2019年3月25日月曜日

3/24「年老いた母のため」ルカ4:38-41


            みことば/2019,3,24(受難節第3主日の礼拝)  207
◎礼拝説教 ルカ福音書 4:38-41                    日本キリスト教会 上田教会
『年老いた母のため』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
4:38 イエスは会堂を出てシモンの家におはいりになった。ところがシモンのしゅうとめが高い熱を病んでいたので、人々は彼女のためにイエスにお願いした。39 そこで、イエスはそのまくらもとに立って、熱が引くように命じられると、熱は引き、女はすぐに起き上がって、彼らをもてなした。40 日が暮れると、いろいろな病気になやむ者をかかえている人々が、皆それをイエスのところに連れてきたので、そのひとりびとりに手を置いて、おいやしになった。41 悪霊も「あなたこそ神の子です」と叫びながら多くの人々から出ていった。しかし、イエスは彼らを戒めて、物を言うことをお許しにならなかった。彼らがイエスはキリストだと知っていたからである。       (ルカ福音書 4:38-41)

【口止め】本題に入る前に一つ整理しておきます。41節で悪霊が救い主イエスに「あなたこそ神の子です」と叫びながら出て行くとき、救い主は悪霊を戒めて、物を言うことを許さなかった。先週の箇所の34-35節でも同じことがありました。汚れた悪霊が「ナザレのイエス。あなたがどなたであるか分かっています。神の聖者です」と言うと、これを叱って、「黙れ」と。救い主イエスはご自分が何者であるのかをいうことを禁じて、口止めしています。その相手は、(1)まず悪霊。汚れた霊。悪霊や悪魔の手先などから宣伝してもらわなくてよいからです。(2)病気を癒してもらったり救われた人々、またその家族に対する口止めは緩やかな取り扱いでした。誰にも言うなと口止めされましたが、彼らはその嬉しい出来事を隣人たちに知らせないではいられませんでした。噂は広がり、けれどそれで厳しく叱られたりはしませんでした。(3)弟子たちも最初の頃に「誰にも言うな」と何度も口止めされました。これは期間限定。主イエスを信じる弟子たちが主についての証言をすることはとても大切な役割です。告げ知らせるための準備が整うまで、期限付きで口止めされました。もちろん今は、救われた人々とその家族と、主イエスを信じる弟子たち(=すべてのクリスチャン)には、それらの口止めはすっかり解除されています。救い主イエスが何者なのか、何をしてくださるのかを、この私たちは、今では誰にでも知らせてよいのです。

  さて、38-39節。「イエスは会堂を出てシモンの家におはいりになった。ところがシモンのしゅうとめが高い熱を病んでいたので、人々は彼女のためにイエスにお願いした。そこで、イエスはそのまくらもとに立って、熱が引くように命じられると、熱は引き、女はすぐに起き上がって、彼らをもてなした」。たまたま偶然にシモンの家に立ち寄ったのではありません。シモンの義母が高い熱を出して寝込んでいるのをあらかじめ知っておられ、だからこそ、その彼女をめがけて、わざわざ彼女のためにこそ家を訪問しました。熱を引かせて、元気に起き上がらせてあげようとしてです。よくよく覚えている必要があります。家族を大切にさせない、薄情で冷淡な神ではありません。その人と共に家族もまた健やかに暮らしていることが、もちろん神にとってもとても大切です。そうであってこそ、心安らかに晴れ晴れとして神に仕えて生きることができます。だからこそ、ごく最初のころから、「あなたの父母を敬え。そうすれば」(出エジプト記20:12,申命記5:16とお命じになり、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われる」(使徒16:31と約束なさいました。「神を信じる一人の人がその家庭にいるために、今はまだ聖書の神を信じていない夫も、その子供らもまたすでに清められ、神の恵みの領域に据え置かれている。だから、できることなら別れてはいけない」(コリント手紙(1)7:12-参照と。
 こうしたことでやや理解しづらいのは、例えば創世記12:1、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい」。また例えばマルコ福音書1:14-20、わたしについてきなさいと漁師たちを弟子にしたとき、彼らは「網を捨て、父と雇い人たちと舟を後に残して」付いてきました。大切な親族や家族や父をどうするつもりかと首を傾げたかも知れません。網と舟と父をあとにおいて、てぶらで、主イエスに従いました。どうしてだか分かりますか? 網も舟もお父さんも、とても頼りになるからです。「網を捨てて」(18)従ったこと。「舟と父親と仕事仲間たちを後に残して」(20)従ったこととが報告されています。神さまに従う人々の出発点であるアブラハムとサラ夫婦の場合にも、よく似た同じような従い方が報告されていました。創世記12章の冒頭。彼らに向かって主は仰いました;「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい」。彼らは、主の言葉に従って旅立ちました(創世記12:1-4。つまり、「手ぶらで。裸一貫で」です。弟子たちの場合と、アブラハム、サラ夫婦の場合と。捨てられた『網』、後に残された『舟と父親』。また、彼らがそこから離れて旅立った『生まれ故郷、親族たち、父の家』。それらは、生活していくための大切な道具ですし、心強い後ろ盾です。網や舟があって、それでようやく日々の生活を支え、営んでいくことができました。経験豊かな父親がいてくれて、また故郷や父の家周辺には、困ったことがあれば助けてくれたり面倒を見てくれる頼もしい親兄弟や、親族や友人たちがいて、だから彼らは安心して暮らしていくことができました。それらを後に残し、離れ去って旅に出ていかねばならないとしたら、ずいぶん心細いでしょう。ね、分かりますか? 「とても心細い。手ぶら」であることが鍵、分かれ道です。この信仰は、なにしろ主イエスを信じる信仰です。また主イエスの福音を聞いて、信じて、主イエスにこそ付いていくことです。想像してみてください。あの漁師たちも、もし、網や舟を担いで、そのまま主に従っていくことにしたならば。アブラハム、サラ夫婦も、もし生まれ故郷で父の家にそのまま留り、頼もしい叔父さん叔母さん連中に取り囲まれて、そこで、それなりに主に従いなさいと指図されたのだとしたら、どうなったでしょうか。生活も心構えも何一つ変わりません。それまでと同じく相変わらず、舟と網とが頼みの綱であり、生活の拠り所でありつづけます。それまでと同じく相変わらずに、頼もしい父親がいてくれて、また故郷や父の家には、困ったことがあれば助けてくれたり面倒を見てくれる親兄弟や、叔父さん叔母さんや友人たちの助言や勧めに耳を傾け、彼らの意見や判断に聴き従って、だからこそ安心して暮らしていくことができます。ほらね? 主に信頼し、主にこそ聴き従うのではなく、彼らは相変わらず自分たちの『舟や網』に信頼し、『父親や親戚の叔父さん叔母さん』に聴き従って生きることになるでしょう。湖の周辺にしがみついて、頼りになる父親と叔父さん叔母さん連中の判断や指図に「はい。分かりました。はいはい、その通りにします」と聴き従いつづけて、そこから一歩も離れずに生活しなければなりません。主に信頼し、聴き従うのではなく、『父とその家の親兄弟や親戚たち、頼りになる仲間や先輩たち』に従うことになるでしょう。神の民とされ、主イエスの弟子たちとされた人々よ。捨て去るべきものは、それぞれ後生大事に抱えていた後ろ盾です。これがあるから大丈夫という、安心材料、頼みの綱。さらにもう一つの安心材料は、自分自身でした。これまでこうやって世の中を渡ってきたというそれぞれの小さな誇りであり、プライドでした。「しっかりしている。取り柄も見所も社会経験も見識もたっぷりある、なかなかたいした自分だ」という自負心でした。自分に頼って生きてきた優れた人物たちも、けれど信仰をもって生きる中で、その自信も小さなプライドも粉々に打ち砕かれ、大恥をかかされました。なぜ。何のために? 自分を信じるのではなく、主なる神さまをこそ信じるようにと。自分を誇り、自分を頼りとするのではなく、主をこそ誇り、主を頼みの綱として生きるようにと(コリント手紙(1)26-31,(2)1:8-10,ローマ手紙3:21-27。だからこそ、やがて彼らが道端で貧しい小さな人と出会ったとき、「さあほら、素敵でとても立派な私を見なさい」とは言いませんでした。この私が人様・世間様から見て素敵なのかそうでもないか、どんな見所と取り柄があるのか、そんなことと福音伝道とは何の関係もなかったのです;「さあ、私たちを見なさい。この私をよくよく見なさい。金銀は私にはないが、見所や取り柄があるわけでもないが、持っている飛びっきりに素敵なものをあなたにあげよう。ナザレ人イエスの名によって歩きなさい」(使徒3:4-6参照)と。だからこそ、その同じまったく新しい安心材料を受け取り、踊りあがって大喜びしながら生きる者たちが一人、また一人と、呼び出されていったのです。
 その日から、神の慈しみによって生きることが始まりました。「わたしが示す地に行きなさい」と命じられ、「はい。分かりました」と主が命じられたとおりに出発しました。私たちはよくよく習い覚えてきました。神と私たちとの関係で最も大事な肝心要は、それが『主従関係』であることです。神さまがご主人さま、私たちはその主人に仕える召し使いであり、配下の者です。「主なる神」と申し上げ、「主イエス」と呼ぶ弟子であるとは、このことです。「~しなさい」と命じられ、「はい。分かりました」と主が命じるとおりに、行い、聞き従って生きてゆくことです。聖書の別の箇所では、「それに従い、行く先を知らないで出ていった」(ヘブル手紙11:8と報告しています。その通りです。行く先を知らないで出ていっては、何か不足や不都合があるでしょうか? いいえ、何も困りません。それで十分です。なぜなら「わたしが示す地に行きなさい」と指図され、「はい」と出発したからです。いつごろ、どんな場所に辿り着くかは、はっきりとは知らされていません。けれど、なにしろ主に従って歩んでゆくと決めています。主が先立って導いてくださり、見捨てることも見放すこともなさらないと約束されています。なにしろ神に全面的にすっかり信頼を寄せています。神さまのご意思に服従し、神にこそお仕えし、どんな困難や窮乏の中にあっても神にこそ呼ばわって、救いとすべての幸いを神の中に求めると決めています。すべての幸いと良いものはただ神から来ると知らされているからです。先々週お話しましたが、神さまに十分な信頼を寄せて生きるために知るべきことは二つです。(1)神には何でもでき、しかもまったく善意のお方であること。さらに、(2)神が私たちを愛し、助けと支えを贈り与えつづけてくださるとしても、そうしていただくだけの価値が私たち自身には何一つもないということです。ふさわしくない、神さまからの恵みに価しない私たちなのに、にもかかわらず愛していただき、助けと支えをいただきつづけているということ。この両方ともがよく分かっていなければ、神に十分に信頼を寄せることができません。「価値がない。ふさわしくない」と言われれば、ただ嫌な気がして、それを受け入れるのは至難の業です。それじゃあ言い換えれば、「私たち自身に価値があるのかないのか、ふさわしいかどうかとは何の関係もなく」、神は愛し、助け、支えてくださる。これなら受け入れることができますか。お腹を痛めて産んだ、苦楽を共にして一緒に暮らして愛しつづけてきた我が子なので、親がその子を愛するようにです。その子が親孝行で老後の面倒をよくみてくれるかどうか、素直で優しい、仕事もできる優秀な子なのかどうかと何の関係もなしに、なにしろ手塩にかけて養い育ててきた愛する子供なのでと。私たちを愛する神の愛は、そういう親の愛によく似ています(ローマ手紙3:21-27,5:6-10,8:31-32,11:30-32,エゼキエル書18:23-32。なぜなら、自分自身のふさわしさや価値とはなんの関係もなく神が愛してくださると知るまでは、「自分はふさわしいかふさわしくないか。恵みに値する私かどうか」などと自分と周囲の人間たちのことばかりを、ただ虚しく思い煩いつづけてしまうからです。それでは、いつまでたっても、神を知ることも信じることもできないからです。それまでは、いつまでたっても、神を知ることも信じることもできないからです。(3)それらは聖書によってはっきりと証言されており、救い主イエスによって、神は罪人を憐れんで救うからです。そのように救い主イエス・キリストのうちに神を知るなら、神に十分に信頼を寄せることができます。そうでなければ、神を知ることも、信じて十分に信頼を寄せて生きることも誰にも決してできません(テモテ手紙(1)1:12-16,『ジュネーブ信仰問答 問7-141542年)。さて、父ゼベダイを後に残して主イエスに従ってきたヤコブとヨハネ兄弟ですけれど、父親は後に残しながら、けれど母親は一緒に旅についてきていたことが後で分かります。後ろ盾や頼みの綱である権威者としては、その人が主イエスとの旅路に同行してくることには大いに差し障りがあります。けれど、一人の家族としてなら、主に従って生きる旅路を一緒に歩むことができるなら、それはお互いにとってとても幸いなことです。息子たちの新しい旅路に同行したあの母親はそれを自分自身で選び取ったのです。
39節、「イエスはそのまくらもとに立って、熱が引くように命じられると、熱は引き、女はすぐに起き上がって、彼らをもてなした」。汚れた悪霊たちも、「この人から出ていけ。立ち去れ」と救い主から命じられて、立ち去っていきました。義母を苦しめていた熱も、「熱よ引け」と命じられると、引いていきました。やがて湖の上では、「波よ風よ、鎮まれ」と命じられて、波も風もしんと鎮まりました。「波も風もこのお方に従うではないか」(ルカ福音書8:25と弟子たちは驚いて目を見張りました。やがて、この救い主イエスのもとにあらゆるものが膝を屈め、すべての舌がイエス・キリストは主であると告白し、栄光を父なる神に帰することになります(ピリピ手紙2:10-11参照)。主イエスに信頼し、主イエスにこそ聴き従って生きることが積み重なっていきます。まず、この私たち自身から。