2019年3月18日月曜日

3/17「権威と力をもつ者」ルカ4:31-37


             みことば/2019,2,17(受難節第2主日の礼拝)  206
◎礼拝説教 ルカ福音書 4:31-37                         日本キリスト教会 上田教会
『権威と力によって』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
4:31 それから、イエスはガリラヤの町カペナウムに下って行かれた。そして安息日になると、人々をお教えになったが、32 その言葉に権威があったので、彼らはその教に驚いた。33 すると、汚れた悪霊につかれた人が会堂にいて、大声で叫び出した、34 「ああ、ナザレのイエスよ、あなたはわたしたちとなんの係わりがあるのです。わたしたちを滅ぼしにこられたのですか。あなたがどなたであるか、わかっています。神の聖者です」。35 イエスはこれをしかって、「黙れ、この人から出て行け」と言われた。すると悪霊は彼を人なかに投げ倒し、傷は負わせずに、その人から出て行った。36 みんなの者は驚いて、互に語り合って言った、「これは、いったい、なんという言葉だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じられると、彼らは出て行くのだ」。37 こうしてイエスの評判が、その地方のいたる所にひろまっていった。              (ルカ福音書 4:31-37)
 
 救い主イエスはふたたびガリラヤの町カペナウムに戻って、安息日には人々に神の国の福音を教えました。神の国の福音。神はどういう神であり、その神を信じてどのように生きることができるかについてです。語られるその言葉には、神からの権威があって、聴いた人々は驚きました。驚きながらも、その教えを喜んで受け入れる者もおれば、そうではなく拒んで嫌な気持ちになる者たちもいました。いつも、その正反対の二種類の反応が起こされつづけます。
 その会堂に汚れた悪霊につかれた人がいて、大声で叫びだしました。34節、「ああ、ナザレのイエスよ、あなたはわたしたちとなんの係わりがあるのです。わたしたちを滅ぼしにこられたのですか。あなたがどなたであるか、わかっています。神の聖者です」。イエスはこれをしかって、「黙れ、この人から出て行け」と言いました。すると悪霊は彼を人々の中に投げ倒し、傷は負わせずに、その人から出て行きました。そこに集まっていた人々は皆が驚いて、互いに語り合って言いました、「これは、いったい、なんという言葉だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じられると、彼らは出て行くのだ」。聖書の中に「汚れた霊」「悪霊」の存在がたびたび報告され、それは悪の力をもっており、人間の中にとりついて様々な苦しみをもたらします。主イエスはそれらを何度も追い出しつづけます。主イエスが弟子たちを町や村へと遣わす際に、「すべての悪霊を制し、病気をいやす力と権威をお授けになり、神の国を宣べ伝えさせた」(ルカ福音書9:1-2と報告されています。
  32節で、「その言葉に権威があった」と報告されています。神の国の福音を宣べ伝え、それを教える権威であり、神ご自身からの権威です。やがて復活の主イエスが弟子たちを世界中へと遣わすとき、こう仰いました。「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ福音書28:18-20 天の御父から授けられた権威をもって、主イエスは弟子たちを遣わします。その権威は神の国を宣べ伝えて、教える神ご自身の権威であり、聴いた人々がそれによって神を信じて生きることができる権威です。主イエスは弟子たちを励まして語りかけました、「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」。また、こう仰いました、「あなたがたは、わたしが語った言葉によってすでに清くされている」(ヨハネ福音書8:31-32,15:3と。その約束と共に神の言葉が語られ続け、救い主イエスを信じる弟子たちに神の真理によって自由を得させ、御心に従って毎日の暮らしを生きることができるように、御言葉を聴きつづける弟子たち一人一人を清くしつづけています。それが、キリスト教会とクリスチャンの中で起こっている出来事の中身です。
 聖書は証言しました、「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種まく者に種を与え、食べる者にかてを与える。このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す」(イザヤ書55:8-11と。神の言葉は、天から降る雨や雪のように地を潤して、植物を生えさせ、芽を出させて、種まく者に種を与え、食べる者にかてを与える。このように、主なる神の口から出る言葉も、むなしく神のもとに帰らない。神の喜ぶところのことをなし、神が命じ送った事を果す。主なる神が喜ぶところのことをなし、主が命じ送ったことを成し遂げる。それは、その言葉によって、神を信じる芽を人間の心に芽生えさせ、成長させ、根をその大地に張り巡らさせ、幹や枝を茂らせ、神を信じて生きるという実を結ばせることです。「私の口から出る私の言葉」と言われます。聖書の一言一言が「主なる神の口から出る神ご自身の言葉」です。それを説き明かす伝道者たちの一つ一つの言葉もまた、「主なる神の口から出る神ご自身の言葉」です。神さまがそのようにし、そのように取り扱いつづけると約束なさっているからです。神学生のとき、そのように教えられ、励まされました。ほか多くのおびただしい数の伝道者たちと共に、ぼくもそれを信じて語り続けています。生身の貧しい伝道者たちの語る説教の一言一言もまた、粗末で乏しいながら、それでもなお「私の口から出る私の言葉」とされている。神ご自身からの約束です。それならどうぞ、天から降る雨や雪のようにこの大地と人々の魂を潤して、そこに植物を生えさせ、芽を出させて、その言葉の種によって、神さまを信じる芽を人々の心に芽生えさせ、すくすくと成長させ、根をその大地に張り巡らさせ、幹や枝を葉を茂らせ、神を信じてその御心にかなって生きるという実を結ばせてくださいますように。どうぞ、よろしくお願いたしますと。
 さて、神からの権威と力は、見たり聴いたりして「ああ、そうか」とすぐ簡単に分かる場合もあれば、そうではなく、それが果たして神からの権威と力なのか、それともただ人間から出た人間の権威と力にすぎないのかがなかなか区別できない場合もあるでしょう。主イエスの弟子の一人が、伝道者としての自分自身の働きの中で神ご自身の権威と力がどのように発揮されたのか、どんなふうに実を結んでいったのかを打ち明けています、「わたしがあなたがたの所に行った時には、弱くかつ恐れ、ひどく不安であった。そして、わたしの言葉もわたしの宣教も、巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によったのである。それは、あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるためであった」(コリント手紙(1)2:3-5。パウロという名前の弟子で、その彼の働きの最初の頃のことです。実は、この人は人一倍有能で、口も達者で頭もよく回る切れ者でした。しかも何年も何十年も他の誰よりもよく学んで、学識もたっぷりで。ところがその町に辿り着いて神の国を宣べ伝えようとしはじめたとき、それまで味わってきた苦しいことや辛いことが積もり積もって、もうボロボロでした。本人が打ち明けているとおりに、弱くかつ恐れ、はなはだしい不安にとりつかれていました。いつもの彼なら立て板に水とペラペラペラ福音の道理を断固として、美しく格調高く、厳かに語りきかせるはずが、そうしたくても出来ませんでした。巧みな知恵の言葉など、どこを探しても何一つ出てきませんでした。すきま風のようにモゴモゴモゴモゴと、突っかかり突っかかり、しどろもどろになって喋りました。だからこそ彼自身の知恵と力によってではなく、ただただ神ご自身の知恵と力によったのだと誰にでも分かりました。つまり そのために、神さまの側で、わざわざ彼を打ち叩いて弱くし、恐れさせ、はなはだしい不安にとりつかれさせました。そんな中で、一人また一人と神を信じて生きはじめる者たちが出てきました。雨や雪に潤された大地から芽が出たようにです。さすがの彼にも、もう私のおかげでなどと口が裂けても言えません。信じたその人々も、「ご立派なパウロ大先生のおかげで、こんな私もクリスチャンになれましたあ」などと言いません。その代わりに、「全部、何から何まですっかり神さまのおかげで~す」と、皆共々に大喜びに喜び合いました。皆共々に、「人の知恵や力などによらないで、ただただ神ご自身の権威と力によって、神を信じて生きる者とされた」と喜び合いました。神を信じて生きはじめたその最初の出来事は、神への信頼として彼らの魂に深々と刻まれました。
 しかも私たちはたびたび弱くされました。恐れさせられ、はなはだしい不安にとりつかれさせられました。何度も何度も何度も。「しっかりした自分が頼りだ」と自信をもって、自分自身に信頼できるくらいでは全然足りません。だって、何が起こっても平気だと胸を張れるような、本当に心底からしっかりした人など一人もいないからです。頼りになる○○さんがいてくれるから安心だ。いえいえ、それもあんまり当てにできません。親兄弟も、誰も彼もほどほどの助けでしかありません。だって、たかだか生身の人間にすぎないのですから。強がって見せても、誰でも心細くて心配で心配で仕方がない生き物なんですから。けれど、もし神さまに十分に信頼できるなら、それなら、ついにとうとう安心です。しばらくして、あの彼がふたたびはなはだしい恐れに取り付かれたとき、するとある夜、主が彼に語りかけました、「恐れるな。語りつづけよ、黙っているな。あなたには、わたしがついている。だれもあなたを襲って、危害を加えるようなことはない。この町には、わたしの民が大ぜいいる」(使徒18:9-10。あなたには私が付いているじゃないかと、何度も何度も語りかけていただいて、恐れを一つ、また一つと取り除いていただいて、そのようにして、神に十分に信頼を寄せて生きるようにされてゆく私たちです。だんだんと、少しずつ。

             ◇

  「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに」と救い主イエスが私たちに命じておられます。神ご自身の権威の下に立って、神にこそ十分に信頼を寄せ、聞き従って生命を得よ。受け取りつづけよと。汚れた悪霊さえ救い主に従って、その権威に服従しました。それなら、このお独りの方を信じる私たちはどうしましょう。神を知ろうとしても自分自身の知恵や力や賢さが邪魔して、なかなか神を知ることが出来ずにいる私たちに、神は働きかけます。後の者を先にしながら。力を奪って弱くしながら、富める者を追い返しながら。賢くて知恵あるつもりだった者たちに恥をかかせながら。「偉くなりたい。誉められたい、支配したい」と渇望する人々を引き下ろして皆に仕える者とさせながら。小さな子供のようになれ、と諭しながら。この同じ主旋律が、聖書66巻をとおして響き続けます(申命記7:6-8,8:11-18,9:4-6,士師記7:2-4,イザヤ書10:12-16,マタイ福音書18:1-5,19:30,20:16,ルカ福音書1:47-55,72-79,コリント手紙(1)26-31,2:1-5,(2)12:7-10)伝道者パウロ自身にとっても、人一倍うぬぼれの強い、ついつい図に乗って高ぶりやすい優秀な彼が「誇る者は主を誇れ」と福音を告げ、ただ人にそう告げるだけでなく自分自身でもそれを「ああ。本当にそうだ」とよくよく心に噛みしめ味わうことは至難の業でした。自分自身が打ちのめされ、低く身を屈めさせられ、そこでようやく福音を語り、福音に生きる準備が整えられたのでした。その後も、高ぶる思いは折々に鎌首をもたげました。しばらく後になってから、彼はこう告白します;「主が仰った、『わたしの恵みはあなたに十分である。(神の)力は(私たち人間の)弱さの中でこそ十分に発揮される。(自分自身のおごり昂ぶりと)強さの中では、邪魔されて、なかなか発揮しにくい』と。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」(コリント手紙(2)12:9)。かつては神の民でなかった彼であり、私たちです。今、神の民とされていることの本質は『憐れみを受けて、受けたその憐れみをしっかりと抱えている』ことにあります(ペトロ手紙(1)2:10)。道端に座り込んだ貧しい乞食の心です。そして、良い恵みの贈り物を受け取って喜ぶ幸せな乞食の心。これです。これが、神の国の福音に生きるクリスチャンのための「イロハのイ」です。