2019年5月6日月曜日

5/5「新しい生活」ルカ5:33-39


             みことば/2019,5,5(復活節第3主日の礼拝)  213
◎礼拝説教 ルカ福音書 5:33-39                      日本キリスト教会 上田教会
『新しい生活』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
5:33 また彼らはイエスに言った、「ヨハネの弟子たちは、しばしば断食をし、また祈をしており、パリサイ人の弟子たちもそうしているのに、あなたの弟子たちは食べたり飲んだりしています」。34 するとイエスは言われた、「あなたがたは、花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食をさせることができるであろうか。35 しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その日には断食をするであろう」。36 それからイエスはまた一つの譬を語られた、「だれも、新しい着物から布ぎれを切り取って、古い着物につぎを当てるものはない。もしそんなことをしたら、新しい着物を裂くことになるし、新しいのから取った布ぎれも古いのに合わないであろう。37 まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、新しいぶどう酒は皮袋をはり裂き、そしてぶどう酒は流れ出るし、皮袋もむだになるであろう。38 新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。39 まただれも、古い酒を飲んでから、新しいのをほしがりはしない。『古いのが良い』と考えているからである」。   (ルカ福音書 5:1-11)


 33節。パリサイ人や律法学者たちが救い主イエスに問いかけています、「洗礼者ヨハネの弟子たちはしばしば断食をし、また祈りをしており、パリサイ人の弟子たちもそうしているのに、あなたの弟子たちは食べたり飲んだりしています」。断食をするかしないか。もしするなら、どういう理由で何のためにするのか。しないのなら、その理由は? 立ち止まって、まずこのことを考えます。少なくとも聖書の神を信じている私たちにとって、断食は、祈りの一つの形です。苦しみや悩みを現し、また悔い改めて神へと立ち返るために、神さまとの親しい交わりを求めて断食をします。年に一度、大贖罪日(だいしょくざいび/レビ記23:23-,ヘブル手紙9:23-10:20と呼ばれる日に皆が断食をすべきことが、かつて聖書に定められていました。それによって神さまとの親しい交わりがつづき、罪が清められることを願ってです。けれどあらかじめ警告されていたとおりに、その断食は、すぐにも中身と生命とを失って単なる形だけのもの、うわべを美しく取り繕うだけのものとなってしまいました。中身も生命もないその虚しいだけの形式主義は神さまの怒りをかい、神さまの御心をはなはだしく嘆かせました。「わたしが選ぶところの断食は、悪のなわをほどき、くびきのひもを解き、しえたげられる者を放ち去らせ、すべてのくびきを折るなどの事ではないか。・・・・・・飢えた者にあなたのパンを施し、苦しむ者の願いを満ち足らせるならば、あなたの光は暗きに輝き、あなたの闇は真昼のようになる」(イザヤ書58:3-10,エレミヤ書14:12。けれど人々は預言者たちの警告に耳を貸しませんでした。ますます中身のないただ形ばかりの断食(=祈り)をしつづけました。どの先生について習ってもいいでしょう。一日に何回祈ってもいいでしょう。けれど、立派なヨハネ先生がそう仰るんだからとなんでもかんでも鵜呑みにしてはなりません。先生の指導が悪かったからではなく、多分、弟子たちの全員が愚かだったわけでもなく、たまたまここに来たこの弟子たちはうっかり者たちでした。立ち止まって、心を鎮めて考えることを、あまりしたことがなかったのでしょう。何のために、どういう目的と理由でそれをするのかと中身を一つ一つ、毎回毎回、問いつづけなければなりません。せっかく学んだことが実を結ぶためには。ただ形ばかりの虚しい形式主義に陥ってしまわないためには。「偽善者よ」と神さまから厳しく叱られないためには。しかも34-35節、主イエスがこう答えています。「あなたがたは、花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食をさせることができるであろうか。しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その日には断食をするであろう」。やがて主イエスが十字架につけられて殺され、葬られ、復活の姿を見せた後で天に上っていかれた後、主イエスの弟子たちは、そこでようやく断食をし、祈って待ち望みました。信じて待つ者たちに聖霊なる神さまが贈り与えられるという約束だったからです。約束はかなえられました(ルカ福音書24:44-53,使徒1:4-11,2:1-39。断食は祈りの一つの形です。今でもなお私たちは祈りますし、もし必要だと思うなら1ヶ月でも2ヶ月でも断食しながら祈っても構いません。その場合には、何のために断食し、どういう理由と目的で祈っているのかを心に覚えておかねばなりません。
 さて、それよりも他の何よりも今日のこの箇所で心によくよく刻んでおくべき最も大切なことは、救い主イエスがご自分のことを『花婿』だと仰ったことです。救い主イエスが花婿であり、キリストの教会と一人一人のクリスチャンはその花嫁とされて迎え入れられている(マタイ福音書25:1-,ヨハネ福音書3:29,エペソ手紙5:22-33,イザヤ書61:10。そのことを心に留め、思い巡らせつづけなければなりません。これこそがキリスト教会と一人一人のクリスチャンにとって最も大切な生命の中身だからです。
  花婿イエス・キリストは、その花嫁であるキリスト教会と私たち一人一人を愛してくださっています。結婚式のときの約束のとおりにです。「夫としての道を尽くし、キリスト教会と私たち一人一人を愛し、これを敬い、これを慰め、これを助けて変わることなく、その健やかな時も、その病む時も、この花嫁に対して堅く節操を守ることを誓いますか」。花婿である救い主イエスが、「はい」と答えて、そのとおりにしつづけてくださっています。キリストの教会と一人一人のクリスチャンがはなはだしく心病むときにも、花婿に背を向け、花婿を顧みず、離れ去っていこうとするときにも、だからこの花婿イエス・キリストは、教会と私たちを見捨てることも見放すこともなさいません。キリストの教会が今日なお建っている理由と土台は、ただこの一点にあります。私たちがなおクリスチャンであり続けている理由と土台も、ここにだけあります。
  けれど、もっとはっきりと語りましょう。神さまに背いて、逆らってばかりいた、心がとても強情で頑固な私たちでした。聖書はそれを『罪』と言い表し、『神に対する借金、負い目』であり、『何よりも厄介な病気』だと説き明かしました。ずいぶん高い代価を支払って、その罪と病気の重荷を主イエスが取り除いてくださいました。また花婿イエス・キリストは、私たちの日毎の必要を満たし、様々な困難と厄介事を案じてくださり、私たちのいたらなさやふつつかさや弱さを思いやり、忍耐し、自分自身を愛するように私たちを愛し、尊び、ご自分の体の一部分とさえしてくださいました。そう、「キリストの教会とその体の肢である私たちを傷つけ、苦しめる者は、花婿イエス・キリストご自身を傷つけ、悩ませ、苦しめている」とおっしゃいました。パウロがかつて教会とクリスチャンとを迫害する者だったときのことです。花婿イエス・キリストは、「サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか」と呼びかけました。「あなたはどなたですか」と問われて、「私は、あなたが迫害しているイエスである」と花婿イエス・キリストはお答えになりました。これこそが、私たちのための祝福であり戒めです。また、「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち私にしたのである。しなかったのは、すなわち私にしなかったのである」(使徒9:4-6,マタイ福音書25:35-46を参照)。天の御父がその御子キリストをさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたので、御子イエス・キリストだけではなく、御子といっしょにすべて一切をも贈り与えてくださる御心だからです。私たちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から私たちを引き離すことはどんな者にもできない(ローマ手紙8:31-39、と断言されています。神さまが私たちの味方だとは、このことです。しかも、憐れみ深く慈しみに富む神は、だからこそ、キリスト教会と私たちに立ち向かい、容赦なく厳しく敵対することさえなさいます。つまり、もし私たちが邪な者たちとなり、不正と悪を働き、家族や隣人や他者を苦しめ、傷つけ、悩ませる者となるときには、この花婿イエス・キリストご自身こそが私たちの前に断固として立ち塞がります。だからこそ、「高ぶった思いを抱かないで、むしろ恐れなさい」と戒められています。もし私たちが神さまの慈愛に留まっているならば、その慈愛は私たちにも向けられるでしょう。そうではないなら、私たちもまた切り取られてしまうほかありません。「神の慈愛と峻厳とを見よ」(ローマ手紙11:22と警告されているのはこのことです。
  37-38節についても、説き明かしておきます。「まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、新しいぶどう酒は皮袋をはり裂き、そしてぶどう酒は流れ出るし、皮袋もむだになるであろう。 新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである」。せっかく、わざわざ、「ぶどう酒」と言い、しかも「新しいぶどう酒」と仰ったからには、そこから大切な意味を聞き分けねばなりません。聖晩餐のパンと杯のことであり、花婿イエス・キリストが私たち罪人を救うために死んで葬られ、三日目に復活なさり、その復活の姿を十分に見せてくださったあと天に上られ、天と地のすべて一切を委ねられた王としてこの世界を治めつづけ、やがて再び来られますことです。
あの最後の食事の席で、花婿イエス・キリストは、パンをとり、感謝してこれを裂き、「これはあなたがたのための私の体である」と仰り、杯を掲げ、「皆、この杯から飲みなさい。この杯は、わたしの血による新しい契約である」と仰ったからです。「ぶどう酒とそれを入れる袋。それは、神さまを信じる信仰の中身と、信じている人のいつもの暮らしぶりやいつもの腹の思いのことです。神さまを信じる信仰の中身がすっかり新しくされました。だから、その中身にふさわしい心構えや、毎日の暮らし方があり、その新しい中身にちょうどピッタリするいつもの心の在り方や、人との付き合い方がある」ということです。聖晩餐の度毎に何度も何度も申し上げます。周りの大人の人たちがどんなふうにパンを食べ、ぶどう酒を飲むのか。その様子を、子供たちはよくよく観察してみてくださいと。そのときだけではなく、夕方にも何日か後にも家にいても道を歩いているときにも、誰といっしょの時にも、目の前にいるその大人のクリスチャンが『新しい皮袋』にだんだんとなってゆく様子が分かります。神さまは一切わたしたちの功績なしで、ただただ恵みによって、キリストの完全な償いと義と聖を私たちに贈り与えてくださり、それによって、私たちがまるで罪など犯したことがないかのように、罪があったこともないかのように、また、キリストが私たちのために成し遂げてくださったあの服従のすべてを私たち自身が成し遂げたもののようにみてくださいます(ハイデルベルグ信仰問答,問60-64を参照)。そうであるならば兄弟姉妹たち、私たちはどのように毎日毎日を生きて、やがて死んでゆくことができるでしょうか。「ああそうか。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れるってこういうことだったのかあ」と自分自身も家族も友人たちもよく分かるようになるでしょうか。ぜひ、そうであらせていただきたい。パンと杯を差し出して救い主イエスは仰いました。「これは私の体である。皆、この杯から飲みなさい。わたしの血による新しい契約である」と。「わたしたちが祝福する祝福の杯、それはキリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパン、それはキリストの体にあずかることではないかパンが一つであるから、わたしたちは多くいても一つの体なのである」(コリント手紙(1)10:16-17,11:23-29を参照)救い主イエスが十字架の上でご自分の体を引き裂き、ご自分の血を流し尽くして、私たちのための救いを成し遂げてくださいました。その体と血を飲み食いさせられている私たちは、だんだんとその中身にふさわしい新しい皮袋になってゆきます。もちろんそうです。500年も前に、新しいパンと新しいぶどう酒についてこう説き明かされました。『この聖なる宴会は、病める者には医薬である。罪人には慰め。貧しい者には贈り物。しかし健康な者、義しい人、豊かな者には何の意味もない。自分を正しい、ふさわしいとうぬぼれて、好きだ嫌いだなどと自分の腹の思いを先立ててばかりいるこの私には、神の恵みも憐れみも祝福も平和も丸つぶれにされつづけ、水の泡とされつづける。唯一の、最善のふさわしさは、彼の憐れみによってふさわしい者とされるために、私たち自身の無価値さとふさわしくなさを彼の前に差し出すこと。彼において慰められるために、自分自身においては絶望すること。彼によって立ち上がらせていただくために、自分自身としてはへりくだること。彼によって義とされるために、『自分自身がとても悪いことをしている』と気づいて心を痛めること。彼において生きるために、自分自身において死ぬことである』。それゆえ私たちは、むしろ自分は何一つも良いものを持たない小さな貧しい者として慈しみ深い贈り主のもとに来ましょう。重い病気を患う半死半生の病人として良い医者のもとに来ましょう。神にも家族や隣人にも背きつづける不届きな罪人として、そして死んだものとして、死にかけている者として、生命の与え主であられるお方のもとに来るのだと弁えましょう。神によって要求され、命じられている最善のふさわしさとは、自分自身のふさわしくなさです。それをつくづくと噛みしめる信仰のうちにあります。この信仰は、一切の希望と幸いをキリストにかけ、私たち自身には何一つ信頼を置かないことだからです(Jカルヴァン「キリスト教綱要」41741-42節)
なぜでしょう。なぜならば、私たちが神を選んだのではなく、神が、救い主イエス・キリストが私たちを選んで、神を信じて生きる者たちとして私たちを立ててくださったからです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛してくださって、私たちの罪のためにあがないの供え物として御子をおつかわしになりました。ここに、私たちのための十分な愛があるからです。祈りましょう。