2016年1月17日日曜日

1/17「私たちに必要な糧を今日も」マタイ6:11-13、出エジプト16:1-31

                                        みことば/2016,1,17(主日礼拝)  42
◎礼拝説教 マタイ福音書 6:11-13,出エジプト記16:1-31   日本キリスト教会 上田教会
『私たちに必要な糧を今日も』~祈り.5~

  牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC


わたしたちの日ごとの食物を今日もお与えください。 (マタイ福音書 6:11)

16:3 イスラエルの人々は彼らに言った、「われわれはエジプトの地で、肉のなべのかたわらに座し、飽きるほどパンを食べていた時に、主の手にかかって死んでいたら良かった。あなたがたは、われわれをこの荒野に導き出して、全会衆を餓死させようとしている」。4 そのとき主はモーセに言われた、「見よ、わたしはあなたがたのために、天からパンを降らせよう。民は出て日々の分を日ごとに集めなければならない。こうして彼らがわたしの律法に従うかどうかを試みよう。5 六日目には、彼らが取り入れたものを調理すると、それは日ごとに集めるものの二倍あるであろう」。6 モーセとアロンは、イスラエルのすべての人々に言った、「夕暮には、あなたがたは、エジプトの地からあなたがたを導き出されたのが、主であることを知るであろう。7 また、朝には、あなたがたは主の栄光を見るであろう。主はあなたがたが主にむかってつぶやくのを聞かれたからである。あなたがたは、いったいわれわれを何者として、われわれにむかってつぶやくのか」。8 モーセはまた言った、「主は夕暮にはあなたがたに肉を与えて食べさせ、朝にはパンを与えて飽き足らせられるであろう。主はあなたがたが、主にむかってつぶやくつぶやきを聞かれたからである。いったいわれわれは何者なのか。あなたがたのつぶやくのは、われわれにむかってでなく、主にむかってである」。9 モーセはアロンに言った、「イスラエルの人々の全会衆に言いなさい、『あなたがたは主の前に近づきなさい。主があなたがたのつぶやきを聞かれたからである』と」。10 それでアロンがイスラエルの人々の全会衆に語ったとき、彼らが荒野の方を望むと、見よ、主の栄光が雲のうちに現れていた。11 主はモーセに言われた、12 「わたしはイスラエルの人々のつぶやきを聞いた。彼らに言いなさい、『あなたがたは夕には肉を食べ、朝にはパンに飽き足りるであろう。そうしてわたしがあなたがたの神、主であることを知るであろう』と」。                  (出エジプト記 16:1-12) 



  主の祈りの中の6つの願い。最初の3つは神さまについての願いであり、残りの3つは私たち自身についての願いです。私たちについての最初の願い;「日毎の食物を今日もお与えください」。それは具体的に現実的に、例えば三度三度飯を喰い、月々の家族の生活費を工面し、生きてゆく暮らしの一つ一つです。「おい 誰のおかげで飯を喰わせてもらっていると思ってるんだ? 誰に養ってもらっている」とある父親は家族に問いただします。俺様が汗水たらして働いて、そのおかげでお前たちは暮らしている。だから俺様の言う事を聞き、命令に従え、と言いたいのです。本当にそうでしょうか? もし本当にそうなら、その夫や父親の言うまま命じるままになんでもハイハイと従う他ありません。けれど少なくとも私たちクリスチャンは、ずいぶん違う腹の据え方をします。ねえ。「神さまのおかげで生きている。神さまに三度三度飯を食わせていただいているし、神さまにこそ養っていただいている」と教わり、そのように本気で信じています。だから神さまにこそ従って、神さまを自分のご主人さまとして生きることができます。一日一日健やかに生きてゆくために必要な一切を日毎に神さまにこそ求め、神から受けること。必要なものは様々あります。生命や健康、家族や仲間たち、働き場所、お金、そして食べ物。それらすべて一切を私たちは「どうぞ恵みによって与えてください」と願い求め、「ありがとうございます」と喜び感謝し、神さまご自身から、ただただ恵みによってだけ受け取ります。

 さて、出エジプト記16章。神の民とされたイスラエルの人々は、エジプトの国で400年もの長い間、奴隷にされていました。『奴隷』とは、人間ではない品物や道具のように、ただ他の人たちの思うままに、ただ便利に都合よくコキ使われつづける存在です。今の日本には、まるで「奴隷」などいないかのように思われています。けれど、「奴隷のように扱われつづける弱い立場の人々」は大勢います。例えば、原子力発電所で働いている、下請けの下請けの下請けの労働者たち。例えばアジア諸国から出稼ぎにきて「職業研修生」「農業実習生」などと呼ばれて安く便利にコキ使われ、搾取されつづける多くの労働者たち、アルバイトやパートや派遣や非正規雇用で働く労働者たち。大人ばかりでなく、小学校や中学校にも、他の子供たちからまるでモノや道具のように扱われる子供たちがいます。踏みつけにされつづける心細く貧しいその人たちがどんな気持ちで暮らしているか、嬉しいか悲しいかと誰にも気にかけてもらえない。なんと危うく、心細く惨めなことでしょう。私たちの先祖は、奴隷の国エジプトでそういう扱いを受けつづけた人々でした(出エジプト3:7-10)。神さまが憐れんでくださって、そこから連れ出してくださいました。助け出していただいて、とても嬉しかったのです。ありがとうございますありがとうございますと大喜びしていたはずの人々は、けれどエジプトから出て荒れ野の旅をしはじめて2カ月ほどたったとき、今度は、嫌な顔をして文句を言い始めました。「腹が減った。ああ、嫌んなった嫌んなった。こんなことならエジプトの国で奴隷だったほうが良かった。あのまま死んでしまってたほうが、よっぽどましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋があり、パンも腹いっぱい食べられたのに。神さまのせいだな。神さまの言うことなんか聞かなければ良かった。ああ、ヤダヤダヤダ」って。
  ブツブツ文句を言う彼らの声は、もちろん神さまの耳に届きました。12節;「わたしはイスラエルの人々のつぶやきを聞いた。彼らに言いなさい、『あなたがたは夕には肉を食べ、朝にはパンに飽き足りるであろう。そうしてわたしがあなたがたの神、主であることを知るであろう』と」。ビックリですね。不平不満ばかりを言う心のねじ曲がった人々を、けれども神さまは厳しく叱りつけたり、懲らしめたり、追い払ったりしません。それどころか正反対に、パンも肉も腹いっぱい食べさせ、『神さまが本当に主であってくださり、責任をもってちゃんと養ってくださる方だ』とよくよく分からせてあげる。こういう神さまです。神さまは、私たちをこういうふうに取り扱いつづけています。よくよく覚えておきましょう。「それぞれ必要な分だけ、それぞれ自分と家族がその日に食べる分だけ、1日分ずつ集めなさい。次の日にも、ちゃんと集めることができる。だから、次の朝まで残しておいてはいけませんよ」(16,17節参照)と命じられました。そうそう、6日目と7日目には、特別なことが命じられ、不思議なことが起こりました。6日目には2日分のマナを集めることが出来ました。それは、神さまから命令されたとおり、煮たり焼いたりして、次の日まで残しておいて、次の7日目に食べることができました。それで7日目の安息日(あんそくび)は、もっぱら神さまのためにだけ使うことができたのです。礼拝をして、神さまがどんな神さまで、私たちをどんなふうに取り扱ってくださるかを教えられ、「ああ本当にそうだ」と喜びと感謝を心に刻んで(22-26)。生きてゆくために、自分と家族のために生活の糧を得るために、この彼らが6日間くりかえしていることをご覧ください。夕方には、飛んできたうずらを集め、朝には「これは何だろう」とマナを集めます。自分と家族が暮らしてゆくために必要な分ずつを、毎日、神さまから受け取って拾い集め、そのまま食べたり、煮たり焼いたりして食べたりし、おなかいっぱいに食べて満たされ、神さまに感謝する。そのようにして、「神さまが本当に私たちのご主人さまだ。本当にそうだ」とお父さんもお母さんも、おじいさんもおばあさんも、はっきり知るようになる(12)
  「これはいったい何だろう。どうして神さまはこんなにも手厚く、こんなにも慈しみ深く親切に世話してくださるのか。どうしてだろう」(15節参照)と目を丸くして驚きながら、うずらやマナを自分と家族がその日必要な分だけ集め、水を汲み、煮たり焼いたりして食べる。欲張って必要のない分まで掻き集め、自分勝手にむさぼり食べようとするとそれは腐ったり、嫌な臭いがしはじめ、神さまからも厳しく叱られる。彼らの1週間の暮らしぶりと今日の私たちの暮らしぶりは、よく似た所があるでしょうか? それとも、かなり違うでしょうか。神さまに対する彼らの信頼や感謝と、神さまに対する私たちの信頼や感謝は、よく似ているでしょうか。それとも、いつの間にか、ずいぶん違ったものになってしまったでしょうか。あの人たちの暮らしは、今日の私たちから見ると、ずいぶん単純で、気楽で、素朴すぎるような気もします。時代遅れで古臭すぎる、今では通用しない考え方なのでしょうか。例えばここで、ぶどう園で朝早くから雇われて夕方まで働いた労働者たちは、腹を立てはじめます。「何を言っている。暑い中を私たちは一日中汗水流して働いた。嫌な思いも我慢して、ストレスも山ほど溜め込みながら、くたくたになるまで働いた。したいことも我慢してしなかった。したくない仕事も嫌々渋々やらされた。ただニコニコして拾い集めただけの彼らと、この私たちとを同じに扱うとは。うずらとパンの彼らの取り分を減らせ。それとも、私たちの賃金をもっと多く支払え。えこひいきじゃないか」(マタイ福音書20:12参照)と。ああ、確かにそうです。当時の彼らと今日の私たちとでは、ずいぶん違います。今では私たちは、それぞれにいろいろな種類の仕事をしています。複雑で難しい仕事や責任をたくさん抱えて働いている人もいるでしょうし、骨の折れる、ストレスがいっぱい溜まる辛い仕事をしつづけている人もいるでしょう。その結果として、人の5倍も6倍もうずらやマナを集めて、何不自由なく豊かに快適に暮らしている人々もおり、その一方では、ほんの少ししかうずらやマナを集められない、自分の子供たちのが食べる食料品や衣類や学用品や給食費さえも満足に支払えない貧しい父さん母さんたちもいます。おかげで、神さまのことがすっかり分からなくなりました。有り余るほど手に入れて豊かに贅沢に暮らす人々も、ほんの少ししか集められない、追い詰められて貧しく困窮する人々も、それぞれに、神さまに感謝したり信頼したりすることがますます難しくなりました。
  あなた自身の腹の据え方はどうでしょうか? たしかに、現実の生活こそが重大問題です。毎日のいつもの現実を、どう現実的に理解するのか。三度三度の飯を食べていけるかどうか。毎日毎日の生活費を工面できるかどうか。子供や家族やわが身を養っていけるかどうか。かつて三波春夫さんが言ったように、お客様や経営者が神様でしょうか? われわれシモジモの者がおり、他方には上に立つお偉くてご立派なカミガミがおられて、畏れ多いそのオカミは本当に神様でしょうか。いいえ、とんでもない。たかだか生身のごく普通の、神さまから土の塵をこね合わせて造られた人間にすぎません。天皇陛下やお国を守って死んでいった兵隊さんたちも、真田幸村も武田信玄も、死んでも神になどなりません。また例えば父親や夫が主人であり、大黒柱でしょうか。いいえ、それは配偶者、それは夫。(大切な愛する家族ですけれども)一家の父親や夫に飯を食わせてもらっているわけではありません。それは大黒柱ではありません。(敬うべき人々ですけれども)会社の経営者から月々の生活費を貰っているわけではありません。(それぞれ精一杯に働いていますけれども)自分自身の甲斐性と働きで、自分で自分と家族を養っているわけでもありません。彼らも私たち自身も神様ではなく、主人でも大黒柱でもなかったのです。だから神さまは、あの彼らに「私こそがあなたに食べさせ、満足させる。そうしたら、そこでようやく神こそが主であることを、あなたも知るようになる」(出エジプト記16:12,申命記8:9-10参照)と。本当でしょうか。ここにいる私たちの多くは何不自由なく十分にパンを食べ、満ち足りて暮らしています。じゃあ私たち自身は、神さまに十二分に感謝し、神さまにこそ全幅の信頼を寄せて生きる者とされたでしょうか。
  16章末尾の32-36節は、神さまへの信仰と信頼を自分自身が受け取り、子供や孫たちにも手渡してゆくための良い手本です。壺に1人が1日食べる分のマナを保存し、代々に渡って蓄える。なぜか。何のために? 災害時のための非常用保存食料としてではありません。素敵な博物館をやがて建てるときのための展示品としてでもありません。連れ合いや、自分の大切な子供や孫や、その子供の子供の子供に見せるためである。「これは何?」とその子たちが興味津々に質問するなら、そこで、あなたとその人との間で信仰の手ほどきが始まるでしょう。ご存知でしたか。今でも、わたしたちの手元に、この壺は残されています。『わたしたちが一日一日と生きてゆくために必要な糧を、神さまどうぞ今日も与えてください』という名前の同じ壺が、1人1個ずつ手元に与えられています。受け取っている糧の具体的・日常的な1つ1つを、家族や子供らと共に「これはいったい何だろう」(15)と驚きつつ、吟味してみましょう。あなたのためにも贈り物は必要かつ十分であり、しかも豊かだったのです。「暑い中を一日汗水流して働いた。それなのに」と腹を立てたあの淋しい労働者たちは、ですからとても残念でした。「私がいただく分の財産の分け前をください」と受け取って家を出ていき、天からのうずらもマナも使いつぶしてしまったあの放蕩息子は、とても残念でした。「何年もあなたに仕えて働きました。それなのに」と、父の家にいながら不平不満をくすぶらせつづけた兄さんも残念でした。「私だけに働かせて、何とも思わないんですか」と渋い顔をしていたマルタ姉さんも残念でした(マタイ6:31-33,20:1-16,ルカ10:35-42,15:11-32)。あのうかつな彼らは、出エジプト記16章を読んだことがなかったらしいのです。申命記8章も、うっかり読み飛ばしていました。箴言317-9節の手ほどきをしてくれる人も、そばにただの1人もいませんでした。ときどき『日用の糧を今日も』と皆と一緒に口ずさんでも、あまりピンと来ませんでした。
 けれどもしかしたら、その淋しい人々の中から、天からの恵みの肉と天からの恵みのパンを慕い求めて父の家に返ってくる者たちが1人また1人と起こされるかも知れません。いなくなっていたのに見つかり、死んでいたのに生き返る放蕩の息子や娘たちが。そのとき、その1人のために、天に大きな喜びがあります。神さまご自身の喜びです。わたしたちの日毎の食物を今日もお与えください。私たちが普段生活していく上で必要なものを、どうぞこの日も私たちに与えてください、と祈ります。祈る度毎に、「必要な糧を神さまが、私たちに、この私にも贈り与えてくださった。ありがとうございます」と私たちは神さまに感謝し、神さまに願い求め、神さまにこそ一途に信頼を寄せします。では最後の質問。あなたは、神さまからどんな良い贈り物をいただいているでしょう?  朝ごはん、昼ごはん、晩ごはん。子供たちの学費、養育費、電気代ガス代、家族。友だち。職場の仲間たち。神への信頼と感謝。1日分ずつの生命。健康。どれもこれもが一切合財、神さまからの恵みの贈り物です。祈りと、神さまを信じる信仰さえもが 「ああ本当にそうだ」と、あなた自身も心底から了解できますか? なんという恵み、なんという喜びでしょう。