2019年2月12日火曜日

2/10「石をパンに変えてみせろ」ルカ4:1-13


                       みことば/2019,2,10(主日礼拝)  201
◎礼拝説教 ルカ福音書 4:1-4                        日本キリスト教会 上田教会
『石をパンに変えてみせろ』
                          荒野の誘惑. 1

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

4:1 さて、イエスは聖霊に満ちてヨルダン川から帰り、2 荒野を四十日のあいだ御霊にひきまわされて、悪魔の試みにあわれた。そのあいだ何も食べず、その日数がつきると、空腹になられた。3 そこで悪魔が言った、「もしあなたが神の子であるなら、この石に、パンになれと命じてごらんなさい」。4 イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」。5 それから、悪魔はイエスを高い所へ連れて行き、またたくまに世界のすべての国々を見せて6 言った、「これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげてよいのですから。7 それで、もしあなたがわたしの前にひざまずくなら、これを全部あなたのものにしてあげましょう」。8 イエスは答えて言われた、「『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。9 それから悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、宮の頂上に立たせて言った、「もしあなたが神の子であるなら、ここから下へ飛びおりてごらんなさい。10 『神はあなたのために、御使たちに命じてあなたを守らせるであろう』とあり、11 また、『あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』とも書いてあります」。12 イエスは答えて言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』と言われている」。13 悪魔はあらゆる試みをしつくして、一時イエスを離れた。     (ルカ福音書 4:1-13)

 ヨルダン川で洗礼を受けた後、救い主イエスは荒れ野を4040夜さまよい歩き、そこでサタンから誘惑をお受けになりました。三つの誘惑ですから、それらを三回に分けて大事に読み味わっていきます。今日は、その第一回目。主イエスに対して、「あなたは私の愛する子、わたしの心にかなう者である」(3:22)と、まず父なる神ご自身からの証言が鳴り響きました。つづいて直ちに、それをあざ笑うかのように悪魔が問いかけます;「もし、あなたが神の子であるなら」(3,9)と。このとき、そこには悪魔と主イエスしかいませんでした。悪魔と主イエスしか、この出来事を知りません。それなのに、こんなにていねいに報告されているのは、主イエスご自身が「あのとき、まず彼はこう言って、すると私は」などと弟子たちに直々に伝えてくださったからです。あの弟子たちと、そして私たちのために。
  ところで、あなたは神さまを信じているのですか? かなり本気で信じているんですか。それとも、だいたいなんとなく。アレコレといくつか信じたり信頼を寄せているモノがあり、その中で、その何番目くらいで? ――こんなことを言われて腹が立つかも知れません。勘弁してください。けれど、「この私は神様に信頼している。けれどそれは何番目くらいにだろうか」と、つくづく思いめぐらせてみましょう。きびしい試練や悩みにさらされる日々には特に、そうする価値があります。もし、『神がおられます。心の中にあるだけでなく、そのお方が生きて働いていてくださる』と知るならば、同時に私たちは、『悪魔もまた在る。心の中で漠然と思い描いたり想像するだけでなく、現実に、悪魔もまた生きて働いている』と認めないわけにはいかないでしょう。悪魔を絵空事とし、単なる想像上の産物としてしまうなら、同時にまったく、あなたは神さまご自身をも絵空事としてしまうでしょう。悪魔は在ります。決してあなどってはなりません。あの彼はとてもずる賢く、手強いのです。やがて間もなく、あなたが悪魔の策略の中にもてあそばれ、手厳しく誘惑を受けるときが来ます。しかも何度も繰り返して。もしかしたら、もう何年も何年も、ずっとそうなのかも知れません。そのとき、「なぜ、選りにも選ってこの私に」と意外なことのように驚いてはなりません。救い主イエスご自身が誘惑を受けたのです。主に従って日々を生きる私たちも、また悪魔の誘惑にさらされます。恐るべき悪魔のワナと悪だくみにからめとられそうになります。嵐の日々がすぐ目の前に迫ってきているからです。強い風が吹き渡り、川の水があふれて、あなたの家に今にも押し寄せようとしています。本当のことですよ。だからこそ、「目を覚ましていなさい。目覚めているためにこそ、必死に一途に祈れ。あなたの体も心も弱いのだから。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、あなたは神の武具を身に着けなさい」と命じられます(マタイ26:41,ルカ22:31,エペソ手紙6:11-,ヤコブ手紙4:7
  さて、救い主イエスに対するその最初の誘惑です。3節。「もしあなたが神の子であるなら、この石にパンになれと命じてごらんなさい」。父なる神さまは私たちに何が必要なのかをよく知っていてくださり、その必要なものの一つ一つを用意して、贈り与えてくださいます(マタイ,6:11,31-,121:1)。私たちのための助けと備えは、この慈しみの神さまから来ます。だからこそ悪魔の攻撃は、まず第一に、神へのこうした信頼に向けられます。『神さまに信頼できない私たち』にさせたいのです。「何に聞き従い、誰に信頼したらいいだろう。いったい何を頼りとできるだろうか」と、悪魔は私たちに右往左往させたいのです。とても苦しくて辛い日々に、ぜひとも祈るべきその時に、けれど「苦しくて苦しくて、とても祈ってなどいられない。それどころじゃない」などと私たちに言わせたいのです。私たちに襲いかかろうとして、悪魔はまず初めに、私たちの主人に襲いかかりました。つまり救い主イエスに。主イエスは荒れ野を4040夜引き回され、何も食べず、空腹を覚えておられました。飢え渇いて疲れ果て、心も体もすっかり弱ったところで、悪魔はささやきかけました。「腹が減って腹が減って、苦しくて仕方がないだろう。え、じゃあ、ここに転がっている石をパンに変えたらどうだ」と。
 4,8,12節「~と書いてある。~と言われている」。主イエスは悪魔の攻撃に抵抗して、『聖書にこう書いてある。聖書は、こう語っている』と断固としておっしゃいます。それこそが彼の唯一最善の武器であり、同時に、この私たち自身のための最善の武具です。例えば、「新聞やテレビでこう言っていた」。けれど新聞もテレビも、学校の教科書さえ間違うことはあります。「立派でしっかりしている△△先生がこう言っていた。だから」。いいえ、立派でしっかりしたとても物知りの大先生であっても間違うことがあります。それらは人間の言葉にすぎず、その立派そうに見える、頼りがいのあるように見える格別な人物もまた、たかだか人間にすぎないのです。けれど、「聖書がこう語っている」。それだけは別格です(ヨハネ5:39-40,20:30-31,テモテ(2)3:15-17コリント(1)15:3-。誘惑と試練に立ち向かうための最善最大の、有効な武具は、神の言葉であり、神の言葉に一途に信頼を寄せ、本気になって聞き従うことです。主イエスはそれをお用いになりました。この私たちも用いたいのです。だって、せっかく神さまを信じて生きはじめたのですから。せっかく、聖書を1人1冊ずつ持っている。本棚のどこかに並べてあるだけじゃなく、その言葉を聞き届けつづけてきたのですから。
 けれどなぜ、主イエスは悪魔から誘惑を受けたのでしょうか? 悪魔には、救い主を誘惑する必要がありました。それだけではありません。救い主には、悪魔の誘惑を受け、それを受けとめて、打ち破る必要があったのです。なぜならこの救い主は、罪人を救うために世に来られたのですから(テモテ手紙(1)1:15)。救い主イエスを信じる人々よ。考えてみていただきたいのです。もし仮に、正しい者や、見所のある者や力強く賢い者たちを救うためになら、もっと簡単で手軽なやり方ができたでしょう。もしそうなら、わざわざ地上に降りてくる必要もなく、低く貧しく身を屈める必要もなく、恥と苦しみの只中で十字架のむごたらしい死を味わう必要もなかったことでしょう。けれど兄弟たち。私たちを救うためには、それらがどうしても必要でした。救い主イエス・キリストは、罪人を救うために世に来られました。もっぱら、そのためにこそ来てくださったのです。弱い者、貧しい者、ついつい神に背き、敵対さえしてしまう愚かでかたくなな者たちのために、それら罪深い者たちをあわれむ神です(ローマ手紙5:5-,コリント手紙(1)1:25-)。神さまが私たちを愛する愛し方は、この世界の普通一般のやり方や考え方とはずいぶん違っています。この世界では、多くの場合、取り柄や特技や見所があって、そこではじめて人は愛され、受け入れられ、認められます。ほとんどの場合がそうです。子供の頃からそういう扱いを受けてきた私たちには、そうではなく、まったく違うやり方で愛してくださる神だといくら説明しても、なかなか受け入れられません。しかも、ほとんどの人たちは、そんな愛された方や受け入れられ方はあまり好きではないのです。だから今まで生きてきた通りに、「見所や良い働きがあって、だから認められ、だから受け入れられている」と思いたいのです。・・・・・・兄弟姉妹たち。神のあわれみを受け取るには、私たちはあまりに自惚れが強すぎます。神さまの慈しみ深さを喜び祝うには、私たちは自尊心が高すぎます。生きて働いておられます神ご自身の力強さを知るには、私たちは、自分自身と周囲の人間たちのことで心が一杯で、そわそわキョロキョロしつづけて、あまりに気分散漫すぎるのです。
  さてもう一度、パンのことを語りましょう。「人はパンだけで生きるのではない」(ルカ4:4,申命記8:3)と、主イエスは石をパンに変えることを拒みました。パンだけで生きるのではない。それはどういう意味でしょう? もちろん誰一人も、一切れのパンもなしに、仙人のように雲や霞を食べて生きられるわけではありませんね。私たちは現実には、主の口から恵みによって与えられる一つ一つの言葉によって、そしてまた同時に、主が恵みによって与えてくださるパンによっても、生きてきました(ルカ11:3,出エジプト記16:1-,箴言30:7-9。言葉だけではなく、パンも水も肉も、不足なく十二分に与えられてきました。これまでもそうでしたし、今もこれからもそうです。主の口から出る言葉と、主の御手から差し出されるパンと、その両方ともによって、私たちは生きる。それがこの箇所と申命記8:3-の真意です。石をパンに変えること。ほか様々な苦難や厄介事を解決してくれるようにと私たちが神にアレコレ願い求めることも、正しい良いことです。やがて救い主イエスは、石どころか、ご自分の体を『天からの恵みのパン』として私たちに贈り与えてくださるのですから。十字架上の苦しみと死をもって、格別な生命のパンを贈り与えてくださるのですから(ヨハネ6:47-58)。パンに変えることはOKです。けれど『近道をして、ここで手軽に』ではなく、『あの時に、あの丘の上で、あの十字架の木の上で。救い主のあの苦しみと死をもって』。

  一つのことに目を留めましょう。今日の報告の冒頭部分です。1-2節、「さて、イエスは聖霊に満ちてヨルダン川から帰り、荒野を四十日のあいだ御霊にひきまわされて、悪魔の試みにあわれた」。主イエスは聖霊に導かれて、ヨルダン川から帰り、聖霊なる神さまに引き回されて荒れ野をさまよいました。つまり荒野を引き回されたのは、悪魔の仕業や悪だくみではなく、神の御霊によってでした。ときどき私たちは誤解してしまいます。「もし聖霊なる神さまが私たちを導いてくださっており、神の恵みと支えのもとに置かれているとするならば、苦しいことや困ったことは何も起こらないはずだ。乏しいことも恐れも、何一つないはずじゃなかったのか」と。苦しむ友だちからこう問われたとき、あなたは何と答えることができるでしょう? あなたの息子や娘がこう問うとき、あるいはあなた自身が苦しみと悩みの只中で自分自身にこう問いかけるときに、あなたは何と答えることが出来るでしょう?
 苦しみ悩む日々は確かにあります。信仰を持っていてもそうでなくても、同じように苦難と災いが襲いかかります。豊かに満ち足りるときがあり、乏しい日々もあります。喜びと幸いばかりでなく、悩みも辛さも次々とあります。例えば神ご自身が、パウロに苦しくて苦しくて、とても痛くてたまらないトゲを刺しました。取り除けてください取り除けてください、どうかお願いします、取り除けてくださいと彼は30回も300万回も祈り求めつづけました。けれど、トゲは抜いていただけませんでした。なぜでしょう。分かりません。それでもなおあの彼は不思議な仕方で、喜びに満たされました。とうていありえない仕方で、ついにとうとう習い覚えたのでした。「ところが、主が言われた、『わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる』。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである」(コリント手紙(2)12:9-10。弱いときにこそ強い。つまり、私たちは自分自身が強すぎた間、神さまの恵みを門前払いしつづけていました。賢すぎた間、自分とその腹の思いこそが主人でありつづけて、神ご自身の働きを押しのけ、棚上げし、邪魔しつづけていました。重い病気にかかり、困難な状況に直面して頭を抱えるときに、むしろ、そこで主なる神に願い求めましょう;「主よ、この試練と悩みを取り除けてください。けれどもし、今しばらく苦しまねばならないのでしたら、この試練に耐えることができるように、私を守ってください。どうぞ、私をお支えください。そのように願い求めることができるほどに、どうか私たちを弱くしてください。あなたご自身の強さ、賢さ、豊かさに信頼することができるほどに、どうぞ、私たちを弱く愚かに乏しくしてください」と。
兄弟姉妹たち。主が私たちを導いてくださったそれぞれの荒野の旅を思い起こしましょう。荒野を旅するようにして生きてきた日々を。たびたび飢え渇きました。乏しさに悩みました。さまざまな恐れと疑いに捕われました。なお続くこれからの旅路も、まったくそのようです。主の口から出る一つ一つの言葉によって生き、天からの恵みのパンによって養われつづけてきました。『天からの恵みの~』ではないパンなど、実は一かけらもありませんでした。どうぞご覧ください。私たちの手の中には、天からの恵みの米と味噌と醤油があり、天からの恵みの兄弟と隣人と大切な大切な家族があり、天からの恵みの職場と居場所とを、慈しみ深い神さまからの憐れみによって贈り与えられています。そして一日分ずつの、天からの恵みの生命と寿命を。だからこそ、ご覧なさい。目を凝らして、よくよく見てご覧なさい。私たちのまとう着物は古びず、私たちの足もほんの少しも腫れていません(申命記8:4)。なんという恵み、なんという喜びでしょう。


《礼拝の予告》
2月17日 権威と繁栄を」        ルカ4:5-8
             24日 「神を試みてはならない」  ルカ4:9-13