの御心について。神に信頼を寄せ、神の御心にかなうように行きたいと願い、隣人を愛し、尊び、慈しみの心を向けることについて。

 私たちの教会の『こどものための交読文3』は、このように問いかけ、また答えます;「あなたはすでに救われていますか」「はい、救われています」「どうしてですか。あなたは罪人ではないのですか」「はい。わたしは罪人ですし、いまも神に背きますが、主イエスを信じる信仰によって、ただ恵みによって救われているからです」「神は正しいかたで、罪を憎むのではありませんか」「そのとおりです。神は罪を憎みますが、罪人であるわたしたちを愛することを決してお止めになりません」・・・・・・「主イエスは、なんのために神でありながら人間になられたのですか」「人間として、わたしたちのすべての悲しみと苦しみがお分かりになり、神として、わたしたちをすべての罪から救い出すためです」「主イエスは、父なる神に逆らったことはないのですか」「神に逆らう罪を一度も犯しませんでした。主イエスに導かれて、私たちも神に逆らうことを止めて、神に素直に従うものとされてゆきます」。これが、慈しみの神さまへと向かう私たちの望みです。約束どおりに、神さまは私共を取り扱ってくださいます。

  「あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びる」と、二度も重ねて語りかけられました。しかも神を信じて生きてきた主イエスの弟子たちをも含めて、「あなたがたは」と。これは緊急事態です。悔い改めるとは、神へと立ち返ることです。人間中心の思いを手放して、神へと向き直り、神へと立ち返って生き始めることです。宗教改革期の指導者の一人は、それは「神への立ち返り」であり、日毎の、一日ずつなされて積み重ねられてゆく営みだと。そのとおりです。しかも、そうでありながら、悔い改めは、神ご自身の働きであり、神からの恵みの贈り物です。神ご自身が備えをし、そう仕向けてくださるのでなければ、誰一人も悔い改めることなどできないからです。

 預言者たちが「悪い心と行いを捨てて、神へと立ち返りなさい」と呼ばわりつづけました。「主なる神は言われる、わたしは悪人の死を好むであろうか。むしろ彼がそのおこないを離れて生きることを好んでいるではないか。……しかしイスラエルの家は『主のおこないは正しくない』と言う。イスラエルの家よ、わたしのおこないは、はたして正しくないのか。正しくないのは、あなたがたのおこないではないか。それゆえ、イスラエルの家よ、わたしはあなたがたを、おのおのそのおこないに従ってさばくと、主なる神は言われる。悔い改めて、あなたがたのすべてのとがを離れよ。さもないと悪はあなたがたを滅ぼす。あなたがたがわたしに対しておこなったすべてのとがを捨て去り、新しい心と、新しい霊とを得よ。イスラエルの家よ、あなたがたはどうして死んでよかろうか。わたしは何人の死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ」(エゼキエル書18:23-32と。長い歳月が流れて、やがて洗礼者ヨハネがヨルダン川のほとりで、罪のゆるしを得させる悔い改めの洗礼を宣べ伝えました、「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、のがれられると、おまえたちにだれが教えたのか。だから、悔改めにふさわしい実を結べ」(ルカ福音書3:7-8。そして人々が「私たちは何をすればよいのか」と訪ねると、ヨハネは、誰にでもできるはずの、ごく普通の正しい暮らしを命じたのです。下着を多くもっているものは持たないものに分けてやりなさい。決まっているもの以上に取り立ててはならない。人を脅かしたり、だまし取ってはいけないと。「その厳しい警告をぜひ聞きたい。神の民とされて、改めて新しく生き始めたい」と願って、我も我もとヨルダン川のほとりへと多くの人々が詰めかけました。不思議です。すでに神の民とされているはずの人々が、改めて「神の民とされたい」と願い、神の民とされる入り口を、もう一度、本気になってくぐろうとしたのですから。

 やがて救い主イエスご自身が、皆を招きました。「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。神の国とは、神の御心と働きが及ぶ恵みの領域です。それがなぜ、そのときに近づいたのか。神の御心と神のお働きを背負って、救い主イエスご自身がこの地上に降り立ち、手を差し伸べ、神の国の福音を宣べ伝え、やがて十字架の上で救いの御業を成し遂げるからです。悔い改めて福音を信ぜよ。神ご自身のほうから近づいてきて、手を差し伸べておられるので、どこの誰でも悔い改めることができ、誰でも神の福音を信じて生きはじめることができるからです。

 やがてあのペンテコステの日に、聖霊の教えを受けて、主イエスの弟子の一人が神の国の福音を説き明かしました。「だから、イスラエルの全家は、この事をしかと知っておくがよい。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである」。人々はこれを聞いて、強く心を刺され、ペテロやほかの使徒たちに、「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」と言った。すると、ペテロが答えた、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。この約束は、われらの主なる神の召しにあずかるすべての者、すなわちあなたがたと、あなたがたの子らと、遠くの者一同とに、与えられているものである」(マルコ福音書1:15,使徒2:36-39。新しい心と、新しい霊とが差し出されつづけます。あなたがたはどうして死んでよかろうか。わたしは何人の死をも喜ばないのであると、憐みの神は私たちのためにも願いつづけておられるからです。だからこそ私たちも、身をひるがえし、心を神に向けてひるがえしつづけて、神の憐みのもとに生きることができます。

 

 

     ≪祈り≫

いのちと平和の与え主であられる神さま。

世界中で、多くの人々が互いに憎み合ったり、相手を押しのけて排除したり、傷つけたり殺し合ったりしています。虐げられ、身を屈めさせられて心細く暮らす人々を、どうか憐れんでください。この私たち自身も、普段の暮らしの中で小さな争いやいがみ合いの中にしばしば巻き込まれて暮らしています。この私たち一人一人もまた、生まれながらの怒りの子でであるからです。自分を正しいと強く言い立てる性分を強く抱えるものたちだからです。ですから私たちは日毎に3つのことを、あなたに願い求めます。神さまのお働きとその御心をはっきりと見ることができますように。神さまを心の底から愛し、隣人や家族を愛し、尊び、思いやることができますように。神さまの御心にかなって生きることを願いつづけ、神さまに近づいてゆくことができますように。

神を信じて生きる私たちのためには、すべての信頼を神さまに置いて、その御意思と御心に聞き従って、どこで何をしていてもそこでそのようにして神様に仕えて生きることができるように。どんな苦しみや悩みや辛さの只中にあっても、そこで神様に呼ばわって、救いとすべての幸いを神の中に求めつづける私たちであらせてください。

主イエスのお名前によって祈ります。アーメン