2019年2月19日火曜日

2/17「権力と栄華を」ルカ4:5-8,申命記8:17-18

                      みことば/2019,2,17(主日礼拝)  202
◎礼拝説教 ルカ福音書 4:5-8,申命記 8:17-18     日本キリスト教会 上田教会
『権力と栄華を』
~荒野の誘惑.2~


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC


4:5 それから、悪魔はイエスを高い所へ連れて行き、またたくまに世界のすべての国々を見せて6 言った、「これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげてよいのですから。7 それで、もしあなたがわたしの前にひざまずくなら、これを全部あなたのものにしてあげましょう」。8 イエスは答えて言われた、「『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。(ルカ福音書 4:5-8)

8:17 あなたは心のうちに『自分の力と自分の手の働きで、わたしはこの富を得た』と言ってはならない。18 あなたはあなたの神、主を覚えなければならない。主はあなたの先祖たちに誓われた契約を今日のように行うために、あなたに富を得る力を与えられるからである。(申命記 8:17-18)


 救い主イエスが荒野で悪魔から受けた2つ目の誘惑です。悪魔は、世界の国々を見せて、こう誘います。6-7節、「これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげてよいのですから。それで、もしあなたがわたしの前にひざまずくなら、これを全部あなたのものにしてあげましょう」と。この世界には、さまざまな種類の権力と繁栄とがあります。とても大きな権力や驚き呆れるほどの贅沢で華やかな繁栄があり、また、ささやかで小さな小さな権力と繁栄もあるでしょうね。一国の大統領や王様が握るような巨大な権力や繁栄があります。また、ごくささやかな権力と繁栄があります。どんなに小規模な集団やサークルの中にもボスがおり、小さな子供たちの世界にも、例えば保育所や幼稚園の子供たちの中でさえ、彼らなりの彼らのためのこじんまりとした、ささやかで小さな権力と繁栄があります。驚くべきことです。私たちはこうして権力と繁栄を望む世界の只中に生きており、そういう意識は、職場にも、一軒の家の中にも、そしてキリストの教会の現実的な営みの中にも忍び込んできます。さまざまな豊かさがあり、美しいものがあり、多くの楽しみや喜びをここで受け取ることもできました。その一方で、私たちのこの世界には罪と悲惨もあり、片隅へ片隅へと押しのけられて惨めさや心細さを噛みしめる小さな人々も沢山いるのです。悪魔の眼差しは、けれども、この世界が背負っている罪深さや悲惨さには向けられません。目に入らないのかも知れません。見て見ぬふりをしているのかも知れません。
 けれど、兄弟姉妹たち。この世界の権力と繁栄とは悪魔に任されているのでしょうか。本当に? もしそうであるならば、私たちは、この世界で豊かさや喜びを手にしようとするなら、よい評判や地位をえたいと願うならば、悪魔に魂を売らなければならないことになります。あるいは妥協して、ほんの少しは、悪魔やほかの様々なものを拝むことや、ひれ伏して誰かの言いなりにされたり、人の顔色をうかがってビクビクすることも、仕方がないと我慢しなければならないですね。そうでしょうか? いいえ、決してそうではありません。なぜなら私たちの救い主は、世界とこの私たちの罪を取り除くために来られました(マタイ福音書1:21。このお独りの方は、やがて私たちをご自分のものとし、私たちの主となってくださいました。けれど、悪魔にひれ伏し拝むことによってではなく、十字架の苦しみと死をもって、死から新しい生命に復活することによって、悪魔の支配を退け、打ち倒してです。だからこそ、キリストの教会よ。主イエスの弟子たちよ。ここにも他のどこでも、小さな親分たちや小さな小さな子分たちを作ってはいけません。誰も、一人を持ち上げてほかの一人をないがしろにし、高ぶったりいじけたり、恥じたり恥じ入らせたりしてはなりません。そうそうもちろん、あなたは今ではとても優れているし、とても強くて大きい。なかなか賢い。いろんなことを習い覚えて、たくさんのことを知っています。けれど、あなたをほかの者たちよりも優れた者としたのは誰です。いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もし、神さまからいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして、高ぶったりいじけたりできるのですか(コリント手紙(1)4:6-。「そっちは上座。下々の者はこっち」という一見へりくだっているように聞こえる言い方に、その都度その都度目くじらを立ててきました。それは、とても悪い考え方だからです。ただ単に座席やイスを格付けするだけではなく、人間そのものを互いに格付けし、値踏みしあっています。「ご立派な上等の者たち。中くらいの者。レベルも格式も低い下々の者たち」というふうに、たかだか人間にすぎない者たち同士で互いに見上げたり見下げたりするのは愚かなだけでなく、あまりに俗っぽくて生臭いだけではなく、なにしろ主イエスの福音に背いています。私たちの主は「仕えられるためではなく仕えるために来た」「誰でも偉くなりたい者は皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は皆のしもべになりなさい」とおっしゃったではありませんか。「自分を低くして、この子供のようになる人が天の国でいちばん偉い。このような一人の子供を受け入れる者は私を受け入れている」とおっしゃったではありませんか。「よく聞きなさい。心を入れ替えて幼な子のようにならなければ、天国に入ることはできない」とおっしゃったではありませんか(マタイ福音書20:26-,18:3-と。例えば牧師や長老や執事は、任職式の際に、「(他の誰でもなく)主イエスこそがこの務めに召してくださった」と確信するのかと問い、彼らは「はい」と答えました。だから、他の誰のためでもなく誰の考えや意見に従ってでもなく、ただただ主イエスの御心にかなう歩みをしようと腹を据えました。もちろんそれは具体的ないつもの一つ一つの判断です。例えば、「うちの教会の牧師がこう言う。それで私たちは」。それはとんでもない大間違いです。「教会員の皆がこう言う。だから私は」。それも間違っています。たとえ牧師や長老が「こうだ。こうやりたい」と強く主張しても、熱心に勧めても、それが主の御心にかなうことなら従う。もし御心にかなわないと分かったならば、決して従ってはなりません。皆が「こうだ。こうしたい」と言っても、それが主の御心にかなうなら従う。かなわないなら、「いいえ。違います」とたとえたった一人でも反対しましょう。誰も皆、生身の人間にすぎないからです。御心にかなう正しいことを言うときもあれば、はなはだしく主に背く悪いことを心に思うこともあります。もちろん。だから自分や誰彼がぜひしたいと思っても、主の御心にかなわないなら、それをしてはいけない。気が進まなくても渋々嫌々でも、それが御心にかなったことなら、それをすべきです。難しいことですし、苦しいことです。でも、ぜひそうありたいと願い求めて生きる価値がある。執事や牧師や長老の腹の据え方であるだけでなく、これは一個のクリスチャンの腹の据え方です。教会の中だけでなく、家に居ても学校にいても職場でも。『主の祈り』に含まれる六つの願いのうち最初の三つは神さまご自身についての願い、残りの三つは私たち自身について。その最初の三つの願いが私たちの腹の据え方を方向づけます。なにしろ、「私が願うことでなく、他の誰彼の希望や願いどおりではなく、むしろただ天の父の御心こそがこの地上になされますように。私の国ではなく、他の誰彼の国でもなく、天の父の御国こそが来ますように」と願い求めている私たちですから。なにしろ、「私が尊敬されたりあがめられるのでなく、他の誰彼が誉めたたえられるのでもなく、天の父の御名をこそあがめ、そこに信頼と感謝を寄せる私たちであらせてください」と願う私たちだったはずです。地上のボスや目の前の主人の言いなりにされるとき、強い者や大勢の声に押し流されてゆくとき、「天に主人がおられる」ことは片隅に押しのけられています。「二人また三人が集まるとき、私もその中にいる」という主の約束は踏みつけにされています(コロサイ手紙4:1, マタイ18:20)
 それぞれの、荒野の旅を思い起こしましょう。荒野を旅するように生きてきた日々を。悩みの蛇に咬まれたり、トゲに刺されたりしながら(民数記21:4-9,コリント手紙(2)12:7-11参照)、たびたび飢え渇きました。乏しさに悩みました。さまざまな恐れに捕われました。私たちは、それぞれに豊かさを願い、喜びやよい評判や地位の向上を求めました。そのために努力もしてきました。数的・物質的な成長や拡大をも私たちは願います。もちろん、それは願っても良いし、求めてもいいのです。それでも、それら一切は悪魔の手にゆだねられているのではありません。私たちの働きと努力いかんに掛かっているのでもありません。どこかのご立派そうな誰かの手に握られているのでもなく、主イエスご自身こそがその手に握っていてくださる。ですから私たちは、悪魔や力を持つ様々なものにひれ伏し、頼みとするのでもなく、「自分次第。最後の最後は、結局はやっぱり自分が頼りだ」というのでもなく、主にこそひれ伏し、主イエスご自身を頼みとします。主への信頼と従順をもってこそ、私たちの幸いを願い求めます。こう書かれているからです;「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられる」(マタイ福音書6:33。ほか一切は添えて与えられる。皿の上の肉やハンバーグの脇に添えてある人参やポテトフライのように。焼き魚の脇に添えてある大根おろしのようにです。なにしろ私たちの天の御父は、これらのものが皆私たちに必要なことをよくよく知っていてくださり、ぜひ与えたいと願い、備えていてくださるのですから。
 例えば子供たちは、今の社会がとても不安定な危うい土台の上に築かれていることを見て取って、それで、がむしゃらに必死に受験勉強に励んでいるでしょうか。学歴や成績の優秀さやさまざまな能力、特技、取り柄こそが自分を最後のところで支えてくれることを期待して、それで、不安に思いながら恐れながら、励んでいるのでしょうか。例えば年老いたものたちは、だんだんと目がかすみ、足腰が弱り、体力が衰えてゆくことを嘆き恐れているでしょうか。体の弱い人々は、「よい医者とよい薬さえあれば」と見回しているでしょうか。あるいは私たち自身は? 実は、同じ一つのことが問われています。私たちは、いったい何を支えとして、なにを頼みの綱として、日々を心強く生きることが出来るだろうか。何があれば十分だろうか、と。

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 今日ご一緒に読んだもう一つの箇所は、申命記8:17-18でした。「あなたは心のうちに『自分の力と自分の手の働きで、わたしはこの富を得た』と言ってはならない。あなたはあなたの神、主を覚えなければならない。主はあなたの先祖たちに誓われた契約を今日のように行うために、あなたに富を得る力を与えられるからである」。神さまが私たちを守っていてくださることも心強く支えてくださることも、それらはごく簡単に、当たり前のようになってしまいます。『喉もと過ぐれば熱さを忘るる』と昔の人は言いました。辛かったことや苦しかったことをすぐに忘れてしまうだけではなく、喜びも感謝も驚きも、私たちはすぐに簡単に忘れてしまうのです。申命記8:17、「自分の力と手の働きでこの富を築いた、などと考えてはならない。むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい。富を築く力をあなたに与えられたのは主であり、主が先祖に誓われた契約を果たして、今日のようにしてくださったのである」。そして同じ8:10、「あなたは食べて満足し、良い土地を与えてくださったことを思って、あなたの神、主をたたえなさい」。この戒めの言葉は、聖書の信仰に生きる人々のお茶の間の食卓テーブルの祈りとされました。私たちも、これを自分の家の茶の間のいつもの食卓テーブルに置きたいのです。冷蔵庫のドアにも貼っておきたいのです。十分な食事をして満ち足りたときに、主を思いたい。お茶を飲んで、暖かい家でくつろいでいるときに主を思いたい。毎月の給料がいつも通りに通帳に振り込まれているのを見たとき、そこで主を思いたい。家族がいつものように平穏に安心して暮らしているのを眺めて、そこで、主なる神さまを思いたい。
 だからこそ、主イエスはおっしゃいました;「あなたの神である主を拝み、ただ主にこそ仕えよ」(ルカ福音書4:8,申命記6:13,10:20)。拝むことも仕えることも、それは第一に礼拝を意味します。なにをおいても、その一回の礼拝です。しかも、拝むことは『それに必要なだけ十分に信頼を寄せ、よくよく聞き従い、それをこそ頼みの綱とする』ことです。主に仕えることも、主を拝むことも、一回の祈りから始まり、一回の礼拝から、ここから始まります。主に仕え、主を頼みの綱とする生活は月曜日から土曜日まで、自由に、のびやかに広がってゆくでしょう。いつでも、誰と一緒のときにも、どこで何をしているときにも何もしていなくたって、そこでそのようにして主に仕えている私たちです。見なさい。あなたには天に主人がおられるのです(コロサイ手紙3:22-。こう祈り求めましょう。「主よ、どうか私たちの手の働きを確かなものとしてください」(90:17)。私たちの手の働き。あなたはどんな手を持っていますか。私たちの手が大きくても小さくても、強くても弱くても、私たちが賢くても愚かであっても、忍耐深くても疲れやすくても。それでも何しろ、主なる神さまこそが確かなものとしてくださって、主ご自身が喜ばしく用いてくださるならば。なにしろ、ただ主の恵みと真実さによってこそ、私たちを持ち運んでいってくださるならば。ぜひ、そうであっていただきたいのです。しかも、必ずきっとそうしてくださる、と私たちも確信しているからです。