2018年5月2日水曜日

4/29「ユダの絶望」マタイ27:1-10


               みことば/2018,4,29(復活節第5主日の礼拝)  160
◎礼拝説教 マタイ福音書 27:1-10                    日本キリスト教会 上田教会
『ユダの絶望』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

27:1 夜が明けると、祭司長たち、民の長老たち一同は、イエスを殺そうとして協議をこらした上、2 イエスを縛って引き出し、総督ピラトに渡した。3 そのとき、イエスを裏切ったユダは、イエスが罪に定められたのを見て後悔し、銀貨三十枚を祭司長、長老たちに返して4 言った、「わたしは罪のない人の血を売るようなことをして、罪を犯しました」。しかし彼らは言った、「それは、われわれの知ったことか。自分で始末するがよい」。5 そこで、彼は銀貨を聖所に投げ込んで出て行き、首をつって死んだ。6 祭司長たちは、その銀貨を拾いあげて言った、「これは血の代価だから、宮の金庫に入れるのはよくない」。7 そこで彼らは協議の上、外国人の墓地にするために、その金で陶器師の畑を買った。8 そのために、この畑は今日まで血の畑と呼ばれている。9 こうして預言者エレミヤによって言われた言葉が、成就したのである。すなわち、「彼らは、値をつけられたもの、すなわち、イスラエルの子らが値をつけたものの代価、銀貨三十を取って、10 主がお命じになったように、陶器師の畑の代価として、その金を与えた」。              (マタイ福音書 27:1-10

                                        
   この27章がまず最初に告げることは、私たちの救い主イエスが祭司長たち、ユダヤの民の長老たち一同の手によって捕らわれ、ローマ帝国から遣わされた支配者、総督ピラトの手に引き渡されたことです。ユダヤはローマ帝国の植民地であり、ユダヤの国を治めるすべての権利がローマ帝国にあり、誰かを死刑にすることもゆるすこともローマ帝国から派遣された支配者の判断にかかっていました。ユダヤ人だけの責任ではなく、外国人のピラトと私たち一人一人もまた、救い主イエスを殺す罪について責任があることが明らかになるためです。神さまの救いの御心がここに働いています。「だからイスラエルの全家は、このことをしかと知っておくがよい。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである」と主の弟子らが語りかけたとき、これを聞いて強く心を刺されて、この私たちも問いかけざるを得ませんでした。「兄弟たちよ、救われるためには私たちはどうしたらよいのか」と。主の弟子は答えました、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって洗礼を受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう」(使徒2:36-39参照)と。罪のゆるしを得、救われて生きるためには、私たちは日毎の悔い改めを必要としており、神の義と憐れみのもとへと立ち帰りつづけねばなりません。一日また一日と、生涯の最後の日まで。

  もう一つ、主イエスの弟子の一人イスカリオテのユダの悲しく惨めな最期が報告されています。3-5節、「後悔し、銀貨三十枚を祭司長、長老たちに返して言った、『わたしは罪のない人の血を売るようなことをして、罪を犯しました』。しかし彼らは言った、『それは、われわれの知ったことか。自分で始末するがよい』。そこで、彼は銀貨を聖所に投げ込んで出て行き、首をつって死んだ」。そうやって、彼は自分で自分の始末をしました。恐ろしいことです。心のかたくなさ。思い上がって自惚れたり、卑屈にいじけたり、他人と見比べて得意になったり妬んだりすること。臆病。自己中心の身勝手さ、了見の狭さ。神を押し退け、神に背きつづけることからくるもろもろの罪から、この私たちが救い出されるためには、主イエスの十字架の死と復活がどうしても必要でした。そのために、ユダも含めて弟子たち皆がつまずき、主イエスを裏切り、主を見捨てて逃げ去る必要もあったのです。神ご自身が私たちの救いのためにそれを計画し、成し遂げてくださいました。それにしても、なんということでしょう。十二弟子のひとりイスカリオテのユダは、祭司長たちに言いました、「彼をあなたがたに引き渡せば、いくらくださいますか」。すると、祭司長らは銀貨三十枚をユダに支払いました。その時から、ユダはイエスを引きわたそうと機会をねらいつづけ、それを成し遂げます。なぜ、ユダは目が眩み、心を鈍くさせてしまったのでしょう。銀貨30枚は、あの時の彼にとってどれほどの魅力だったのでしょう。いいえ、そんなものに何の価値もなかったのに。ユダ自身もほんの少し後で、はっきりと気づきました。例えば、かつてエジプト脱出のとき、エジプト王パロの中にもサタンが入り込みました。神の民が荒野に出てゆくことを「ゆるす」と言い、「いいやダメだ」「ゆるす」「やっぱり許さない」と何度も何度も心をかたくなにし続け、そうやって災いを自分自身に招き寄せ、とうとうパロもまた自分で自分の始末をしなければなりませんでした。エジプトの王パロとユダは双子の兄弟のようです。そのようにして、あまりに裏腹な仕方で、神の民が救われるための役割を彼らは担わされました。弟アベルを殺したカインも、彼らの同類でした。自分自身の正しさやふさわしさを言い張ろうとして、カンカンに腹を立てて顔を地面に伏せたとき、主なる神さまはカインに仰いました、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」(創世記4:6-7。もちろん、罪とサタンを治めることもねじ伏せることも、私たち人間には誰にもできることではありませんでした。ユダの裏切りを、ルカ福音書は「そのとき、十二弟子のひとりでイスカリオテと呼ばれていたユダに、サタンが入った」(ルカ22:3と報告しています。そう言えば、ユダやパロやカインだけではなく、主イエスの弟子ペテロの中にもサタンが入り込み、ペテロを思いのままに操ろうとしたことがありました。エルサレムの都に向かう旅の途中で主イエスがご自分の死と復活を予告なさったとき、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」とペテロが主イエスを諌めはじめたときに。主イエスはペテロを厳しく叱りつけました、「サタンよ、引き下がれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」(マタイ16:21-23と。あのペテロ自身に向かって言ったのですし、ペテロの中に入り込んでペテロを思いのままに操っているサタンに向かっても言ったのです。この私たち一人一人も、彼らとまったく同じではありませんか。四六時中、朝から晩まで自分自身の腹の思いと周囲の人間のことばかりああでもないこうでもないと思い煩って、そのあまりに、神を思う暇がほんの少しもない。なんと惨めな私たちでしょう。サタンが、この私たちをも付け狙いつづけています。神に背かせようとして。私たちを支配し、思いのままに操ろうとして。自己中心のよこしまさへ、あまりに惨めな虚しさへと転がり落とさせようとして。そのとき、ユダ、パロ、カイン、ペテロたちと同じように私たちも、神をすっかり忘れ果てています。どんな神さまであるのか、どういう希望と救いを贈り与えられていたのか。神の御心にかなう良いことはなんであるのかもすっかり分からなくなり、そこでもし、自分で自分の始末をしなければならないとしたら、私たちもユダのように絶望するほかありません。サタンが私たち自身の中にも入り込もうとして、言いなりに従わせようとして付け狙っていることを、「ああ本当にそうだ」と私たちは本気になって恐れねばなりません。『主の祈り』の6つの願いの最後の願いでは、2つのことを神さまに願い求めています。『試みにあわせないでほしい』。そして、『悪い者から救い出してください』と。また、このように願い求めつづけて生きるように、と神さまから命じられています。どういうことでしょうか? 弱く危うい私たち自身であることをよくよく知りながら、また、だからこそ神さまの助けと支えを受け取りつづけて生きるように、と私たちは神さまご自身から命じられています。このことを受け止めましょう。
  (1)悪い者から救い出してください。エペソ手紙6:10-は語りかけます;「主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい」。強くあるように、と励まされます。勇気と力を出すように。なぜなら私たちは、私たちを弱くしようとする様々なものたちに取り囲まれているからであり、しかも、私たち自身ははなはだしく弱く脆く、あまりに危うい存在であるからです。それならば、一体どうしたら私たちは強くあることができるでしょうか。何を支えとし、いったい誰の力添えと助けとを求めることができるでしょう。主なる神さまの助けと守りによってです。「主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい」と勧められているのは、このことです。そうでなければ、他の何をもってしても私たちは強くはなりえません。しかも兄弟姉妹たち、そうでありますのに私たちは度々この単純素朴な真理から目を背け、脇道へ脇道へと道を逸れていきました。自分自身の弱さと危うさを忘れ、思い上がり、うぬぼれました。あるいは自分自身の弱さをつくづくと知った後でもなお、神さまからの助けと支えをではなく、ほかの様々なものの支えと助けを探して、ただ虚しくアタフタオロオロしつづけました。立ち返るようにと、預言者らは必死に警告しつづけました。神さまの御もとへと立ち返って、神さまご自身への信頼をなんとしても取り戻すのでなければ、落ち着くことも穏やかであることも誰にもできないはずでした。けれど私たち皆はそれを好まなかった。神をそっちのけにして、速い馬に乗ることばかりを求めつづけた。だから、私たちを追う者の足はさらにもっと速いだろう(イザヤ30:15-17参照)。その通りです。立ち返って、主ご自身に信頼しはじめるのでなければ、私たちは力を失い、ますます痩せ衰えてゆくばかりです。心に留めましょう。
 (2)さて、「試みにあわせないでください」という神への願い。おそらく、苦難と試練の事柄こそが人生最大の難問です。『試み。誘惑』は、ごく一般的には『罪に陥れようとする試み、誘惑』を意味します。ヤコブ手紙1:13以下は証言します;「だれでも誘惑に会う場合、『この誘惑は、神からきたものだ』と言ってはならない。神は悪の誘惑に陥るようなかたではなく、また自ら進んで人を誘惑することもなさらない。人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれるからである。欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。愛する兄弟たちよ。思い違いをしてはいけない」。他の何者のせいにもできない。自分自身の欲望とむさぼりこそが原因ではないか、と突きつけられます。そこには大きな真理があります。けれど、これが知るべき真理の中の半分です。もっとはるかに大切な残り半分は、『神さまご自身が私たちを試みる場合もありうる』。それは、神さまへの信頼と従順に向かわせるための信仰の教育であり、恵みの取り扱いです。例えば、モーセと仲間たちが旅した荒野の40年がそうでした。「主はあなたを苦しめ、あなたを試み、あなたの心を知ろうとなさった。人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためだった。あなたはまた、人がその子を訓練するように、あなたの神、主もあなたを訓練することを心に留めなければならない」(申命記8:2-3。十字架前夜のゲッセマネの園へと立ち戻りましょう。あのとき、主イエスはご自身の祈りの格闘を戦いながら、同時にご自分の弟子たちを気遣いつづけます。気がかりで、心配で心配でならないからです。何度も何度も彼らのところへ戻ってきて、眠りつづける彼らを励ましつづけます。「眠っているのか。眠っているのか、まだ眠っているのか。ほんのひと時も私と一緒に目を覚ましていることができないのか。誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。心は熱しているが肉体が弱いのである。心も体も、なにもかもとても弱いからである」(マタイ26:40-41参照)。いいえ 心も体もなにもかも、とてもとても弱いからである。私たちそれぞれにも厳しい試練があり、それぞれに、背負いきれない重い困難や痛みがあるからです。それぞれのゲッセマネです。あなたにも、ひどく恐れて身悶えするときがありましたね。悩みと苦しみの時がありましたね。もし、そうであるなら、あなたも地面にひれ伏して、体を投げ出して本気になって祈りなさい。主イエスご自身から祈りの勧めがなされます。「目覚めていなさい。気をしっかり持って祈りなさい」と。なぜでしょう。「目を覚ましていなさい。眠っちゃダメ。起きて起きて」。なぜでしょう。だって、そのまま眠りこんでしまったら、その人は凍えて冷たくなって死んでしまうからです。またそれは、わたしたちに迫る誘惑に打ち勝つためであり、それぞれが直面する誘惑と試練は手ごわくて、また、わたしたち自身がとても弱いためです。「しっかりしていて強いあなたを特に見込んで、だから祈れ」と言われていたのではありません。そうではありません。あなたはあまりに弱くて、ものすごく不確かだ。ごく簡単に揺さぶられ、惑わされてしまいやすいあなただ。そんなあなただからこそ、精一杯に目を見開け。エジプトの王パロやユダやカインが唆されたように、ロトの妻や、イスラエルの最初の王サウルが唆されたように。彼らは皆、神の正しさと憐れみ深さを知っており、「主なる神が恵み深い神、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かで、災を思いかえされること」(ヨナ書4:2をよくよく知っていたのに、けれどその正しさと憐れみのもとへと立ち返って、しがみついてすがることをしなかったからです。サタンが私たちの中に入ってこようとして付け狙いつづけています。しかも私たちは、一人の例外もなく誰もが皆、自分自身で自分の始末をつけることなどできません。神の憐れみにすがることができなければ、あまりに無力で弱々しく、心細い私たちです。だから本気で、必死になって祈りつづけなさい。主イエスはご自身の祈りの格闘をしつつ、しかし同時に、弟子たちをなんとかして目覚めさせておこうと心を砕きます。あの彼らと私たち一人一人のことが気がかりでならないからです。