2016年11月27日日曜日

11/27「預言者が立ちふさがる」サムエル下11:26

 ◎としなしの祈り

 教会と全世界のかしらであられます主イエスの父なる神さま。罪と自分中心の肉の思いから私たちを日毎に救い出し、主イエスの復活の命にあずかって新しく生きる私たちとならせてください。
 主よ。この国と世界全体は大きな苦難の只中にあります。政治家や資本家たちのせいばかりではなく、この私たち自身に大きな責任があります。神さま、申し訳ありません。この国と私たち自身が深く悔い改めて、自衛隊員たちが南スーダンへもどこへも出かけていって無駄に人を殺したり殺されたりし始める前に、とても悪い戦争法をなんとかして廃止することができますように。無駄に使い捨てられようとする彼ら一人一人に、私たちと同じくかけがえのない家族と人生があるからです。また、日本中が人の住めない荒れ果てた不毛の土地になってしまう前に、手遅れになってしまう前に、すべての原子力発電所を今すぐ止めて、新しく歩みはじめさせてください。米軍基地を押し付けられ、ないがしろにされつづける沖縄の同胞たちの怒りと苦しみに、私たちも目と心を向けることができますように。日本で暮らす外国人労働者とその家族の生活と権利が十分に守られ、尊ばれる社会に、この国をならせてください。5年前の震災からの被害はまだまだ続いており、福島原発の事故はほんの少しも収束していないのに、政府も私たちも何もなかったかのように自分たちだけの満足と豊かさと自由をむさぼりつづけています。その片隅で貧しく暮らし、身を屈めさせられている多くの人々がないがしろに扱われつづけています。なんということでしょう。その人々に対しても神さまに対しても、お詫びのしようもありません(出エジプト記22:21-27参照)。年老いた人々にも子供にも若い者たちにも、どうか神さま、生きる喜びと確かな希望を見出させてください。彼らの喜びと悲しみを、どうか、この私たち自身の喜びと悲しみとさせてください。
  主なる神さま。ですから。あなたの御心にかなって生きることを、私たちに願い求めさせつづけてください。主イエスのお名前によって祈ります。アーメン



                  みことば/2016,11,27(待降節第1主日の礼拝)  87
◎礼拝説教 サムエル記下11:26-12:15               日本キリスト教会 上田教会
『預言者が立ちふさがる』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
  11:26 ウリヤの妻は夫ウリヤが死んだことを聞いて、夫のために悲しんだ。27 その喪が過ぎた時、ダビデは人をつかわして彼女を自分の家に召し入れた。彼女は彼の妻となって男の子を産んだ。しかしダビデがしたこの事は主を怒らせた。 12:1 主はナタンをダビデにつかわされたので、彼はダビデの所にきて言った、「ある町にふたりの人があって、ひとりは富み、ひとりは貧しかった。・・・・・・9 どうしてあなたは主の言葉を軽んじ、その目の前に悪事をおこなったのですか。あなたはつるぎをもってヘテびとウリヤを殺し、その妻をとって自分の妻とした。すなわちアンモンの人々のつるぎをもって彼を殺した。10 あなたがわたしを軽んじてヘテびとウリヤの妻をとり、自分の妻としたので、つるぎはいつまでもあなたの家を離れないであろう』。11 主はこう仰せられる、『見よ、わたしはあなたの家からあなたの上に災を起すであろう。わたしはあなたの目の前であなたの妻たちを取って、隣びとに与えるであろう。その人はこの太陽の前で妻たちと一緒に寝るであろう。12 あなたはひそかにそれをしたが、わたしは全イスラエルの前と、太陽の前にこの事をするのである』」。13 ダビデはナタンに言った、「わたしは主に罪をおかしました」。ナタンはダビデに言った、「主もまたあなたの罪を除かれました。あなたは死ぬことはないでしょう。      (サムエル記下11:26-12:15)
  




 イスラエルに王が立てられていた時期はほんの450年ほど、まばたきするほどのごく短い間だけでした。それ以外の、王様などいない長い長い歳月を、なぜ一つの民族として幸いに生き抜くことができたのか。神ご自身こそが神の民のための王さまであり、主人でありつづけたからです。神ご自身が王様でありつづけ、人間の王など必要なかったからです。最初に民が「私たちも他の国の人々のように人間の王が欲しい。そのほうが国が栄えて繁盛する。そのほうが、今よりもっと強くて豊かな国になれるらしいし」と要求したとき、それは神にとってあまりに苦々しい要求でした。主なる神はおっしゃいました、「(わたしの民イスラエルは)わたしを捨てて、彼らの上にわたしが王であることを認めないのである。彼らは、わたしがエジプトから連れ上った日から今日まで、わたしを捨てて他の神々に仕え、さまざまの事をわたしにしてきた」(サムエル記上8:7-8と。それでもなお渋々、神は彼らの要求を認めました。やがて王国が南北二つに引き裂かれ、南も北も相次いで倒され、王国がすっかり滅びさってしまうまで、その450年間は、神の民が神に背きつづけた心痛む体験学習の期間となりました。立てられた王の傍らにいつも預言者が立っていました。近隣諸国との関係が危うくなってゆくとき、どこかの国と新しい同盟関係を結ぼうかどうしようかというとき、戦うべきか和平を維持すべきか、自分たちはどうすべきか、何をしてはならないのかを王は預言者に尋ねねばなりません。新しい王が立てられるときにも預言者はそこにおり、そこで王と人々は預言者の口を通して語られる神の声に耳を傾けました。立てられた王は、なによりも主なる神ご自身への忠実と服従こそが問われました。もし、神によって立てられた王が神にはなはだしく背くとき、神の御心を少しも思わなくなるとき、預言者は王に「お前の地位と権力と職務を取り上げて、お前をクビにする」(サムエル記上13:13-14,15:17-35参照)とさえ告げました。預言者には、神の御心を国王にも人々にも告げ知らせ、その国の政治と暮らしが神の御心にかなって営まれるように配慮する大きな責任と使命があるからです。
  この直前の11章は恐ろしい報告です。他に並ぶものがないほどの誉れ高い王ダビデが、大きな罪を犯しました。部下の妻と性的不品行を犯し、悪巧みをはかって彼女の夫をわざと殺させ、狙いどおりにその妻を自分のものとしました。11:26-27をご覧ください。「ウリヤの妻は夫ウリヤが死んだことを聞いて、夫のために悲しんだ。その喪が過ぎた時、ダビデは人をつかわして彼女を自分の家に召し入れた。彼女は彼の妻となって男の子を産んだ。しかしダビデがしたこの事は主を怒らせた」。
  預言者には、神の御心を国王にも人々にも告げ知らせ、神の御心にかなって人々の暮らしが営まれるように配慮する責任と使命があります。預言者ナタンは、その務めを担わされました。気が進まなかったでしょうし、とても嫌だったと思います。「あなたは罪を犯した」と王に告げに行くまでに一年近くかかりました。けれど嫌々でも渋々でも、主なる神が預言者にそれをさせるのです。12:1「主はナタンをダビデにつかわされたので、彼はダビデの所に来て言った」。なぜ預言者ナタンは、そんな危険な行動をとったのか。主なる神が、彼にそれをさせたからです。たとえ話のようにして、遠まわしにナタンはダビデに心痛む一つの出来事を告げます。ダビデ自身がしでかした決してゆるされないはずの恥ずべき行ないを。ダビデはその人の事をひじょうに怒ってナタンに言った、「主は生きておられる。この事をしたその人は死ぬべきである。かつその人はこの事をしたため、またあわれまなかったため、その小羊を四倍にして償わなければならない」。ナタンはダビデに言った、「あなたがその人です。イスラエルの神、主はこう仰せられる、『わたしはあなたに油を注いでイスラエルの王とし、あなたをサウルの手から救いだし、あなたに主人の家を与え、主人の妻たちをあなたのふところに与え、またイスラエルとユダの家をあなたに与えた。もし少なかったならば、わたしはもっと多くのものをあなたに増し加えたであろう。どうしてあなたは主の言葉を軽んじ、その目の前に悪事をおこなったのですか。あなたはつるぎをもってヘテびとウリヤを殺し、その妻をとって自分の妻とした。すなわちアンモンの人々のつるぎをもって彼を殺した。あなたがわたしを軽んじてヘテびとウリヤの妻をとり、自分の妻としたので、つるぎはいつまでもあなたの家を離れないであろう』」。ダビデ王が行ったこの性的不品行と人殺しと盗みがとても悪いというだけではなく、彼がそれをしたのは、なによりも「主の言葉を軽んじ、主ご自身を軽んじ、あなどったからだ」(9節)と預言者の口を用いて、主ご自身がきびしく告げています。しかも周囲の誰彼がしているふつつかさや悪い行ないは、この私たちにも他人事としてはよく分かります。自分でも似たようなことを日ごろからしていても、「そんなひどいことがよく出来るものだ。呆れたものだ」などと私たちも言います。自分のことは、すっかり棚にあげて。ですから私たちも、「あなたがその人です」と告げられねばなりません。「他の誰彼のことではなく、この私こそが主に対して罪を犯しました」と私たち自身も、はっきり気づかねばなりません。主なる神さまは、あなたのためにもこの私のためにも生きて働いておられます。
  13-15節をご覧ください。ダビデはナタンに言った、「わたしは主に罪を犯しました」、ナタンはダビデに言った、「主もまたあなたの罪を除かれました。あなたは死ぬことはないでしょう。しかしあなたはこの行いによって大いに主を侮ったので、あなたに生まれる子供は必ず死ぬでしょう」。罪をゆるしてくださる神です。けれど、罪のための罰が残されました。この私たち全員も主なる神を大いに侮りつづけ、大きな罪を犯しました。やがて救い主イエス・キリストが、私たち皆のために罪の罰をその身に引き受けてくださいました。

 預言とは、神の御心を告げ知らせる働きです。預言者は、その役割を担って働きます。例えば洗礼者ヨハネも同じです。神の御心を告げ知らせ、人々が悔い改め、神の御心に従って生きることへと立ち返るために。ヨハネは呼ばわりました、「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから逃れられると、おまえたちに誰が教えたのか。だから、悔い改めにふさわしい実を結べ」と。「わたしたちは何をすればよいのですか」と人々は尋ねました。誰でも知っているはずの、しようと思えばできるはずの、ごく普通のことが告げられました。預言者の言葉はすべての人々に向けて語られつづけます。洗礼者ヨハネが「まむしの子らよ」と呼ばわったのは、「皇帝テベリオ在位の第十五年、ポンテオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟ピリポがイツリヤ・テラコニテ地方の領主、ルサニヤがアビレネの領主、アンナスとカヤパとが大祭司であったとき」(ルカ3:1-2でした。つまり、ローマ帝国の皇帝テベリオに対しても、植民地ユダヤを統治する役人ポンテオ・ピラトに対しても、ユダヤの地方領主たちに対しても、大祭司らに対しても彼は語りかけました。ローマ帝国の植民地にされていたユダヤの、その地方領主ヘロデに対しても同じく、「して良いことと悪いことがある。神の御心に背く悪いことをしてはいけない」と(ルカ8:9参照)
  さて、救い主イエスのその働きは『預言者、大祭司、王』という3つの中身をもっています。『預言者』として、救い主イエスこそが神の御心を教え、『大祭司』としてご自分のお体を十字架にささげて私たちの罪のあがないを成し遂げ、『王』として御言葉と聖霊によってキリスト教会とこの世界すべてを治めてくださいます。また、主イエスがそのようにお働きになるというばかりではなく、主イエスを信じるすべてのクリスチャンは主イエスの弟子とされて、同じく、この世界に対して『預言者、大祭司、王』という3つの中身をもって働きつづけます。昔から、聖書によって教えられてきたとおりです。「ええ、私にそんな難しそうな仕事ができるかしら?」と心配になりますか。大丈夫です。なにしろ私たちは、神さまがどんな御心なのかを教えられ、どんな神さまでどんな願いをもって働いておられるのかも知らされています。それぞれの分に応じて、口下手は口下手なりに、「こういう神様ですよ」と家族や友人たちや周囲の人々に知らせてゆく。これが預言者の役割。神と人間、人間と人間との間に立って仲直りと平和のための使者として、祭司の役割を担って働く。また、神の御心にかなった世界と私たちになってゆくために、王の役割さえ担って生きてゆく。宗教改革者は、「クリスチャンは地上のすべての支配者や権力者の上に立つ王であって、何者にも膝を屈めず、言いなりにされない。しかもクリスチャンは同時に自由なしもべであって、心低く、誰にでも奉仕する」(『キリスト者の自由』Mルター,1520年)と告げました。主イエスの最初の弟子たちも、主イエスの名によって語ることも説くことも一切してはならないと権力者たちに脅されても、「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが、神の御前に正しいかどうか判断してもらいたい。私たちとしては、自分の見たこと聞いたことを語らないわけにはいかない」(使徒4:19と平然と立ち向かいました。この世界全体も、私たち一人一人も、罪の支配から日毎に救い出されつづけて、神の御心にかなって毎日の暮らしを生きるためにです。救い主イエスこそが先頭に立って働き、この私たち一人一人も主イエスの後につづいて、主イエスの弟子として生きるのです。すると私たちは、今では互いに預言者同士です。神の御心を知らされている私たちは、ナタンや洗礼者ヨハネと同じく、互いに告げ合います。「わたしは主に対してはなはだしい罪を犯しました。けれど主なる神さまは、その私の罪を取り除いてくださいました」(ルカ3:10-14,ローマ手紙12:1-2,サムエル下12:13と。
 もう一つのことも語りましょう。たしかに主はダビデを憐れんで、その罪を取り除いてくださいました。けれど生まれてきたダビデの子が死んだことによってではありません。あのろくでなしのダビデ以上に、その何倍も罪深い私共ですけれど、主なる神は私共を憐れんで、その罪を取り除いてくださいました。ダビデの場合と同じく、それは私共の子供が死ぬことによってではありません。そうではなく、ただただ神の独り子イエス・キリストが私たちの罪を背負って死に、私共に先立って新しい生命に復活してくださったことによってです。キリストと共に私共の古い罪の自分が十字架につけられ、殺され、葬られ、キリストと共に新しい生命に生きはじめた私共です(ローマ手紙4:23-25,6:1-11,10:9-13。アブラハムがモリヤの山でわが子を神に献げようとしたときにも、まったく同じことが起きました。アブラハムがわが子を神に献げ、それで神への従順をまっとうしたのではありませんでした。その代わりに、神の独り子イエス・キリストがご自分の体と魂を十字架の上に献げ尽くしてくださって、それでアブラハムのためにも私たちすべてのためにも、自らあがないの供え物となり、神に従順に従って生きるための道を備えてくださった。主の山に備えありとは、そのことでした。ダビデの死んだ息子も、モリヤの山で角をやぶにからめていた一頭の雄羊も、共々にやがて来てくださる救い主イエスをこそ指し示していました。救い主イエスこそが、わたしたちすべてが神を信じて生きるための『道、真理、命』となってくださり(創世記22:9-19,ヨハネ福音書14:6、だからこそ私たちはここにいます。聖書に書いてあるとおりです。あなたも私も主に対して罪を犯しました。犯しつづけています。その罪を、神にゆるしていただきましょう。日毎に悔い改め、神のゆるしと憐れみのもとへと立ち戻りつづけましょう。神は真実な神であり、私たちを罪から救い出してくださったし、救い出しつづけてくださると知っているからです。
主なる神さま、私たちを憐れんでくださって、本当にありがとうございます。