2016年11月14日月曜日

11/13こども説教「恐れることはない。ただ信じなさい」ルカ8:40-42、49-56

 11/13 こども説教 ルカ8:40-4249-56
 『恐れることはない。ただ信じなさい』

8:49 イエスがまだ話しておられ るうちに、会堂司の家から人がきて、「お嬢さんはなくなられました。この上、先生を煩わすには及びません」と言った。50 しかしイエスはこれを聞いて会堂司にむかって言われた、「恐れることはない。ただ信じなさい。娘は助かるのだ」。51 それから家にはいられるとき、ペテロ、ヨハネ、ヤコブおよびその子の父母のほかは、だれも一緒にはいって来ることをお許しにならなかった。
(ルカ福音書 8:49-51

  ユダヤ教の一つの会堂の責任者であるヤイロという人が、主イエスのもとへとやって来ました。12歳ほどになる娘が死にかけていたからです。自分の家へと主イエスを連れていこうとしていると、悪い知らせが届きました。「お嬢さんは亡くなられました。この上、先生にわざわざ来ていただかなくてもよいでしょう」と。50節です。しかし、イエスはこれを聞いて会堂司に向かって言われた。「恐れることはない。ただ信じなさい。娘は助かるのだ」。
 語りかけているその言葉によって、語りかけられているその相手がどんな様子なのか。何をどう思っているところなのかが分かります。「恐れることはない」と主イエスが彼に語りかけているのは、その彼がまたもや恐れに取り付かれ、その恐れの中に今にも飲み込まれようとしているからです。「ただ信じなさい」と語りかけられているのは、主イエスへの彼の信頼が、せっかく本気で信じようとしていた矢先に、早くも揺らぎだしているからです。ヤイロの場合、もちろん彼は主イエスを信じていました。主イエスこそが娘の命を救ってくださると信じ、主イエスという独りのお方にこそ期待をかけました。主イエスのおられる所へと出かけてきて、その足元にひれ伏し、「家に来て、どうか娘を助けてください」としきりに願い出ました。これが、彼が主イエスを信じていることの具体的な中身です。けれど同時に、目に映り耳に入る他さまざまな事柄が、主イエスへの彼の信頼の中身を紛れさせつづけます。大声で泣きわめき騒いでいる人々の声が耳に入っています。また、「泣くな、娘は死んだのではない。眠っているだけである」と主イエスが仰るのを聞いて、人々があざ笑うのを見ました。このとき、主イエスを信じようとするヤイロの信仰は揺さぶられ、きびしい挑戦にさらされていました。そこで、もしかしたらヤイロは他の人々といっしょになって、主イエスを信じる心を紛らせてしまったかも知れませんでした。「恐れることはない。ただ信じなさい」(50)と、主イエスから命じられていました。ここが、いつものポイントであり、分かれ道でありつづけます。主イエスの死と復活を信じていないわけではありません。けれどなお、恐れている。けれどなお、ほんのちょっとしたことが起こる度毎に心を激しく揺さぶられつづける。どういうわけでしょうか。――主イエスの御声に聴き、他のさまざまな声にも聴き従っているからです。主イエスを信じ、またその一方では他さまざまな意見や主張にも、同じように聴き従っているからです。主イエスを信じる心を、その度毎に、紛らせてしまうからです。主イエスは子供の両親と3人の弟子だけを連れて、子供のいる部屋に入っていかれました。子供の手をとって、「少女よ、起き上がりなさい」とお命じになりました。少女はすぐに起き上がって、歩き出しました。また、食べ物を娘に与えるようにと言われました。この人が生きるための食べ物。パンと、主の口から出るすべての言葉(申命記8:3。あなたも起き上がり、歩きなさい。食べ物も他一切も神さまの御手から受け取って、生きるための力を神さまから贈り与えられて、あなたも一日一日と生きていきなさい。


【補足/ペテロ,ヨハネ,ヤコブ】
51節。このとき、山の上で主イエスの姿が白く輝いたとき、またゲッセマネの園でも、この同じ3人だけを主イエスは同行しました(当箇所,ルカ9:28-36,マタイ26:37)。決して、『格別に優秀な選りすぐりの3人』というわけではありません。あの3人はただ、やがてときが来て、人々が主イエスを信じるために、直接の目撃証人として用いられます。「あのとき、ああいうことがあった。こういうことも」と。主の弟子として遣わされてゆくための安心材料は、ただただ主イエスご自身からの保護の約束だけです(マタイ18:19-20,28:19-20,ルカ10:17-20,22:31-32,ヨハネ15:16-17他)。私たちとまったく同じですね。この私たち一人一人も、主イエスの死と復活の証人として立てられ、遣わされつづけます。