2018年5月8日火曜日

5/6「バラバがゆるされた」マタイ27:11-26


             みことば/2018,5,6(復活節第6主日の礼拝)  161
◎礼拝説教 マタイ福音書 27:11-26                日本キリスト教会 上田教会
『バラバがゆるされた』
 
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
 
27:11 さて、イエスは総督の前に立たれた。すると総督はイエスに尋ねて言った、「あなたがユダヤ人の王であるか」。イエスは「そのとおりである」と言われた。12 しかし、祭司長、長老たちが訴えている間、イエスはひと言もお答えにならなかった。13 するとピラトは言った、「あんなにまで次々に、あなたに不利な証言を立てているのが、あなたには聞えないのか」。14 しかし、総督が非常に不思議に思ったほどに、イエスは何を言われても、ひと言もお答えにならなかった。15 さて、祭のたびごとに、総督は群衆が願い出る囚人ひとりを、ゆるしてやる慣例になっていた。16 ときに、バラバという評判の囚人がいた。17 それで、彼らが集まったとき、ピラトは言った、「おまえたちは、だれをゆるしてほしいのか。バラバか、それとも、キリストといわれるイエスか」。18 彼らがイエスを引きわたしたのは、ねたみのためであることが、ピラトにはよくわかっていたからである。19 また、ピラトが裁判の席についていたとき、その妻が人を彼のもとにつかわして、「あの義人には関係しないでください。わたしはきょう夢で、あの人のためにさんざん苦しみましたから」と言わせた。20 しかし、祭司長、長老たちは、バラバをゆるして、イエスを殺してもらうようにと、群衆を説き伏せた。21 総督は彼らにむかって言った、「ふたりのうち、どちらをゆるしてほしいのか」。彼らは「バラバの方を」と言った。22 ピラトは言った、「それではキリストといわれるイエスは、どうしたらよいか」。彼らはいっせいに「十字架につけよ」と言った。23 しかし、ピラトは言った、「あの人は、いったい、どんな悪事をしたのか」。すると彼らはいっそう激しく叫んで、「十字架につけよ」と言った。24 ピラトは手のつけようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の前で手を洗って言った、「この人の血について、わたしには責任がない。おまえたちが自分で始末をするがよい」。25 すると、民衆全体が答えて言った、「その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい」。26 そこで、ピラトはバラバをゆるしてやり、イエスをむち打ったのち、十字架につけるために引きわたした。   (マタイ福音書 27:11-26)
 
 
 救い主イエス・キリストが裁判にかけられ、異邦人の手に引き渡され、十字架の上で命を奪われようとしています。いま読みました27:15-26では、ローマ総督ピラトのもとでの死刑判決の様子が報告されました。その15節。「祭の度毎に、総督は群衆が願い出る囚人ひとりをゆるしてやる慣例になっていた」。ユダヤの国を植民地支配しているローマ帝国の進駐軍による『恩赦(=国家的な祝い事などに際して、刑の免除や減刑を行うこと)』ということです。エルサレムへ向かう旅の途中で主イエスは弟子たちにご自分の死と復活を繰り返し予告していましたが、そのときには「彼をあざけり、むち打ち、十字架につけるために異邦人の手に引き渡させるであろう」20:19と語られ、大祭司カヤパと最高法院の議員たちは「彼(の罪)は死に当たる」26:66と言いました。「十字架につけろ」と人々がここではっきりと繰り返し叫びつづけます。「バラバをゆるして、イエスは十字架に」と。バラバという囚人は人殺しであり、暴徒です。十字架の極刑はもともとバラバのためのものでした。バラバの身代わりとして、バラバがつくはずの十字架にイエスをこそつけろ、と人々は叫んでいます。「バラバは釈放、釈放、釈放」と繰り返し、そのバラバの見代わりとして、「イエスは十字架につけろ。十字架につけろ、十字架につけろ」と繰り返します。

  さて、人の名前には意味があります。例えばペテロの本名、シモン・バル・ヨナ。ヨナの息子のシモンという意味です。バル~、~の子。バラバは同じように、バル・アバ。不思議な言い方ですが、『父(=アバ)の子』という意味です(マルコ14:36「アッバ、父よ」、ローマ8:15,ガラテヤ4:6参照)。誰でも父の子なので、人間ということでしょうか。あるいは、人間である私たち皆ということでしょうか。だったら、バラバの身代わりということは、私たちみんなの身代わりに十字架につけろと3回繰り返しています。十字架の極刑に定められていたのは私たち全員なのだ、という聖書自身の、つまり神ご自身の考え方です。罪が支払う報酬は死である、と聖書は告げます(ローマ6:23,ガラテヤ3:13-14参照)。バラバという囚人は私たち全員であり、人間全体のことでした。しかも聖書はもっと具体的に、さらにはっきりと罪深い人間の姿を報告しつづけます。先々週読み味わった所(マタイ26:69-5ですが、ペテロは主イエスを「知らない。知らない、知らない」と3回否定して裏切ります。この3回につなげて、ここで「十字架につけろ。十字架につけろ」と繰り返し叫ばれる。なぜペテロは3回も主イエスを拒んでしまうのか。ゲッセマネの園で、ペテロたち3人の弟子が3回祈れなかったことが報告されていました。「眠っているのか、眠っているのか。まだ眠っているのか」と。ぜひとも祈るべき時に、けれど3回祈れなかった。だからこそキリストを3回「知らない、知らない。何の関係もない」と否むことになってしまった、と聖書はつなげています。最後の食事の席で主イエスはペテロに、「あなたは今日、今夜、私を知らないと3回言うであろう」26:34と予告していました。しかもペテロも他の弟子たち全員も、主イエスのその大事な言葉をまったく聞いていません。「いいえ、つまずきません。違います、違います」と言い張りつづけ、自分の言いたいことを言おうとするばかりで、主イエスからの語りかけを少しも受け止めようとはしない。キリストの言葉を聞き流し、聞き飛ばしつづけている私たち自身のいつもの姿がここにありました。だからこそ聖晩餐の食事のあと、ゲッセマネの園で弟子たちが祈らないのは、ゲッセマネのような厳しい試練の状況の真っ只中にあってもなお祈らない、祈ろうとしない私たちの姿とピタリ重ねられていました。そして最後には、「知らない。知らない、知らない」とキリストを3回手放し、主イエスに3回背を向けてしまう。それが、この私たち自身の罪と悲惨の現状です。腹の思いにおいても、行いでも態度でも、キリストを裏切りつづけている私たちの姿が重ねられていたのでした。主イエスが教えてくださった、あの『主の祈り』の中で「私たちに罪を犯す者を私たちがゆるすように、私たちの罪をもゆるしてください」と、なぜ神はその祈りを私たちにお命じになるのか? 罪をゆるされる必要があるし、そういう自分自身であると私たちはよくよく知る必要があるからです。では、兄弟姉妹たち。うっかりして自分自身の罪深さやいたらなさを忘れてしまえば、どうなるのか。例えばマタイ1823-34節、借金をすっかり丸ごと帳消しにしてもらって、けれど後から「悪いしもべ」と叱られたあの薄情で冷酷な彼のようになってしまうからです。また例えばルカ189-14節、「感謝します。感謝します」と口先では言いながら、自分は正しい人間だと思い込んで他人を見下す人間に成り下がってしまうからです。

  「罪だ、罪だ」と2000年もの間、キリストの教会の礼拝説教がクドクドと繰り返しつづけてきたのは、「罪のゆるし」を共々に受け取るためにです。例えば、神殿で祈った2人の人間たちの姿(ルカ18:9-。「神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています」。自分自身のこととしてでなければ、他人事としてならば、この人の過ちは誰にでもすぐに分かります。自分のこととしてなら、分かりにくいかも知れません。すると、自分は正しいと自惚れて他人を見下している人に対しても、自惚れやすい自分自身に対しても、クリスチャンと1個のキリスト教会はなすべき務めがあります。分かりますね。「ずいぶん勘違いしている。大間違いだ。それはあなたのことですよ」と伝えてあげねばなりません。その人からは嫌われるかもしれません。けれど神様からは、喜ばれるでしょう。もう1人の祈りの人、取税人は、知るべき真理の半分だけを知っていました。「ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』」。知るべき残り半分は、「神さまが、そのあなたを確かにゆるしてくださっている。本当のことですよ」。誰かが、これをその彼に告げてあげねばなりません。クリスチャンとキリストの教会がなすべき使命はここにあります。その1人の罪人が顔を上げて晴れ晴れとして生きはじめるならば、その1人のクリスチャンと1個のキリスト教会は神さまの御心を1つ果たしたことになります。「善かつ忠実なしもべよ、よくやった」とお誉めにあずかるでしょう。

  15節で「総督は群衆が願い出る囚人ひとりをゆるしてやる慣例になっていた」。17節「ピラトは言った。『お前たちは誰をゆるしてほしいのか。バラバか。それともキリストといわれるイエスか』」。20節「しかし、祭司長、長老たちは、バラバをゆるして、イエスを殺してもらうようにと群衆を説き伏せた」。21-22節「総督は彼らに向かって言った、『二人のうち、どちらをゆるしてほしいのか』。彼らは、『バラバのほうを』と言った。ピラトは言った、『それでは、キリストといわれるイエスは、どうしたらよいか』。彼らはいっせいに、『十字架につけよ』と言った」。そして26節「 そこで、ピラトはバラバをゆるしてやり、イエスを鞭打ったのち、十字架につけるために引き渡した」。バラバを釈放したことを、『ゆるした』と言い表しています。バラバをゆるした。バラバをゆるした。バラバをゆるした。なんということでしょう。罪の重さを上回る『罪のゆるし』が差し出されつづけています。あなたがもし、神さまへの畏れと共に自分自身の恐ろしい罪深さを自覚するならば、ああ本当にそうだったと。それを上回って神さまは、私たちに『釈放』を告げられます。これが今日の場面です。あなたの罪を上回る重みで、「そのあなたをゆるし、あなたを釈放する」と神さまが宣言なさる。死刑を待つしかなかった私どもが、けれど、あのお独りの方のおかげで釈放される。罪のゆるしは罪の奴隷状態からの釈放であったので、私たちはついにようやく、(神さまにも周囲の人々にも逆らい、背を向けつづける)罪から救い出され、罪に対して自由な者とされました。

 

             ◇

 

 だから今日こそ、私たちは頑固な心を脱ぎ捨てることができます。「私が私が」と、言い張りつづけなくても良いと知らされた私たちです。主イエスを通して神さまにこそ服従し、神さまに対して従順であり、それ以外のモノに縛られず、屈服しないでいられると。ただ口先で言うばかりでなく、心でもそれを感じ取り、理解し、受け入れることのできる私たちにされていきます。神さまがそれをしてくださるからです。そのようにして神さまは、私たちクリスチャンに自由と平和と真理とを贈り与えてくださるのでした。もし誰かが、「イエスこそ主である」と人々に向かっても自分自身の魂に向かっても告げ知らせ、「私は主イエスに聴き従って生きる」と腹をくくり、「イエスこそ私が歩んでいくためのただ一本の道筋、受け取って生きるべき一つの真理、一つの生命である。ああ本当に」とついに気づくなら、それは神さまご自身がその人に知らせてくださったからです(コリント手紙(1)12:3,ヨハネ14:6-17参照)。クリスチャンであることの本質と醍醐味は、主に従うことの中にあります。その祝福も幸いも自由も喜びも、格別な確かさも、主に従って生きてゆく中でこそ差し出され、受け取られつづけました。つまりは主の御心への従順、主ご自身への服従です。

 「キリストの十字架。キリストの十字架」と毎週のように語られつづけます。けれどその中身は、いったいどういうものでしょう。この後に歌います讃美歌140番は、まず「いのちのいのちであられるイエスよ」と呼びかけています。1節では、「主イエスは私のためにその身を捨てて、滅びの淵より導き出してくださり、朽ち果てることのない生命を私に贈り与えてくださった」。2節では、「私のため罪の呪いをご自分の身に負ってくださり、悪魔の罠から私を救い出し、変わることのない平安を贈り与えてくださった」。「私のため、私のため」と味わいつづけ、4節では「わが身に代わって死んでくださったイエスよ」と呼ばわっています。兄弟姉妹たち、ここが肝心要です。私たちに代わってイエスが死んでくださったので、だから私たちがもう死ななくてよくなったわけではありません。そうではないのです。それは本当には、「私に先立って」という中身です。むしろ主イエスが「私に先立って」その身を捨てて、「私に先立って」十字架について死んでくださったからには、主イエスに率いられてこの私たちもまた古い罪の自分を投げ捨てることができます。高ぶりおごる古い罪の有様をみな、こなごなに打ち砕いていただくことができるのです。だからこそ滅びの淵から導き出され、朽ち果てることのない新しい生命を受け取ることができる。悪魔の罠から救い出されて、変わることのない平安をついにとうとう受け取りはじめる私たちです。ああ本当に、イエスこそ私の主。イエスこそ私が歩んでいくためのただ一本の道筋、受け取って生きるべき一つの真理、一つの生命である。救い主イエスにこそ聴き従って生きる私たちです。