2017年10月3日火曜日

10/1こども説教「罪人を迎え入れる救い主」ルカ15:1-3

 10/1 こども説教 ルカ15:1-3
 『罪人を迎え入れる救い主』

15:1 さて、取税人や罪人たちが皆、イエスの話を聞こうとして近寄ってきた。2 するとパリサイ人や律法学者たちがつぶやいて、「この人は罪人たちを迎えて一緒に食事をしている」と言った。3 そこでイエスは彼らに、この譬をお話しになった、        (ルカ福音書15:1-3

  ケンちゃん。救い主イエスの様子を見て、見下してバカにしたり悪口を言ったり、プンプン腹を立てる人々がいます。「罪人たちを迎えて一緒に食事をしている」と。でも、これは本当のことです。神に逆らって、「自分が自分が」と強情に自分勝手になりつづけることが罪の中身です。そ神に逆らいつづける罪人を迎え入れて、その哀れで惨めなつまらない生き方から救い出してくださるために、そのためにこそ救い主イエスはこの世界にこられました。「罪人たちを迎えて一緒に食事をしている」。そのとおりです。いっしょに仲良く愉快に過ごすし、楽しく食事もするし、「自分勝手に強情を張りつづけることがどんなにつまらない生き方なのか。そんなことを止めて神に従って生きることがどんなに幸せで嬉しいことなのか」もていねいに教えてあげながら。でも、パリサイ人と律法学者たちが勘違いしていることが1つだけありました。主イエスと一緒に食事をしている人たちだけが罪人なのではなくて、一人残らず誰も彼もが神に逆らう罪人だし、実は、そうやってその人たちを見下している彼らこそがその千倍も万倍も罪深く、神さまに逆らってばかりいる人間たちだったのです。そのままでは、人を見下して自惚れているその人たちこそが、神さまのもとに辿り着きそこねてしまうかも知れません。神さまからの祝福も恵みも、すっかり受け取りそこねてしまうかも知れません。ああ大変だ。

     【補足/誰と誰がふさわしいか?】
主イエスとその人々との食卓にも、やはり格別な喜びが満ちていました。種々雑多な人々が、いつのもように主イエスの周囲に集まっていました。小さな子供や赤ちゃんもそこにいて、大工も漁師も取税人もいて、病いを抱えた人も、さまざまな貧しさや困窮を抱えた者も、さげすまれ身を屈めさせられていた者たちも主イエスと共に食卓につき、話を聞き、語り合いながら、愉快に飲み食いさえしていました。その一方で、「選りにも選って、どうしてあんな人たちと」と眉をしかめ、苦々しく思う者たちもありました。救い主と共に食卓につく。それこそがキリストの教会の姿であり、キリスト者の姿です。『キリストの教会がキリストの教会であること。キリスト者がキリスト者であること』。それを、私たちはどんなふうに思い描いていたでしょう。『救い主と一緒にうれしい食事の席につく』のに、誰と誰がふさわしいか? それが、キリストの教会を思うとき、一個のキリスト者である私たち自身を思うとき、いつも立ち帰ってゆくべき根源的なイメージです。そこで主イエスは、たとえ話を話されました。この15章の3つのたとえ(15:3-7,8-10,11-32)は3つで1組であり、『ルカ福音書の心』だと言い習わされてきました。いいえ、聖書66巻全体の心だと言っていいでしょう。今日から5回つづけて、たとえ話をごいっしょに味わってゆきます。お楽しみに。

10/1「主が用いてくださる」マタイ21:1-11

                        みことば/2017,10,1(主日礼拝)  130
◎礼拝説教 マタイ福音書 21:1-11               日本キリスト教会 上田教会
『主が用いてくださる』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

21:1 さて、彼らがエルサレムに近づき、オリブ山沿いのベテパゲに着いたとき、イエスはふたりの弟子をつかわして言われた、2 「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつながれていて、子ろばがそばにいるのを見るであろう。それを解いてわたしのところに引いてきなさい。3 もしだれかが、あなたがたに何か言ったなら、主がお入り用なのです、と言いなさい。そう言えば、すぐ渡してくれるであろう」。4 こうしたのは、預言者によって言われたことが、成就するためである。5 すなわち、「シオンの娘に告げよ、見よ、あなたの王がおいでになる、柔和なおかたで、ろばに乗って、くびきを負うろばの子に乗って」。6 弟子たちは出て行って、イエスがお命じになったとおりにし、7 ろばと子ろばとを引いてきた。そしてその上に自分たちの上着をかけると、イエスはそれにお乗りになった。8 群衆のうち多くの者は自分たちの上着を道に敷き、また、ほかの者たちは木の枝を切ってきて道に敷いた。9 そして群衆は、前に行く者も、あとに従う者も、共に叫びつづけた、「ダビデの子に、ホサナ。主の御名によってきたる者に、祝福あれ。いと高き所に、ホサナ」。10 イエスがエルサレムにはいって行かれたとき、町中がこぞって騒ぎ立ち、「これは、いったい、どなただろう」と言った。11 そこで群衆は、「この人はガリラヤのナザレから出た預言者イエスである」と言った。                                                (マタイ福音書 21:1-11)
                                
  エルサレムの都がほんの目と鼻の先に近づいてきました。そこに何が待っているのかを救い主イエスは知り、私たちも知っております。主の十字架の苦しみと死が待ち構えています。ご自分の惨たらしい無残な死に向かって、それを見据えながら、主は進んでいかれます。それこそが、私たち罪人を救うためにぜひとも必要なことでした。もし、それがなかったとしたら、私たちの誰1人として救われず、神の子とされることも、主イエスの福音を信じて生きることも、決して有り得なかったのです。ここにいる私たちも、それぞれに、ずいぶん違った生涯をそれぞれに歩んでいたはずだったのです。もし、そうでなかったならば。
 聖書は、やがて救い主がどんな姿でどのようにやって来るのかを、繰り返し繰り返し予告していました;「やがて時が来て、私たちの王が私たちの所へ来てくださる。救いと解放をもたらすために。その方は高ぶることなく柔和に謙遜に、低く身をかがめて、そのとおり子供のロバの背にまたがってやってくる」(ゼカリヤ書9:9)。子供のロバを手に入れて、そのロバの背に乗り、主イエスはエルサレムの都に入っていかれます。聖書に親しんできた人々は、誰もが皆気づきました。「ああ、聖書に書いてあったとおりだ」と。聖書に書いてあった救いの光景そのままだ、この方こそ待ち望まれていた救い主だ、と。人々は道の両側に立ち並んで、旗を振るようにシュロの枝を振り、神様を誉めたたえて叫び、自分の衣服を主が通っていかれる道に敷き詰め、そのようにして主イエスを喜び迎えます。
  神は、どんな神だったのでしょう。人間の目に見えない隠れている事柄にも目を向け、人間の心の中にあるものを知り、先にある出来事のすべてをも見通す神でした。人間が生まれる前から、何事かを心に思ったり、考えたり、なにかを行ったりし始める前から、その1人1人をすっかり丸ごと知り尽くす神です。ここにいるこの私たちに対しても、まったくそうです。2-3節。今日のこの箇所の冒頭で、一同に先立って2人の弟子をある村に遣わそうとして、主イエスは指図を与えます;「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつながれていて、子ろばがそばにいるのを見るであろう。それを解いてわたしのところに引いてきなさい。もしだれかが、あなたがたに何か言ったなら、主がお入り用なのです、と言いなさい。そう言えば、すぐ渡してくれるであろう」。彼らが使いに出ていくと、言われた通りでした。ですから彼らは主から命じられた通りにしました。出掛けて行った先で彼らが何を見るのか、どんな言葉を聞くのかを、主イエスは確信を持ってはっきりと告げます。まるで、すっかり全部そうなるようにあらかじめ決められていたかのように。まるで、すっかり見通しておられるかのように。その通りです。子供のロバのことも、主には分かっていました。私たちそれぞれのことも、もちろん、主イエスはすっかり十分に分かっておられます。
 主ご自身のご用のために、主が、この私たちをも用いてくださる。
  では、私たち自身のそれぞれの生活の必要のためには、また、この上田教会のためには、私たちは、その必要なものをどこから手に入れたり、どんなふうに調達したりできるでしょう。よく思い出すのですが、何年も前の教会の会議の中で、集まった者たちは『引退牧師たちの生活のための年金をどうやって維持しようか』と頭を悩ませていました。社会保険や厚生年金と同じ状況です。このままではあと数年のうちに財政破たんしてしまう。北海道の夕張と同じになってしまう、どうしよう。呼びかけて、もっとたくさん献金が集まるように工夫しよう。それぞれの負担金の割り当て額を増やそう。年金を差し上げ始める年齢を70歳から75歳へ、さらに80歳に引き上げよう。支給額を毎月7万円から6万円へ、さらに5万円へと引き下げよう。いやあ、それでは生活できない。申し訳ない。すると、すでに現役を退いている高齢の引退牧師の一人が手をあげて発言しました;「どうぞ、皆さん。あまり心配しすぎないでください。大丈夫ですから。だって私も、我らの日毎の糧を今日も与えたまえと毎日祈っています。ただ口先だけで祈っているだけではなく、本気で、心底から、そう信じていますから。皆さんも、そうでしょう?」と。神さまが、私たちに必要ないつもの生活の糧を今日も明日も明後日も、ちゃんと与えてくださる。日毎の糧、そこには引退牧師の月々の生活費も、もちろん含まれます。私たちのそれぞれの家の電気代、ガス水道代、光熱費、さまざまなローンの返済などもそうです。『自分たちで稼いで、工面して、自分たちで働いて、だから成り立っている』と、もし思うなら、その腹の据え方はずいぶん危うい。神さまは生きて働いておられ、ご自身を自分自身で養い支えておられるばかりでなく、この神さまは、全世界とこの私たち一人一人の生活をも養い支えておられます。これまでもずっとそうだったし、今も確かにそうであり、今後とも変わらずにそうです。神さまから、日毎の必要で十分な糧を与えられ、養われて生きる私たちです。あの引退牧師は、皆が心配しすぎるあまりに、その肝心要をすっかり忘れて、すっかり分からなくなってしまっては一大事だと案じたのです。いつのまにか、生きて働く神さまをそっちのけにして、『人間たちのための・人間たちによる・人間たちのものである教会』に成り下がってしまう。「感謝だ」と言いながら、感謝ではないものがそこにどんどんどん紛れこんできてきてしまう。「感謝だ」と言いながら、いつの間にか、それは「感謝」とは似ても似つかないものにすっかり変わり果ててしまう。「神さまへの信頼。神さまの御心に聴き従い、全面的に神に服従し、神にこそ仕えて生きる」と言いながら、それらがどんどんどんどん似ても似つかない別のものへとすり替わっていってしまう。そのことをこそ深く恐れました。『神に信頼し、神に聴き従って生きる』のか、それとも『サタンと自分の腹の思いに聴き従いつづけ、やがて死と滅びへと行き着く』のか、そのどちらかしかないからです。だから、心底から恐れたのです。私たちが働いて、献げて、維持しているだけでなく、《神ご自身こそが第一に、豊かに、十分に、生きて働いておられる》とのです。毎月の私たちの教会の働きも、教会員が十分にしっかり担って、必死に維持しつづけなければ破綻してしまうのかといえば、決してそうではありません 当たり前ですよね。神ご自身が断固として、第一に、全責任を負って維持なさり、牧師とその家族の生活もやはり神ご自身が恵みによって養ってくださっているということです。私たち自身のそれぞれの生活もまったく同様です。教会も一個のキリスト者もすでに、自分の力と手の働きによって自分自身を養っているのではありません(申命記6:10-12,8:17-18,9:4-6)。また、「教会のため神さまのために、私には何ができるか」と考えることは尊いことですが、そればかりでなく、「こんな私のためにさえ、神は何をしてくださるのか」と目を凝らしたいのです。私たちの神は、私たちが支えなければ倒れてしまう神ではなく、私たちが担いで運ばなければ動けない神ではありません。私たちが食べ物を供えなければ飢えて腹ペコになってしまう神でもありません。むしろ、神は御自身を養い、この私たち一人一人をもただ恵みによって豊かに養ってくださる方でした(40:7,51:18,127:1-2,イザヤ1:11,46:1-2,エレミヤ10:5)
  さて兄弟姉妹たち。ここにいる私たちはいったい何者でしょうか。『主がお入り用なのです』と答えて、それをするようにと命じられたあの2人の弟子たちです。また私たちは、ロープで柵に繋がれていたあの子供のロバです。また私たちは、道端で歓声をあげるあの群衆です。思い浮かべていただきたい。私たちは、あの2人の弟子です。見知らぬ村へと主に先立って遣わされ、そこに繋がれている子供のロバを連れてきます。あるいは別のときには、疲れ果てたおじいさんおばあさんの姿形をしたロバかも知れません。お父さんお母さんの姿形をしたロバ、中学生高校生、もしかしたらもっと若い子供の姿形のロバかも。病気がちで、この頃は歩くのもやっとのロバかも知れません。とても貧弱で貧相な、誰にも顧みられないような小さな弱々しいロバかも知れません。柵に繋がれている彼らを見つけ、ロープを解こうとして、「何をするつもりか」と問い詰められるかも知れません。「止めなさい。勝手なまねはするな」と厳しく叱られるかも知れません。どうしましょうか? 『はい。主がお入り用なのです。主が、このロバを、ご自分のご用のために用いてくださいます』と答えましょう。聞き入れられず、跳ね除けられるかも知れません。馬鹿にされ、罵られ恥をかくかも知れません。それどころか不当に逮捕され、何の道理も根拠もなく何ヶ月も不当に留置所に閉じ込められるかも知れません。今日では、それは大いに有り得ます。それでもなお私たちは、『主が、この私をも用いてくださるのです。神に聴き従うよりもあなたがたに聴き従うほうが神の御前に正しいかどうか、判断してもらいたい。私たちはとっくの昔から判断していますけれども』と答えましょう。1度だけでなく、3度4度5度6度と、誰に向かっても繰り返し答えましょう。思い起こしていただきたい。私たちは皆、あの貧弱な子供のロバでした。村の片隅で、何をするでもなく、ただ柵に繋がれていました。そして、「自分は貧弱で貧相な、何の取り柄もないただの普通のロバだ。人を乗せたこともなく、重い荷物を運んだこともない」と思っていました。けれど柵につながれたそのロープを解いてくれる者たちがいて、彼らはなんと、「あなたを主が用いてくださる。主の大切なご用のために、あなたを使うと仰っています」と告げたのです。「え? まさか、こんな私をですか。人違いじゃありませんか」。もちろん私たちは、自分自身の小ささや貧しさを知っています。人を乗せたこともなく重い荷物を運んだこともない、どこにでもいるような、ほんの小さな、ごく普通の子供のロバです。それでもなお、主が、こんな私をさえ用いてくださる。「ぜひ使いたい」と仰った。主の御前へと連れ出され、それ以来、背中に主をお乗せして歩いている私たちです。それがクリスチャンの姿であり、実態であり、それがキリスト教会の姿です。なぜなら主は、大きいとか小さいとか、貧しいとか豊かだとか賢いとか愚かだとか、取り柄や働きがどれだけあるかと、上がったり下がったり、見上げたり見下したりするくだらなさから、私たちを救い出し、そこから自由にしてくださるために来てくださいました。美しいサラブレットでもなく、高級なロールスロイスやベンツでもなく、戦車や飛行機でもなく、無に等しいこんな私たちを。主は、わざわざ選び取って用いてくださいました(コリント手紙(1)1:26-31)。高ぶることなく、柔和に謙遜に、低く身を屈めて道を進んでいかれたこの方こそが、私たちの王であるからです。用いて下さると仰るので、私たちは、「それなら用いていただきましょう」と腹を据えました。「末永く、どうぞ、よろしくお願いします」と仰ぎ見ました。それで、子供のロバである私たちは、例えば礼拝の中で献げものをするときに、こう祈りました;「主なる神さま。袋の中のものと一緒に、私は私自身をあなたの御前に差し出し、あなたに献げます。どうぞ、こんな小さな貧しい私ですけれど、主のご用のために用いて下さい。私が生きてきましたこの1週間の働きも、あなたの御前に差し出し、あなたに献げます。正直に申しますと、とても小さな貧しい働きでした。ブツブツ不平や文句を言ったり、『こんなにしてやっているのにどうして』などと恨んだり、苛立ったり怒ったりしながらの働きもあったのです。溜め息をつきながら嫌々渋々とした働きもありました。けれど憐れみによって、あなたが清めてくださって、そこに生命を与えて用いてください。どうぞ、あなたからの憐れみとゆるしを受け取りながら生きる私たちとならせてください」と。主が清めてくださるなら、私たちは清くなります。主が用いて下さるならば、こんな私たちの粗末な働きであっても、なお豊かに用いられ、きっと実を結びます。憐れみによって主が活かしてくださるならば、私たちは生きます。たとえ弱々しく危うい生命であっても。それこそが、いつでも、私たちの喜びと力の源でありつづけるからです。
 なにしろ、こんな私たちをさえ救い出して、神の子供たちとして迎え入れてくださるために、《神の子羊》として救い主イエス・キリストが遣わされました。世界と、この私たち自身の罪をすっかり取り除くことのできる神の子羊。十字架の上で引き裂かれた主の体と、流し尽くされた主イエスの尊い血潮を注がれて、それで、だからこそ、私たちはここにいます。今日こうしてあるを得ております。罪を、神に逆らう腹の思いを取り除かれ、日毎に新しくされて、神の御心に素直に従って生きる者とされつづけるために。神に用いていただける祝福された子供のロバたちよ、さあ喜びの叫びを上げなさい。私たちに救いと平和をもたらす平和の王が来られました。すでに、私たちの只中に来ておられます。その方は、救い主イエスは、高ぶることなく身を屈め、子供のロバに乗って。子供のロバのような私たちの背にまたがって。なんという恵み、なんという幸いでしょうか。






2017年9月27日水曜日

2017年日曜学校夏期学校「神のみこころ(2)」

《主題のお話》
  『羊と銀貨をさがす神さま』     201783
                                     牧師 かねだせいじ

15:1 さて、取税人や罪人たちが皆、イエスの話を聞こうとして近寄ってきた。2 するとパリサイ人や律法学者たちがつぶやいて、「この人は罪人たちを迎えて一緒に食事をしている」と言った。3 そこでイエスは彼らに、この譬をお話しになった、4 「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。5 そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、6 家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。7 よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう。8 また、ある女が銀貨十枚を持っていて、もしその一枚をなくしたとすれば、彼女はあかりをつけて家中を掃き、それを見つけるまでは注意深く捜さないであろうか。9 そして、見つけたなら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『わたしと一緒に喜んでください。なくした銀貨が見つかりましたから』と言うであろう。10 よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、神の御使たちの前でよろこびがあるであろう」。                (ルカふくいんしょ15:1-10


  10まいの銀貨をもっていた女のひとがその中の1まいをなくしてしまいました。すると、家中ひっくりかえして夜どおし捜しつづけ、見つけたら大喜びに喜ぶというのです。それはちょうど、100ぴきの羊を飼っている羊飼いがその中の1ぴきを見うしない、たいへんな苦労をしてさがしだし、大喜びで連れ帰るのと同じように。それはちょうど、二人の息子がいる父さんが一人の息子がようやく家に帰ってきたのを出迎えて喜びにあふれるのと同じように。1まいの銀貨。1ぴきの羊。出て行ってもどってきた一人の息子。そして、ずっと家にいっしょにいたはずのもう一人の息子。それらが、神を見うしなってはぐれていた私たちじしんである、と聖書は語ります。例えば、あの羊がどんなふうに迷子になったのかは、私たちには分かりません。うっかりしていたのかも知れないし、自分勝手だったのかも知れません。おおかみや羊ドロボウに目をつけられていたのかも知れません。迷子になって、どうしていいか分からなくなって、「帰りたい帰りたい」とメエメエ鳴いたのかも知れないし、あるいは、迷子になったとも気づかず気楽に気ままに草をムシャムシャ食べつづけていたのかも知れません。さて、あの銀貨は、うっかりしていたのでもなく自分勝手だったのでもなく、帰りたいと鳴いたのでもなく、自分で帰ってこようとしたのでもありませんでした。だって、ただの銀貨だったのですから。ただ財布から落ちて、コロコロころがって、タンスとタンスのすきまかテーブルのしたか本や古しんぶんのページのあいだかどこかにまぎれこみました。自分がどこかにいなくなった、とも知りませんでした。放っておけば100年でも200年でもそのままいなくなったままでしょう。見つけだされて主人の手にもどっても、たとえ持ち主が大喜びに喜んだとしても、けれど銀貨は、うれしくも何ともない。持ち主の手にもどったことに気づきもしないでしょう。
 ここで、ひとつ気づくことがあります。3つのたとえ話を始めるきっかけとなったばめん(1-2せつ)。主イエスといっしょに楽しいゆかいな食事の席についている人々。そして、遠くからながめて「どうしてあんな人たちと」とプンプン怒っていた人々。主イエスとともに食卓についていたあの人たちは、それをうれしく思っていました。ちょうど羊飼いのもとに連れもどされた羊のように。ちょうど、父の家に迎え入れられたあの弟のように。そのいっぽうで、遠くから眺めて「どうして」と腹立たしく思っていた人たちはどうでしょう。いっしょに席についたとしても、ソッポをむいて、つまらなそうにしているかもしれません。ちょうど、見つけだされて持ち主の手の中にもどった銀貨がうれしくも何ともないのと同じように。けれど兄弟たち。連れもどされた羊が喜ぼうが喜ぶまいが、見つけだされた銀貨がそれを何とも思わなくたって、なにしろ羊飼いはうれしい。なにしろ銀貨の持ち主はうれしい。なにしろ、あの父親はうれしい。

                      ◇        ◇

 あの羊飼い。そして銀貨をなくした女のひと、そして息子がいなくなってしまった父さん。それらはみな、神さまのことです。すると、「銀貨10まいをもっている女」と言いましたけど、ほんとうには、10まいしかもっていない貧乏な女のひとが、とても貧しくて貧しくてその1まいがなかったらごはんを食べるにも困るほどで、それでとても困って必死にさがしまわる、ということではありません。むしろこの女はビックリするほどの大金持ちで、財布のなかにはありあまるほどのたくさんのお金がウジャウジャはいっています。神さまなんですから。その1まいが見つからなかったら毎日毎日の暮らしに困る、というわけでもありません。困る困らない、都合がいい都合がわるいという話でもありません。

 7,10せつ。「大きな喜びが天にある。神の天使たちのあいだに喜びがある」。神の喜びは、神の悲しみや痛みとひと組です。神さまのほうに向いていたはずの一人のゆるされた罪人が、いつのまにか人間のほうへ人間のほうへと思いを曇らせ、心をまどわせてゆく。ついに人間のことばかり思いわずらい、神を思うことを忘れてしまう。すると、その一人の魂を思って、天に大きな大きな悲しみと痛みがある。その一人の迷い出てしまった10円玉か5円玉のようなかわいそうなかわいそうな罪人を思って、「どんなに心細く、おそろしくて、みじめだろうか。かわいそうだ、かわいそうだ」と神さまがどんなに心を痛め、どんなにふかく嘆き悲しむことか。だからこそ、立ち帰ってきたその一人の罪人を思って、神ご自身が大喜びに喜んでくださる。その喜びの大きさは、その人のための神さまご自身の悲しみや嘆きの大きさとひと組でした。とてもとても心配して悲しんでいた分だけ、それだけとても大喜びに喜んでいます。目をこらしてください。あの一人の羊飼いは大喜びに喜んでいます。「皆さ~ん、いなくなっていた羊をとうとう見つけましたア。いっしょに喜んでください」。あの一人の女も喜んでいます。「うれしい、うれしい。わあい。ほんとうにうれしい。どうぞ、いっしょに喜んでください」。

2017年9月26日火曜日

9/24こども説教「塩気がなくなったら」ルカ14:34-35

 9/24 こども説教 ルカ14:34-35
 『塩気がなくなったら』

14:34 塩は良いものだ。しかし、 塩もききめがなくなったら、何によって塩味が取りもどされようか。35 土にも肥料にも役立たず、外に投げ捨てられてしまう。聞く耳のあるものは聞くがよい」。
(ルカ福音書 14:34-35

  ケンちゃん。「あなたがたは世の光であり、地の塩である」(マタイ5:13-16と主イエスから教えられている私たちです。光には、自分自身やまわりを照らし出して明るくし、よく見えるようにする役割があります。塩にもいくつか大切な役割があります。食べ物を良い味にしあげますし、食べ物が悪くなって腐ってしまわないように、長持ちさせます。私たちがこの世界のための塩だとしたら、とても優しい良い神さまが私たち皆を大切に思い、可哀想におもってくださって、助けてくださろうとしていることを知っているからです。だから私たちは塩ですし、それが私たちの塩気です。けれど、とても優しい良い神さまが私たち皆を大切に思い、可哀想におもってくださって、助けてくださろうとしていることを、もし、すっかり忘れて、分からなくなってしまったら、その人は塩気がなくなって、もう塩でもなんでもありません。それでは困ります。とても優しい良い神さまがこんな私のことも大切に思い、可哀想に思って、何度も何度も助けてくださったし、これからも助けてくださる。他の人たちに対しても同じくそうだ。もし、その大切なことを思い出すことができさえすれば、ただそれだけで またその人は光の子供に戻り、塩気のある子供に戻っています。ああ、よかった。


      【補足/塩で味付けられている】
塩をかけるとおいしくなるだけでなく、その食べ物は腐らないで長持ちします。塩辛とか、塩魚とか。聖書は勧めます「いつも、塩で味付けられた、やさしい言葉を使いなさい」(コロサイ手紙4:6)私たちは漬物のようです。聖書の言葉を自分の体にふりかけられて、頭の上に重い重い大きな石を乗っけられて、しばら~くするとおいしい漬物になります。しんなり柔らかくなるし、ワガママ勝手で頑固なトゲトゲしいところがだんだんと少なくなっていって、やさしく親切な、思いやり深い人間にされていきます。
      地の塩だし、世のための光だと言われています。それはなにしろ、救い主イエス・キリストこそがこの世界を照らす、明るく輝く光だからです(ヨハネ1:9,8:12,テサロニケ(1)5:5,イザヤ60:1)。主イエスから教えていただいて、主イエスに聴き従って生きているので、私たちも、主イエスの光を鏡のように反射して、その明るい光で自分自身や周りを明るく照らすようになります。これが神さまからの約束です。主イエスからの明るい光に照らされて、するとまず、自分自身が何をしているのか、どんな態度で人と付き合っているかがよく分かるようになります。自分がしている良いことも、悪いことも (ヨハネ手紙(1)2:9-11)。ああ、そうだったのか。「私が私が」と強情を張るのを止めて、やさしい素直な心を取り戻しとき、やっと、神さまのもとに戻ってくることができました。ああ、よかった。

9/24「何をしてほしいのか」マタイ20:29-34

                       みことば/2017,9,24(主日礼拝)  129
◎礼拝説教 マタイ福音書 20:29-34              日本キリスト教会 上田教会
『何をしてほしいのか?』
 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
20:29 それから、彼らがエリコを出て行ったとき、大ぜいの群衆がイエスに従ってきた。30 すると、ふたりの盲人が道ばたにすわっていたが、イエスがとおって行かれると聞いて、叫んで言った、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちをあわれんで下さい」。31 群衆は彼らをしかって黙らせようとしたが、彼らはますます叫びつづけて言った、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちをあわれんで下さい」。32 イエスは立ちどまり、彼らを呼んで言われた、「わたしに何をしてほしいのか」。33 彼らは言った、「主よ、目をあけていただくことです」。34 イエスは深くあわれんで、彼らの目にさわられた。すると彼らは、たちまち見えるようになり、イエスに従って行った。
                                                                 (マタイ福音書 20:29-34)
                                              

  31節、目の不自由な者たちは主イエスに向かって、「ダビデの子よ」と呼びかけました。ダビデの子孫の中からやがて救い主が遣わされると約束されつづけていたことを受け止めて、つまり『約束されつづけていた救い主』という意味でそう呼ばわっています。それは適切な理解です。
  目の見えない2人の人が、主イエスと出会いました。不自由さと心細さを抱え、どうやって生きていこうかと悩みを抱えている彼らが、だからこそそこで主イエスに目を向け、出会い、このお独りの方から格別な平安と希望を受け取っています。わたしたちもそうでした。目の不自由なこの人たちは、道端に座って物乞いをしていました。「道端がいい。わたしはここに座っていよう」と、彼らは心を決めました。ここでなら、自分たちの惨めな様子が人目を引き、誰かが気がついて心を向けてくれるかも知れないから。当てもなく、ただ虚しく家の奥深くに引っ込んでいることを、この人たちは選び取りませんでした。ただ漠然と、いつか何か良いことが起こるかも知れないと、ただ何となく待っていませんでした。そうではなく、この人たちは自分自身をそこに運んでいき、そこに自分を座らせました。主イエスが通りかかったことを知り、主イエスの憐れみを求めて叫びました。とても不思議なことが、ここですでに起こっています。もし、この日、この道端に座っていなかったら、この人たちは主イエスとは出会えませんでした。主イエスがここを通りかかると知ったとき、もし、「わたしを憐れんでください」と叫ばなかったら、あるいは1度か2度か叫んでみた後で、「やっぱり無理だ。どうせわたしなんかに」とすぐに諦めてしまったとしたら。誰かに「しっ。静かにして」などと注意され、苦情や文句を言われてガッカリし、もし、それっきり押し黙ってしまったとするならば、この人たちは主とは出会えず、一生涯ず~っと、目が見えないまま、物淋しく虚しいままだったかも知れません。たまたま偶然に出会った、のではありません。たまたま偶然に憐れみを求めて叫んだのではありません。そうではないのです。この人たちは自分で判断し、自分自身でその幸いを選び取り、自分でそれを掴み取りました。
 「彼らが主イエスとその福音をどれだけ的確に理解していたかは疑問だ。ただ、熱心に物乞いしただけかも知れない。せいぜい、目が見えるようになることを素朴に求めただけかもしれない」などと、うかつに考える人がいるでしょう。「熱心に叫びさえしたら、信仰を認められて救われるのか。違うはずだ。あまりに素朴に単純に受取られてしまっては困るじゃないか」と、分かったつもりになって案じる人もいるでしょう。そうでしょうか? けれどポイントは、たとえ彼の求めが不完全で未熟で単純すぎるものであったとしても、なお主イエスがそれを「信仰」と認めてくださった点にある。それを喜び、受け入れてくださった点にある。『彼らが○○したから。△□だったから』という彼の素質や態度や努力・根性などを軽々と飛び越えて、まったくの恵みの出来事でした。しかもなお問わねばなりません。まったくの恵みであるとして、現に差し出されているその恵みを彼らはどのようにして受け取ったのか。この私たち自身は、どうやって受け取ろうか、そこで主イエスを信じるその人の信仰はどう働くのかと。
 群衆は彼らを叱りつけて黙らせようとしました。あるいは、気をきかせた弟子たちも、「静かに。主は、お忙しいのだから」など彼らを黙らせようとしたり、片隅へ片隅へと押しのけようとしたかもしれません。けれど主イエスご自身は、別の観点と、ずいぶん違う熱情をもっておられる。1人の人と出会おうとする伝道指針であり、1人の人を救いに導きいれようとなさる熱心な教育です。主イエスのこの同じ1の熱情が繰り返し報告されつづけてきたではありませんか。あらかじめなんでも分かっておられる主が、十分に分かった上で、「何をしてほしいのか」とわざわざ問いかけておられます。彼らに、改めて求めさせるために。自分を主に委ねさせ、恵みをしっかりと受け取らせるために。自分にはいったい何が欠けていて、誰に助けを願えばよいかを彼らは知って、だからこそ彼らは主イエスに向かって必死に叫んでいます。叫び続けていました。私たちは主イエスに何をして欲しいのでしょう。あなたは? 何がどうであったら、あなたや私は幸いと喜びに満たされて生きて死ぬことができるでしょう。その願いを、他の誰に対してでもなく、主であられる神にこそ本気で願い求めることのできる人々は幸いです。
 この人たちの姿はまた、私たちの日々の祈りの手本でもあります。主イエスが通りかかると知って、この人たちは叫びました;「主よ、ダビデの子よ、私たちを憐れんでください」(30,31)と。「静かにしていなさい。後ろに下がっていなさい」と叱りつけられたとき、この人たちはそこで黙り込んでしまわなかった。それどころか、ますます必死にますます一途に、ひたむきに叫び続けて、止まないのです。この人たちは自分の貧しさや乏しさを知っていました。そのうえ、語り出すべき言葉も知っていました。それは、ごく簡単な短い言葉でした;「約束された救い主イエスよ、私たちを憐れんでください」。わたしを憐れんでください。『主よ。約束された救い主イエスよ、わたしを憐れんでください』という祈り、そういう人間、そういう居場所がクリスチャンだというのでしょうか? それがキリストの教会の基本姿勢だというのでしょうか。そうです、その通り。このへりくだった低い場所こそが、恵みを恵みとして受け取るための、クリスチャンのいつもの場所です。なぜなら、ほんの少し前には、「お恵みや憐れみだって? 冗談じゃない。人様からも何様からだって、お恵みも憐れみも施しも受けない。馬鹿にするんじゃないよ」と肩肘張っていたプライドやら埃やらがあまりに高かった、高すぎた私たちです。けれど身を屈めて、へりくだることをついに習い覚えた私たちです(ローマ手紙3:21-28)。誰がこの人を叱りつけても、誰が立ち塞がっても、もうこの人を押し止めることなどできません。この人がどんなに切実に助けを求めているのかを、誰も知りません。けれど、この人たち自身は分かっています。しかも、主イエスご自身がよくよくご存知です。主イエスは、この目の不自由な人たちを喜んで受け入れます。深く憐れんで、それで迎え入れる(34)。主イエスが私たちを迎え入れるやり方は、ただただこのなさり方の一本槍です。可哀想に思って、深く憐れんで迎え入れる。そうではない仕方で迎え入れられた者など、ただの1人もいません。
 32節。主イエスは、彼らの呼び声に耳を傾け、足を止められます。大事な用事があろうが、予定が組んであろうがお構いなしに、ピタリと立ち止まります。他のどんな予定よりも用事よりも、今ここで彼らのために立ち止まることが極めて重要だからです。彼らを呼んで来させました。「何をしてほしいのか」と主イエスは二人に問いかけます。彼らは、探し求めてきたものをとうとう見つけ出しました。このとき、彼らは、一筋のはっきりした光を掴み取りました。肉体的な病気と不自由さや心細さのためにこの人がしたことを、今度は私たち自身が、私たちの魂のためにすることができます。なぜならあの彼の乏しさよりも私自身の乏しさの方がもっと大きく、もっと深刻であるからです。罪と悲惨の病いは、目が見えないことよりも、耳が遠いことよりも、足腰が弱くなって衰えたことよりももっともっと厳しい。はるかに徹底的にその人を痛めつけ、その人を弱らせ、そこないます。「でも、どう祈っていいか分からない。どんな言葉で、何をどう祈ったらいいのか」とためらう人々がいます。けれど例えば病院に行って医者にかかって「どうしました?」と聞かれて、そのとき、どんなに内気で口下手な人でも、小さな子供でさえ答えます。「おなかの下の方がシブシブ痛い。昨日の夕方ころから、なんだか痛くなった」と。身体のこと。おなかの下の方のシブシブとした痛み。腰や膝の痛みについて、あなたの口と舌が説明できるなら、それなら、あなたの普段の生活の心細さや、いじけたり僻んだり恐れたりすることについても、物淋しさや虚しさについても、もちろん魂のことについても、あなたのその口と舌は十分に説明できます。たとえもし、今まで一度も祈ったことがないあなたであっても、祈り始めることができます。どうやって。医者に「どうしました」と聞かれて答えるときのように、祈り始めるのです。まず、こう言ってみましょう。「主なる神さま。どうか、私を憐れんでください」と。
 どんな祈りが、どうやって聞き届けられるでしょうか。その人自身を救う信仰があり、その人を救わない信仰があるのでしょうか。聞き届けられる祈りがあり、聞き届けられない祈りがあるのでしょうか。どんな信仰が、どうやって、その人を救いへと至らせるのでしょう。どんな祈りが、どうやって聞き届けられるのでしょう。あるいは、どんな人々が、どうやって救われるのでしょうか。これらは、同じ1つの福音をめぐる1つの事柄です。自分自身を救う信仰とは何だろうか。助けと恵みを求めて、道端だろうがどこだろうが座り込んで待ち受ける信仰です。「イエスよ、わたしを憐れんでください」と呼ばわる信仰です。叱られても、周囲の誰彼に嫌な顔をされても、「止めておきなさい」となだめられても邪魔されても、なお「憐れんでください。憐れんでください」と声を限りに呼ばわり続ける信仰です。「見えるようになりたい。あなたに、そうしていただきたい」と主イエスに求める信仰です。救われるに値しないと人々から思われるはずの罪人が、けれど周囲の人々や人様・世間様の思いなどとはまったく関係なしに 神さまの憐れみによって、救われます。神の恵みより、無償で、ただただ恵みによって。私たちを憐れむ神さまの救いの御業が主イエスによって成し遂げられてあるので、だから主イエスによって、この方を信じることによって、救われます。そのように救われたのですし、救われ続けます。どんなに罪深い極悪人でさえ、ただただ神の憐れみによって、救われます。どんな信仰がと問うならば、主イエスを信じる信仰が。では、どんな祈りがどうやって聞き届けられるのかと問うならば、どんな祈りでも、「主イエスのお名前によって祈ります」という祈りこそが(ヨハネ福音書14:13,15:16,16:23-24,ローマ手紙3:21-26,テモテ手紙(1)15)。慈しみ深い真実な神ご自身が、私たちのどの祈りをさえも聞き届け、必ずきっとかなえてくださるからです。私たちはそれを知っています。

             ◇

  本当のことを申し上げましょう。最低最悪の、ひどく自分勝手な、見当違いの、間違った、貧弱で粗末な祈りさえ、けれどなお神さまの憐れみによってきっと必ず聞き届けられます。憐れんでくださる神さまがおられ、私たちのためにも主イエスが執り成していてくださり、ぜひとも聞き届けたいと天の父が耳を傾けていてくださって、だからこそ、その貧しく粗末な小さい祈りさえ聞き届けられます。祈りがそうであるなら、ここにいるこの私たち人間も、そのように取り扱われるのです最低最悪の、ひどく自分勝手な、見当違いの、貧弱で愚かで粗末な罪人さえ。主イエスに向かって「私を憐れんでください」と呼ばわる信仰が、その人を救うのです。主イエスのお名前によって、この方が成し遂げてくださった救いのお働きに信頼し、より頼んで、だからこそ、こんな私のこんな祈りさえ聞き届けられると知る祈りこそが、その人を、憐れみの神さまの御もとへと連れ出し、神と出会わせ、その憐れみを受け取らせます。アーメン。神ご自身にこそ、私たちのための真実があります。アーメン。神ご自身の中にこそ、私たちのための救いがあります。憐れんでくださる神さまがおられ、主イエスが執り成してくださり、ぜひとも救いたいと心を注ぎ出してくださりつづけて、だからこそその貧しい小さな人さえも救われます。あなたや、この私でさえもが。しかもなお主イエスご自身こそが、この1人1人を、この叫びを求めておられた。主こそが探しておられました。御心に留めつづけ、深く憐みつづけておられました。だからこそ、こうして主と出会いました。見えるようにしていただいた彼らは、主イエスに従って生きることを選び取りました。それは、なぜ? 何のために。お返しやお礼をするためではなく、もっともっと見えるようになりたかったからです。もっともっと喜びにあふれたかったからです。この私のためにも家族や隣人たちのためにさえある神の現実を、神が確かに生きて働いておられますことを、この目ではっきりと見るために。自分の考えや計画や願いに従って生きるのではなく、御心に信頼して、御心に従い、主イエスに従って生きることがどんなに幸いなことであるのかを現実的に具体的に、ますますはっきりと知るために。自分自身にとってもこの世界のすべて一切に対しても、なにしろ主こそが主であられることを知るための旅がつづきます。私たち自身の旅が。









2017年9月11日月曜日

9/10こども説教「神の国のお祝いパーティー」ルカ14:12-14

 9/10 こども説教 ルカ14:12-14
 『神の国のお祝いパーティ』

14:12 また、イエスは自分を招い た人に言われた、「午餐または晩餐の席を設ける場合には、友人、兄弟、親族、金持の隣り人などは呼ばぬがよい。恐らく彼らもあなたを招きかえし、それであなたは返礼を受けることになるから。13 むしろ、宴会を催す場合には、貧しい人、体の不自由な人、足の悪い人、目の見えない人などを招くがよい。14 そうすれば、彼らは返礼ができないから、あなたはさいわいになるであろう。正しい人々の復活の際には、あなたは報いられるであろう」。
(ルカ福音書 14:12-14

ここは特別に難しいことが語られています。「普段のいつもの付き合いの中で、私たちが人間同士で、お互いに誰とどういう付き合いをして、宴会や食事会で誰と誰を呼んだらいいか」ということではありません。そうではなく、神さまご自身と私たちとの付き合いのことだったのです。その証拠に、この直後の15節を見てください。これを聞いていて、その中の一人が、本当には何のことが語られているのかに気づきました。そして主イエスに、こう言いました。「神の国で食事をする人は幸いです」と。ね? この世の終りの日の、救いが完成されるときの喜びのお祝いパーティ。そのお祝いパーティに、神さまが、誰と誰を呼んでくださるのか? これは、たとえ話で語られています。「友人、兄弟、親族、金持ちの隣り人」のような、自分は正しくて立派で、ふさわしい善人だと思っている人々を、神さまはパーティに呼ばない。そうではなく、「貧しい人、体の不自由な人、足の悪い人、目の見えない人など」のような人々をこそ、神さまは救い出し、神の国へ招き入れ、救われた者たちのお祝いパーティの席につかせてくださる。ここで聖書が語ろうとしたのは、このことです。そのように、神さまから招かれた私たちです。返礼もお返しも何もできませんから、ただただ感謝して大喜びに喜ぶばかりです。神さまに心から感謝して、喜んで生きてゆくばかりです。


   【補足/このように招かれた】
    直後の15節、これを聞いて、語られていた内容に気がついた人が一人いました。「神の国で食事をする人は幸いです」と。そのとおりです。しかも、この箇所の最重要ポイントは、『この私たち自身がこのように神の国に招かれ、今げんに、神の国に住まわせていただいている』という点です。「ただ恵みによって、主イエスを信じる信仰によって招き入れられた」とクドクドと教えられてきました。それは、このことです。『返礼ができないし、していない』ことを、自分自身の魂に深く刻んでおきましょう。『感謝と喜びの生活』と『返礼をしていないし、できないと分かっている』こととは表裏一体です。礼拝献金、維持献金なども、何かの奉仕も働きも、決して『返礼』などではありません。会費を払って何かの団体に入会しているわけでもありません。だからこそ、ただただ神さまに感謝して喜んで生きてゆくことができるのです。ここで誤解してしまうと、私たちも働きの只中で神の恵みを見失ってしまいます。カインのように。ぶどう園で働いた朝早くからの労働者たち、放蕩息子の兄、働き者のマルタ姉さんのように。それでは、神の恵みが水の泡です。


9/10「仕えるしもべになりなさい」マタイ20:17-28

                       みことば/2017,9,10(主日礼拝)  128
◎礼拝説教 マタイ福音書 20:17-28                日本キリスト教会 上田教会
『仕えるしもべになりなさい』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
  20:20 そのとき、ゼベダイの子らの母が、その子らと一緒にイエスのもとにきてひざまずき、何事かをお願いした。21 そこでイエスは彼女に言われた、「何をしてほしいのか」。彼女は言った、「わたしのこのふたりのむすこが、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるように、お言葉をください」。22 イエスは答えて言われた、「あなたがたは、自分が何を求めているのか、わかっていない。わたしの飲もうとしている杯を飲むことができるか」。彼らは「できます」と答えた。23 イエスは彼らに言われた、「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになろう。しかし、わたしの右、左にすわらせることは、わたしのすることではなく、わたしの父によって備えられている人々だけに許されることである」。24 十人の者はこれを聞いて、このふたりの兄弟たちのことで憤慨した。25 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者たちはその民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。26 あなたがたの間ではそうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、27 あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。28 それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである」。
                                                       (マタイ福音書 20:20-28)
                                          
 17-19節と20節以下をつづけて読みました。20節冒頭「そのとき」と報告が始まります。主イエスの弟子2人とその母親が主イエスに願い事をしはじめたそのタイミングが大事な意味を持っています。主イエスがご自分の死と復活を3度目に予告した直後に、そこでと。「3度予告した」というのは聖書に馴染み深い言い方で、ただ3回仰ったという以上に、300回も3000回も何度も何度もしつこく繰り返して、という意味です。その挙句に、その矢先に彼らはこういうことを願い出る。また22節の主イエスとその弟子たちとのやりとりにも注目しましょう。「私が飲もうとしている杯を、あなたがたも飲むことができるか」「はいはい、できます。パンでも杯でも、いくらでもいただきますよ」。なんという軽はずみ、主イエスは十字架の苦しみと死を『杯』と仰った。けれど、そんなことを少しも考えもしない。主イエスのあまりに苦い救いの御業を聞き流しつづけ、すっかり棚上げして、彼らはずいぶん違うことを思い描いています。だからこそ、「そのとき」と。
  20-21節。2人の弟子とその母親が主イエスの前に進み出て、願い事を言おうとしました。「何をしてほしいのか」と主から問われ、母親が代表してこう言いました。「わたしのこのふたりのむすこが、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるように、お言葉をください」。彼らの申し出は、弟子たちの中に大きな波風を呼び起こします。皆、カンカンに腹を立て、大騒ぎとなりました(24)。母親とその息子たちの願いの中身は、いったい何だったのでしょうか? 主イエスの弟子たちを含めて多くの人たちは、「彼らは権力と名声を主イエスに願い求めたのだろう。主イエスが王様のイスに座るとき、その右と左に。つまり、右大臣や左大臣、内閣官房長官や外務大臣、大蔵大臣などという主要な役職につかせてもらおうと願ったのだな。なるほど」と推測しています。そうかも知れません。そうではなかったかも知れません。それより何より、その直前に主イエスはご自分の死と復活を弟子たちに告げていたばかりでした。17-19節「私は祭司長、律法学者たちの手に引き渡され、死刑を宣告され、あざけられ、むち打たれ、十字架につけられて殺される。その三日目に墓からよみがえる」と。三度目の予告でした。けれど弟子たちは、あっさりと聞き流して、そんなことは何一つ聞かなかったかのようにして、王座につく主イエスと自分たちの晴れ晴れしい栄光の姿を思い浮かべています。それじゃあ、ここにいるこの私たち自身はどうでしょうか。あなたは何が望みでしょう。何がどうであったら晴れ晴れと喜びに満ちて暮らしていけるでしょう? 主イエスご自身からの言葉に耳を傾けましょう。25-28節。そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者たちはその民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。あなたがたの間ではそうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである」。
  「あなたがたの間ではそうであってはならない」。主イエスは、どこの誰に向かって仰っているでしょう。ご自分の弟子たちに。キリストの教会に。そしてもちろん、ここにいるこの私たちに対してです。わざわざそう仰るのは、そうなりやすいからであり、現にしばしば、教会の中で、神を信じるクリスチャン同士の間で、支配したりされたり、権力を振ったり振るわれたり振り回したり回されたり、神によって造られた、たかだか人間にすぎない者同士でむやみに崇めて奉ったり見下したりし合っているからです。「あなたがたの間ではそうであってはならない」と厳しく戒められています。信じたことが無駄になってしまい、せっかく受け取った恵みがすっかり台無しになってしまうからです。『だれが1番えらいだろう』という病気をご存知でしょうか。ずいぶん長い間、この極めて恐ろしい病気は、雑草のように世界中に伸び広がり、私たち人間を苦しめつづけてきました。多くの人々がこの病気にかかり、深い悩みの中に置き去りにされています。「つまらない役に立たない小っぽけな人間だ」と周囲の人々から思われるんじゃないかと、あの彼らはいつも不安です。片隅に押しのけられ、邪魔者にされ、誰からも相手にされず見捨てられてしまうのでは、「もうすでに、そんな扱いを受けているのでは」と。だから必死で背伸びをし、見栄を張り、体裁を取り繕いつづけます。あなたにも、心当たりがありますか?(創世記4:1-16,4:19-24,9:18-28,11:1-9,12:10-,20:1-,26:1-,37:1-11,出エジプト3:11-4:13,32:1-6,列王記上12:25-33,マタイ福音書20:1-16,ルカ福音書10:38-,15:25-32,マルコ9:30-,コリント(1)1:11-13, 26-31, 3:3-9, 4:6-。聖書は、只1つの治療法を提案しつづけます。《神の憐みを受け取る》という提案です。神さまがどんなに気前の良い神さまであり、あの救い主が私たちのために何を成し遂げてくださったのかを、思い起こすこと。兄弟たち。自分が神さまの恵みのもとへと招かれたときのことを思い起こしてみなさい。それから、どんなに慈しみ深い御計らいを受け取りつづけてきたのかを。けれどいったい、「仕えるしもべとなりなさい」(27)と仰った主イエスは何を伝えようとしていたのでしょう。私たちの救い主は、「仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるため」(マタイ20:28)に来てくださったのです。聖書66巻は「仕えなさい」「思い上がってはいけません。身を低く屈めて、へりくだりなさい」「慎みなさい」と戒めつづけてきただけではありません。だって、それだけでは私たちは、ただただイジケたり僻んだり拗ねたり、「どうせ私は」とガッカリするだけですから。だから、不平不満がいつのかにか心に溜まりつづけてしまう、心淋しい兄弟姉妹たち。よくよく知るべきことは、神ご自身が身を低く屈めてくださったことです。救い主こそが自分に固執しようとなさらず、低く下り、かえって自分を無にし、しもべの身分をとり、十字架の死に至るまでご自分を献げてくださった(ピリピ2:6-)ことを。あなたを、この『だれが1番えらいか』病から救い出して、ついにとうとう誉めたり見下したり、誉められたり見下されたりすることからも、名誉や格式や社会的なご立派な肩書きや世間体や体裁ばかりを気に病みつづけることからさえ自由な者とするために。聖書自身も警告しつづけます、「大手大企業の代表取締役係長補佐だの名誉会長だのと、ひとりの人を崇め、ちやほやとたてまつり、ほかの人々を見下げて高ぶることが決してないように。なぜなら、あなたがたの持っている地位も名誉も能力もそこそこの才能も何もかもすべて一切、神からの恵みの贈り物ではないのか。ではなぜ、誇ったり互いに崇めたりして高ぶっているのか。良いお方、正しくご立派な方はただただ神さましかおられないのに。主イエスから直々にそう教えていただいているのに。良いおかた、正しくご立派なかたは、ただただ神さましかおられないのに。主イエスから直々にそう教えていただいているのに、その神さまを差し置いて。神さまを抜きにして」(コリント手紙(1)1:26-31,4:6-7,マタイ19:17「よい方は、ただ神おひとりだけである」参照)しかも、なぜ《仕えるしもべの心低い場所》に身を置きなさいと命じられるのか? そこが、福音を福音として受け止め、慈しみの神と出会うための、いつもの待ち合わせ場所だからです。すべての人の後になり、皆に仕える者となってくださった救い主が、その《仕えるしもべの心低い場所》を私たちとの待ち合わせ場所となさったからです。そこで、素敵な贈り物を受け渡ししてくださろうと待っておられます。格別な恵みと平和とを。ですから、皆から「立派だ。さすがだ。偉い」と思われたくてウズウズしている、先頭の上のほうにいるその人たちは、待ち合わせ場所を間違えています。ああ残念です。いくら待っていても、いつまで経っても救い主はそこに現れません。心底から、知りたいのです。神さまとの待ち合わせ場所がどこなのかということを。福音を福音として受け止め、慈しみの神と出会うための、いつもの待ち合わせ場所。それがいったいどんな場所なのかを。
 「クリスチャンは誇りを持ってはいけないんですか?」と、度々質問されます。コリント手紙(1)1:31、それとローマ手紙3:21-31。聖書からの答えははっきりしています。「誇る者は主をこそ誇れ」。また、「キリストの十字架以外に、誇るものが決してあってはなりません」(ガラテヤ手紙6:14)。そして《誇る》とは、頼みの綱とし、支えや拠り所とすることです。もし、あなたがどうしても何かを誇りたいのならば、主をこそ誇りなさい。それなら良い。それ以外は止めときなさい。自分に固執しようとなさらず低く下った救い主は恥をかかされつづけています。自分を無にし、しもべの身分をとり、十字架の死に至るまでご自分を献げてくださった主イエスは、私たちの間で、侮られ、そのようにして赤っ恥をかかされつづけています。兄弟たち。主イエスは仰いました。「よく聞きなさい。心をいれかえて、小さな小さな子供のようにならなければ、天国にはいることはできない」(マタイ18:3)。賢くて立派な、何でもよく分かっているつもりの、大きな大きな大人のつもりでは、この私たちは決して神の国に入ることはできません(「心を入れかえて」とは、文字どおりの作業です。自分の心の中の今ある中身をすっかり全部ゴミ箱に投げ捨てて、そのカラになった場所に、神さまに新しく入れてもらう。捨てる中身は、「大きな大きな大人のつもり」のもろもろ一切。ある種の依存症でもあるので、自分から捨て去るのは至難の業。とうてい出来ません。けれど、もし、ぜひそうしたいと欲するならば、「自分からは出来ませんが、どうかぜひ神さまがそれをしてください」と願い求めはじめましょう。神さまこそが、きっと必ず成し遂げてくださいます。本当のことです)
  物淋しいクリスチャンたち。神さまが、神であるままに同時に人となられました。しかも、理想的で上等な人間にではなく、生身のごく普通の人間にです。ご立派で理想的な人間にではなく、軽蔑され、見捨てられ、身をかがめる低く小さな人間に。とんでもないことです。あるはずのない、あってはならないはずのことが起りました。私たちの主、救い主イエス・キリストは固執なさらなかった。自分で自分を無になさった。無理矢理に嫌々渋々されたのではなく、「はい。喜んで」と自分で自分の身を屈めました。しかも徹底して身を屈めつくし、十字架の死に至るまで、御父への従順を貫き通してくださいました。こだわりつづけ、我を張ってしがみつきつづける私たちは驚いて、目を見張ります。なぜ神の独り子は、その低さと貧しさを自ら選び取ってくださったのか。何のために、人間であることの弱さと惨めさを味わいつくしてくださったのでしょう? 主イエスの弟子ヤコブもヨハネも、その母親も、他の弟子たち皆もうっかり聞き流してしまいました。あるいはわざとに、聞かなかったふりをしたのかもしれません。あまりに耳障りが悪かったので、都合も良くなかったので、聞きたい内容ではなかったので。その後2000年にわたって今日まで、その最も大切な教えを軽々しく聞き流しつづけています。キリストの教会は、1人1人のクリスチャンは。そして私たち自身も。主イエスは問いかけます、「私の飲もうとしている杯を、あなたがたも飲むことができるのか。本当か?」。なんと答えましょうか。ここにいる私たちは知らされています。よくよく知らされています。兄弟姉妹たち。その十字架の死と葬りと復活は、「罪人を救うため」(テモテ(1)1:15)です。罪人を救うため。どの程度の罪人を、でしょう? 善良な人や高潔で誠実で清らかな人々を救うことなら、あまりに簡単でした。罪人を救うとしても、ほどほどの罪人やそこそこの罪人を救うことなら、まだたやすいことでした。けれども、極めつけの罪人をさえ救う必要があったのです。例えば、ソドムとゴモラの人々よりも罪深い。例えば箸にも棒にも引っかからなかった、あのどうしようのないニネベの人々よりももっと5倍も6倍も弁えていない。罪人の中の罪人を、その飛びっきりの頭であり最たる罪人たちをさえ、ぜひとも救い出したいと神さまは願ってくださった。そのあまりに生臭い、人間のことばかり思い煩い、自分の腹の思いの奴隷に成り下がりつづける、極めつけの惨めな惨めな罪人たち。けれどその彼らは憐れみを受けました。正しく良い人間だから救われたのではありません。恵みに値するふさわしい、美しい心の優秀で立派な人間だから救われたのでもありません。可哀想で可哀想で仕方がないので、憐れんでいただいて、それで惨めで虚しい死と滅びの場所から引き上げていただいたのです。キリスト・イエスがまず限りない忍耐をその彼らにお示しになり、その彼らを、救い主イエスを信じて救われる人々のための手本とするために。キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた。ただそのためだけに来られました(創世記18:16-33,ヨナ書4:11,ローマ手紙7:13-8:11,テモテ手紙(1)1:15-16を参照)。では、憐れみを受けて救われた彼らとは、いったいどこの誰のことでしょう。……おめでとう、恵まれた方々。私たちは主なる神さまから憐れみをいただきました。力ある方が、貧しく小さな私たちにも偉大なことをなさりつづけています。キリストが死人の中からよみがえらされたからには、この私たちもまた新しい生命に生きる者とされました。わたしたちの内にある古い罪の自分はキリストと共に十字架につけられました。この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや罪の奴隷となることがないためにです。神をそっちのけにして、自分自身と周囲の人々のことばかり虚しく思い煩いつづける『罪』から解放されるためにです。キリストと共に死んだ私たちですから、またキリストと共に生きる者とされた私たちです。罪に対して死んだ私たちであり、キリスト・イエスにあって神の御前で、神に向かって生きている私たちです。朝も昼も晩も、どこで何をしていても。それは、なんという幸いでしょう。


  次週、9月17日は、他の講師による伝道礼拝。その講師自身の判断で、説教印刷物を配布しません。HP版も不掲載です。「当日、来てくださった方が聞いてくださるだけで十分」とのこと。ご理解ください。