2017年4月4日火曜日

3/26「湖の上を歩く」マタイ14:22-33

                   みことば/2017,3,26(受難節第4主日の礼拝)  104
◎礼拝説教 マタイ福音書 14:22-33                      日本キリスト教会 上田教会
『湖の上を歩く』
 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

14:22 それからすぐ、イエスは群衆を解散させておられる間に、しいて弟子たちを舟に乗り込ませ、向こう岸へ先におやりになった。23 そして群衆を解散させてから、祈るためひそかに山へ登られた。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。24 ところが舟は、もうすでに陸から数丁も離れており、逆風が吹いていたために、波に悩まされていた。25 イエスは夜明けの四時ごろ、海の上を歩いて彼らの方へ行かれた。26 弟子たちは、イエスが海の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと言っておじ惑い、恐怖のあまり叫び声をあげた。27 しかし、イエスはすぐに彼らに声をかけて、「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」と言われた。28 するとペテロが答えて言った、「主よ、あなたでしたか。では、わたしに命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください」。29 イエスは、「おいでなさい」と言われたので、ペテロは舟からおり、水の上を歩いてイエスのところへ行った。30 しかし、風を見て恐ろしくなり、そしておぼれかけたので、彼は叫んで、「主よ、お助けください」と言った。31 イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかまえて言われた、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。32 ふたりが舟に乗り込むと、風はやんでしまった。33 舟の中にいた者たちはイエスを拝して、「ほんとうに、あなたは神の子です」と言った。    (マタイ福音書 14:22-33)
                                             



  弟子たちは小さな舟に乗せられました。冒頭22節に、「強いて、~乗り込ませ」と書いてあります。「なんだか気が進みません。また今度そのうちに」と渋るのを「いいや乗りなさい」と無理強いにです。
  小さな舟で湖に漕ぎ出し、そこで逆風に漕ぎ悩みながら、「あれ・・・」と弟子たちは不思議な思いを抱いたでしょう。ほんの少し前にも、これとよく似た、そっくりの出来事を味わったような気がする。さて、それはいつだったか、どこでだったか? 同じことは前にもありました。主イエスの弟子とされ、山上の説教を聞いた直後、「向こう岸に行こう」と主がおっしゃって、一緒に小さな舟に乗り込んだとき(8:23-27)のことでした。この同じ顔ぶれで、この同じ湖で。あのときも湖に激しい嵐が起こり、舟は波に飲まれそうになりました。あのとき弟子たちは、「主よ、お助けください。溺れそうです」(8:25)と主を揺さぶり起こし、必死にしがみついたのでした。だって主イエスは舟の片隅で、のんきに眠っていたのですから。しかも今度は、主は眠っているどころか、肝心なときに、その場に居さえしない。まったく、いつもこうだ。
 まったく、いつもこうだ。その通り。小さく貧相なとても危なっかしいボロな舟で湖に漕ぎ出し、向こう岸へ、また向こう岸へと渡りつづける私たちです。あのガリラヤ湖はとりわけ波風が立ちやすい湖で、たびたび大荒れになる危険な湖でした。弟子たちは長年その湖で暮らしを立ててきた、その湖のことをよくよく心得ている漁師たちです。漕ぎ出すことを渋ったのは、湖が荒れることを半ば予期したのかも知れません。いいえ そうでなくても、波風立たないことがありましょうか。順風満帆で、魚が豊かにタップリと取れる日ばかりでしょうか。むしろ問題なく平和に過ごせるのは10日に1度か20日に1度、後は逆風と突然の激しい風と大波の連続です。舟は波にもまれ、引き回されて激しく揺さぶられ、水浸しになります。「この私は今にも舟の外に投げ出され、溺れてしまいそうだ」と気が気ではありません。網をかけ、夜通し働いても、まったく何の収穫もない日々だって、しばしばあります。燃料代も値上がりし、政府も知らん顔し、消費者は漁師の生活になど見向きもしません。その暮らしがどんなに追い詰められ、不安定で心細いのかなどと、ほとんど誰も思ってもみないのです。鶏を飼う人々の暮らしもそうです。酪農家や畜産業者の暮らしもそうです。75歳以上の人々の暮らしも、非正規雇用の従業員や派遣の短期契約社員たちの暮らしもそうです。正社員たちもまた苛酷な労働条件に耐えることを強いられ、背負いきれない重荷を背負わされています。親たちがそうであるなら、それぞれの子供たちの日々も、同じくまったく不安定で心細いのです。日本に出稼ぎに来て働く外国人労働者たちの暮らしぶりもそうです。南スーダンから帰ってきても、自衛隊員たちはいつまたとても危ない戦争地域の真っ只中に放り込まれるか、本人たちも家族も毎日毎日気が気ではありません。だって政府は、「間違っていた」とも、「危なかった。きびしい戦闘行為が何度も何度も繰り返されて、大変だった」ともちっとも認めようとしないで、「大丈夫。安全安全」と取り繕いつづけるばかりですから。また数百人、数千人と虚しく死地に無理にも赴かせようと手ぐすねひいているのですから。生きてゆくのが難しい時代になってしまいました。誰もが逆風に悩み、突然の激しい風と波に引き回され、水浸しにされています。
  私たちは何を願うでしょう? ほんの少しも波風立たないことを。いつもいつも順風満帆で魚が十分に獲れつづけることを? もちろん、手厳しい逆風の日々があり、突然の激しい風と波があり、大波が打ちかかります。大きな失敗も重ね、折々に苦い思いも噛みしめます。私たちは生きているのです。小さな舟は波にもまれ、引き回され、激しく揺さぶられます。舟底も自分たち自身も水浸しになります。「この私は、今にも舟の外に投げ出されてしまいそうだ。溺れてしまいそうだ」と気が気ではありません。夜通し働いて懸命に心を砕いても、それでもなお全く収穫がなく、ただ疲れ果て、ただただ貧しさと無力感とを噛みしめる日々もあります。もちろんです。いろいろな様々な出来事が、私たちを揺さぶります。その通り。私たちは生きているのですから。
 むしろ真に問うべきであるのは、《乏しく貧しい中で、この私を本当に支えるものがあるのかないのか。恐れるほかない不安と心細さの只中で、しかしなお、この私を力づけるものがあるのか。それとも、ないのか。支えと確かな拠り所を、果たしてこの私は手にしているのか、いないのか》です。子供も年寄りも、お父さんお母さんたちも、若者たちも、それぞれに自分で問いかけ、自分自身で答えなければなりません。夜通し舟を漕ぎ悩み、途方にくれている彼らです。しかも、主はここにはおられない。しかも、主がどこにいるのかさえ、もうすっかり分からない。主を見失って、「ああ私たちはこんなに遠くまで来てしまった。まさか、こんな所に主がおられるはずもない」と彼らは思いました。彼らが主を見失っている時、主を忘れ果てている間に、けれども主ご自身は彼らを見ておられました。片時も見失わず、目を凝らしていてくださったのです。だからこそ「湖の上を歩いて弟子たちのところに」(25)行きました。ありえないことが起こったのですし、いるはずもない所で、出来るはずもない仕方で主を見出し、けれど主と出会いました。
 26-30節。主イエスの姿を見ても、彼らは安心できません。「幽霊だ」と思い、それは実体のない、ただの見せ掛けに過ぎないと思います。その彼らの目には、《逆風。激しく打ち寄せる波や風。底知れぬ湖の深さ、暗さ、不確かさ》が実態です。また《舟や自分自身の貧弱さ、もろさと危うさ》こそが現実に見えました。主イエスは、「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」(27)と語りかけます。ペトロと主イエスとのやり取りは、私たちの心に強い印象を残しました。ペトロが言います、「主よ、あなたでしたか。では、わたしに命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください」。主イエスは言います、「おいでなさい」。ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスのほうへ1歩、2歩、3歩、4歩と進みます。しかし強い風に気がついて怖くなり、沈みかけます。「主よ、お助けください」と叫びます。
 主イエスに従う弟子たちの先頭を、このようにペトロが進んでいきます。あの彼の中に呼び起こされる勇気と恐れと、信頼と心細さが、私たちのための手本です。主イエスは御自分の力を私たちに分け与えることができる、とペトロは知っています。主イエスが湖の上を歩くことができる。確かに、それは大きな奇跡です。けれどそれよりも大きな奇跡は、貧しく弱い一人の弟子にさえ、どこにでもいるごく普通のこの私たち一人一人にも、主はご自分がするのと同じことをさせることができるということです(イザヤ43:1-2,ヨハネ14:12-14,15:5)。そしてまた、彼の足が水の下にズブズブと沈んでいく姿に目を凝らしましょう。吹きつける強い風が、あるいはその音や気配が、彼の心を引きつけます。足もとの水の感触が、彼の心を惑わせます。すると途端に、彼は主イエスがどんな方であったのかをすっかり忘れてしまいます。主イエスがこれまで彼に何を教えてくださり、どんなによいことを彼のためにしてくださったのかということも、祈ったことも感謝したことも、驚いたことも、願い求めたことも信頼したことも、すっかり忘れてしまいます。するともう、吹きつける激しい風と打ち寄せる波と、湖の得体の知れない深さばかりが、彼の頭の中を支配します。沈んでゆくほかありません。けれど、その彼をご覧ください。「主よ、お助けください」と叫んでいるではありませんか。私の助けはどこから来るだろう。天地を造られた主のもとから来る(121)。主からこそ私の助けは来ると、その肝心要をあの彼は覚えています。そのことだけは、主イエスを信じて生きてきたあの彼は決して忘れません。だからこそ彼は主の弟子であり、クリスチャンでありつづけます。
  「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」(27)と、主は語りかけます。私だ。元々の言葉では、《私は、いる。私は有る。ちゃんと私はここにいるじゃないか》という意味です。主の姿を見ても、主の姿をいくら毎週毎週示されつづけても、私たちは何だか安心できません。「幽霊じゃないか」と思い、実体のない、心の中だけの、ただの見せ掛けに過ぎないものと思い、どこかで高をくくっています。主ご自身を侮って、話半分に、ほどほどに聞き流しています。《幽霊》に向かって祈り、《幽霊》に向かって讃美歌を歌い、実体のない《幽霊》についての根拠のない夢物語を聞かされていると。その私たちに向かって、《私はいる。私は有る。ちゃんと私はここにいるじゃないか。この私は、あなたにとって確かに実体であり、現実であり、あなたの主である》と、主ご自身の現実と出来事とが差し出されつづけます。「十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に描き出されたのに、描き出されつづけているのに」(ガラテヤ手紙 3:1)と。だから、あなたは安心しなさい。あなたは恐れることはない。もう、小さくなってビクビクと怯えつづけなくてもよいのだと。「主よ、お助けください」と手を差し出す者は、自分に向かって差し出されている主イエスの手に気づき、その手を掴むのです。溺れかけながら、自分の危うさと心細さを痛感させられながら、「主よ、お助けください」と手を差し出す。だからこそ、その人はクリスチャンです。しかも主イエスは、なんと慈しみ深い方でしょう。溺れかけた弱々しい者が「主よ、お助けください」と叫び、手を差し出すや否や、主イエスの伸ばされた手は直ちにその手を掴んでいます。その人が叫んで手を差し伸べるのを、今か今かと待ち構えているからです。
 31節、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。主イエスのこの言葉に、私たちは自分自身を振り返って、心を痛めてもよいでしょう。その言葉に照らされて、いつもの自分の思いや普段のあり方を恥じてもいいでしょう。けれど、それは主イエスとその人自身との大切なやり取りです。折々に、この私たち一人一人は『ここで自分の信仰の中身が問われている』と気づくことがあります。それでもなお主イエスの眼差しは、私たちが他人を見るよりも暖かく、自分自身を見るよりも寛大です。たしかに信仰が薄い。弱い。小さい。けれど全く無いわけではない。しかも、大事な局面で「主よ、お助けください。私は溺れそうです」と、ちゃんと叫ぶことができたではありませんか。《小さな信仰。薄い信仰の者を、けれど主は救ってくださる。それどころか、信じない者をさえ主は救おうとなさり、罪深い者を主は憐れみ、神に敵対する者をさえ、主は愛して止まなかった。だからこそ、こんな私をさえ》と知っているなら(ローマ5:6-11)、それで十分です。子供を助けてもらおうとして、「信じます。不信仰な私をお助けください」(マルコ9:24)と叫んだ父親の叫びを思い出せるなら、それで十分。あなたも私もとても不信仰で、あなたも私もあまりに小さな信仰です。そのとおり。でも、それはあまり大事なことではありません。そんなささいなことよりも千倍も万倍も大切なことがあります。救い主ご自身こそが大きければ、それで十分でしょう。あなた自身とあなたの家族が救われるためには、天の主人が色濃く、あざやかであれば、それで十分でしょう。だって、あなたは何者でしょうか。この私たちは何者でしょうか。天の主人の召使い同士です。「しもべが立つのも倒れるのも、その主人によるのである。しかし、しもべは立つようになる。主はご自身のしもべを立たせることができるからである」(ローマ14:4)。しかも天の主人は、ぜひそうしてあげたいと心から願ってくださっているからです。台風が接近し、間もなく上陸しようとしています。波が逆巻き、風が荒れ狂い、大水が私たちを飲み込もうと待ち構えています。しかも、いまだにあなたの信仰はけっこう薄い。小さくて弱々しい。案外、脆くて貧弱。けれど大丈夫。何の不足も心配もありません。私たち自身よりも千倍も万倍も強くて、千倍も万倍もしっかりしておられて、ビクともしないただお独りの方を信じているからです。私たちはクリスチャンです。ここは、キリストの教会です。「主よ、お助けください。私は溺れそうです」と、あなたも叫びなさい。「倒れそうです。膝も腰もガクガクし、足がよろめいています」(94:16-18)と朝も昼も晩も、あなたも叫びなさい。