2019年2月4日月曜日

2/3「主イエスにこそ聴き従う」ルカ3:21-22


                         みことば/2019,2,3(主日礼拝)  200
◎礼拝説教 ルカ福音書 3:21-22                       日本キリスト教会 上田教会
『救い主イエスにこそ
聴き従う』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
 3:21 さて、民衆がみなバプテスマを受けたとき、イエスもバプテスマを受けて祈っておられると、天が開けて、22 聖霊がはとのような姿をとってイエスの上に下り、そして天から声がした、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。            (ルカ福音書 3:21-22)

 9:28 これらのことを話された後、八日ほどたってから、イエスはペテロ、ヨハネ、ヤコブを連れて、祈るために山に登られた。29 祈っておられる間に、み顔の様が変り、み衣がまばゆいほどに白く輝いた。・・・・・・彼がこう言っている間に、雲がわき起って彼らをおおいはじめた。そしてその雲に囲まれたとき、彼らは恐れた。35 すると雲の中から声があった、「これはわたしの子、わたしの選んだ者である。これに聞け」。36 そして声が止んだとき、イエスがひとりだけになっておられた。   (ルカ福音書 9:28-36)

 まず21節。ここで、『救い主イエスご自身が洗礼を受けた』と聖書は報告します。洗礼(バプテスマ)は、主イエスを信じて生きようと決意した者たちがクリスチャンとされるための、その入門の儀式です。神ご自身であり、救い主である方が、どうしてわざわざ洗礼を受けなければならないのか。そこにどんな意味があるのか。身を低く屈め、へりくだって地上に降りて来られた救い主イエス・キリストは、『洗礼』を中身と実態のあるものとするために、神を信じて生きていこうとする私たちのために、わざわざ、ごく普通の生身の人間に手を引かれて、川の中に身を沈めておられます。
 今日読んだ箇所の直前の部分ですが、ヨハネは告げました。16節;「わたしは水でおまえたちにバプテスマを授けるが、わたしよりも力のあるかたが、おいでになる。わたしには、そのくつのひもを解く値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう」。キリストの教会は《水で》洗礼を授けます。そして、救い主イエスご自身が《聖霊と火で》洗礼を授けてくださる。私たち人間と教会が授けることができるのは、せいぜい、水によって洗礼を授けることに過ぎません。「特別な水、聖なる上等な、霊験あらたかな水などではなく、水道の蛇口をひねって出てくるはずの、どこにでもあるごく普通の水」によってです。しかもそれを用いて、それに重ねて、神さまご自身が聖霊と火によって良いことを成し遂げてくださる。例えば、キリスト教会の歴史のごく最初の頃、きびしい迫害の時代に多くの者たちがつまずいて、信仰を捨ててしまいました。伝道者たちも含めてです。ある人々が言い出しました、「私に洗礼を授けてくださった○○先生が信仰を捨ててしまった。じゃあ、私の、あの洗礼はどうなるだろう。もう1回だれが他の正しい伝道者に洗礼をやり直してもらったほうがいいだろうか」。それが大きな揉め事になり、何十年も議論がつづきました(『ドナトゥス論争』西暦314)。どういうふうに決着がついたと思いますか。もちろん、その後、自分に洗礼を授けてくれた牧師がつまずいてしまったとしても、そんなこととは何の関係もなく、その洗礼は十分な洗礼だったし、やり直しなど必要ありません。今日でも洗礼は、○○牧師の名前と働きによってではなく、「父と子と聖霊との御名によって」こそ授けられます。また、その洗礼式での祈りは、友達や親兄弟や○△さんがではなく、「主こそが、この1人の兄弟を恵みのもとへと招き入れてくださった」ことを感謝します。「どうか、この兄弟があなたの恵みの契約に誠実に応えて、自分自身の罪を悔い改め、信仰を言い表し、主に対する忠誠を心から誓い、そのように生きることができるようにさせてください」と主に向かってこそ、願い求めています。「私が、します」ではなく、「誰それさんが頼みの綱です」ということでもなく、「主よ、あなたが、させてください」と。洗礼を受け、クリスチャンとして生きてゆく。それは私たちの決断であることを越えて、なにしろ神ご自身の決断です。私たちの努力や働きであることを越えて、なによりまず第一に、生きておられます神ご自身の働きです。
  洗礼だけではありません。例えば、礼拝説教がそうです。キリストの教会の1つ1つの働きがそうです。すべての伝道者たちは精一杯にキリストの福音を宣べ伝えます。それに耳を傾ける者たちがいます。教会の頭であられるキリストこそが、人々に福音を信じさせることができるのです。ポイントは、ただのごく普通の水、ごく普通のどこにでもいるヨハネ、ごく普通のどこにでもある未熟で粗末な私たち人間の頭と口と手を用いること。洗礼、聖晩餐、礼拝説教と教え。兄弟姉妹たちの交わり。それぞれ、貧しさと愚かさを身にまとい、未熟で粗末でいたらない器がわざわざ用いられつづけています。そのようが善いらしいのです。そのほうが、かえって神さまの賢さを仰ぎやすいらしいのです。かえって、神さまの豊かさと力強さに目を向けやすいらしいのです。だって、なにしろ、『宣教の愚かさによって信じる者を救う』(コリント手紙(1)1:21と神さまが決断なさったからです。例えば教会の中で、家族同士やいつもの職場でも、誰かが間違ったことをしてしまうとき、それに対してどうすればいいでしょう。その取り扱いは2つです。1つは、大目に見てゆるしてあげること。「だって人間だもの」と相田みつおさんの口癖を真似しながら。人間にすぎない私たちは度々うっかりして間違ったことをしてしまうからです。2つ目は、大目に見てゆるしながらも、その人にあなたがちゃんと注意してあげることです。「○○さん、それは間違っていますし、悪いことです。これからは、してはいけませんよ」と。教会の中でそうなら、自分の家の中でも道端でも、誰に対してもこれをします。(1)大目に見てゆるしてあげること。(2)ゆるしながらも、「それは間違っています。してはいけませんよ」と注意をしてあげること。もう大人なので、それくらいのことはできます。よろしくお願いします。
 主イエスご自身が洗礼を受けてくださったことで、この入門儀式に神ご自身からの生命が宿り、太い背骨が通されました。21-22節です。「さて、民衆がみなバプテスマを受けたとき、イエスもバプテスマを受けて祈っておられると、天が開けて、聖霊がはとのような姿をとってイエスの上に下り、そして天から声がした、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。天が開けて、父なる神の御もとから聖霊が目に見える姿で主イエスの上にくださったこと。そして、父なる神が主イエスを名指しして、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」と仰ったこと。これが、一番大事です。あまり大事なので、しばらく後で、もう一回念を押されました。同じルカ福音書の935節です。主イエスが3人の弟子たちと山に登り、そこで主イエスの姿が変わりました。その顔は太陽のように輝き、その衣は光のように白くなって。すると雲の中から父なる神さまからの御声がありました、「これはわたしの子、わたしの選んだ者である。これに聞け」。そして声が止んだとき、イエスがひとりだけになっておられた」。恐れない私たちにしていただくためには救い主イエスに目を凝らし、イエスにこそよくよく聞き、聴いたことの一つ一つを腹に据えねばなりません。「イエスにこそ聴け」と2回も念を押されました。すッごく大事だ ということです。御父が主イエスを指差して、『これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け』と私共に命じておられる。これこそ洗礼を受けようとする者、すでに洗礼を受けて信じる生活を積み重ねつづける者の、最優先の、最重要の弁えです。主イエスこそ御父の愛する者であり、御父の御心にかなう者である。だから、主イエスにこそ私たちは聞く。イエスにこそ、私たちは聴き従って生きると。
  主の祈りの末尾で、「国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり」と天の御父に信頼を寄せ、ほめたたえています。つまり、「国と権力と栄光は無制限に、ただただ御父だけのものですから」と。また、御父が主イエスを指差して、『これは私の愛する子、私の心にかなう者である。これに聞け』と私共に命じた。「イエスに聴く」。それはイエスにも聴き、それと並べて、それに負けず劣らず他の誰彼にも聞くし、他の様々な声や意見にも聴き従うということではありません。例えば、第二次世界大戦中の日本とドイツで、「イエスにも聴き、それと並べて、それに負けず劣らず他の誰彼にも聞くし、聴き従う」という大失敗と嘘偽りがまかり通ってしまいました。イエスにも聞くけど、アドルフ・ヒットラーにも天皇陛下様にも、自分自身の腹の虫にもハイハイと従う。その場その場の空気も読み、空気にも負けず劣らずに聴き従う。いいえ それは嘘っ八だし、大間違い。それではイエスに聴くことになりません。しかも闇が地を覆い、死の陰の谷に私たちは住んでいます。世俗化の波がキリストの教会を覆い尽くそうとしています。兄弟姉妹たち。教会の世俗化とは、主イエスに聴き従うことを私たちがすっかり止めてしまうことです。神さまへの信頼と従順がすっかり骨抜きにされ、ただただ口先だけの絵空事にされてしまうことです。この私たち自身のことです。例えば使徒行伝3-4章、足の不自由な人を神殿の入り口で癒してあげたあと、主イエスの弟子たちは議会に連れていかれて厳しく脅かされました。彼らは答えました。「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい」、さらに少し後でも「人間に従うよりは、神に従うべきである」(使徒4:19,5:29)と。同じく主イエスの弟子とされた私たちも、この同じ1つの問いかけを一生涯、突きつけられつづけます。神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが神の前に正しいかどうか、判断してもらいたいと。しかも、「どの僕でも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方を疎んじるからである(ルカ16:13)。誰を自分の主人として、この私たちは生きるのでしょうか。
 私たちに語りかける声が耳元にいつもありました。「イエスは主であり、イエスを主とする私であり、生きるにも死ぬにも、私は私のものではなく、私の真実な救い主イエス・キリストのものである(コリント手紙(1)12:3,ヨハネ13:13,ローマ手紙10:9)と、あなたは言っていたね。まるで口癖のように言っていたじゃないか。そのあなたが、ここで、こんなふうに考え、そんな態度を取り、兄弟や大切な家族に対してそんな物の言い方をするのか。と私たちに語りかける声がありました。「イエスは主である。他のナニモノをも主とはしない」と口でも心でも認めているはずの、そのあなたが、争ったり妬んだり、人を軽々しく裁いたり、退けている。そのあなたが卑屈にいじけている。そのあなたが、ふさわしいとかふさわしくないとか、大きいとか小さいとか賢いとか愚かだとか品定めをし、また品定めをされることに甘んじているのか。そのあなたが、「~にこう思われている。~と人から見られてしまう。人様や世間様にどう思われるか」などと簡単に揺さぶられ、すっかり我を忘れ、神さまを忘れてしまっている。《イエスこそ私の主》と言っているくせに、そのあなたが「なにしろ私の考えは。私の立場は。私の誇りと自尊心は」と言い立てている。イエスは主なりと魂に刻んだあなたの信仰は、あれは、どこへ消えて無くなったのか。朝も昼も晩も、そうやって私たちに語りかける声があります。呼びかけつづける声があります。例えば洗礼を受けてまだ間もない若い嫁が、何十年も神さまを信じて来たはずの義母に向かって、こう問いかけます;「お母さん、主イエスはこの部屋にいますか。それとも居ないんですか、どっちです?」と。もし救い主が本当に居られるなら、どうしてそんなに心配したり、くよくよしたり、アタフタオロオロしつづけているんですか。本当は、もう信じていないんですか、と(ルカ福音書23:34,ローマ手紙14:15,使徒9:4。あのお独りの方、救い主イエス・キリストが復活し、天の御父の右に座っておられるとは、このことでした。水による洗礼だけでなく、聖霊と火による洗礼を授けられ、日毎に悔い改め、信仰を抱えて生きている、信仰によって抱えられて生きているとは、このことでした。高い山や丘のようにうぬぼれて他人を見下していた私を押し戻すものがあり、薄暗い谷間のように卑屈に身を屈めていた私を高く持ち上げてくれるものがあります。顔を上げさせ、目を見開かせ、小さく縮こまっていた私の背筋をピンと伸ばさせてくれるものがあります。深々と、晴々として息を吸わせ、吐かせてくれるものがあります。イエスは主であり、イエスを主とする私たちであり、生きるにも死ぬにも、私は私のものではなく、私たちの真実な救い主イエス・キリストのものである。イエスこそ主である。だからこそ他のナニモノをも、私たちは、二度と決して自分の主人とはいたしません。だから私たちは、朝も昼も晩も、どこに誰と一緒にいても、自分自身に向かってこう問いかけます;「お母さん、主イエスはこの部屋にいますか(*)。それとも居ないんですか。主イエスをこそ信じて、このお独りの方に聴き従って生きていこうと決めているんですか、それとも、そうではないんですか。あなたは、どっちです?」。


         【補足/この部屋に主イエスは】(*)
            名も知られないあるクリスチャンは、わが家に家族と共にいて、
あるいは独りきりのときにも、こうつぶやきました。
「キリストはこの家の主人であり、
いつもの食卓の目に見えないお客であり、
私たちの何気ない会話やお喋りに黙って耳を傾けつづけておられる方です」
と。そういう素敵な木彫りの額を茶の間の壁に飾っているだけではなく、その言葉を眺める度毎に、「ああ本当にそうだなあ。それなのに、この私は」と心を痛めたり、慰められたり、叱られたり励まされたりしつづけているクリスチャンとその家族はなんと幸いなことでしょう。


         (**)もう何年も前に、友だちの家に遊びに行って、そこでこの素敵な木彫りの壁掛けを見つけました。「本当にそうだなあ」ととても嬉しかったので、ずっと覚えています。