2016年1月6日水曜日

1/3こども説教「私たち人間に出来ないことや分からないことは山ほどある。けれど、神にできないことは何一つない」ルカ1:26-38

 1/3 こども版 ルカ1:26-38
  『私たち人間に出来ないことや分からないことは
山ほどある。けれど、神にできないことは何一つない』
     +聖晩餐の説き明かし①
自分をどう吟味するか?  ふさわしさとは何か?

1:28 御使がマリヤのところにきて言った、「恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます」。……34 そこでマリヤは御使に言った、「どうして、そんな事があり得ましょうか。わたしにはまだ夫がありませんのに」。35 御使が答えて言った、「聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生れ出る子は聖なるものであり、神の子と、となえられるでしょう。36 あなたの親族エリサベツも老年ながら子を宿しています。不妊の女といわれていたのに、はや六か月になっています。37 神には、なんでもできないことはありません」。38 そこでマリヤが言った、「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」。そして御使は彼女から離れて行った。 (ルカ福音書 1:26-38

  目を凝らしてよくよく見つめるべき大事な点は、『イエスの母マリアに起こった出来事と洗礼者ヨハネの父ザカリヤに起こった出来事はまったく同じだ』ということです。さらに、アブラハムとサラ夫婦にも同じことが告げられました。同じ一つの真実が神さまから差し出され、彼らは考え込みました。「マリアと他の人たちでは、似てはいるけど違うでしょ」と言う人たちがいます。「だって、マリヤさんだけはほんの2~3分間くらいですぐ素直に従ったけど、他の人たちは長い間ずっと信じられず、とても頑固だった」と。あなたはどう思います? いいえ、生まれつき朝から晩まで素直な人間って一人もいない。誰でも頑固で分らず屋です。素直になったり頑固になったり、また素直になったり頑固になったりと繰り返します。神さまがその心をその度毎にねじ伏せてくださるなら、どんなに頑固そうな人でも、誰でも素直にされて「はい分かりました」と従うことができます。私たちも同じです。『私たち人間に出来ないことや分からないことは山ほどある。けれど、神にできないことは何一つない』。これを、あなたは信じて受け入れることができるかどうか、と問われています。神さまを信じて生きることができるかどうかの分かれ道です。
  アブラハムとサラ夫婦は、ずっと長い間祈り求め、願っていた約束をかなえてあげると告げられて、けれどそれを信じられませんでした。神の祝福のしるしとして赤ちゃんを贈り与えられるという約束です。二人共、そんな馬鹿なことがあるはずないと苦々しく笑って、神さまの約束を聞き流し、撥ね退けようとしました。「100歳と90歳の爺さん婆さんにどうして赤ちゃんが産めるだろうか。産めるはずがない。そんな馬鹿みたいなことが起こるはずがない」と。ザカリヤも同じく神さまの約束を聞き流し、撥ね退けようとしました。「どうしてそんなことが私に分かるでしょうか。いいえ、分かるはずがないし、あるはずがない。だって、私も妻も爺さん婆さんになってしまったんですからね」(創世記17:17-18,18:12-15ずっと信じて願っていたはずの自分自身の祈りの中身を、彼ら自身が拒み、彼ら自身が跳ね除けてしまいました。その理由ははっきりしています。その大事な、何にも代え難いはずの願いと祈りを手放してしまったからです。祈ることも信じることも、いつの間にか止めてしまったからです。神さまを信じられなくなった途端に、何でもかんでも恐ろしくなりました。そして、人間のことしか考えられなくなりました。自分に何が出来るか出来ないか、自分に何が分かるか分からないか。他に考えるべき出来事が何一つもないかのように、朝から晩まで人間のことばかり思い煩いつづけるようになりました。すると周りにいる人間も恐ろしいし、年老いることも病気になることもやがて死んでいくことも何もかもが恐ろしくなりました。だって、安心できる材料が彼らには今では何一つないからです(*1)。マリヤさんも同じでした。「どうしてそんなことが有り得ましょうか。いいえ、有るはずないでしょ。だって私にはまだ夫がないんですからね」(ルカ1:34)。マリヤを降参させた神の御使いの言葉は、ザカリヤを降参させ、アブラハムとサラ夫婦を降参させた言葉と同じです。37節、「神には、なんでもできないことはない」。「はい、分かりました。私が主人かとうっかり勘違いしていましたが、それは大間違いでした。あなたこそご主人さま。わたしは主人に仕える召使の中の、下っ端の下っ端の下っ端の下っ端です。そのことがやっと分かりました。主のお言葉どおり、この身になりますように」。私たち人間に出来ないことや分からないことは山ほどある。けれど、神にできないことは何一つない。しかも私もあなたも主人ではなく、殿様でもボスでもない。主なる神さまこそがご主人さま。私たちすべての生き物はただお独りのご主人さまに仕える大勢の召使たちの中の一人。しかも、下っ端の下っ端の下っ端の下っ端です。そのことが分かりますか。信じて受け入れることもできますか、本当に? ――ああ良かった。それならば(*2)、あなたも、クリスチャンとして晴れ晴れと生きて死ぬことができます。

          (*1)「恐れること」と「思い上がって自惚れること」は、10円玉の表と裏のようです。また、「私が私が」と我を張って思い上がり、意固地になることは、多くの場合、劣等感と卑屈さの裏返しでした。そのこだわりが私たち自身を不自由にし、狭い場所に縛りつけつづけました。けれど、そこから自由になる一つの道があります。『私たち人間に出来ないことや分からないことは山ほどある。けれど、神にできないことは何一つない』;これが、聖書からの最終的な回答です。同じことがもう一度報告されています。金持ちの青年が主イエスのもとにきて悲しみながら立ち去っていったとき、うっかり者の弟子のペトロは胸を張ってこう言いました;「ごらんなさい、わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従いました。ついては、何がいただけるでしょうか」。たったいま主イエスが仰った大事な発言をうっかり聞き流して、またもや早合点しています。だれが、どうやって救われるのか、という答えを。「人にはそれはできないが、神にはなんでもできない事はない」(マタイ福音書19:26)。この応えを受け入れることができれば、この神さまを信じることもできます。信じつづけて生きることもできます。ですから、よくよく覚えて魂に刻んでおきましょう。

(*2)「主のはしためです」(38);この直後、神さまをたたえる讃歌の中で、彼女はもう一度「この卑しい女をさえ!」(48)と自分自身を振り返ります。恵みの大きさに比べて私は卑しい。神の偉大さに比べて、私は無価値であると。「思い上がってはならない。自惚れてはならない」と聖書が繰り返し釘を刺しつづけてきた理由はここにあります。その自惚れのせいで、神さまの恵みを受け取ることができずにいると。救い主は身を屈めて、低い低い場所へと降りてきてくださいました。そこが救い主と出会い、恵みを受け取るためのいつもの待ち合わせ場所だったのです。ローマ手紙 3:21-,5:6-11,11:30-32,コリント手紙(1)1:26-31,テモテ手紙(1)1:12-17を参照のこと。







聖晩餐の説き明かし ①
自分をどう吟味するか?  ふさわしさとは何か?

・・・・・・だから、ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである。だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ杯を飲むべきである。主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである。     (コリント手紙(1)11:27-29

あるクリスチャンの友だちは若い頃、聖晩餐のパンと杯のある礼拝の席に座っていた。聖晩餐になり、コリント手紙(1)11章が読まれ、27節以下も含まれていた;「だから、ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯す。・・・・・・主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招く」。その友だちは「じゃあ、この自分はどうなんだ? 自分の中身はどうだろう」と振り返って、つくづくと自分を確かめてみた。とても恥ずかしくなり、いたたまれなくなった。「ああ 全然ふさわしくない私だ」。それで、彼はパンと杯を受けられなかった。確か、半年だか1年間だか、ずっとパンと杯を受け取ることができなかった。聖書は、ただ読み上げられるだけでは、とても危なっかしい。いつもいつも、十分に説き明かされる必要がある。「全然ふさわしくない私」。その通り。当たっている。けれど、それは聴き取るべき真理の中の半分にすぎない。大事な半分だが、残りのもっと大事な半分は、「その、ふさわしくない、不十分な人間を、神さまは憐れんでゆるし、喜んで迎え入れ、救う」ということ。宗教改革者はこう説明した;「この聖なる宴会は、病める者には医薬。罪人には慰め。貧しい者には贈り物。しかし健康な者、義しい人、豊かな者には何の意味もない。唯一の、最善のふさわしさは、彼の憐れみによってふさわしい者とされるために、私たち自身の無価値さとふさわしくなさを彼の前に差し出すこと。彼において慰められるために、自分自身においては絶望すること。彼によって立ち上がらせていただくために、自分自身としてはへりくだること。彼によって義とされるために、自分自身を弾劾すること。彼において生きるために、自分自身において死ぬこと」(J.カルヴァン『キリスト教綱要』。Ⅳ篇1740-42)。この洞察もまた、救い主イエス直伝の教えです。主はかつてこうおっしゃいました。「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マルコ福音書2:17)。神さまからの憐れみ、クリスチャンと人間すべてが何者であるのか。自分自身を弁え知っているべきこと。それらに関する究極の答えが、ここにありました。『自分は重病人であり、とても善い医者である神さまこそがこの私の生命を救いうる』という一大発見です。神のもとにある診療所(キリストの教会)で、毎週日曜日毎に、格別な診療行為がなされつづけています。それが礼拝の中で起こっている出来事です。牧師も役員たちも重病人でありつつ、神さまからの診療を受けつつ、しかもなお神さまご自身の診療行為のお手伝いをさせていただいています。なんということでしょう


さて、これがパンを食べ杯を飲み干すときの心得である。では、パンと杯が目の前にないときは? 同じだ。パンと杯が目の前にあっても無くても。兄弟姉妹たち。私たちは、ただただ、主なる神さまの憐れみによってだけふさわしい者とされる。神さまご自身からの慰めと力づけを、ぜひ受け取りたい。主によって立ち上がらせていただき、主によって生きることをし始めたい。つまり、主ご自身への信頼によって生き、他のナニモノに従ってでもなく主イエスの福音に従って選び取り、判断しながら日々の暮らしを生きること。いつどこででも、誰を前にし、何をしていても(コリント手紙(1)10:31,コロサイ手紙3:17,ローマ手紙14:6-10)