2019年6月3日月曜日

6/2「貧しい者のための幸い」ルカ6:20-21


              みことば/2019,6,2(復活節第7主日の礼拝)  217
◎礼拝説教 ルカ福音書 6:20-21                     日本キリスト教会 上田教会
『貧しい者のための幸い』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
6:20 そのとき、イエスは目をあげ、弟子たちを見て言われた、「あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。神の国はあなたがたのものである。21 あなたがたいま飢えている人たちは、さいわいだ。飽き足りるようになるからである。あなたがたいま泣いている人たちは、さいわいだ。笑うようになるからである。 (ルカ福音書 6:20-21)

 この6章20節から6章の終わりまでは、主イエスご自身によってなされた一かたまりのやや長い説教です。少しずつ区切りながら味わいっていきます。主イエスを信じて生き始めたばかりの弟子たちに向けて語られています。特に、この20-26節はなんだか謎めいていて分かりにくい。なぜ、彼らは幸いなのか。どこがどう幸いなのか。「神の国は彼らのもの」「飽き足りるようになる」「笑うようになる」とは何なのか。また、どうしてそうなのか。神さまから良い贈り物を受け取る善良で、清らかで、高潔な人々が列挙されている、かのように見えます。けれど今日の箇所の「貧しい人たち」「いま泣いている人たち」(20-21)は、どういうことなのかがあいまいで、よく分かりません。「貧しいこと。飢えていること。泣いていること」。「貧しいこと。飢えていること。泣いていること」。それらが果たして良い性質なのか悪い在り方なのか、どっちでもないのか。何か価値があるのかどうかも分かりません。
さて、「貧しい人たち」。このルカ福音書では「貧しい人たち」、マタイ福音書では「心の貧しい人たち」と、主イエスご自身による同じ1つの説教について2種類の報告がなされています。主イエスご自身による同じ1つの説教ですから、1つの中身、1つの真理が語られているはずです。もし、「心の貧しい」という意味であるなら、へりくだった低い心です。ある人はそれを、「道端に座り込んで人々から恵みや施しを受け取ろうとする乞食の在り方であり、乞食の心だ」と言い表しました。そして「神の国」とは、神ご自身が生きて働かれることであり、神の御心とお働きのもとに据え置かれて、神を信じる人たちが毎日毎日の暮らしを生きることです。救い主イエス・キリストが地上に降りて来られ、「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ福音書1:15と語りかけました。救い主イエスは、神の御心とお働きを担って、地上に降りて来られ、神の国の福音を宣べ伝えはじめ、救いの御業を着々と成し遂げていかれました。救い主イエスの存在とそのお働きこそが、神の国が近づいたことの中身です。そのお方が、「悔い改めて神へと心を向け返して、福音を信じなさい」と私たちを招きます。だからこそ、へりくだった低い心の者たちは神の招きを受け止め、神と出会い、神を信じて生きることをしはじめます。けれど、もし、「現実生活として、経済的に貧しい」人たちだとするなら、どうなるでしょう? その貧しさと心細さの中で、もしかしたら、打ち砕かれ、へりくだった低い心を与えられて、神を求め、神を信じて生きることをしはじめるかも知れません。毎日の食事にも不自由する切羽詰まった暮らしの中で、周囲の人たちの善意ややさしさに支えられて生きる中で、もしかしたら、神を信じて生きることをしはじめるかも知れません。あるいは逆に、その貧しさと心細さの中でかえって心がいじけて頑固になって、神から離れ去ってゆくかも知れません。

 「いま悲しんでいる人たち」。これも、生活が苦しくて貧乏であることと似ています。どういう理由で、その悲しみや困難、心細さや悩みがあるのかは語られていません。その人たちがどういう人たちなのかも説明されません。むしろ誰もが悲しみや困難、心細さ、悩みの中に置かれます。くりかえし何度も何度も。

             ◇

 それでもなお、よくよく覚えておかねばならない一つのことがあります。自分自身と周囲の人間たちのことばかり思い煩って、そのあまりに、神を思うことができなくなる私たちです。心が鈍くされ、狭い自分だけの世界に閉じ込められて、ますます思い煩い続けます。人間たちを恐れる恐れは、雪だるまのように、どんどんどんどん膨れて大きくなっていきます。だからこそ 思いを向け返さねばなりません。いったい、どんな神を信じてきたのだったか。どんな救いと恵みなのかと。私たち罪人を救いへと招き入れようとして、貧しくなってくださったお独りの方がおられます。飢え渇くように私たちを求めて、私たちのために泣いてくださった、ただお独りの方がおられます。救い主イエス・キリストです。
例えば救い主イエスは、「群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた」のです。はらわたがこぼれて地面に流れ出すほどの深い悲しみと憐みです。その憐みは、もちろん、この私たちにも及びます。なぜなら私たち自身も、まるで飼う者のない羊のように度々弱り果て、倒れているからです。本当は良い羊飼いであられる方のもとに戻って、その世話と養いとを必要なだけ十分に受けているはずなのに。
例えば救い主イエスは、死んで墓穴に収められていたラザロに向かって、「ラザロ、出てきなさい」と呼ばわりました。彼とその家族のために、同胞たちのためにです。もちろんラザロとその家族のためだけでなく、主は私たちのためにも「墓から出てきなさい」と呼ばわるでしょう。やがて死ぬというだけではなく、私たちがたびたび生きていても死んでしまった者のように墓穴の中に物寂しく横たわりつづけるからです。この私たち一人一人をも深く愛してくださり、私たちが主イエスを信じて、その信仰によって新しく神の御前に生きる者とされるようにと願ってくださるからです。
例えば救い主イエスは、「神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、『イエス・キリストは主である』と告白して、栄光を父なる神に帰するため」(マタイ9:36,ヨハネ11:33-44,ピリピ手紙2:6-11です。「何をどう信じているんだ」と家族や友人から質問されて、何よりまずこのピリピ手紙2章をこそ開いて、「こういうことですよ。これが、私たちが信じていることの中身だ」と答えます。私たちの主イエス・キリストの地上での30数年に及ぶ生涯、十字架の死、復活が証言されます。「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」。私たちは、互いに誉めたりけなし合ったりしています。高ぶったり卑屈にいじけたり、「さすがは○○さんだ。たいしたものだ」と祭り上げたり足を引っ張ったり。兄弟姉妹たち。強く大きく高くありたい、という私たちの欲望には切りがありません。「何様のつもりか」と問われ、「私などつまらない者です」と答えながら、その実、殿様や大臣や大先生にでもなったつもりでいます。だからこそ少しでもけなされ、悪口を言われると、「どうせ私なんか」と卑屈にいじけます。そんな私たちだから、《人間がいつの間にか神や仏になった》という話ならあちこちに聞きます。偉大な政治家、権力を握った支配者、魅力的な宗教家は祭り上げられて、やがて《神のように》扱われ、そのように思い込まれ、自分でもまるで《神のように。殿様のように》振る舞いはじめます。けれどそれら一切とはまるで正反対に、神が人間になった。それは、一体どういうことでしょうか?
神が人間になった。「神はどのようにして人間になることができるか? それが果たして可能か? いいえ、私たちには分からないこともあり、出来ることと出来ないことがあります。残念なことですが、私たちは、ただの人間にすぎないのです。けれど私たちの主なる神は、何でもできる神です。初めに問うべきは、《神が果たして存在するのか、どうか》でした。『神は存在する? それとも、いない?』。神はいないと答える人々にとっては、神についての第2、第3の質問はありません。すから、私たちにとっての大問題は、《なぜ神が人間になったのか。なぜ、人間にならねばならなかったのか》です。神は神、私たち人間は人間にすぎません。逆立ちしても滝に打たれても、功徳を蓄え、修行を積んで、悟りを開いて、どんどんどんどん登っていっても、けれどなお人間は人間にすぎません。たとえ死んでも、「英霊」などと称えられても靖国神社に奉られても、人間は神になどなりません。神は神、私たち人間は人間にすぎません。両者の間には決定的な隔たりがあり、飛び越えることの出来ない深い裂け目がありました(創世記32:31,出エジプト3:6,33:20,イザヤ6:5)。神さまの慈しみ深さ、神の真実、その惜しみない愛は、《神が畏れるべき方である》ことと表裏一体でした。「畏怖すべき神。いいや、それは要らない。ニッコリしていて優しくて親切で、慈悲深い神。この都合の良いところだけ貰いたい」というわけにはいかなかったのです。旧約聖書の民は、神への畏れと神からの安らぎと、その両方を受け取っていたのです。身を慎みながら、膝を屈めながら、彼らは、神の慈しみ深さをも喜び味わいました。
兄弟姉妹たち。神が人となられました。しかも、理想的で上等な人間にではなく、生身の、ごく普通の人間にです。あがめられ、もてはやされる、ご立派な偉い人間にではなく、軽蔑され、見捨てられ、身をかがめる低く小さな人間に。それは、とんでもないことです。あるはずのない、あってはならないはずのことが起りました。私たちの主、救い主イエス・キリストは「かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」(7-8)自分で自分を虚しくなさったのです。虚しいものにされたのではなく、自分から進んで「ぜひそうしたい」と、しもべの形と中身を選び取ってくださいました。無理矢理に嫌々渋々されたのではなく、「はい。喜んで」と自分で自分の身を屈めました。しかも徹底して身を屈めつくし、十字架の死に至るまで、従順を貫き通してくださいました。なぜ神の独り子は、その低さと貧しさを自ら選び取ってくださったのか。何のために、人間であることの弱さと惨めさを味わいつくしてくださったのでしょう。ここにいる私たちは、知らされています。十二分に、よくよく知っています。兄弟たち。それは、「罪人を救うため」(テモテ手紙(1)1:15)でした。善良な人や高潔で清らかな人々を救うことなら簡単でした。罪人を救うとしても、ほどほどの罪人やそこそこの罪人を救うことなら、まだたやすいことでした。けれども、極めつけの罪人をさえ救う必要があったのです。罪人の中の罪人を、その飛びっきりの頭であり最たる罪人をさえ、ぜひとも救い出したいと神は願ったのです。極めつけの罪人。それがこの私であり、あなたです。キリストは低く下って、やがて高く上げられ、すべての名に勝る名を与えられました9節,エペソ手紙4:9)
それは、低い所に捕われている者たちのためです。恥を受け、身を屈めさせられ、「誰もいない。誰もちっとも分かってくれないし、助けてもくれない」とつぶやく惨めな者たちのために。「私の孤独。私の痛み。私だけの恐れと絶望」とうつむく者たちのためです。神に背いてしまう。神のあわれみの下から、ついうっかりして迷い出て、戻りたいと願いながら戻ることができない。その罪深さと悲惨さのために身を屈め、心をすさませ、胸をかきむしっている1人の小さな罪人。その小ささ。その脆さ、危うさ。その心細さと痛みに、神は御目を留められました。その人を、神は愛して止みませんでした。それが、救いの歴史の出発点です。あのお独りの方と、私たちとの出発点です。足を踏みしめて立っているべき、私たちのいつもの場所です。
だからこそ、神であられる栄光も尊厳も投げ捨ててすっかりご自分をむなしくなさり、どこまでも貧しくなってくださった救い主イエスのその貧しさこそが、私たちの幸いです。この救い主イエスのものとされ、その御心に従って生きよう、ぜひそうしたいと願って生きることこそが神の国です。それは、私たちの只中にあり、私たちのものです。このお独りの方によって、私たちは神の正しさと憐み深さに満ち足りるようになります。このお独りの方によって、私たちはほがらかに喜び笑うようになるからです。「あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、『イエス・キリストは主である』と告白して、栄光を父なる神に帰することになる」と約束されています。それならまず、この私たちこそが膝を屈め、私たちの舌が『イエス・キリストは主である』と告白して、栄光を父なる神に帰することになるからです。なんという幸い、なんという恵みでしょうか。

《祈り》
神さま。私たちははなはだしい苦境の只中に据え置かれています。
      きびしい社会状況とそれぞれの悩みの中で、心を病む人たちが大勢います。それは決して他人事ではなく、誰もが追い詰められ、この私たち自身も孤独と絶望の中でほかの誰かを深く傷つけてしまうかも知れません。どうか神さま、その人たちを憐れんでください。この私たち自身も他人を傷つけた加害者たちをただ憎んだり、軽蔑してののしったり、恐れて排除すようとするだけではなく、決してそうではなく、彼らを憐れみ、思いやって手を指し伸べることもできますように。なぜならこの私たちこそが深く憐れんでいただき、値しないのに手を差し伸べられ、あたたかく迎え入れられた者たちだからです。「神の子供とされた」とは、そういう中身だからです。
憐れみ深い神さま。貧しく心細く暮らす子供たちとその家族、年老いた人たち、若者たち、後から来る若い世代に対して、先に生きてきた私たち大人には大きな責任があります。日本人も外国人も、すべての子供たち、若者たちがとても困り果てるとき、それを気にかけてぜひ助けてあげようとする大人たちをその人のすぐ傍らにいさせてください。
      神を信じて生きる私たちのためには、自分自身の肉の思い、腹の思いの言いなりにされるのではなくて、私たちの体の内に住んでくださっている御子イエスの霊に従って歩む新しい希望のうちに毎日の暮らしを生きさせてください。苦しみや悩みや辛さの只中にあっても、そこで神様に呼ばわって、救いとすべての幸いを神の中に求めつづける私たちであらせてください。
主イエスのお名前によって祈ります。アーメン