2020年10月19日月曜日

10/18「神の国」ルカ13:10-17

            みことば/2020,10,18(主日礼拝)  289

◎礼拝説教 ルカ福音書 13:10-17               日本キリスト教会 上田教会

『神の国』


牧師 金田聖治
(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp) 

13:10 安息日に、ある会堂で教えておられると、11 そこに十八年間も病気の霊につかれ、かがんだままで、からだを伸ばすことの全くできない女がいた。12 イエスはこの女を見て、呼びよせ、「女よ、あなたの病気はなおった」と言って、13 手をその上に置かれた。すると立ちどころに、そのからだがまっすぐになり、そして神をたたえはじめた。14 ところが会堂司は、イエスが安息日に病気をいやされたことを憤り、群衆にむかって言った、「働くべき日は六日ある。その間に、なおしてもらいにきなさい。安息日にはいけない」。15 主はこれに答えて言われた、「偽善者たちよ、あなたがたはだれでも、安息日であっても、自分の牛やろばを家畜小屋から解いて、水を飲ませに引き出してやるではないか。16 それなら、十八年間もサタンに縛られていた、アブラハムの娘であるこの女を、安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったか」。17 こう言われたので、イエスに反対していた人たちはみな恥じ入った。そして群衆はこぞって、イエスがなされたすべてのすばらしいみわざを見て喜んだ。   (ルカ福音書 13:10-17)  

4:7 神は、あらためて、ある日を「きょう」として定め、長く時がたってから、先に引用したとおり、「きょう、み声を聞いたなら、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」とダビデをとおして言われたのである。8 もしヨシュアが彼らを休ませていたとすれば、神はあとになって、ほかの日のことについて語られたはずはない。9 こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。4:10 なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。4:11 したがって、わたしたちは、この安息にはいるように努力しようではないか。そうでないと、同じような不従順の悪例にならって、落ちて行く者が出るかもしれない。          (ヘブル手紙4:7-11)

 まず10-14節、「安息日に、ある会堂で教えておられると、そこに十八年間も病気の霊につかれ、かがんだままで、からだを伸ばすことの全くできない女がいた。イエスはこの女を見て、呼びよせ、『女よ、あなたの病気はなおった』と言って、手をその上に置かれた。すると立ちどころに、そのからだがまっすぐになり、そして神をたたえはじめた。ところが会堂司は、イエスが安息日に病気をいやされたことを憤り、群衆にむかって言った、『働くべき日は六日ある。その間に、なおしてもらいにきなさい。安息日にはいけない』」。ある会堂で安息日に、救い主イエスは独りの女性と出会いました。その人は18年もの間、病気の霊につかれ、かがんだままで、からだを伸ばすことが全くできずに暮らしていました。この女性について、私たちはほとんど何も知りません。生まれ育ちも、名前も、どういう暮らしをしているのかも何も分かりません。けれど主イエスは、ただ、「この女性はアブラハムの娘である」とおっしゃいます。神を信じて、神の憐みのもとに生きてきた者の一人だ、ということです。主イエスが神の国の福音を告げ知らせていたとき、その女性もまたその会堂にいました。神への礼拝に集うためにです。体をまったく伸ばすことができず、小さく屈みこんだままで、ずっと朝も昼も晩も暮らしていくなど、とても苦しく辛いことでしょう。あまりに厳しいその困難や病いでさえ、神の家の礼拝に集うことを妨げるための理由にはなりません。困難と苦しみにもかかわらず、それだからこそなおさら神の安息日と神の御言葉をほめたたえ、神の民とされた人々がいっしょに集う場所に集いたいと心から願い、そのための手段と道筋をその女性は見つけ出しました。彼女は神の祝福を受け取りました。これまで味わってきた大きな苦しみの、その何倍もの祝福を。

 なぜ、その一人の女性は、その一回の礼拝に集っていたのか。自分にも向けられていた神の招きを聞き分けて、その招きにぜひ応えたいとその人は願ったからです。「求めなさい。捜しなさい。門を叩きなさい」という神からの招きを私たちも聞きつづけてきました。この女性もそうです。「あなたは求めなさい」と命じられて、神の祝福を求め続けました。「捜しなさい。門を叩きなさい」と促されて、神を捜し、その神の家の門を叩いて、中に入れてもらいました。そのようにして、真実な神と出会い、神さまからの祝福と恵みをついにとうとう受け取りました。

 けれども、この女性のように神からの祝福を受け取ることのできる人は、実は、ほんのわずかしかいません。なぜなら、この世の思いや肉の欲望は神の御心に逆らい、神を二の次三の次へと押し退けつづけるからです。しなければならないいくつもの仕事や用事や約束事に心を紛れさせて、多くの人々は、神を思うときがほんの僅かもないからです。けれど、一人の罪人の心が神へと向け返されるとき、その魂が神へと連れ戻されるとき、礼拝に集うことを困難にしていた様々な不都合や、別のいくつもの大事な用件は、どうしたわけか消えてなくなっています。神へと向かうその新しい心は、安息日を聖いものとすることに何の差しさわりもなかったことに気づきます。不思議なことです。

 「イエスはこの女を見て、呼びよせ、『女よ、あなたの病気はなおった』と言って、手をその上に置かれた。すると立ちどころに、そのからだがまっすぐになり、そして神をたたえはじめた」。この1つの奇跡は、罪にむしばまれた数多くの魂に希望と慰めを与えるために、わざわざ安息日に、人々の見ている前でなされました。かたくなに、とても頑固になってしまっている心を柔らかくすることが、救い主イエスにはできるのです。救い主イエスが共におられるところでは、できないことなど何一つもないからです。ですから私たち自身と大切な家族の救いを、私たちは決して諦めてはなりません。たとえ私たちの罪が数限りなくあっても、罪に罪を重ねつづけてきたとしてもです。私たちが生涯の多くの時間をこの世の愚かさの中で、虚しく浪費しつづけてきたとしてもです。けれどもし、救い主イエス・キリストのもとへと向かいたいと願うならば、キリストにこそ仕えて生きていきたいと願うなら、もしそうであるなら、そこに、なおまだ確かな希望があります。救い主イエスは、この私たちを、十分にすっかり癒すことがおできになります。もし、私たちが大切な誰かの救いを心から願っているとするなら、その人が生きている限り、その切なる願いを決して諦めてしまってはなりません。主イエスの御前で、その人の名前を申し上げて昼も夜も祈り、彼らのために、また自分自身のためにも、主イエスに祈り求めることができます。「神を敬う正しい在り方はどういうものですか」と問いかけ、宗教改革期の信仰問答はこう説き明かします、「すべての信頼を神に置くこと。その御意志に服従して、神に仕えまつること、どんな困窮の中でも神に呼ばわって、救いとすべての幸いを神の中に求めること。そして、すべての幸いはただ神から出ることを、心でも口でも認めることです」(『ジュネーブ信仰問答』問7 J.カルヴァン)

 あの女性が癒されて幸いを得たことに会堂司が腹を立てて、ののしったとき、救い主イエスが彼をきびしく叱りつけました。15-16節、「偽善者たちよ、あなたがたはだれでも、安息日であっても、自分の牛やろばを家畜小屋から解いて、水を飲ませに引き出してやるではないか。それなら、十八年間もサタンに縛られていた、アブラハムの娘であるこの女を、安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったか」。『安息日に何の仕事もしてはならない』と教える神の律法は、もちろん必要な働きや、人を愛し、慈しむための働きを禁じるものではありません。安息日は人に神をほめたたえさせ、神に感謝をささげさせ、人々が神の憐みの御前に幸いであることを目指しています。人を殺すことではなく、生かすことを私たちに要求します。「隣人を愛し、尊ぶ」とは、その隣人をただ嫉んだり憎んだり、怒ったりしないだけではありません。その人に対して忍耐と平和と柔和、憐みと友情を示し、その人に降りかかる災いを力の及ぶかぎり精一杯に防ごうと努力し、願い求めることです(『ハイデルベルグ信仰問答 問答106-107』)。だからこそ、神に信頼して聞き従おうとすることも隣人を自分自身のように愛し、尊ぶことも棚上げして、ただただ腹を立てていたあの会堂司たちは、神の律法と神ご自身をはなはだしく侮っていました。それで、「偽善者たちよ」と厳しく叱られました。

  ここで主イエスは、その女性が「サタンに縛られていた」、「その(サタンの)束縛から解いてやるべきではなかったか」と皆に問いかけます。そのとおりです。あの一人の人は、神の祝福と憐みのもとへと連れ戻される必要がありました。そのための安息日であり、一回の礼拝です。そうであるなら、安息日に成し遂げられた神の勝利と祝福は、残りの6日間にまで及ぶのです。一週間に一日だけが神に祝福された聖なる日であるに留まらず、この一日に率いられて、一週間、7日間すべてが、誰とどこにいて何をしていても、そこでそのようにして神にこそ仕えて生きる私たちとなることができます。

17節、「こう言われたので、イエスに反対していた人たちはみな恥じ入った。そして群衆はこぞって、イエスがなされたすべてのすばらしいみわざを見て喜んだ」。ここでもまた、救い主イエスは「燃え盛る火」を人々の魂の中に投じ、分裂と争いを投じています。一方に自分自身を恥じ入る人々がおり、また他方に、神の働きと恵みを喜び祝う人々がいます。

 分裂や争いはまた、一人の人の内部でも起こります。1人の人の魂の中に、神に従おうと願う自分と、神を侮り、心をますます頑固にさせてゆく自分自身とが分かれ争いつづけるからです。哀れな一人の女性が救われた姿を見て、喜び祝っている自分がおり、他方で、あの会堂司のようにどうしたわけか腹を立てている自分がいます。安息日のとても大切な生命は、憐み深い神ご自身に感謝をし、ますます信頼を寄せ、それゆえ神に聴き従い、神を喜び祝うことにあります。ヘブル人への手紙4:6以下は証言します、「そこで、その安息にはいる機会が、人々になお残されているのであり、しかも、初めに福音を伝えられた人々は、不従順のゆえに、はいることをしなかったのであるから、神は、あらためて、ある日を「きょう」として定め、長く時がたってから、先に引用したとおり、「きょう、み声を聞いたなら、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」とダビデをとおして言われたのである。もしヨシュアが彼らを休ませていたとすれば、神はあとになって、ほかの日のことについて語られたはずはない。こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。したがって、わたしたちは、この安息にはいるように努力しようではないか。そうでないと、同じような不従順の悪例にならって、落ちて行く者が出るかもしれない」。毎週毎週の安息日は、神への従順と信頼へと帰ってくるための日です。そこで、もし「自分自身の心がいつの間にか、とても頑固に、かたくなになっていた」と気づくことが出来るなら、その人は幸いです。神の安息へと立ち返るようにと、そこで神が招いてくださっているからです。安息日に、そして他すべての日々にも、神の平安と憐みとゆるしが私たち一同にありますように。なぜなら、天の国、あるいは神の国とは、この神の安息が日曜日だけでなく、次の日も次の日も、ずっと永遠に続くことであるからです。主であられます神が生きて働いておられます。そのお働きと真実の中に包み入れられて、私たちの一日一日の営みと歩みがあります。「安息日を覚えて、これを聖としなさい」。なぜならば時が満ち、神の国がますます近づいたからです。この私たちも悔い改めて、自分自身の思いもあり方も神へと向け返して、いよいよ心底から福音を信じて一日、また一日と、どこで何をしていても憐み深い神の御前で生きることができます。ここに、私たちのための格別な幸いと祝福がありつづけます。