2017年4月4日火曜日

4/2こども説教「悪いものに誘われて」ルカ11:4

 4/2 こども説教 ルカ11:4
 『悪いものに誘われて』

「わたしたちを試みに会わせないでください」。(ルカ福音書 11:4)

 ケンちゃん。「道で知らない人に声をかけられても返事をしちゃいけないし、ついていってもいけない」って教えられたかな。おいしいお菓子をくれるって言われても、ついていっちゃダメですよ。
 昔々、ピノキオっていう名前の、木でできた操り人形がいました。学校に勉強しに行く途中で、ピノキオは悪い動物に騙されて、付いていって、ひどい目に会いました。あやうく、もう二度と、おじいさんの待っている家に帰ってこられなくなってしまうところでした。ピノキオのまわりには、いろんな悪い人間や悪い動物たちが近づいてきて、おもしろそうな、楽しそうな、素敵そうないろんなことを言って誘いかけます。その度にピノキオは付いていって、ひどい目に会いつづけます。小さなコオロギと友だちになって、「ダメだよ、ダメだよ」って教えてくれたけど、ピノキオはコオロギの言うことは聞かないで、悪い人間や悪い動物たちの言うことばかり聞いて、彼らの言いなりにされつづけてしまいます。 
 私たちの魂の中にも、この小さなコオロギ君のような良い友だちが住んでいて、「ダメだよ、ダメだよ」と教えてくれます。実は、良い友だちばかりじゃなくて、悪い友だちも私たちみんなの心の中に住んでいて、おもしろそうな、楽しそうな、素敵そうないろんなことを言って誘いかけつづけます。神さまに逆らって、思いどおりに好き勝手に楽しく暮らしていこうよと。そのまま放っておくと私たちもピノキオと同じにひどい目にあいつづけ、自分が困るだけじゃなく他のお友だちに意地悪をしたり、困らせたり悲しませたりもしてしまいます。「神さま、どうかお願いします。悪い友だちや自分の悪い心の言いなりにならないでいられるように助けてください」と祈りましょう。そうしたら、神さまが、ちゃんと助けてくださいます。     


【補足/悪より救い出してください】
500年前の信仰問答は、私たちを攻め立てる『悪』とは、(1)悪魔と、(2)この世の在り方と、(3)自分自身の肉の思いであると説き明かしました(ハイデルベルク信仰問答,問127参照)。その通りです。聖書自身も、(あなたがたは)死に至る罪の僕ともなり、あるいは、義にいたる従順の僕ともなるのである(ローマ手紙6:16-18)と。主イエスは十字架にかかる前の晩にゲッセマネの園で祈りの格闘をなさいました。そうしながら、眠り込んでしまおうとする弟子たちを案じて,顧みつづけます。彼らの弱さと脆さに思いを寄せ、誘惑と試練の重みに目を閉じてしまいそうな彼らのことが気がかりでならないからです。私たちは心も体も弱い。とてもとても弱い。どうやって主の御もとを離れずにいることができるでしょうか。主を思うことによってです。『私の主であってくださる方が、この私を愛し、大切に思っていてくださる。私を養い、支え、どこまでも何があっても守りとおしてくださる。だから私は弱くても、乏しくても、愚かであっても、恐れはない。主によってこそ、何一つ欠けることがない』と。


4/2「その人自身を汚すもの」マタイ15:1-20

                 みことば/2017,4,2(受難節第5主日の礼拝)  105
◎礼拝説教 マタイ福音書 15:1-20                       日本キリスト教会 上田教会
 『その人自身を汚すもの』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
  
 15:1 ときに、パリサイ人と律法学者たちとが、エルサレムからイエスのもとにきて言った、2 「あなたの弟子たちは、なぜ昔の人々の言伝えを破るのですか。彼らは食事の時に手を洗っていません」。3 イエスは答えて言われた、「なぜ、あなたがたも自分たちの言伝えによって、神のいましめを破っているのか。4 神は言われた、『父と母とを敬え』、また『父または母をののしる者は、必ず死に定められる』と。5 それだのに、あなたがたは『だれでも父または母にむかって、あなたにさしあげるはずのこのものは供え物です、と言えば、6 父または母を敬わなくてもよろしい』と言っている。こうしてあなたがたは自分たちの言伝えによって、神の言を無にしている。7 偽善者たちよ、イザヤがあなたがたについて、こういう適切な預言をしている、8 『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。9 人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』」。10 それからイエスは群衆を呼び寄せて言われた、「聞いて悟るがよい。11 口にはいるものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚すのである」。12 そのとき、弟子たちが近寄ってきてイエスに言った、「パリサイ人たちが御言を聞いてつまずいたことを、ご存じですか」。13 イエスは答えて言われた、「わたしの天の父がお植えにならなかったものは、みな抜き取られるであろう。14 彼らをそのままにしておけ。彼らは盲人を手引きする盲人である。もし盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むであろう」。15 ペテロが答えて言った、「その譬を説明してください」。16 イエスは言われた、「あなたがたも、まだわからないのか。17 口にはいってくるものは、みな腹の中にはいり、そして、外に出て行くことを知らないのか。18 しかし、口から出て行くものは、心の中から出てくるのであって、それが人を汚すのである。19 というのは、悪い思い、すなわち、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、誹りは、心の中から出てくるのであって、20 これらのものが人を汚すのである。しかし、洗わない手で食事することは、人を汚すのではない」。(マタイ福音書 15:1-20)
   


  主イエスが、パリサイ人や律法学者たちと対話をしています。おさらいですが、パリサイ人と律法学者たちが度々なぜ福音書の中に登場して厳しく批判され、非難されつづけるのか。彼らをバカにするためでなく、彼らを見下してこちらが良い気分になるためでもありません。彼らの姿や心の思いは、いつもの私たち自身の在り方や腹の思いにそっくりだからです。この私たち自身の悪い本性をはっきりと映し出す良い鏡だからです。あの彼らのフリ見て、わがフリ直せ。しかも今回は、食事の時に手を洗うか洗わないかについて語り合っています。どうでもよい些細なことのように、今日の私たちとはあまり関係のないことのように見えますか。いいえ、そうではありません。
 「なぜ食事のときに手を作法通りにきちんときれいに洗わないのか。律法違反じゃないか」と非難してくる信仰深い、きちんとした、モノの道理をよくよく弁えているはずの、清く正しく立派な人々に向かって、主イエスご自身がお答えになります。3節以下、「なぜ、あなたがたも自分たちの言伝えによって、神のいましめを破っているのか。神は言われた、『父と母とを敬え』、また『父または母をののしる者は、必ず死に定められる』と。それだのに、あなたがたは『だれでも父または母にむかって、あなたにさしあげるはずのこのものは供え物です、と言えば、父または母を敬わなくてもよろしい』と言っている。こうしてあなたがたは自分たちの言伝えによって、神の言を無にしている。偽善者たちよ、イザヤがあなたがたについて、こういう適切な預言をしている、『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』」。それからイエスは群衆を呼び寄せて言われた、「聞いて悟るがよい。口にはいるものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚すのである」。そのとき、弟子たちが近寄ってきてイエスに言った、「パリサイ人たちが御言を聞いてつまずいたことを、ご存じですか」。イエスは答えて言われた、「わたしの天の父がお植えにならなかったものは、みな抜き取られるであろう。彼らをそのままにしておけ。彼らは盲人を手引きする盲人である。もし盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むであろう」。ペテロが答えて言った、「その譬を説明してください」。イエスは言われた、「あなたがたも、まだわからないのか。口にはいってくるものは、みな腹の中にはいり、そして、外に出て行くことを知らないのか。しかし、口から出て行くものは、心の中から出てくるのであって、それが人を汚すのである。というのは、悪い思い、すなわち、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、誹りは、心の中から出てくるのであって、これらのものが人を汚すのである。しかし、洗わない手で食事することは、人を汚すのではない」。偽善者たちよと呼びかけられます。ぼくは心が痛みます。最初から、しかも神を信じて生きてゆこうと決心しながら、なお元々偽善者だった者なと滅多にいなかったからです。また、「自分は今日から偽善者になろう。偽善者として一生涯生きてゆこう」と思い定めて偽善者になった者などほとんどいなかったはずだからです。あの彼らの身に、いったい何が起こったのか? ごく初めのうちには、あの彼らの多くは神を本気で信じていました。神に熱心に仕え、自分の心の思いにではなく、神の御心にこそよくよく聴き従い、何が善であり神の御心にかなう良いことなのか。何が悪いことで、神を悲しませたりカンカンに怒らせたりするのかを弁え知りながら一日一日を生きる私でありたい、ぜひそうでありたいと心底から願ってもいたはずです。けれどあるとき気がつくと、いつの間にか、あの彼らは偽善者に成り下がっていました。いつ、どこから、そうなったのか彼らには分かりません。いっしょに暮らす家族にも連れ合いや子供たちも、いつから、どうしてあの父さん母さんがそうなってしまったのか、さっぱり分からないと首を傾げるばかりでしょう。なぜ、形ばかりの者となり中身を失い、ただただ虚しい信仰の虚しい人間たちに成り下がってしまったのかを、この私たちはよく知っています。なぜ、そうなってしまったのか。昔々、「神を愛し、その律法を重んじる人々」がいました。やがて、その中の大多数は「形式主義者、律法主義者」に成り下がってしまいました。「神を愛し、その律法を重んじる人々」と、中身のないただ形ばかりの「形式主義者、律法主義者」と、両者の区別と違いはとても微妙で、ときどき本人でもよく分からなくなるほどです。同じように、「神と隣人を心から愛して生きていこうとするクリスチャン」と、「ただ形ばかり名ばかりのクリスチャン」との違いも、とてもとても微妙です。さあ困りました。なぜ、やがて中身と生命とを失ってしまったのか。――理由と中身を問うことを、あるときピタリと止めてしまったからです。
  8-9節。「この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる」。耳が痛い指摘ですが、痛くても苦くても聞き分けねばなりません。あの彼らのようになってしまわないためには。ちゃんと中身もクリスチャンでありつづけるためには、何より神ご自身から新しい心を贈り与えられねばなりませんでした。神が私共にお求めになる献げ物は何だったでしょう。打ち砕かれ、自分自身の罪深さを悔いて恥じる低い心でした。「外側や体裁ばかりではなく心にこそ割礼を受けよ」と命じられています。素敵な礼拝堂で讃美歌を美しく歌い、格調高く厳かに祈っても、慎み深そうに笑顔で挨拶を交わしあってもなお、心が神さまから遠く離れているままならば、それは虚しいと告げられます。そのとおりです。17-20節、「 口にはいってくるものは、みな腹の中にはいり、そして、外に出て行くことを知らないのか。しかし、口から出て行くものは、心の中から出てくるのであって、それが人を汚すのである。というのは、悪い思い、すなわち、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、誹りは、心の中から出てくるのであって、これらのものが人を汚すのである。しかし、洗わない手で食事することは、人を汚すのではない」。そうそう、もう何十年も昔のことですが、ヨソの教会の礼拝に招かれたとき、その教会では説教壇にあがるときスリッパを脱いで足に靴下だけはいてあがることになっていました。その教会では、説教壇周囲のほんの2メートル四方ほどが聖なる領域だったのです。「いやあ、形式主義に見えるでしょうけど、昔からずっとこうやってきたもので」と、その教会の牧師は照れくさそうに弁明していました。形式主義だなあ、と思いました。それならスリッパだけじゃなく、せっかくだから靴下もズボンもちゃんと脱がなくちゃ。自分自身の腹の中の薄汚れた思いをこそなんとかして漂白したり、除洗して、地面の下の奥深くに埋めてコンクリートの分厚い壁で覆ってしまわなくては。燃えても燃え尽きない柴の木の前で神がモーセに「足から靴を脱ぎなさい。あなたが立っているその場所は聖なる地だから」(出エジプト記3:5とおっしゃったことに自分たちは従っている、と思い込んでいたのでしょう。靴を脱いだ? とんでもない。靴を脱ぐだけでは全然足りません。聖なる場所と神ご自身を汚すのは、靴や靴底のチリや泥などではなく、むしろ人の口から出るものであり、人の腹の中に積もり積もっている神に逆らう罪の在り方です。しかも、双子の弟のヤコブが兄を恐れて夜逃げをし、人里離れた淋しい場所で野宿をして主と出会ったときのこと。「まことに主がこの所におられるのに、私は知らなかった。これはなんという恐るべき所だろう。これは神の家である。これは天の門だ」と驚いて目を見張ったとき、地上のどこもかしこも神の家、天の門とされたのでした。主の聖なる場所ではない、人間たちのためだけの俗なる場所など、もうほんのわずかも、どこにも残されていません。さらに、主イエスが十字架の上で息を引き取られたとき、神殿の、聖所と至聖所(=神だけの、最も神聖な場所。大祭司が年に一度だけそこで罪のあがないの儀式を執行する)を隔てていた垂れ幕が上から下まで真っ二つに引き裂かれ、取り除かれました。そのときから、神と人間、また人間同士を隔てる壁と垂れ幕がいっさい投げ捨てられてしまいました。体裁やごく表面的な秩序や、供え物や見栄えや、格調高く厳かで敬虔そうな雰囲気をではなく、いつもいつも中身と心を求める神です。しかも救いに値しない罪人を招いて、憐れんで救う神でした。そのためにへりくだって、救い主イエスは身を屈め、弟子たちにも手本を示してくださったではありませんか。手拭いを腰にさげ、水をいれたタライをもち、屈んで弟子たち一人一人の足を洗ってくださったではありませんか。「主であり教師である私があなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互いに屈んで足を洗い合うべきである。そのために手本を示したのだ。もし、これらのことが分かって、それを行うなら、あなたがたは幸いである」と主イエスが直々に、伝道者たちに、また、すべてのキリスト教会とクリスチャンたちに向けて、おっしゃったではありませんか。いかにも神聖そうにみえる厳かな説教壇の周囲ばかりではなく、どこででも365日ずっと、靴下も脱いで裸足になって歩き回らねばなりません。この私たちこそは。
 洗礼も聖晩餐も同じです。強情ではなく神に従順に生きるためには、人間たちのしきたりや願いばかりにではなく、神の御心にこそ従って生きるためには、自分自身の心の前の皮を取り去らねばなりません。せっかくなので、ここで聖晩餐の目的と願いについて、少し説明させてください。当教会のホームページに掲載していますが、キリスト教信仰の入門コース(=キリスト教の中身が分かるコース)では、このように説き明かしています;「聖晩餐とは何ですか?」「イエス・キリストがご自身の体と血とにあずからせることによって、わたしたちをしっかりと生きる者とし、救われた者の喜びと希望のうちに養ってくださる食卓です」「だれが聖晩餐のパンと杯にあずかりますか?」「洗礼をうけ、主イエスを信じる者とされたものたちです。恵みに値しない、ふさわしくないわたしたちですが、それでもなお、ただ神の憐れみによって救われ、ただ憐れみによってこの食卓に招かれています。このパンと杯こそが病人のための良い薬であり、罪人には慰めであり、貧しいものには格別な贈り物だからです」「洗礼を受けたわたしですが、先週もその前も罪深い自分勝手なことをたくさんし、人を傷つけてしまいました。こんなわたしは、聖晩餐のパンと杯を受ける に値しません。パンと杯を、今回は受け取らない方がいいでしょうか?」「いいえ、ちがいます すべてのクリスチャンもふくめて、誰もがとても罪深いのです。『罪深さや自分勝手さが無くなって十分に清くされてから聖晩餐を受けましょう』などと考えるなら、わたしたち人間は200年たっても300年たっても、準備が整いません。自分自身も含めて、皆すべての人間がこの恵みを受け取る資格がない、と気づきましょう。しかも、そのうえで恵み深い神さまは、その値しない、ふさわしくない、資格のない者たちを恵みと祝福の中へと招き入れてくださいます。とても罪深くて、恵みに値しないあなたこそが、どうぞぜひ安心してパンと杯を受け取ってください。神さまの恵みの中で養われ、罪と自分自身の肉の思いから救い出され、清められ、神の憐れみに向かって成長してゆくためにです」(ローマ手紙3:21-28,同5:5-11,テモテ手紙(1)1:12-17,Jカルヴァン「キリスト教綱要」41741-42節)。聖晩餐のときに読まれるコリント手紙(1)11:27以下には、とても恐ろしいことが書かれています。「だから、ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである。だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ杯を飲むべきである。主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである」と。そこにはもちろん福音の道理がありますが、舌足らずで、さらに大切な真理の残り半分を言い損ねています。罪深さをなお根強く抱えており、恵みに値しない、ふさわしくない私たちです。ふさわしくない私たちだとよく分かって、へりくだった低い心になることこそが、神の御前での最善のふさわしさです。自分を吟味し、主のからだをわきまえるとは、そのことです。聖晩餐のパンと杯にあずかり、み言葉によって養われつづけることによって、神の憐れみによって、少しも弁えなかった者たちがだんだんと自分自身と主の教会のことを弁えるようになり、ふさわしくなった者たちが少しずつふさわしい私たちへと作り替えられてゆきます。「ただ神の憐れみによって救われ、ただ憐れみによって主の食卓に招かれ、養われつづけている私たちだ」と、パンと杯にあずかる度毎に習い覚えさせられてゆきます。どうぞ今日も安らかに、喜びと期待をもってパンと杯にあずかってくださいますように。


3/26こども説教「ゆるしてください」ルカ11:4

 3/26 こども説教 ルカ11:4
 『ゆるしてください』

11:4 わたしたちに負債のある者を皆ゆるしますから、わたしたちの罪をもおゆるしください。       (ルカ福音書 11:4

  ヨシキくん。そして今日から大きなお兄さんになったケンちゃん。誰かとケンカをして、その後で仲直りをしたことがありますか。どうやって仲直りをしたのかな。
 どうしたわけか、私たち人間は神さまに逆らう心をもってしまいました。自分の思いのままに生きて、したいことをし、したくないことをしないで好き勝手にしていたいと。その悪い心は、タチの悪い病気のようなものでした。いったんその病気にかかってしまったら、そうかんたんに素直なまっすぐな心には戻ることができません。その悪い病気を、聖書は『罪』と名づけました。誰も彼もがみんな、この同じ一つの悪い悪い病気にかかりました。その病気のせいで他の人間や生き物たちを困らせたり、ひどい目にあわせたり、いじめたり悲しませたりしました。悪い心のままに生きることは嫌なことです。神さまに逆らって、自分の思いのままに生きて、したいことをし、したくないことをしないで好き勝手に生きても、少しも楽しくないからです。自分自身でも困ったり苦しくなったりしましたが、どうしていいか分かりませんでした。
神さまは、神に逆らう心にとりつかれてしまった私たち人間を可哀想に思いました。その病気をぜひ、なんとかして治してあげたいと思いました。神に逆らう心を治してあげて、もう一度、神さまに素直に従って生きる嬉しい毎日を取り戻させてあげるために、そのために救い主イエスがこの世界に送られてきました。救い主イエスは、神さまに逆らっていた罪人が神さまに素直に従って生きるための道を用意してくれました。救い主イエスを信じる人は、ただ信じるだけで 誰でもその道をとおって、神様とも他の人たちや他の生き物たちとも仲良しに嬉しく生きることができます。ケンカしていた友だち同士が握手してニッコリして仲直りをするようにです。



      【補足/罪のゆるし】
《罪のゆるし》の教えこそ、キリスト教信仰の肝心要です。キリスト者とは何者なのかと問われて、私たちは答えます。『それはゆるされた罪人です。ゆるされて、それで罪人でなくなったのではなく、依然として罪人であり、その罪深さをゆるされつづけて生きる者たちである』と。その祝福に満ちた中身は、《この私は、人に対しても主に対しても罪を犯した》と告白し、《主があなたの罪をゆるし、その罪を取り除いてくださったし、憐れみによって取り除きつづけてくださる》と、ゆるしの現実を聴くことの中にあります。その私たちはまた、自分に対してなされた他者の罪や過ち、無慈悲、冷淡さをもゆるすようにと促されます。けれど、これは難しい。ひどく誤解されたり、ねじ曲げられ、不当な扱いに傷つけられることは日常茶飯事です。「どうして分かってくれないのか。なぜそんなふうに」と、私たちは打ちのめされ、心を痛めます。人との関わりはしばしば私たちの手に余ります。もし、「なにしろ許すべきだ。ゆるさなければ、あなたはキリスト者ではない」と突きつけられるなら、私は頭を抱えます。あるいは、「あなたがゆるされていることが十分に分かっているなら、それでいい。後は、あなた自身は人を許そうが許すまいが、温かく迎え入れようが冷たく退けようが、それはあなたの自由だ」と言われるでしょうか?
 《主の祈り》の6つの祈願の第5番目は、「我らに罪を犯すものを我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」。どうかゆるしてくださいと、なぜ願うのでしょうか。なぜ、そう祈り求めるようにと命じられているのでしょう。私たちがいまだに罪を許されていない、ということではありません。主イエスの、あの丘の上の十字架上で成し遂げられた罪の贖(あがな)いの出来事を、「それは、この私のためだった」と信じ、受け入れたときに、私たちはすでに何の留保もなく、すっかり決定的に罪をゆるされました。その罪がどんなに数多くても、最低最悪の罪であっても、すっかり丸ごとゆるされています。けれども、《我らに罪を犯す者を我らがゆるすごとく》とは、いったい何でしょうか。この1句に、私たちはたじろぎます。自分のための罪のゆるしと神の憐れみとを願い求めようとする度毎に、「お前はまだゆるしていない。どうしたわけだ?」と、私たちは突きつけられるようなのです。自分に対する他者の負い目をゆるしてあげることが、自分自身がゆるされるための前提条件なのでしょうか。ゆるすなら、その見返りとしてその報酬として、ゆるされるのでしょうか。いいえ、そうではありません。私たちが罪をゆるされることは、神からの恵みのできごとでした。それは一方的な贈り物でした。何の条件もなく、ただただ恵みによって、ただ憐れみによって、まったくの無償でゆるされた私たちです。


3/26「湖の上を歩く」マタイ14:22-33

                   みことば/2017,3,26(受難節第4主日の礼拝)  104
◎礼拝説教 マタイ福音書 14:22-33                      日本キリスト教会 上田教会
『湖の上を歩く』
 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

14:22 それからすぐ、イエスは群衆を解散させておられる間に、しいて弟子たちを舟に乗り込ませ、向こう岸へ先におやりになった。23 そして群衆を解散させてから、祈るためひそかに山へ登られた。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。24 ところが舟は、もうすでに陸から数丁も離れており、逆風が吹いていたために、波に悩まされていた。25 イエスは夜明けの四時ごろ、海の上を歩いて彼らの方へ行かれた。26 弟子たちは、イエスが海の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと言っておじ惑い、恐怖のあまり叫び声をあげた。27 しかし、イエスはすぐに彼らに声をかけて、「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」と言われた。28 するとペテロが答えて言った、「主よ、あなたでしたか。では、わたしに命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください」。29 イエスは、「おいでなさい」と言われたので、ペテロは舟からおり、水の上を歩いてイエスのところへ行った。30 しかし、風を見て恐ろしくなり、そしておぼれかけたので、彼は叫んで、「主よ、お助けください」と言った。31 イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかまえて言われた、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。32 ふたりが舟に乗り込むと、風はやんでしまった。33 舟の中にいた者たちはイエスを拝して、「ほんとうに、あなたは神の子です」と言った。    (マタイ福音書 14:22-33)
                                             



  弟子たちは小さな舟に乗せられました。冒頭22節に、「強いて、~乗り込ませ」と書いてあります。「なんだか気が進みません。また今度そのうちに」と渋るのを「いいや乗りなさい」と無理強いにです。
  小さな舟で湖に漕ぎ出し、そこで逆風に漕ぎ悩みながら、「あれ・・・」と弟子たちは不思議な思いを抱いたでしょう。ほんの少し前にも、これとよく似た、そっくりの出来事を味わったような気がする。さて、それはいつだったか、どこでだったか? 同じことは前にもありました。主イエスの弟子とされ、山上の説教を聞いた直後、「向こう岸に行こう」と主がおっしゃって、一緒に小さな舟に乗り込んだとき(8:23-27)のことでした。この同じ顔ぶれで、この同じ湖で。あのときも湖に激しい嵐が起こり、舟は波に飲まれそうになりました。あのとき弟子たちは、「主よ、お助けください。溺れそうです」(8:25)と主を揺さぶり起こし、必死にしがみついたのでした。だって主イエスは舟の片隅で、のんきに眠っていたのですから。しかも今度は、主は眠っているどころか、肝心なときに、その場に居さえしない。まったく、いつもこうだ。
 まったく、いつもこうだ。その通り。小さく貧相なとても危なっかしいボロな舟で湖に漕ぎ出し、向こう岸へ、また向こう岸へと渡りつづける私たちです。あのガリラヤ湖はとりわけ波風が立ちやすい湖で、たびたび大荒れになる危険な湖でした。弟子たちは長年その湖で暮らしを立ててきた、その湖のことをよくよく心得ている漁師たちです。漕ぎ出すことを渋ったのは、湖が荒れることを半ば予期したのかも知れません。いいえ そうでなくても、波風立たないことがありましょうか。順風満帆で、魚が豊かにタップリと取れる日ばかりでしょうか。むしろ問題なく平和に過ごせるのは10日に1度か20日に1度、後は逆風と突然の激しい風と大波の連続です。舟は波にもまれ、引き回されて激しく揺さぶられ、水浸しになります。「この私は今にも舟の外に投げ出され、溺れてしまいそうだ」と気が気ではありません。網をかけ、夜通し働いても、まったく何の収穫もない日々だって、しばしばあります。燃料代も値上がりし、政府も知らん顔し、消費者は漁師の生活になど見向きもしません。その暮らしがどんなに追い詰められ、不安定で心細いのかなどと、ほとんど誰も思ってもみないのです。鶏を飼う人々の暮らしもそうです。酪農家や畜産業者の暮らしもそうです。75歳以上の人々の暮らしも、非正規雇用の従業員や派遣の短期契約社員たちの暮らしもそうです。正社員たちもまた苛酷な労働条件に耐えることを強いられ、背負いきれない重荷を背負わされています。親たちがそうであるなら、それぞれの子供たちの日々も、同じくまったく不安定で心細いのです。日本に出稼ぎに来て働く外国人労働者たちの暮らしぶりもそうです。南スーダンから帰ってきても、自衛隊員たちはいつまたとても危ない戦争地域の真っ只中に放り込まれるか、本人たちも家族も毎日毎日気が気ではありません。だって政府は、「間違っていた」とも、「危なかった。きびしい戦闘行為が何度も何度も繰り返されて、大変だった」ともちっとも認めようとしないで、「大丈夫。安全安全」と取り繕いつづけるばかりですから。また数百人、数千人と虚しく死地に無理にも赴かせようと手ぐすねひいているのですから。生きてゆくのが難しい時代になってしまいました。誰もが逆風に悩み、突然の激しい風と波に引き回され、水浸しにされています。
  私たちは何を願うでしょう? ほんの少しも波風立たないことを。いつもいつも順風満帆で魚が十分に獲れつづけることを? もちろん、手厳しい逆風の日々があり、突然の激しい風と波があり、大波が打ちかかります。大きな失敗も重ね、折々に苦い思いも噛みしめます。私たちは生きているのです。小さな舟は波にもまれ、引き回され、激しく揺さぶられます。舟底も自分たち自身も水浸しになります。「この私は、今にも舟の外に投げ出されてしまいそうだ。溺れてしまいそうだ」と気が気ではありません。夜通し働いて懸命に心を砕いても、それでもなお全く収穫がなく、ただ疲れ果て、ただただ貧しさと無力感とを噛みしめる日々もあります。もちろんです。いろいろな様々な出来事が、私たちを揺さぶります。その通り。私たちは生きているのですから。
 むしろ真に問うべきであるのは、《乏しく貧しい中で、この私を本当に支えるものがあるのかないのか。恐れるほかない不安と心細さの只中で、しかしなお、この私を力づけるものがあるのか。それとも、ないのか。支えと確かな拠り所を、果たしてこの私は手にしているのか、いないのか》です。子供も年寄りも、お父さんお母さんたちも、若者たちも、それぞれに自分で問いかけ、自分自身で答えなければなりません。夜通し舟を漕ぎ悩み、途方にくれている彼らです。しかも、主はここにはおられない。しかも、主がどこにいるのかさえ、もうすっかり分からない。主を見失って、「ああ私たちはこんなに遠くまで来てしまった。まさか、こんな所に主がおられるはずもない」と彼らは思いました。彼らが主を見失っている時、主を忘れ果てている間に、けれども主ご自身は彼らを見ておられました。片時も見失わず、目を凝らしていてくださったのです。だからこそ「湖の上を歩いて弟子たちのところに」(25)行きました。ありえないことが起こったのですし、いるはずもない所で、出来るはずもない仕方で主を見出し、けれど主と出会いました。
 26-30節。主イエスの姿を見ても、彼らは安心できません。「幽霊だ」と思い、それは実体のない、ただの見せ掛けに過ぎないと思います。その彼らの目には、《逆風。激しく打ち寄せる波や風。底知れぬ湖の深さ、暗さ、不確かさ》が実態です。また《舟や自分自身の貧弱さ、もろさと危うさ》こそが現実に見えました。主イエスは、「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」(27)と語りかけます。ペトロと主イエスとのやり取りは、私たちの心に強い印象を残しました。ペトロが言います、「主よ、あなたでしたか。では、わたしに命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください」。主イエスは言います、「おいでなさい」。ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスのほうへ1歩、2歩、3歩、4歩と進みます。しかし強い風に気がついて怖くなり、沈みかけます。「主よ、お助けください」と叫びます。
 主イエスに従う弟子たちの先頭を、このようにペトロが進んでいきます。あの彼の中に呼び起こされる勇気と恐れと、信頼と心細さが、私たちのための手本です。主イエスは御自分の力を私たちに分け与えることができる、とペトロは知っています。主イエスが湖の上を歩くことができる。確かに、それは大きな奇跡です。けれどそれよりも大きな奇跡は、貧しく弱い一人の弟子にさえ、どこにでもいるごく普通のこの私たち一人一人にも、主はご自分がするのと同じことをさせることができるということです(イザヤ43:1-2,ヨハネ14:12-14,15:5)。そしてまた、彼の足が水の下にズブズブと沈んでいく姿に目を凝らしましょう。吹きつける強い風が、あるいはその音や気配が、彼の心を引きつけます。足もとの水の感触が、彼の心を惑わせます。すると途端に、彼は主イエスがどんな方であったのかをすっかり忘れてしまいます。主イエスがこれまで彼に何を教えてくださり、どんなによいことを彼のためにしてくださったのかということも、祈ったことも感謝したことも、驚いたことも、願い求めたことも信頼したことも、すっかり忘れてしまいます。するともう、吹きつける激しい風と打ち寄せる波と、湖の得体の知れない深さばかりが、彼の頭の中を支配します。沈んでゆくほかありません。けれど、その彼をご覧ください。「主よ、お助けください」と叫んでいるではありませんか。私の助けはどこから来るだろう。天地を造られた主のもとから来る(121)。主からこそ私の助けは来ると、その肝心要をあの彼は覚えています。そのことだけは、主イエスを信じて生きてきたあの彼は決して忘れません。だからこそ彼は主の弟子であり、クリスチャンでありつづけます。
  「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」(27)と、主は語りかけます。私だ。元々の言葉では、《私は、いる。私は有る。ちゃんと私はここにいるじゃないか》という意味です。主の姿を見ても、主の姿をいくら毎週毎週示されつづけても、私たちは何だか安心できません。「幽霊じゃないか」と思い、実体のない、心の中だけの、ただの見せ掛けに過ぎないものと思い、どこかで高をくくっています。主ご自身を侮って、話半分に、ほどほどに聞き流しています。《幽霊》に向かって祈り、《幽霊》に向かって讃美歌を歌い、実体のない《幽霊》についての根拠のない夢物語を聞かされていると。その私たちに向かって、《私はいる。私は有る。ちゃんと私はここにいるじゃないか。この私は、あなたにとって確かに実体であり、現実であり、あなたの主である》と、主ご自身の現実と出来事とが差し出されつづけます。「十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に描き出されたのに、描き出されつづけているのに」(ガラテヤ手紙 3:1)と。だから、あなたは安心しなさい。あなたは恐れることはない。もう、小さくなってビクビクと怯えつづけなくてもよいのだと。「主よ、お助けください」と手を差し出す者は、自分に向かって差し出されている主イエスの手に気づき、その手を掴むのです。溺れかけながら、自分の危うさと心細さを痛感させられながら、「主よ、お助けください」と手を差し出す。だからこそ、その人はクリスチャンです。しかも主イエスは、なんと慈しみ深い方でしょう。溺れかけた弱々しい者が「主よ、お助けください」と叫び、手を差し出すや否や、主イエスの伸ばされた手は直ちにその手を掴んでいます。その人が叫んで手を差し伸べるのを、今か今かと待ち構えているからです。
 31節、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。主イエスのこの言葉に、私たちは自分自身を振り返って、心を痛めてもよいでしょう。その言葉に照らされて、いつもの自分の思いや普段のあり方を恥じてもいいでしょう。けれど、それは主イエスとその人自身との大切なやり取りです。折々に、この私たち一人一人は『ここで自分の信仰の中身が問われている』と気づくことがあります。それでもなお主イエスの眼差しは、私たちが他人を見るよりも暖かく、自分自身を見るよりも寛大です。たしかに信仰が薄い。弱い。小さい。けれど全く無いわけではない。しかも、大事な局面で「主よ、お助けください。私は溺れそうです」と、ちゃんと叫ぶことができたではありませんか。《小さな信仰。薄い信仰の者を、けれど主は救ってくださる。それどころか、信じない者をさえ主は救おうとなさり、罪深い者を主は憐れみ、神に敵対する者をさえ、主は愛して止まなかった。だからこそ、こんな私をさえ》と知っているなら(ローマ5:6-11)、それで十分です。子供を助けてもらおうとして、「信じます。不信仰な私をお助けください」(マルコ9:24)と叫んだ父親の叫びを思い出せるなら、それで十分。あなたも私もとても不信仰で、あなたも私もあまりに小さな信仰です。そのとおり。でも、それはあまり大事なことではありません。そんなささいなことよりも千倍も万倍も大切なことがあります。救い主ご自身こそが大きければ、それで十分でしょう。あなた自身とあなたの家族が救われるためには、天の主人が色濃く、あざやかであれば、それで十分でしょう。だって、あなたは何者でしょうか。この私たちは何者でしょうか。天の主人の召使い同士です。「しもべが立つのも倒れるのも、その主人によるのである。しかし、しもべは立つようになる。主はご自身のしもべを立たせることができるからである」(ローマ14:4)。しかも天の主人は、ぜひそうしてあげたいと心から願ってくださっているからです。台風が接近し、間もなく上陸しようとしています。波が逆巻き、風が荒れ狂い、大水が私たちを飲み込もうと待ち構えています。しかも、いまだにあなたの信仰はけっこう薄い。小さくて弱々しい。案外、脆くて貧弱。けれど大丈夫。何の不足も心配もありません。私たち自身よりも千倍も万倍も強くて、千倍も万倍もしっかりしておられて、ビクともしないただお独りの方を信じているからです。私たちはクリスチャンです。ここは、キリストの教会です。「主よ、お助けください。私は溺れそうです」と、あなたも叫びなさい。「倒れそうです。膝も腰もガクガクし、足がよろめいています」(94:16-18)と朝も昼も晩も、あなたも叫びなさい。




2017年3月25日土曜日

3/19こども説教「わたしたちの日毎の食べ物を」ルカ11:3

 3/19 こども説教 ルカ11:3
 『わたしたちの日毎の食べ物を』

わたしたちの日ごとの食物を、日々お与えください。
(ルカ福音書 11:3

 主イエスが教えてくださった『主の祈り』を少しずつ読み味わっています。弟子たちは主イエスが祈っている姿をいつもいつも見ていました。「ああ、あんなふうに私たちも祈りたいものだ」。教えてくださいと弟子たちは願い出、主イエスは教えてくださいました。
  ケンちゃん、朝ごはんは何を食べたかな。ご飯を食べるときに、お祈りもしたのかな。「食べ物を」と言ったら、ヨソでは食べ物のことです。けれどそここでは、ただ食べ物のことばかりではないんです。私たちが毎日毎日、安心して嬉しく生きてゆくために必要なすべて全部を、という意味です。それらすべて全部を、父なる神さま、あなたこそが毎日毎日私たちに恵み与えてください。あなたから受け取って、あなたに感謝し、あなたに信頼して生きる私たちとならせてください。「このように祈りなさい」とわざわざ主イエスから命令されているのは、このように心得て毎日毎日を暮らすことがとても難しいことだからです。難しいけれど、とてもとても大切なことことだからです。
  だってね、そう命じられて、いつもいつも祈っているくせに、そうは思っていないクリスチャンがたくさんいるらしいんですよ。じゃあ、どんなふうに思っているかというと、『私たちが毎日毎日、安心して嬉しく生きてゆくために必要なすべて全部を、この自分が、自分の力と努力で手に入れている』とか、『うちの父さん母さんが毎日汗水流して苦労してがんばって働いてくれて、それで生活費も食費も稼いでくれている。やっぱり、父さんと母さんのおかげだ』などと。じゃあ、神さまに何をどう助けてもらってるんですかと質問すると、その人たちは、「別に。たいして何もしてもらっていない」などと知らんぷりしています。だからです だから、その人たちはたびたび淋しい悲しい気持ちになり、なんだか物足りないような、心配で心細いような気持ちになります。だから、たびたび自惚れすぎて、人をバカにしたり怒ったりもしてしまいます。困りました。父さん母さんや私たちそれぞれの働きをも大切に用いてくださっているとしても、そのうえでなお、私たちが生きてゆくために必要なすべて全部を、父なる神さまが恵み与えてくださっている。この肝心要を、この私たちも、はっきりと思い出せるといいですね。いつもいつも覚えていられると、とても幸せです。



    【補足/神への信頼】
    もし仮に、家では父さん母さんが家庭を支え、教会では牧師や長老や私たち自身が教会をささえ、維持し、守っていると思うなら、この私たちはすっかり心得違いをしています。神ご自身のお働きを現実的に具体的に思い描くことも、そこに信頼を十分に寄せることもできないなら、その人はいつの間にか人間中心の考え方に陥って、そこに深く囚われてしまっているかも知れません。信仰をもって生きることの大きな危機がそこにあります。

この教会のホームページに掲載中ですが、『キリスト教の中身が分かるコース』では、この祈りについてこう説明しています。問37「『われらの日用の糧を今日も与えたまえ』という願いは何ですか」「私たちが自分にとって無くてはならないものしか欲しがらず、欲張らないためです。また無くてはならないすべて一切を、ただ神さまからこそ受け取ろうと期待するためにです」。
ここでも最重要のポイントは、やはり天の御父への信頼です。願うなら、そうなる。願わないなら、そうはならない。自分自身でも、親兄弟や友だちやほかの人間たちやモノでも、それらへの信頼はほどほどのことで、あまり当てにできません。けれど神に十分に信頼を寄せて生きられるなら、とても安心です。そうではないなら、心細くて、いろいろなものが恐ろしく感じられて、ビクビクオドオドしながら暮らすことになるでしょう。臆病にもなり、意地悪にもなり、ひがみっぽくもなるかも知れません。神への信頼は、朝昼晩の食べ物のようなささいなことから始まります。出エジプト記16章を読みましたね。12節)「あなたがたは夕には肉を食べ、朝にはパンに飽き足りるであろう。そうしてわたしがあなたがたの神、主であることを知るであろう』。肉を食べ、パンに飽き足りて、そうして『主が主であることを知る』であろうと。つまり逆に言えば、そうでなければ、いつまでたっても、主を信じることも、信頼を十分に寄せることも感謝することも、主によくよく聴き従うこともできないままだろうと。そのとおりです。だからこそ、不平不満を並べつづける神の民を集めて、神さまはきびしく叱るわけでもなく、懲らしめるわけでもなく、「それじゃあ、肉もパンもたっぷりと食べさせつづけよう。神を信じない者ではなく、信じるあなたがたになりなさい。いいえ この私こそが、ならせてあげよう」と。
  そのようにして、神さまへの十分な信頼と感謝がこの私たちの中にも積み重なり、大きく大きく育ってゆきますように。その信頼と感謝の上に立って、この私たちも一日ずつを暮らすことができますように出エジプト記16:1-12,箴言30:7-9,申命記8:1-20)。




3/19「パン5つと魚2匹」マタイ14:13-21

                みことば/2017,3,19(受難節第3主日の礼拝)  103
◎礼拝説教 マタイ福音書 14:13-21                日本キリスト教会 上田教会
『パン5つと魚2匹』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

14:13 イエスはこのことを聞くと、舟に乗ってそこを去り、自分ひとりで寂しい所へ行かれた。しかし、群衆はそれと聞いて、町々から徒歩であとを追ってきた。14 イエスは舟から上がって、大ぜいの群衆をごらんになり、彼らを深くあわれんで、そのうちの病人たちをおいやしになった。15 夕方になったので、弟子たちがイエスのもとにきて言った、「ここは寂しい所でもあり、もう時もおそくなりました。群衆を解散させ、めいめいで食物を買いに、村々へ行かせてください」。16 するとイエスは言われた、「彼らが出かけて行くには及ばない。あなたがたの手で食物をやりなさい」。17 弟子たちは言った、「わたしたちはここに、パン五つと魚二ひきしか持っていません」。18 イエスは言われた、「それをここに持ってきなさい」。19 そして群衆に命じて、草の上にすわらせ、五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンをさいて弟子たちに渡された。弟子たちはそれを群衆に与えた。20 みんなの者は食べて満腹した。パンくずの残りを集めると、十二のかごにいっぱいになった。21 食べた者は、女と子供とを除いて、おおよそ五千人であった。      (マタイ福音書 14:13-21)
                                               

ガリラヤ湖のほとりです。洗礼者ヨハネの無残な死の知らせ(14:1-12)を聞いて、主イエスは人里離れたところに独りで退かれました。祈るためにです。何より、祈るためにこそ。ヨハネという名の、働きを終えた主の仕え人のために。救いを待ち望む人々のために。そして、そこからいよいよ本格的に始まってゆく御自身の働きのために。このときだけではなく、主イエスにとってもまた私たちにとっても、天の御父へと向かう祈りはなお続きます(13,23)。群衆が追いかけてきました。主は、彼らを見て深く憐れみました。弟子たちがそばに来て、主イエスにこう提案しました。「ここは寂しい所でもあり、もう時もおそくなりました。群衆を解散させ、めいめいで食物を買いに、村々へ行かせてください」(15)。この提案は理にかなっています。ものの道理をわきまえた、とても理性的な大人の判断です。けれども主イエスは乱暴なことを命じます。「彼らが出かけて行くには及ばない。いいえ あなたがた自身の手で食物をやりなさい」(16節参照)と。
  人々を見て、主イエスが深く憐れむ。それは、このことです。たしかに《言葉の神》です。けれど、言葉だけの神ではなく、心の中にだけいるらしい神ではなく、ただ口先だけの神ではありません。現実に具体的に、生きて働かれる神です。素敵な教えを語り、立派な美しい言葉を聞かせるだけでは何の役にも立ちません。「思い悩むな」と主は確かにおっしゃいました。あのときも、着るもの食べるもの飲むものなどどうでもいいと冷淡に突き放したのではありませんでした。聖書の神を知らない外国人と同じに私たちクリスチャンも、誰でも皆、食べるもの着るもの住むところを必要とします。霞を食べて生きる仙人のような人間など一人もいません。「これらのものが皆あなたがたに必要なことを、天の父はご存知だ。何よりまず、神の国と神の義を求めよ。そうすれば、これらのものは皆、添えて与えられる」(マタイ6:33)。「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」(マタイ4:4,申命記8:3)と確かに主はおっしゃいました。けれどあの時も、パンなど要らないと乱暴なことを言ったのではありません。神の口からの1つ1つの言葉とそしてパンと、その両方をもって人は生きるのです。神の言葉も朝昼晩の飢えを満たす食べ物も、その両方を私たちが必要とすることを主はよくよくご存知です。ですから、主イエスは彼らをそのまま放り出すことはしません。行かせることはない。この私自身が、私の弟子であるあなたがたに、彼らに食べ物を与えさせよう。
 19節です。主は天を仰いで、讃美の祈りを唱えました。パン5つと魚2匹を抱えて、主はそれらを掲げもちます。「これだけしかありません」と嘆くのではありません。その乏しさを「なんだ。これだけか」と軽蔑するのではなく、「これだけある」と感謝し、それらを大切に尊ぶ祝福でした。ここで主が祈った祈りは、どのような祈りだったのでしょうか。どのような感謝と祝福だったのでしょう。主イエスの、ここでのこの祈りこそが重要です。なぜなら、この祈りによって事態が決定的に180度の転換をしているからです。私たちがいつも祈る《主の祈り》。その中の一つの大事な願いは『私たちの日用の糧を今日も与えてください』です。私たちが生きるために必要なもの。高価なものも、ごくありふれてささやかに見えるものも、霊的なものも物質的なものも、大きなものから、ごくささいな、他人からはつまらないと思われる小さなものまで。それら一つ一つを、一日分ずつ、主であってくださる神こそが贈り与えてくださった。どうか今日も与えてください。主から与えられる必要な、十分な、そして豊かなものを、驚き喜んで、感謝して受け取ることができるようにさせてください。あのとき、あの弟子たちはとまどい思い悩み、不平不満を言い立てたくなりました。「金もパンも、私たちにはない。できるわけがない」と。主イエスは、私たちの乏しさや困窮を無視なさるわけではありません。そこにも目を留め、十分に分かっていてくださる。私たちの乏しさや貧しさをあわれんでくださる主です。例えば、家族の生活や子供たちの養育をどうしようか。どんなふうに育てていったらいいのか。病いに苦しむ大切な家族を、どんなふうに支え、どうやって慰め、どんなふうに寄り添って生きてゆくことができるだろう。その人に何を与え、何を取り除いてあげることができるだろうか。何を支えとし拠り所として生き抜いてゆくことができるだろう。私たちの健康。私たちの一日分ずつの生命。自分自身も一日また一日と年老いて衰えてゆくことに対して、この私たちはどんなふうに立ち向かってゆくことができるでしょう。詩篇の信仰者は祈ります。「われらにおのが日を数えることを教えて、知恵の心を得させてください。あしたに、あなたのいつくしみをもってわれらを飽き足らせ、世を終るまで喜び楽しませてください」と。私たちも祈ります。「彼らは年老いてなお実を結び、いつも生気に満ち、青々として、主の正しいことを示すでしょう。主はわが岩です」(90:12,14,92:14-15)と。私たちが生きて死ぬまでの生涯の日の一日一日を、けれどどうやって数えることができるでしょう。もし万一、わたし自身の努力と働きと才能によって勝ち取ってきた日々だと誤解するなら、私はかなり数え間違っています。もし万一、若く健康で力にあふれている限りにおいて実を結び、年老いて白髪になれば後はただ枯れてゆくだけだと誤解するならば、私たちはすっかり数え間違っています。目の前にある目に見える事柄に一喜一憂し、恐れつづけ気に病みつづけ、山ほどある思い煩いの只中で、すっかり神を見失ってしまうでしょう。神さまが生きて働いておられますことなど、いつの間にか思いもしなくなるでしょう。それでは困ります。とてもとても困ります。神さまの御前に慎んで心安くひざまずくことができるなら、そこで私たちも、私自身の生涯の日を正しく数えはじめ、ついに知恵ある心を贈り与えられるでしょう。ヨソの学校や他の書物からは決して与えられないはずの、神ご自身からの知恵を。「主のあわれみと慈しみが、私の日々の一日ずつにあった。確かにあった」と数えはじめるでしょう。なぜ、白髪になってもなお実を結び、生き生きと命にあふれることなどできるでしょう。若者も倦み、疲れ、百戦練磨の勇士さえもが次々とつまずき倒れる中で、なぜ、その一握りの人々は新しい力を獲得し、鷲のように翼を張ってのぼることができるのでしょうか。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。それは根も葉もない絵空事にすぎなかったのでしょうか? それとも本当のことでしょうか (イザヤ40:30-31,46:3-4)
 19節です。主イエスの仕草は、あの最後の晩餐のときの主の仕草そのままです。イエスはパンを取り、天を仰いで祝福を御父に願い求め、パンを裂き、弟子たちもまた主イエスからのお指図そのままに、教えられたとおりに、パンを取り、天を仰いで祝福を御父に願い求め、兄弟姉妹たちに分け与え、同じく言います。主イエスがこうなさり、『取って食べなさい。これは私の体である』と仰った。『取って食べなさい。これは私の体である』。同じくまた杯を取り、感謝の祈りを唱えて、主イエスは弟子たちに渡し、弟子たちは渡されるままに、指図され教えられてきたとおりに、天を仰いで祝福を御父に願い求め、兄弟姉妹たちに手渡しつづけています。今までもこれからも。あの晩餐には、またそれにつづく聖餐式のパンと杯には、主の十字架の出来事こそが深く刻まれます。主はパンと魚を掲げ持ったように、十字架の上で、私たちのために、ご自身の体を掲げたのです。主は天を仰いで祈りを唱えました。感謝と、切なる願いの祈りをです。主はパンを裂くようにして、あの丘の上で、あの十字架の木の上で、私たちのために、ご自身の体を引き裂き、ご自身の血を流しつくしてくださいました。主はご覧になり、この世界と私共一人一人を憐れんでくださいました。
 私たちも健康を望みます。大きな良い仕事を成し遂げたいと願います。富も力も欲しい。みんなから「素晴らしい。さすがだ。あなたのおかげだ」と誉めてもらいたい。もちろん幸せになりたい。それでもほんの何年か若返る程度の健康や力では全然足りません。ちょっとやそっとの富や賞賛や支えでは、全然足りません。そうであるならば、私は健康も病気も、その両方を受け取りましょう。老いも衰えも、そのまま受け取りましょう。健やかなときも病める日々にも、弱り果てる日々にさえ、心安くありたいからです。富を受け取るだけでなく、貧困も貧しさも受け取りましょう。満ち足りて喜ぶ私でありたいからです。賞賛も侮辱も、そのまま受け取りましょう。人から誉められれば嬉しい。けなされれば悔しい。それでも何しろ「良い忠実な僕よ、よくやった。お前の名は天の御父の膝下に置かれた命の書に書き記されてある。あなたの名前をちゃんと書いておいた」(マタイ25:21,ルカ10:20)と、あの方から喜んでいただけるなら、とても嬉しい。虫が食ったり、さび付いたり、泥棒に盗まれたりしない宝でなければ役に立ちません。主イエスをこそ信じ、主イエスにだけ忠実に聴き従って生きていこうと決意なさった兄弟姉妹たち。朽ちることのない色褪せない宝でなければ、いざというとき使い物になりません。大雨が降り、川があふれ、やがて強い風も吹き荒れはじめます。私たちの乗った小さな小さな粗末な舟は大きな波に飲み込まれそうになるでしょう。手元にぜひとも残しておくべき道具や装備は、そう多くはありません。よくよく知っておくべきことは多くはありません。貧しく乏しい私たちであること。しかも、その貧しさ乏しさは、主によって豊かにされ、主によって満たされること。弱い私たちが主によってこそ心強く支えられること。信頼し、すべて一切を委ねるに値する主であられます。願い求め、待ち望むに足る神と私たちは出会っていたのです。主に相対し、主が私の右にいてくださり、夜も昼も私を諭し、私を励まし、私を慰めてくださるならば、そうであるなら、そこでようやくこんな私さえ揺らぐことがない(16:7-)と知りたいのです。骨身にしみて、腹の底から、分かりたいのです。
 私は願います。その一つの確信を、自分の妻と分かち合いたいと。その肝心要をこそ、大切な息子たち娘たちにも、ぜひ手渡してあげたいと。兄弟たちと、この一点を分かち合い、共々にそれを喜び祝いたい。だから私も祈ります。いつもの食事をする時にも、大切な仕事の前にも、友と語り合うときにも、夜眠るときにも、朝目覚めたときにも。「・・・・・・父なる神さま。あなたは生きて働いておられます。このパン5つと魚2匹も、あなたが恵みによって与えてくださったものでした。ありがとうございます。私たちを愛するあなたの愛によって、この豊かな贈り物を通して、私たちの心も体も養ってください。あなたからの贈り物は、まだまだ他にもあります。家族や隣人たちが、これらのパンと魚のように与えられていることに感謝します。私たちを憐れんでくださって、あなたの恵みのお計らいでした。職場や居場所や私の健康や一日ずつの生命を、これらのパンと魚のように贈り与えてくださって、本当にありがとうございます。どうか、ただ恵みによって支えてください。大事に受け取って、その喜びと確かさを魂に刻む私たちであらせてください。あなたから受け取りつつ、あなたによって養われ支えられて、そのようにして心強く、喜びにあふれて生きる私たちであらせてください」。
なにしろ、命と息とすべてのものの与え主である神(使徒17:25の御前に、晴れ晴れとしてひざまずく私たちでありたいのです。喜びと悲しみをもって、困難と願いをもって、感謝と信頼をもって、そこでそのまま主へと向かう私たちでありたいのです。「助けてください。支えてください」と主に向かって呼ばわる私たちでありたいのです。「ありがとうございます。感謝をいたします」と主に向かって喜び祝う私たちでありたい。私たちのための力と喜びの源は、ここにあります。飛びっきりの格別な祝福は、ここにあります。



2017年3月13日月曜日

3/12こども説教「どう祈るか?」ルカ11:1-2

 3/12 こども説教 ルカ11:1-2
 『どう祈るか?』
+上田駅前アピール『♪青くなって尻込みなさい』3/11

11:1 また、イエスはある所で祈っておられたが、それが終ったとき、弟子のひとりが言った、「主よ、ヨハネがその弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈ることを教えてください」。2 そこで彼らに言われた、「祈るときには、こう言いなさい、『父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。       (ルカ福音書 11:1-2

 ケンちゃん。もう自分でお祈りができるようになったんでしょ。お祈りすることを、ケンちゃんは誰から教えてもらったかな。お母さんかな、それともお姉ちゃんたちからかな。主イエスの弟子たちは、もちろん、イエスさまから祈りを教えてもらいました。何を、どういうふうに祈るか。いいえ その前に、祈りを聞いてかなえてくださる神さまがどういう神さまなのか。どういう神さまをどんなふうに信じているのか。それが、一番大事なことです。そうやって、あのときに教えてもらったのが、いつも私たちが祈っている『主の祈り』です。
  『父よ、御名があがめられますように。御国が来ますように』。なによりまず、神さまに向かって『父よ』と呼びかけています。おかしいですね。だって、神さまは神さまでしょ。私たち人間は人間にすぎません。神は神、人間はどこまで行っても人間にすぎません。血がつながっているわけでもなく、親子でも親戚でもない。それまでは誰も、神さまに向かって『父よ』なんて呼びかけませんでした。けれど、この時から神さまを『父よ』と呼んで、その父から『私の子供たちよ』と呼んでいただける、いままでになかったまったく新しい関係がはじまりました。「『父よ』と呼んでいいんですよ。神さまがあなたがたの本当のお父さんになってくださいましたから」と主イエスから教えられたこの時から、神さまにすっかり信頼して生きる生き方が始まりました。ものすごく心強くて、何が起きても平気。とても安心です。



         【補足/親に対する小さな子供の信頼】
         (*)ゲッセマネの園で、十字架前夜に、救い主イエスは小さな子供の心になって御父に願い求めていました、「アバ父よ」(マルコ14:36と。「アバ」とは、2~3才くらいの小さな子供が「父ちゃん。おっとう」と呼びかける幼児語です。そういう信頼。安心して何の遠慮も恐れもなく、愛し受け入れてくれている父親母親に、小さい子供の心で呼びかけています。それを受け止めて、ローマ手紙8:14-15すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは『アバ、父よ』と呼ぶのである」と。天の御父へのそういう信頼を、私たちも贈り与えていただけます。それが、神からの約束です。






上田駅前アピール    (2017/3/11
『♪青くなって尻込みなさい』

大手町一丁目の、上田高校に登っていく途中にある日本キリスト教会上田教会の牧師、金田です。もう6年もたっちゃったんですね。あのとき斉藤和義が替え歌で語りかけたように、この国の政府が語ることの多くは嘘だったからです。しかもこの国の国民の大多数があまりに無責任な嘘八百が大好きな人々に成り下がっていこうとしています。原発事故はちっとも収束していないし、収束するというはっきりした見込みもメドもない。避難している人たち、避難できずに無理にも連れ戻されようとしている父さん母さん子供たち。原発施設で安く使い捨てられつづける下請けの下請けの下請けの労働者たち。沖縄の人々。無駄に人を殺したり殺されたりするため、これからも海外の紛争地域・戦闘地域に送り出されつづける自衛隊員たちとその家族のこと。駅前でこうやって語ってきた中身の一つ一つがボクを責め立て、苦しくて、心が壊れそうになりました。それで、駅前でのマイク活動を無期限休止にしました。だから今は本当は病気療養中みたいなもンです。それなのに悪い友達に騙されて、無理矢理ここに連れて来られました。しょうがないんで少しだけ喋ります――

♪ 青く~なって しりごみなさい。にげなさい かくれなさい。
 命はひとつ 人生は1回 だから 命をすてないようにネ
 安心安全、明るい未来。保証金もガッポリなどと言われるとネ
すべての原発とそこに住む地元のおじいちゃんおばあちゃん、父さん母さん、子供たち孫たちのことです。原発施設で安く使い捨てられ
つづける下請けの下請けの下請けの労働者たちのことです。
♪ 御国は俺達 死んだとて ずっと後まで 残りますヨネ
 見舞金9000万円と危険手当でお茶を濁されて終るだけ
 命の 部品交換は ありませんヨ
 青くなって しりごみなさい。にげなさい かくれなさい
南スーダンからの自衛隊の撤収を政府は昨日310日に決めました。けれど少しも安心などできません。「治安がどんどん悪化する一方で日常的に戦闘行為がなされているから、だから」ではなく 一定の成果をあげて一段落ついたから引き上げるだけだ、治安悪化と撤収とは何の関係もない、というのですから。すると、危ない紛争地域は世界中に他にいくらでもあって、これからも自衛隊員たちをどんどん何百人も送り出して戦争行為に参加させつづけるつもりだからです。歩みを振り返って反省することのできない国は、日本もアメリカも他のどの国も人々も、同じ過ちをいつまでもどこまでも繰り返しつづけます。無駄に使い捨てられようとする自衛隊員一人一人に、私たちと同じくかけがえのない家族と人生があるからです。犬死させられる自衛隊員の中に、自分たちの息子や娘や孫たちが入っていなければ、この私たちはそれで安心して高みの見物をしてていいんですか。家族も親戚も親しい友達の中の誰も『出稼ぎの戦争』に送り込まれなければ、それでいいんですか。自分たちとは関係ない他人事ですか。いいえ。子供や孫にも、後から来る新しい世代に対しても申し訳が立ちません。お詫びのしようもありません。
♪ 死んで 神様に なるはずもない。
 生きてバカだと いわれましょうヨネ
 嘘八百の でまかせ並べられても その命を すてないようにネ
 青くなって しりごみなさい。にげなさい かくれなさい
 黄色くなって しりごみなさい。にげなさい かくれなさい
真っ白くなって しりごみなさい。にげなさい かくれな~さい。                    (加川良『教訓Ⅰ』の替え歌)


(*)斉藤和義 『ずっと嘘だった
You Tube で、なんと6年たった今でも視聴可能。うわおっ。
びっくりです、彼は今も少しも変わっていない。斉藤~っ。

♪ この国を歩けば 原発が54基。
  教科書もCMも言ってたよ「安全です」
  俺たちを騙して 言い訳は「想定外」
  なつかしいあの頃 くすぐったい黒い雨
  
  ずっと嘘だったんだぜ
やっぱバレてしまったな
本当 嘘だったんだぜ
原子力は安全です
ずっと嘘だったんだぜ
ホウレン草喰いてえなあ
本当 嘘だったんだぜ
気づいてたろう この事態
風に舞う放射能は もう止められない。
何人が被爆すれば気がついてくれるの この国の政府。
この町を離れて うまい水みつけたかい?
教えてよ。やっぱいいや
もうどこにも逃げ場はない。

ずっとクソだったんだぜ。
T電もK電も、S電もH電も
もう夢ばかり見てないけど
ずっとクソだったんだぜ
それでも続けるつもりだ
本当 クソだったんだぜ。
何かがしたいこの気持ち、

ずっと嘘だったんだぜ、本当 クソだったんだぜェ。