2019年5月14日火曜日

5/12「日曜日の願いと目的」ルカ6:1-5


         みことば/2019,5,12(復活節第4主日の礼拝)  214
◎礼拝説教 ルカ福音書 6:1-5                         日本キリスト教会 上田教会
『日曜日の願いと目的』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
6:1 ある安息日にイエスが麦畑の中をとおって行かれたとき、弟子たちが穂をつみ、手でもみながら食べていた。2 すると、あるパリサイ人たちが言った、「あなたがたはなぜ、安息日にしてはならぬことをするのか」。3 そこでイエスが答えて言われた、「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが飢えていたとき、ダビデのしたことについて、読んだことがないのか。4 すなわち、神の家にはいって、祭司たちのほかだれも食べてはならぬ供えのパンを取って食べ、また供の者たちにも与えたではないか」。5 また彼らに言われた、「人の子は安息日の主である」。     (ルカ福音書 6:1-5)


  主イエスと弟子たちが麦畑の間を通っていたとき、弟子たちが麦の穂を摘みました。それを見とがめた人々が主イエスに文句を言いました、「ご覧なさい。なぜ、あなたの弟子たちは安息日にしてはならないことをするのか。どういう教育をしてるのか、しつけが全然なってないじゃないか」(2節参照)。少しの説明が必要です。私たちの国では、法律上また一般的な道徳として『他人のものである麦畑の麦の穂を勝手に摘んで自分のものとしたり、食べる』ことが問題になり、もしそれを誰かに見つかれば叱られたり、警察に捕まえられたりします。けれど彼らの国の法律では、それはゆるされています。なんと驚くべきことに、神の国の法律(=律法)では、貧しい者たちや腹を空かせた者、隣人たちに、困らない範囲で自分のものを分け与えよと命じていました。「あなたが畑で穀物を刈る時、もしその一束を畑におき忘れたならば、それを取りに引き返してはならない。それは寄留の他国人(=寄留者・きりゅうしゃ=外国から出稼ぎに来ている、心細く不安定な扱いを受ける労働者)と孤児と夫と死に別れた未亡人に取らせなければならない。そうすればあなたの神、主はすべてあなたがする事において、あなたを祝福されるであろう。・・・・・・あなたはかつてエジプトの国で自分自身が奴隷であったことを記憶しなければならない。それでわたしはあなたにこの事をせよと命じるのである」(申命記24:19-22)。欲張ってむさぼり尽くしてはならない。神さまからの憐れみを受けた者たちは、受けたその憐れみを仲間たちに差し出しなさいと。なんということでしょうか。他のどこにもないほどの、寛大で思いやりにあふれた法律です。これが、神からの律法の心です。
  ですから彼らにとっての問題は、『安息日に働いている』という一点に集約されます。主イエスという方は、それを重々承知していながら、わざわざ選りに選って、他人に見せつけるようにして、安息日に麦の穂を摘ませました。それは、あの彼らの常識かぶれに対する宣戦布告です。手の萎えた人や腰の曲がった女の人を癒してあげたのも安息日でした(マタイ福音書12:9,ルカ福音書13:19,14:1)。どこか他の場所で、他の木曜日や金曜日にそれをすることもできました。けれどわざわざ選りに選って安息日に、わざわざ会堂で、信仰をもって生きるはずの人々の只中で、わざわざ礼拝中にそれをなさいました。安息日破り、律法破りを主イエスは次々と繰り返し、やがてそれは、ついに神殿の境内で露天商たちのテントや店のテーブル、椅子をひっくり返し、大切なこまごました商品や商売道具を地面にばらまき、商人たちを乱暴に追い出すという悪逆非道な狼藉にまでいたります(ルカ福音書19:45)。困ったものです。
  だから、うっかりした早とちりな人たちは、「主イエスという方は、律法が大嫌いだったんだ。安息日の掟も、お高くとまって取り澄ました神殿も、律法の何もかもも、ぶっ壊しちゃいたいと思っていたらしい」と誤解しました。まさか、大間違いですよ。大好きだったのです。安息日の掟も律法も、礼拝も神殿も、彼にとっては何物にも代えがたいほどに大切なものでした。だって、それは、ゆるしと慈しみの法律(=神の律法)の下に立って生きる、ゆるしと慈しみの人々であるための肝心要だったからです。律法の根本精神は、(1)神さまを心から愛すること。(2)隣人を自分のように愛し、尊ぶことです。そのためにシナイ山で2枚の石の板に刻まれたルールは10個でした。それが十戒(マタイ福音書22:34-,出エジプト20:1-,申命5:1-)。その10の戒めを具体的にいつもの普段の生活の中で守っていくためには、「いつどこで、どんなふうに守るか。こういう場合にはこうする。こういう場合には」と、こまごました細則と運用規定が必要になり、それらは膨れ上がって600800か条にまで及びました。律法ずくめの生活の中で、けれど肝心要の律法の中身を人々は忘れました。神を愛することと、自分自身と同じく隣人を尊ぶことを。主イエスは仰います;「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。・・・・・・わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない」(マタイ福音書5:17-20)。ほとんど死にかけていた律法と安息日規定にふたたび生命を吹き込もうとして、主イエスは荒療治に乗り出します。心臓マッサージ、人工呼吸といった救急蘇生法がほどこされます。そもそも一体、神さまから授けられた律法は何のためだったか。そして安息日は何のためかと。麦畑の件では、主イエスは仰いました。3-5節、「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが飢えていたとき、ダビデのしたことについて、読んだことがないのか。すなわち、神の家にはいって、祭司たちのほかだれも食べてはならぬ供えのパンを取って食べ、また供の者たちにも与えたではないか。人の子(=主イエスご自身のこと)は安息日の主である」。
  『安息日』の意味を、自分が教えられて心に覚えこんできだ分だけ、今日すっかり全部お話します。安息日の『安息』の意味は、活動停止であり、何もしないことであり、自分が抱え続けた仕事や責任や使命などもろもろを離れ、すっかり手放すことです。そのはじまりは、世界創造の7日目です。その前の日の6日目には、神さまはご自分がお造りになったすべてのものをご覧になり、『極めて良い。とてもよい。わあ嬉しい』と、大喜びに喜んでくださいました。7日目に、神さまご自身がご自分の仕事を離れ、安息なさり、お造りになったすべてのものとその日を祝福し、ご自分のもの(=聖別)とされた。それが、私たちと神さまとの出発点です。神さまがそうなさったので、この私たちもまた、自分が抱え続けた仕事を離れ、安息する。それは活動停止であり、抱え持ったもろもろを手離して、脇に置く。そうして初めて、そこでようやく、お造りになったすべてのものを神さまがご覧になり、『極めて良い。とてもよい。わあ嬉しい』と神さまが大喜びに喜んでくださったこともまた、私たちの腹に据えられます(創世1:31-2:3)。ああ本当にそうだ、と。
  やがて、しばらくの時をへて、奴隷とされていたエジプトの国を連れ出されたとき、荒れ野の旅が始まってすぐに人々は、「食べるものがない。うまい肉もない、飲む水もない」と不平不満を言い出します。葦の海を渡ったすぐ後、出エジプト記16章です。主なる神さまは人々をご自分の御前へと呼び集めます。叱りつけたり非難するためではなく、慈しみと憐れみをもって養うためにです。約束通りに、人々は天からの恵みのパンを集め、天からの恵みの肉を集め、天からの恵みの水を飲んで生きる者たちとされます。「私たちの今までのやり方や考え方とはずいぶん違うことをなさる神だ。こういう神だったのか」と皆でビックリ驚きたいのです。主なる神は仰いました。「わたしは、イスラエルの人々の不平を聞いた。彼らに伝えるがよい。『わたしはイスラエルの人々のつぶやきを聞いた。彼らに言いなさい、『あなたがたは夕には肉を食べ、朝にはパンに飽き足りるであろう。そうしてわたしがあなたがたの神、主であることを知るであろう』と」(出エジプト記16:12。あの彼らもここにいるこの私たちも、誰でも皆同じです。天からの恵みのパンを集め、天からの恵みの肉を集め、天からの恵みの水を飲んで生きる者たちとされ、「ああ本当にそうだ。嬉しいなあ」と驚き喜ぶのでなければ、そうでなければ決して誰一人も 主が主であることを知るようにはならないのです。そのための、一日分ずつの天からの恵みのパンと肉と水。それが『主の祈り』の第4番目の願い、「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と願って、神から受け取り、神に感謝して一日ずつを生きることの意味であり、心です。7日目に手を止めて、神さまをこそ仰ぎ見て、しかも十分に養われつづけていることを心に覚えて感謝をする。ありがとうございます。今後ともよろしくお願いいたします、と。『主が主であることを知る』ことこそ、今日にいたるまでずっと、習い覚えるべき教会教育の最優先の第一番目の目標でありつづけます。イロハのイです。
  七日に一度の『安息日』という教育手段の広がりと展開。七年に一度の安息年へ、7年×7のヨベルの年へ、さらに終わりの日に私たちがあずかるはずの神の安息へ(レビ記23:1-25,ヘブル手紙3:7-4:13。創造の7日間に遡りつづけます。それは、「神さまがご自分の仕事を離れ、安息なさり、祝福し、ご自身のものとして聖別なさった」ことに由来します。この私たちもまた、その神さまからの祝福を受け取って生きるために、自分が抱え続けた仕事を離れ、安息する。安息しつつ、その只中で神さまにこそ目を凝らし、仰ぎ見る。神さまからの祝福に預かり、神さまのものとされる。だからこそ なにしろ日曜日、なにしろ礼拝第一。かつても今も私たちが信仰をもって生きるための生命線でありつづけます。安息日の格別な幸いをぜひ分け与えてあげようと、神さまはあなたを待ち侘び、あなたを大歓迎なさいます。主なる神さまからの恵み、憐れみ、平和が、あなたとご家族の上にありますように。ぜひ、そうでありますように。

               ◇

 では質問。今日の仕上げです。もし神からの祝福と聖別から逃れたいとき、どうすれば、それができるでしょう? どうすれば、神からの祝福を払いのけ、《神のものとされる》束縛から自由になることができるでしょうか。簡単です。自分の仕事をがっちりと抱えもって、「自分が自分が」とどこまでも拘って、手離さなければいいのです。「日曜日にも働きつづけている人々は、ですから、神様からの祝福を受け取り損ねるかも知れない」という大きな危機にさらされつづけます。その意味では、牧師や長老や執事たちも危うい場所に立ち続けます。人々が神さまからの祝福と恵みを受け取るためにお手伝いしてあげようとして、うっかりして自分たち自身がその祝福と恵みからこぼれ落ちてしまうことはありえます。主イエスの福音を差し出しながら、自分自身がその福音をいただき損ねてしまう。それは大いに有り得ます(コリント手紙(1)9:23-27)。恐ろしいことです。神はご自分の仕事を離れ、安息なさった。造られたものたちをご自分のものとし、祝福を与えた。ですから神によって造られた私たちも、自分の仕事を離れ、安息し、そこで《私は私のものではなく、他の誰の所有物でもなく、ただ神のものとされている》という祝福の中身を受け取ります。そこでようやく、6日間の自分の仕事や、仕事の中身を、自分自身をも、喜び祝うこともできたのです。感謝にあふれて。救い主イエスは、「私(=ご自身のことを、しばしば「人の子」と呼んだ)は安息日の主である」とおっしゃいました。では、月曜日から土曜日まではこのお方は、この世界と私たちのための主ではないのか。いいえ違います。安息日の一日は、七日間すべての祝福のための『出発点であり、しるし』です。もちろん私たちが日曜日に神ご自身のものとされ、神の祝福を十分に受け取って、その一日を生きるだけではまったく不十分だからです。そうではなく、毎週毎週、七日間ずつ、すべての日のための主であり、私たちが生きる全生涯にわたって、神ご自身のものとされ、神の祝福を十分に受け取って、その一日ずつを神さまの御心にかなって幸いに生きるための主人であり、王様であられます。

しかも、救い主イエスをすでに信じて生きているクリスチャンのためだけの主で はありません。私たちが『イエスこそ主である』と主を仰いで生きていることは、すべて神によって造られたものがやがて神の祝福にあずかるための『出発点であり、しるし』です。

こう約束されています、「それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、『イエス・キリストは主である』と告白して、栄光を父なる神に帰するためである」(ピリピ手紙2:10-11