2016年9月19日月曜日

9/18「平和ではなく剣を?」マタイ10:34‐39

わたし(=主イエス)は平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。
                     (ヨハネ福音書 14:27)


 ◎とりなしの祈り
  主なる神。「外国からの出稼ぎ労働者(=寄留者・きりゅうしゃ)をしいたげてはならない。あなたがたはエジプトで外国からの出稼ぎ労働者だったので、彼らの心細さや惨めな心を知っているからである」(出エジプト記23:9参照)と戒められている私たちです。この国では、東南アジアからの出稼ぎ労働者も沖縄の人々も、日本人自身さえも、まるでヨソ者のようにしてしいたげられつづけています。原子力発電所を設置されている住民も、危険な作業に従事する下請け労働者たちも、自衛隊員も、ますます増える非正規雇用の労働者たちも、多くの子供も親たちも年配の人々もそれぞれ貧しく心細く暮らしていて、皆ともどもにしいたげられ、踏みつけにされつづけています。国家とほんの少数の裕福な人々の利益こそが、なにより優先されるからです。国家の利益の中には、しいたげられる人々の安全も幸いな暮らしも勘定に入っていません。この日本でもアメリカでもイギリスでも、世界中のどの国でも、『自分たちの国と、自分たちの同胞と、自分たちの生活こそが第一だ。他の人々はどうでもいい』と人々は叫び立て、他の国や人々を力づくで押しのけつづけます。私たちは身勝手になり、どんどん心を狭く貧しくさせられています。
  主なる神さま。どうか私たちを憐れんでください。神を信じて生きるはずの私たちもまた、人間中心の自己中心の、独りよがりな狭くて小さな世界にしばしば深く閉じ込められてしまうからです。神さまこそが主人であり中心だと、まず私たちクリスチャンにこそはっきりと弁えさせてください。すべての子供たちが十分に愛され、安心して暮らし、やがて慈しみ深い広く暖かい心をもつ大人に育つことができますように。親と周囲の大人たちがそれぞれの務めを精一杯に果たして子供たちの心と体を守ってゆくことができますように。あなたの御心になかって生きることを、どうか今日こそ、この私たちにも願い求めさせてください。
主イエスのお名前によって祈ります。アーメン



                                          みことば/2016,9,18(主日礼拝)  77
◎礼拝説教 マタイ福音書 10:34-39                      日本キリスト教会 上田教会
『平和ではなく剣を?』


   牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
  10:34 地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。35 わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。36 そして家の者が、その人の敵となるであろう。37 わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。38 また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。39 自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。
                                           (マタイ福音書 10:34-39)


 
  難解な箇所の一つです。なぜなら私たちは聖書から、また当の主イエスご自身の口から、正反対の語りかけを聴きつづけてきたのですから。最初のクリスマスの夜、羊と羊飼いたちが野宿しているその夜空の上から、おびただしい数の天の軍勢と天使たちが救い主イエスの誕生を祝って歌い交わしました。「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」と。預言者はやがて来られる救い主について、あらかじめこう告げていました。「すべて戦場で、歩兵のはいた靴と、血にまみれた衣とは、火の燃えくさとなって焼かれる。ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、『霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君』ととなえられる」。また主イエスご自身こそが格別な祝福を弟子たちに告げました、「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな」、そして復活の朝に弟子たちの前に現れて、「安かれ。」と二度つづけておっしゃり、手と脇腹の傷跡を見せて、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす。聖霊を受けよ。あなたがたがゆるす罪は誰の罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」。だからこそ主イエスの弟子たちは、主イエスからの平和を携えて出てゆき、それを人々に差し出し、手渡す平和の使者とされたはずでした(イザヤ9:5-6,ルカ2:14,ヨハネ14:27,20:19-23,コリント手紙(2)5:18-21
  もう少し詳しく眺めてみましょう。「平和ではなく剣を」と仰ったところを、ルカ福音書は「平和ではなく、分裂を」(ルカ12:51とかなり踏み込んで具体的に言い表しています。「今から後は、一家の内で五人が相分れて、三人はふたりに、ふたりは三人に対立し、また父は子に、子は父に、母は娘に、娘は母に、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに、対立するであろう」。しかも分裂や争いをと言い始めながら、直ちに、それにすぐ続けて、「偽善者よ、あなたがたは天地の模様を見分けることを知りながら、どうして今の時代を見分けることができないのか。また、あなたがたは、なぜ正しいことを自分で判断しないのか」(ルカ12:56-57と。つまり、「神の御心にかなう、神に喜んでいただける正しいことを、自分自身の頭と心で判断し、自分で選び取りなさい」と命じておられます。「偽善者よ」と、きびしく叱りかけながら。事柄はすでに明らかです。もしかしたら、「クリスチャンはいつでも何をされても、どんな間違った悪いことに直面しても、いつでもニコニコヘラヘラと笑っていなさい」とでも教わってきましたか。絵本の中のサンタクロースのように。ケンタッキーの鶏肉屋さんの店先に飾ってあるカーネルサアンダース人形のように。いいえ それは平和ではなく偽善です。ただ上辺を取り繕って、なごやかで愛情溢れて和気あいあいとしているふうに装っているだけです。そんな安っぽいつまらない見せかけのために、救い主がこの世に来られたはずがないではありませんか。確かに、「平和をつくり出す人たちは幸いである。彼らは神の子と呼ばれるであろう」(マタイ5:9と主イエスご自身がはっきりとおっしゃいました。そのとおり。しかも、それと「平和ではなく剣を。分裂と争いを」とおっしゃったことは少しも矛盾しません。造り出すべき平和は、神さまから差し出された平和であり、主イエスがご自分の体を十字架にかけ、肉を引き裂かれ、血を流し尽くして勝ち取ってくださった平和であり、「わたしの願いや思いどおりではなく、父なる神の御心にかなうことが成し遂げられますように」という平和であるからです。その平和のためには、きびしく争ったり、互いに対立したり分裂したりすることも有り得ます。そのために夫婦が争い、親子や兄弟が争うことも有り得ます。そうした悪戦苦闘の果てに、ようやく神の御心と神の平和が地上に打ち立てられていきます。そうそう、最初のクリスマスの夜、天の軍勢と天使たちが救い主イエスの誕生を祝って歌い交わしました歌は、「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」。主なる神の御心にこそかなって、御心にこそ従って生きていこうと腹をくくることなしにはありえない平和が指し示されていました。
  「今から後は、一家の内で五人が相分れて、三人はふたりに、ふたりは三人に対立し、また父は子に、子は父に、母は娘に、娘は母に、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに、対立するであろう」。ごく表面的な平和を思い描いてきた人々は、こう語り出されれて眉をしかめ、渋い顔をするでしょう。「クリスチャンは従順で柔和な、いつでも嫌な顔をせず、ニコニコしつづけている人々だと聞いてきたのに」と。朝から晩までニコニコニヤニヤしている、そんな人はずいぶん変わり者です。聖書にはそんなことはほんの一言も書いてありません。渋い顔をすべきときはあります。断固として、事を荒立てねばならないときもあります。言い逆らって、ほんの一歩も後に引いてはならないときもあります。家族の中でも職場でも、学校でも地域社会でも、国家権力に対してさえも。例えば、「あなたの父母を敬え。これは、あなたの神、主が賜る地で、あなたが長く生きるためである」(出エジプト記20:12と命じられています。これは、モーセがシナイ山で神から授けられた十の戒めの真ん中に配置されています。つまり、『神を愛し尊ぶこと』と『隣人を自分自身のように愛し尊ぶこと』との間の橋渡しとして。とくに年老いた父母は、尊んで精一杯に配慮し、労わり愛するべき、もっとも身近な隣人です。同時に、その人が最初に出会う『神によって配置された地上の権威者の代表』です。どのように父母を敬い、重んじ、どのように父母に従うべきでしょうか。「お父さん、お母さんがこれこれだと言うので。父さんが、こうしなさいとお命じになるので、だから」と何でもかんでも父さん母さんの言いなりに従うなら、304050歳になってもまだまだ「だあって、ぼくのお父さんがコレコレだというので。それで」と言うなら、その人はまだまだ小さな子供で、あまりに未熟です。なぜならば、神を信じて神にこそ聴き従って生きるはずの兄弟姉妹たち。「天に主人がおられますことを、私たちはよくよく習い覚えてきたはずですから」(コロサイ手紙4:1を参照)。父母に対しても、親戚の叔父さん叔母さん、学校の先生に対しても、町内の世話役に対しても、職場の主任や上司に対しても、国家権力に対しても、教会の牧師や長老に対しても、その対応はまったく同じです。誰の前でも、「良いことは良い。悪いことは悪い。してはいけないことは、してはいけない」と。子供たちはどんなふうに育っていくでしょう。お父さんお母さんは、どういう人間に育ってもらいたいと願いながら、子を養い育ててゆくでしょうか。しかも、父さん母さんといえども生身の人間にすぎず、とても良い立派なことをするときもあれば、してはいけない悪いことをついついしてしまうことも有り得ました。して良いことを自分の父母がするとき、従って良いでしょう。そうではないとき、してはいけない悪いことを自分の父母がしようとし、一緒に悪いことをしようと勧めるとき、あなたはその人たちの子供として、何と答えましょうか。「お父さん。あなたを尊敬しているし、とても大切に思っています。でも、天に主人がおられます(コロサイ4:1)。あなたがしていることは間違っている。それは悪いことです」と、その息子や娘たちは父親に立ち向かって行けるでしょうか。それとも、「お父さんが言うのだから仕方がない」とその妻や子供たちは言いなりになるでしょうか。主を信じ、主を主として生きる新しい世代が育つかどうか。それが、子供の親である私たちの試金石です。私たちは、キリストを主と仰ぐキリスト者です。だからこそキリスト者は自由な王であって、何者にも膝を屈めず、だれの奴隷にもされてはならず、何者にも決して屈服しません。たとえ絶大な権力を握るこの世の王や支配者たちに対しても(Mルター『キリスト者の自由』)。ここから、信仰をもって生きることの悪戦苦闘が、ついにとうとう始まります。神さまからゆだねられた平和が、いよいよ、そこから積み上げられ、育ってゆきます。
  けれど、ある人々は言いつづけます、『教会では牧師や長老に従い、家に帰ったら夫や父親に従い、町内会では班長や世話役に従い、職場では上司や現場主任の言うことを聞いていればいい。主に従うことなど、私たちにはできるはずがない』と。こうして私たちは、信仰をもって生きることの分かれ道に立たされつづけます。牧師や長老への信頼と服従。そして主ご自身に対する信頼と服従。その二種類の信頼が一致して、何の問題も不都合もないときもあります。けれど、互いに相容れない場合はありえます。なぜなら、牧師も長老も生身の人間であるからです。間違った判断をしてしまうこともあり、信仰の心を曇らせて道を逸れてゆくこともありえるからです。そのとき私たちは、どうするでしょうか? しかも月に一回、私どもの目の前に格別なパンと杯が据え置かれています。「だから、ふさわしくないままでパンを食し、主の杯を飲む者は、主の体と血とを犯すのである。だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ、杯を飲むべきである。主の体をわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分に裁きを招くからである」(コリント手紙(1)11:27-29)「ああ 全然ふさわしくない私」。その通り。当たっています。けれど、それは聴き取るべき真理の中の半分にすぎません。大事な半分ですが、残りの、その千倍も万倍も大事な半分は、「その、ふさわしくない、不十分な人間を、神さまは憐れんでゆるし、喜んで迎え入れ、きっと必ず救う」ということです。宗教改革者はこう説明しました;「このお祝いパーティは、(パン&杯も、他なにもかもも)神さまからの贈り物です。病いを抱えた者には医者の薬。罪人には慰め。貧しい者には贈り物。しかし自分は健康だと思っている者や、「自分はただしい、ちゃんとやっている」と買いかぶっている人や、すでに豊かに満たされている者には何の意味もありません。ただ一つの、最も善いふさわしさは、神さまの憐れみによってふさわしい者とされるために、私たち自身の無価値さとふさわしくなさを神さまの前に差し出すことです。神さまによって慰められるために、自分自身においては「ダメだ、ダメだ」と絶望すること。神さまの憐れみによって立ち上がらせていただくために、自分自身としては低くへりくだること。神さまによって「ただしい。よし。それで十分」としていただくために、自分自身のうぬぼれや卑屈さ、了見の狭さ、ズルさ、臆病さ、独りよがりな悪さをまっすぐに見詰めること。それらを憎むこと。神さまによって晴れ晴れと生きさせていただくために、古い罪の自分と死に分かれること」と(J.カルヴァン『キリスト教綱要』。Ⅳ篇1740-42節を参照)
  さて、これがパンを食べ杯を飲み干すときの心得であるとして、それならば、パンと杯が目の前にないときは、普段の火曜日、水曜日、木曜日の朝昼晩は、主を信じて生きて死ぬはずのこの私たちはどう心得たらいいでしょう。同じです。パンと杯が目の前にあっても無くても。兄弟姉妹たち。私たちは、ただただ、主なる神さまの憐れみによってだけふさわしい者とされます。神さまご自身からの慰めと力づけを、ぜひ受け取りたい。主によって立ち上がらせていただき、主によって生きることをし始めたい。他のナニモノでもなく、主ご自身への信頼によって生き、他のナニモノに従ってでもなく主イエスの福音に従って選び取り、判断しながら生きること。神からの救いとともに、それと並べて、ほかからの救いもついつい望みたくなります。いいえ この私どもは神にだけ救いを願い、ただ神にだけ仕えます。日曜の午前中と午後と、教会の敷地内で、このように心得ていたいと願っています。
それなら自分の家に帰って、連れ合いや子供たちや年老いた親の前では? 
町内会や親戚たちの前では? 
いつもの職場や、学校では?



2016年9月12日月曜日

9/11こども説教「深く憐れむ神さま」ルカ7:11-17

 9/11 こども説教 ルカ7:11-17
 『深く憐れむ神さま』

7:11 そののち、間もなく、ナインという町へおいでになったが、弟子たちや大ぜいの群衆も一緒に行った。12 町の門に近づかれると、ちょうど、あるやもめにとってひとりむすこであった者が死んだので、葬りに出すところであった。大ぜいの町の人たちが、その母につきそっていた。13 主はこの婦人を見て深い同情を寄せられ、「泣かないでいなさい」と言われた。14 そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいる者たちが立ち止まったので、「若者よ、さあ、起きなさい」と言われた。15 すると、死人が起き上がって物を言い出した。イエスは彼をその母にお渡しになった。16 人々はみな恐れをいだき、「大預言者がわたしたちの間に現れた」、また、「神はその民を顧みてくださった」と言って、神をほめたたえた。                 (ルカ福音書 7:11-16)

 ある町の門に、主イエスと弟子たちと大勢の人々が近づいていきました。夫に先立たれたある女性の一人息子が死んで、葬りをするところでした。独りぼっちで残されたこの女性を見て、救い主イエスはとてもかわいそうに思いました。胸がかきむしられるほどに、あまりに悲しくて苦しくて、自分のハラワタが流れ出てしまいそうなほどに。「泣かないでいなさい」とこの女の人に主イエスは語りかけ、棺に手をかけて、死んだ息子に「さあ起きなさい」と呼びかけました。死んでいたはずの若者は起き上がって、物を言い出し、そこで主イエスはこの息子を母親に渡しました。
  よくよく分かっていなければならないことは、神が顧みて、とてもかわいそうに思ってくださる13,16節「深い同情を」「顧みて」)その幸いな相手は、実は、この一人の未亡人だけではなく、ユダヤ人やクリスチャンだけではなく、ただ人間だけでもいなく、生命あるすべての者たちです(創世記9:10-,12:1-3,ローマ手紙8:18-,讃美歌100番「生ける者すべて~」)。人々がまるで飼う者のない羊のように弱り果て、倒れているのを見て、とてもかわいそうに思ってくださったように。胸がかきむしられるほどに、あまりに悲しくて苦しくて、自分のハラワタが流れ出てしまいそうなほどだったように。そのため天の父なる神は、その独り子、救い主イエス・キリストをこの世界に贈り与えてくださって、確かな救いの道を切り開いてくださいました。聖書は証言します、「もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか」(ローマ手紙8:31-32。御子イエスを贈り与えてくださっただけではなく、イエスと一緒に、他すべて一切をさえも必ず贈り与えてくださるという約束です。神さまからの約束です。「泣かないでいなさい」とは、泣いたり嘆き悲しんだりしないでいられるあなたにしてあげようという救い主からの招きです。皆、そのように招かれました。とても辛いことや苦しいことはもちろん誰にでもあるし、あっという間の短い人生を生きて、誰でもやがていつか必ず死んでいきます。それでもなお、その辛さを乗り越えることができるようにしてくださる。「大預言者がわたしたちの間に現れた。神は私たちを顧みてくださった」16節)と人々は喜びました。その同じ一つの喜びを、この私たちも喜ぶことができます。主イエスによって、私たちは、神さまの永遠の変わることのない御心をはっきりと教えていただけるからです(*)。その神さまの御心にかなって毎日毎日を生きて、やがて晴れ晴れと死んでゆくことさえ出来るからです。もし、そうしたいと望むなら、この私たち自身も。

     (*)【補足/救い主イエスの職務】
☆主イエスのつとめは何ですか。
★預言者、大祭司、王の王です。
ヘブル手紙1:1-3,同2:17-18,同4:14-16,マタイ福音書28:18-20
☆主イエスの預言者のつとめは何ですか。
★神の永遠のみこころを お教えくださいます。
マタイ福音書17:1-5,ヨハネ福音書1:18,同14:6-17
☆主イエスの大祭司のつとめは何ですか。
★ご自分のお体を十字架にささげて、わたしたちの罪の罰をうけてくださり、天で わたしたちのために父なる神さまに、とりなしていてくださいます。
( ヘブル手紙2:17-18,同4:14-16,9:11-28)
☆主イエスの王のつとめは何ですか。
★すべての人と教会を治めるために御言葉をお語りくださり、聖霊をお送りくださいます。また、わたしたちを守ってくださいます。
マタイ福音書28:18-20,ルカ福音書10:18-20,ヨハネ福音書14:25-27,同20:19-23
(上田教会,「こども交読文1」から抜粋)


9/11「主イエスを知らないと言う」マタイ10:32-33,ローマ10:8-13

                                          みことば/2016,9,11(主日礼拝)  76
◎礼拝説教 マタイ福音書 10:32-33,ローマ手紙10:8-13  日本キリスト教会 上田教会
『主イエスを知らないと言う』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
  10:32 だから人の前でわたしを受けいれる者を、わたしもまた、天にいますわたしの父の前で受けいれるであろう。33 しかし、人の前でわたしを拒む者を、わたしも天にいますわたしの父の前で拒むであろう。                                       (マタイ福音書 10:32-33)

10:9 すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。10 なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。                            (ローマ手紙 10:9-10)


 およそ豊臣秀吉の時代から徳川幕府の江戸時代にかけて、この国ではキリスト教はきびしく禁じられ、多くの殉教者を出し、やむにやまれず信仰を捨ててしまった人々、また隠れキリシタンなど苦しい状況がつづきました。禁止令が解除されたのは、明治61873年)でした。それから150年近くが過ぎ去って、とうとう今では聖書の神を信じ、救い主イエス・キリストの弟子、クリスチャンとされていることを隠すことも恥じることも要らなくなったはずでした。
 32-33節。「だから人の前でわたしを受けいれる者を、わたしもまた、天にいますわたしの父の前で受けいれるであろう。しかし、人の前でわたしを拒む者を、わたしも天にいますわたしの父の前で拒むであろう」。この『人の前で主イエスを受け入れる。あるいは、主イエスを拒む』ことを、マルコ福音書とルカ福音書はよりいっそう厳しく突きつけています。「人の前で主イエスとその言葉とを恥じる」(マルコ8:38,ルカ9:26と。キリシタン弾圧が解かれて長い歳月がすぎたはずの、何の足かせも口封じもないはずの今でも、ある人々は、「私は自分がクリスチャンであることを人前でわざわざ言い広めたりはしない。自分の心の中でだけ信じていればそれで十分で、自分の夫や妻にも子供たちにも、わざわざ礼拝に誘ったり、無理に勧めたりもしない。職場でも友人たちの間でも、自分がクリスチャンであることをわざわざ公言しない。それは人それぞれだし、個人の自由だし」などと。学校教師でもあったある年配の婦人は、ずいぶん長い間クリスチャンでありつづけました。教え子たちとは親しく付き合って、毎年の同窓会には必ず呼んでもらっていました。生徒たちとのそうした付き合いや集まりの中で、あるとき集会の前のほうに連れ出され、手を引かれ付いてゆくと、最前列に白い紙を飾った木の枝が置いてあり、手渡され、内心ちょっと困りましたけど彼女は渡されるままにその枝を恭しく、バサア、バサアと振り回しました。もちろん、これまで何十年も彼女と親しく付き合ってきた元教え子たちには何の悪気もありませんでした。誰一人も、彼女がクリスチャンだとは知らなかったからです。最前列にまで連れ出され、白い紙を飾った神々しく清らかそうな木の枝を手渡された段階で、「申し訳ない。実は私はクリスチャンで、この木の枝を恭しく振り回すわけにはいかないのよ。神さまに背いてしまうので」などとは、なかなか言い出せませんでした。けれど、その最前列で木の枝を手渡されたときには難しくても、それ以前に、「私はクリスチャンなんです。聖書の神さまを本気で信じて生きてきました」と、いくらでも打ち明ける機会があったはずです。何十年も親しく付き合ってきた、とても大切に思ってきた元・教え子たちだったのですから。残念なことでした。神さまに対しても、元・教え子たちに対しても申し訳ないことでした。彼女は、とうとう気がつきました。人々の前で神さまを恥じていた私だった、あまりに不信仰な私だったと。
  私たちの愛する連れ合いは、子供たちや孫たちは、やがて神を信じることができるかも知れないし、できずに一生を終えてしまうかも知れません。神さまを信じる信じないは、自分自身でそれぞれに判断して、自分自身で決めます。たとえ親であろうと妻や夫であろうと、それを無理矢理に押し付けてはならないし、そんなことはできません。その通りです。でも、みなさんは家族に対して、神さまをどんなふうに紹介してきましたか。もし仮に ほとんど何も知らせて来なかったというなら、それはあまりに無責任で薄情すぎます。神さまがあまり好きではないのか、あるいは、その家族のことをあまり大切には思っていないのか。例えば愛する連れ合いにも、自分の家族や子供たちにも、「聖書の神さまはこういう神さまで。信じた者たちには、こういう希望とこういう幸いと、こういう心強い生活が待っている」などと自分の力の及ぶ範囲で精一杯に信仰の中身を伝えます。口下手は口下手なりに、喋るのが苦手な人も苦手ななりに。その相手が神を信じて生きることについて十分に理解できるための判断材料を精一杯に手渡し、そうしたら後は、その人が自分自身で判断するのです。聖書の神さまを信じてもいいし、信じなくても構わない。「十分に分かった。けれど、この神は自分には要らない」と断られるなら、残念ですが、そこで諦めてもいいでしょう。それは、もうすでにその人自身と神さまとの一対一の問題だからです。せめて、その人が自分でちゃんと判断できるために、精一杯の材料を差し出す。神さまによくよく愛していただいたクリスチャンだからです。

           ◇

  しかも兄弟姉妹たち。自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じる。それは、なかなか難しいことです。キリシタン弾圧のきびしい迫害の時代であっても、そうではなくたって。口で「イエスは主である」と告白することも、自分の心で「天の父なる神が死人の中から救い主イエスをよみがえらせたし、この自分をさえ必ずきっとよみがえらせてくださる」と信じることも、それら一切は神ご自身のお働きであるからです。ただただ恵みと憐れみの出来事でありつづけるからです。「聖霊によらなければ誰も『イエスは主である』とは言うことができない」からです(コリント手紙(1)12:3,ヨハネ手紙(1)4:1-3。例えばもし、あなたや私が人様の前でも何様の前でも、「イエスは私に対しても主であり、この世界全体に対しても主である。他に主人はいない。イエスを主とする私であるので、神に聞き従わず人間すぎない者どもにに聞き従うわけにはいかない。神の御前に正しくはないし、間違ったことなので。この私としては、自分の見たこと聞いたこと、信じたことを語らないわけにはいかない」(使徒4:19-20。このように心に信じ、また自分自身の口でもはっきりと言い表すこともできたならば、それは神さまがさせてくださった。それこそが、神さまから私たちへの飛びっきりの格別な贈り物です。
  つまずいて挫けて、けれど憐れみを受けて連れ戻していただいた、あの幸いなペテロのことを語らねばなりません。ここまで語ったことはすべてすっかり掛け値なく本当のことです。『人の前で主イエスを受けいれる者を、主イエスもまた、天にいます御父の前で受けいれる。しかし、人の前で主イエスを拒み、主イエスを恥じる者を、主イエスも天にいます御父の前で拒む』。兄弟姉妹たち。これは神ご自身の真理ですが、真理の中の半分に過ぎません。残りの、負けず劣らずとても重要な真実は、『主を否みつづけ、逆らい、疑いつづけたあまりに不信仰な者どもを、にもかかわらず主イエスが否まない場合も有り得る』ということです。主の弟子ペテロのつまずきと立ち直りとを、はっきりと思い出すことができますか? 救い主イエスが十字架につけられ殺される前の晩に、大祭司の中庭で、主の弟子ペテロは人の前で主イエスを三度も重ねて否み、「ガリラヤの人イエスと一緒だった。あなたも彼らの仲間だ」と突きつけられて、「何を言っているのか分からない。そんな人は知らない。その人のことは何も知らない」と主を否み、恥じつづけました。ほんの数時間前に主イエス本人からはっきりと予告されていたとおりでした。鶏が鳴き、イエスの言葉を思いだし、ペテロは外の暗闇に出て激しく泣きました(マタイ福音書26:69-75を参照)。そのペテロを、けれど救い主イエスは拒まず、恥じることなく、再び改めて迎え入れました。迎え入れられて、ペテロは改めて、人様の前でも何様の前でも二度と決して主イエスを否まず、主イエスを恥じることのない新しい人間へとだんだんと造り替えられていきました。このことを、私たちは忘れてはなりません。例えば、アブラハムとサラ夫婦の場合もまったく同様でした。聖書は証言します、「望み得ないのに、なおも望みつづけた。彼の信仰は弱まらなかった。神の約束を不信仰のゆえに疑うことをしなかった」(ローマ手紙4:17-20を参照)。なんと寛大で憐れみ深い報告でしょう。神ご自身がこのように見なしてくださっています。アブラハムとサラ夫婦の実情をつぶさに確かめるなら、あの彼らは何度も繰り返してはなはだしい不信仰に陥り、神の約束を疑い、何度も神を裏切り、否み、神を恥じて背を向けつづけました(創世記12:10-20,17:15-17,18:9-15,20:1-18,26:1-11。それでもなお神は彼らを不信仰と疑いの薄暗がりの中に捨て置くことをせず、憐れんで連れ戻し、信仰が弱まる度毎に強くし、疑いと背きを拭い去り、神ご自身の真実を確信させてくださった。ローマ手紙4:17-25「望み得ないのに、なおも望みつづけた。彼の信仰は弱まらなかった。神の約束を不信仰のゆえに疑うことをしなかった」の中身は、ただただ神の憐れみの取り扱いでした。さて、つまずいたペテロを憐れんで連れ戻したとき、主イエスは、「私を愛するか。愛するか。愛するか」と三度も重ねて問い詰めました(ヨハネ福音書21:15-19。最後の晩餐のときにも、「たとい、みんなの者があなたにつまづいても、この私だけは決してつまづきません。あなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは決して申しません」(マタイ福音書26:31-35と自分自身の確かさや強さにこだわりつづけた彼でした。うぬぼれていたあの時のままなのかどうか、ほんの少しも成長していないのか、と問われています。まだまだ他人よりも自分を高く引き上げて誇ろうとしつづけるのか、それとも、あなたは自分自身の低さや弱さ、貧しさを、とうとう習い覚えたのかと。「この人たち以上に私を愛しているか」(ヨハネ21:15)という最初の問いかけは彼の心の急所をギュッと掴んで、痛いところを突いています。この人たち以上に。そのこだわりが彼を貧しく愚かにしつづけました。このペトロも、ここにいるこの私たちと同じように、ついつい人と自分とを見比べてうぬぼれたり僻んだり、安心したり心配になったりすることに深く囚われて生きてきました。三度も問い重ねられて心を痛めたペテロですが、なおまだまだ全然、心の痛め方が足りません。なぜなら、「主よ、あなたはすべてをご存知です。わたしがあなたを愛していることは、(あなたが)お分かりになっています」などと、なおまだ言い張ってしまうのですから。ペテロ自身はまだまだ分かっていません。主を愛そうと願い、決心しながら、けれど愛しきれなかったペテロではありませんか。「知らない。何の関係もない」と主イエスを否み、恥じつづけたペテロではありませんか。主イエスは愛を問い、愛を差し出しながら、同時に、主を愛しきれず、なかなか従いきれなかったその不肖の弟子ペテロと私共にお命じになります、「わたしの小羊を飼え。彼らの世話をしなさい」(ヨハネ21:15,16,17)と。「主を愛する。重んじる」と言いながら、身近な兄弟や家族や隣人を侮ったり軽んたり、「いい加減でだらしないわね」などと軽々しく裁いたりもできないはずでした。とても申し訳ないことです。主を愛そうと願うなら、この私たち自身こそが主の小羊を飼い、彼らの世話を精一杯にせよと。あなたのための主の小羊とは誰のことか。その羊は、あなたをどこで待っているのでしょう。

 主イエスを信じて生きる人々よ。この1回の礼拝に私たちが集っていることには、目的があります。いっしょに聖書を読んでいる。読まずにはいられない大切な理由が、この私たちにはあります。だから、ここに来ました。それは私たちが、イエスは神の子・救い主であると信じるためであり、信じて、イエスの名により生命を受けるためです(ヨハネ20:30-31)。主イエスから格別な生命を受け取りつづけて暮らし、主イエスの復活の証人でありつづけるためです。私たちのための主の約束の歌はこう歌います;「主われを愛す」(讃美歌461番,賛美歌21-484番)と。それこそが、私たちのいつもの希望であったはずです。主われを愛す。主は強ければ、われ弱くとも恐れはあらじ。わが主イエス、わが主イエス、わが主イエス、われを愛すと。小さな子供たちが歌うだけではありません。この希望の歌は、あのペトロやアブラハムとサラ夫婦のための歌であり、私たちのための歌です。私が主を愛するか、どこまでどの程度に愛するかと問われる以前に、またこの私が兄弟や隣人たちに愛と慈しみを豊かに差し伸べる人間であるのかどうかと問い正される以前に、それを遥かに越えて救い主イエスご自身こそが、こんな私どもをさえ愛してくださる。たとえ私が弱くてもです。たとえ私が冷淡で薄情で生臭い俗物で、あまりにかたくなであってもです。神さまを信じる心が私にまだまだ足りなくても、しばしば神に背き、逆らってばかりいるとしてもです。それでもなお、主なる神さまは、私たちを愛することを決してお止めにならない(ローマ手紙5:6-)。神さまから私たちへの、変わることのないいつもの約束です。だからこそ、自分の口でも心でも主イエスを信じて、そのように生きて死ぬことのできる私たちです。なぜなら、神さまこそが、私たちのそのように幸いな生涯を、また世界全体に祝福と幸いを満ち溢れさせることを、きっと必ず成し遂げてくださるからです。信頼するに足る神です。すべてを委ねて、より頼むに値する神です。

2016年9月5日月曜日

9/4こども説教「大きな大きな権威のもとにある」ルカ7:1‐10

 9/4 こども説教 ルカ7:1-10
 『大きな大きな権威のもとにある』

7:6 百卒長は友だちを送ってイエスに言わせた、「主よ、どうぞ、ご足労くださいませんように。わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。7 それですから、自分でお迎えにあがるねうちさえないと思っていたのです。ただ、お言葉を下さい。そして、わたしの僕をなおしてください。8 わたしも権威の下に服している者ですが、わたしの下にも兵卒がいまして、ひとりの者に『行け』と言えば行き、ほかの者に『こい』と言えばきますし、また、僕に『これをせよ』と言えば、してくれるのです」。           (ルカ福音書 7:6-8)


(補足。読んでいて、ええ? と首を傾げるところがありましたね。4-5節。使いに送られてきたユダヤの長老たちの発言、「あの人はそうしていただく値打ちがあります」。その理由は、ユダヤの国を愛し、ユダヤ人のために会堂を建ててくれたので。神さまや信仰のことがよく分かっているはずの長老たちが、けれど心を鈍くさせ、トンチンカンなことをいっています。どういう神さまなのかが、すっかり分からなくなっています。百卒長自身も、「家にお迎えする資格がない」「出迎える値打ちもない」などと似たようなことを言っています。神さまの考え方は、ずいぶん違っています。値打ちや資格があるかないかと何の関係もなしに、ただただ可哀そうに思って、それで救ってくださるのです。むしろ、資格のない、値打ちのない罪人たちをこそ真っ先に恵みと祝福へと招き寄せました。正しい人をではなく、病人である罪人をこそ招く医者である神です。ルカ福音書5:31-32参照)

  9節、「これほどの信仰を見たことがない」と主イエスは仰いました。ですから、何がどれほどなのか、どういうところが兵隊100人を率いる隊長の信仰のとても良いところなのかと目を凝らしましょう。7節後半から8節です。「ただ、お言葉をください。そして、わたしの僕(しもべ=手下、部下)を治してください。わたしも権威の下に服している者ですが、わたしの下にも兵卒がいまして、ひとりの者に『行け』と言えば行き、ほかの者に『こい』と言えばきますし、また、しもべに『これをせよ』と言えば、してくれるのです」。一言おっしゃってください。私も権威のもとに置かれています。私の部下の兵隊は、私が行けといえば行く。来いと言えば来る。そのように「治れ」と命じてください。そうすれば彼を苦しめる病いも、彼もこの私自身も、あなたの権威に従います。こういう隊長と部下たちが、この地上に現実にいるかどうか。それはどうでもいいことです。多分いません。本当には、私たち人間同士のことではないからです。そんなことよりも、そういうただお独りの飛びっきりの隊長と、この私たちクリスチャンは、ともに死地をくぐり抜け長く深く付き合ってきた。その中で、このただお独りの隊長によくよく信頼して従うことを習い覚えてきた。『全幅の信頼を寄せるに足る相手である。ひたすらに聴き従うに価する相手である、本当にそうだ』と深く頷くことを積み重ねてきたということです。こうして隊長と部下は、『主イエス』と『主イエスに従って生きる私たち』との本来の姿を指し示します。もちろん、そうした信頼関係は簡単には形造られません。
  奇妙なことに、ある一人のクリスチャンは洗礼を受けた後でも、ずっと長い間なんだかピンと来ませんでした。「イエスは主なり」と唱えていたし、「御心のままに。御心のままに」と口癖のように言い続けながら、それと裏腹に、自分のその時々の気分や腹の虫に従って生きていました。人々の顔色をうかがい、周囲の人々の言いなりに聞き従うばかりで、イエスを自分の主人としてよくよく信頼して従って生きてゆくことの幸せが、なかなかピンと来ませんでした。だって、イエスという主人が強くてしっかりした主人だとは思っていなかったし、どうせチッポケな小さな小さな権威だろうと軽く見ていたからです。「誰を自分の主人として聴き従って生きてゆくつもりですか」と聞かれても、知らんぷりしていました。けれどある時ようやく気づきました。この私は、他のどんな権威や支配のもとでもなく、ただただ主なる神さまの真実と慈しみの只中に置かれ、その大きな大きな権威のもとにだけ据え置かれている。だから、その分だけ自由だ。それが私たちのための神さまからの約束だった。一番下っ端の下っ端の下っ端の、ただの一兵卒にすぎない私たちの力と安らかさの源でありつづける。主イエスを信じた私たちは、あの百卒長と同じくこの世界へと、いつもの生活の現場へと、自分の家や職場や学校へと送り出されます。100人分の隊長も1000人分の隊長も、ただの下っ端の兵隊もこの私も、皆同じでした。ああ、そうだったのかと。そうであるなら、やがて「あなたは行きなさい」と命じられるときに、私たちは安らかにここを立ち去ってゆこう。「来なさい」と命じられるときに、どこへでもいつでも、私の準備ができていようがいまいが、気が進もうが進むまいが、虫が好こうが好くまいが、そんなこととは何の関係もなしに 「はい分かりましたア」と出かけていこう。それまでは、ここに留まろう。「しなさい」と命じられることをし、「してはならない」と禁じられることをしないでおこう。この私自身こそは。天に主人がおられますことを、その主人の大きな大きな権威の下に据え置かれてることを、この私自身も、よくよく分からせていただいたのだから。とうとう、はっきりと気づかせていただけたのだから。


9/4「恐れるな!」マタイ10:24‐31

主なる神、イスラエルの聖者はこう言われた、「あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る」。しかし、あなたがたはこの事を好まなかった。(イザヤ書 30:15)

○とりなしの祈り
  主なる神。あなたの御前にひれ伏し、膝を屈める私たちです。「自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか」(マタイ5:46-47と、きつく戒められている私たちです。ですからまず第一に、世界中のすべての生き物たちと、日本人ではない他の国民と、私たちが会ったことも話したこともない、私たちがよく知らない他の民族の人々とを、あなたこそがすでに憐れんでくださっていますことに私たちの目を開かせてください。その次に、この国民をも顧みてください。その次に、この地域に住む人々を。その次に、わたしたちクリスチャンを。最後に、この私たち自身と家族と親しい友人たちをも、あなたの憐れみのうちに据え置いてください。イタリア中部地震の被災者たちと、家族を失った遺族をどうか憐れんでください。救助と支援にあたっている人々の働きをお支えください。日本に住む外国人を激しく憎み、口汚くののしり、排除する活動に加わりつづけている人々を、また彼らを軽んじて、ないがしろに扱いつづける傲慢な私共を憐れんでください。神さまどうか憐れんでください。目も耳も心も塞ぎ続けて、とうとう破壊と残虐行為の中に身を沈めてしまったテロリストたちを憐れんでください。この日本でもアメリカでもイギリスでも、世界中のどの国でも、『自分たちの国と、自分たちの同胞と、自分たちの生活こそが第一だ。他の人々はどうでもいい』と叫び立て、心を狭く貧しくしてしまった人々が他の国や人々を力づくで押しのけようとしています。私たちだけではなく多くの人々が身勝手になり、どんどん心を狭く貧しくさせられています。
  主なる神さま。どうか私たちを憐れんでください。私たちもまた、人間中心の自己中心の、独りよがりな狭くて小さな世界にしばしば深く閉じ込められてしまうからです。神さまこそが主人であり中心だと、まず私たちクリスチャンにこそはっきりと弁えさせてください。すべての子供たちが十分に愛され、安心して暮らし、やがて慈しみ深い広く暖かい心をもつ大人に育つことができますように。親と周囲の大人たちがそれぞれの務めを精一杯に果たして子供たちの心と体を守ってゆくことができますように。あなたの御心になかって生きることを、どうか今日こそ私たちにも願い求めさせてください。
 主イエスのお名前によって祈ります。


                                           みことば/2016,9,4(主日礼拝)  75
◎礼拝説教 マタイ福音書 10:24-31                      日本キリスト教会 上田教会
『恐れるな!』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
10:26 だから彼らを恐れるな。おおわれたもので、現れてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない。27 わたしが暗やみであなたがたに話すことを、明るみで言え。耳にささやかれたことを、屋根の上で言いひろめよ。28 また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。29 二羽のすずめは一アサリオンで売られているではないか。しかもあなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはない。30 またあなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。31 それだから、恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である。(マタイ福音書 10:26-31)



  まず最初に、大きな大きな誤解のタネを取り除いておきましょう。29節と30節と31節で、すずめと私たちの髪の毛と私たちそのものとが見比べられています。おシャカさんが人を見て法を説いたばかりでなく、救い主イエスも私たちの性分や腹の思いを見抜いて、福音の道理を説かれます。うぬぼれの強い、とても思い上がった、その分だけすっかり心を惑わされつづけている私たちだからです。私たち人間は、はたして多くのスズメよりも優った、価値の高い、素晴らしく貴重な存在でしょうか? 仮にそうだとして、では神さまは、優った、価値の高い、素晴らしく貴重な存在をこそ救い、そうではない劣った、価値の低い、粗末でつまらない存在に見向きもせず、滅びるままに放っておかれるのか。心を鎮めて、『教えられてきたイロハのイ』に立ち戻りつづけねばなりません。71年前のヒトラーとドイツ国民のはなはだしい脱線と悪虐非道は、ここから始まりました。戦前といま現在の日本の状況も、彼らとよく似ています。有用で役に立つ人材は安く便利に使う。そうではない者たちはないがしろに扱い、踏みつけ、軽蔑して排除してゆくという社会体制と、それに同調する大多数の民衆の心理。反省することを知らず、歴史に謙遜に学ぼうとしない国民は、同じ過ちを繰り返しつづけます。そのことを、私たちこそは深く恐れましょう。多くのスズメより、また他の多くの民族よりも他の人々よりもはるかに優れているなら、恐れなくてもいいのか。もしそうではないなら、私たちは恐れるべきなのか(*)。いいえ 決してそうではありません。ただ恵みによってだけ救われるのです。救われるに値しない罪人が、憐れみを受けて救われます。それ以外の救いの筋道はどこにもありません。――危ないところでした。29節で、二羽のスズメが一アサリオン(一日分の労働賃金の十分の一。長野県の最低賃金に換算すると、746円×8時間×0.1日=600円弱)で売られていた。けれどこれは、たかだか人間にすぎない者どもが勝手につけた値段にすぎません。神さまはスズメや私たち人間一人一人にいくらの値段をつけ、あなたや私には、いくらくらいの値段がつけられると考えていましたか。市場で売られる値段がいくら以上なら救われるのでしょうか。あなたには、安心していられるだけの、十分な値段がつけられていますか。いいえ、本当は、スズメにも人間にも私たちが値段をつけてよいわけでありません。たっぷり太っていて柔らかい旨い肉づきだから400円とか、痩せて固くてがりがりで、スジ張ったまずい肉だから35円だとか、少なくとも神さまはそのようにはスズメや私たちをご覧になりません。世界を造った創造の6日目に、ご自分が造ったすべてのものをご覧になって、「良い。とてもいい。嬉しい」(創世記1:31を参照)と大喜びに喜んでくださった神さまでしたね。だからです。あのとき見て喜んだすべてのものたちを、主は見捨てることも見放すこともなさらない。ですから、うっかり思い上がってしまいやすいこの私たちも、精一杯にへりくだって、よくよく慎み深くあらねばなりません。「へりくだった心をもって互いに相手を自分より優れた者としなさい」。「互いに相手を」の範囲を、犬猫、家畜、昆虫やミミズ、スズメにまで広げておく必要があります。聖書は語りかけます、「虫けらのようなヤコブよ、イスラエルの人々よ、恐れてはならない。わたしはあなたを助ける。あなたをあがなう者はイスラエルの聖者である」(ピリピ2:3,イザヤ41:14,創世記9:10-17虫けらのようなごく小さな存在なのに、優秀さや価値や働きや美しさなどとは何の関係もなしに、なお憐れみを受け、滅びるままに捨て置くことができないと惜しまれる私たちです。スズメ同様に。家畜、昆虫やミミズが受ける憐れみに負けず劣らずに。『虫けらとほぼ同じ程度の私たちだけれども、憐れんでいただいて、それで確かに救っていただける。ああ本当に』と心底から分かった者だけが、神の御前に安らかでいることができます。しかも、どこもかしこも神の御前なのです。
  さて、26節「彼らを恐れるな」、28節「魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」。むしろ、「体も魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい」。私たちが恐れてはならない相手、『彼ら』とは、救い主イエスに敵対し、主を悪く言い、主の弟子である私たちをも悪く言う者たちです。魂を殺すことのできない者どももまた、同じ一つの敵対者たちを指差しています。世界の造り主であり、王であられる方を信じられない人々は、結果的には、スズメにも人間同士でも互いに値段を付け合って「この人は役に立つ、よく働く人だから200円。この人はあまりそうでもないから20円」などと値踏みし合って暮らす人々です。そういう人々の間で、私たちは暮らしています。自分につけられた値段をなんとかしてもう少しでも高く釣り上げたい、そうでなければ誰にも見向きもされなくなってしまうかも知れないと気に病みつづけ、恐れつづけて。救い主イエスも人を見て法を説くと申し上げました。私たちの性分や魂胆をすっかり見透かして、それで、わざわざスズメ二羽が市場で売り買いされるときの値段が告げられ、あなたがたは「多くのスズメよりも優った者であるから、だから恐れるな」と歯の浮くようなお世辞をささやきかけられた。それは、このためです。「スズメ二羽でだいたい600円」と値踏みし、「この自分はスズメに比べたら、その5、6倍か、あるいは10倍くらいは優れているに違いない」と安心したり、「やっぱり、それほどでもないか」と心配になったり恐れて、オドオドビクビクしたり。それは彼らのいつものモノの見方、考え方です。朱に交わりつづけて何十年も暮らすうちに、いつの間にかこの私たち自身さえも、すっかり真っ赤っ赤になっています。スズメにも人間にも値段をつける世間と、そういう人間たちを恐れつづけ、そういう人々の顔色を窺って暮らすうちに、天に主人がおられますことをよくよく習い覚えているはずの私たちまでもがあの彼らと同じモノの見方をしています。神ではない様々な人やモノを恐れつづけ、互いに恐れたり恐れさせたり、恥じたり恥じ入らせたりして。いつの間にか、すっかり『あの彼ら』と同じ穴のムジナに、この私たちも成り下がっています。恥ずかしいことです。とても恐ろしいことです。
  「恐れるな、恐れるな。いいや、むしろ恐れなさい」。神ではないナニモノをも、あなたは決して恐れるな。いいや、恐れなくても大丈夫。むしろ神をこそ、あなたは本気になって恐れよ。日本語では、神以外のモノへの『恐れ』と神さまへの『畏れ』と、言葉を使い分けて区別している人々もいます。元々の言葉では、実は同じ一つの言葉を使っています。神以外のモノに対する恐れも神への畏れも、共に同じ心の働きがあるからです。恐れるのは、その相手の力や影響力の強さや大きさをよく知っていて、認めているからです。『恐れ』は、裏返せば、その何かへの『信頼』です。心を悩ませるその『恐れや不安の材料』は、そのまま、その人の『安心材料』でもあります。いいえ。むしろ神をこそ、あなたは本気になって恐れよ。神さまにこそ全幅の信頼を寄せなさい。そのために、よくよく耳を傾けて、聞き従いなさいと勧めています。天の御父への十分な信頼へとあなたも立ち戻れ、と勧めています。28-30節の勘所は、その御父が「からだも魂も地獄で滅ぼす力があるから」、だから恐れなさいということではありません。むしろ、体も魂も支え、養い、救い出しつづけてくださるから、だから信頼しなさい。天の御父が十分に力をもったお方だとして、そのことをよくよく了解したなら、すると私たちはそのお方を恐れて、逃げ惑うか。あるいは、信頼して身を寄せるかのどちらかでしょう。どんな神さまをどのように信じてきたのか、と問われます。初めに申し上げました、「心を鎮めて、教えられてきたイロハのイに立ち戻りつづけねばならない。ただ恵みによってだけ救われる。救われるに値しない罪人が、憐れみを受けて救われる。それ以外の救いの筋道はどこにもない」と。
  この28-30節を受けて、500年前の信仰告白は、私たちの飛びっきりの安心材料について、このように説き明かします。「生きている時も死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは何ですか?」「それはわたしが、からだも魂も、生きている時も死ぬ時も 、わたしのものではなく、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。主は、ご自分の尊い血によって、わたしのすべての罪を完全に償ってくださり、わたしを悪魔のすべての力から救い出し、天におられるわたしの御父のみこころによらなければ、髪の毛ひとすじもわたしの頭から落ちることがないようにと、わたしを守っていてくださいます」(ハイデルベルグ信仰問答,問1,1562年)。聖書が「あなたがたの髪の毛一本一本までもみな数えられている」と言うとき、どなたが、どういう心積もりで、どのように数えておられるのかを抜きにしては、その言葉は嬉しくもなんともない。天地創造の7日間と同じく、私たち一人一人を母親の胎内に造ってくださったとき、「よし。とてもいい。嬉しい」と喜んでくださった、憐れみと慈しみの神が、その憐れみをもって数え、支え、保っていてくださるという意味です。だから嬉しい。だから心強い。だから、これこそが私たちにとっての唯一の、飛びっきりの『安心材料』でありつづけます。「からだも魂も、生きている時も死ぬ時も 、わたしのものではなく、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものである」とは、そのことです。さて、それならば、髪の毛ひとすじさえも数えられているこの私たちは、どのように生きて、どのようにやがて死んでゆくことができるでしょうか。神さまを信じない他の人々と同じように、私たちもまた、日毎に年老いて、衰え、気力も足腰も弱り、目がかすみ、耳も遠くなり、物忘れも多くなり、もしかしたら布団の上に長く横たわって日々を過ごすかもしれません。髪の毛ひとすじさえもみな数えられている。ご覧下さい、この頭 ほんのつい数日前まで、黒髪フサフサでした。みなさんも、だいたい同じようなものですね。けれど文句を言う筋合いではありません。「若い元気な人たちが羨ましいわ」などと寝言をほざいている場合ではありません。天におられるわたしの御父のみこころによらなければ、髪の毛ひとすじもわたしの頭から落ちることがない。そのように、わたしを守っていてくださる。その通りです。つまり、天の御父のゆるしのもとにだけ、ぼくの頭の髪の毛は一本また一本と地に落ちつづけました。しかも、何の不足もなく十分に守られています。やがてさらに足腰も弱り、目もかすみ、物忘れもさらに深まるとしても。ただただ喜びと感謝があふれるばかりです。
  『神ではないモノや人間どもへの恐れ』と『神への信頼』。それは、児童公園や小学校の運動場の片隅においてあるシーソー台のようです。『神ではないモノや人間どもへの恐れ』が重くなって、どんどん下がってゆくとき、その反対側の板に乗っている『神への信頼』はどんどんどんどん軽くなって、影が薄くなってゆくばかりです。逆に『神への信頼』が少しずつ育って、大きく重くなってゆくと、『神ではないモノや、たかだか人間に過ぎないどもへの恐れ』は少しずつ萎んで小さく軽くなってゆきます。あるとき、人間のことばかり気にかかって、「人が見たらどう思われるだろう」「世間様に何と見られるだろうか」と恐ろしくなって、クヨクヨメソメソしています。すると、そのとき、『神への信頼』はどんどんどんどん軽くなって、影が薄くなってゆくばかり。あるいは、もうほとんど影も形もなくなってしまっているかも知れません。聖書の中でも外でも、神さまはそういう私たちを励ましつづけます。暗闇で、すぐ耳元で、ささやく小さな小さな声があります。いつもいつも朝も昼も晩も。ささやかれつづけた言葉が魂の中に蓄えられてゆきました。もう屋根の上でも職場でも怖い顔のおじさんや親戚たちの前でも、大きな声で、晴れ晴れとして言い広めることさえできるほどに。「主はみずからあなたに先立って行き、またあなたと共におり、あなたを見放さず、見捨てられないであろう。恐れてはならない、おののいてはならない」、「恐れるな。語りつづけよ、黙っているな。あなたには、わたしがついている。だれもあなたを襲って、危害を加えるようなことはない。この町には、わたしの民が大ぜいいる」「なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、誰が私たちに敵しえようか。ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡された方が、どうして、御子のみならず万物をも贈り与えてくださらないはずがあるだろうか。いいや、あるはずもない。かならずきっと、そうしてくださる。主われを愛す。主は強ければ、われ弱くとも恐れはあらじ」(申命記31:8,使徒18:9-10,ローマ手紙8:31-,讃美歌461賛美歌21-484「主われを愛す」)


  【補足説明】
        (*)「多くのスズメよりも優った者」関連;『相模原市の障害者支援施設における事件とその後の動向に対する見解』(2016 8 29 日付)公益社団法人 日本精神神経学会 法委員会。「・・・・・・当学会法委員会は、この事件によって精神医療のあり方が歪められ、精神障害者の地域移行が停滞してしまうことがないように、以下の見解を表明いたします。記。 精神保健福祉法は措置入院制度も含め、犯罪予防のためにあるのではないことを明確にしなければならない。法は第一条の目的に明示されているように、患者の医療及び保護、社会復帰を目的とし、さらには社会経済活動への参加を目指しているのである。 措置入院制度は、精神症状によって自傷他害のおそれのある者に対する非自発入院であり、都道府県知事または政令市長の命令によってなされる行政措置である。入院の際にも退院の際にも、精神保健指定医の診断に基づいて、当該自治体の首長によって決定されるものである。措置入院の要件である「自傷他害のおそれ」とは、現在及び比較的近い将来に見込まれる精神症状の範囲で「おそれ」が診断されるものであり、今回の事件のように、措置入院が解除されて数ヶ月後の犯罪を予測することまでを要求されてはいない。そもそもそのような予測は医学的に不可能である。したがって、この事件が措置入院制度の不備によって起きたと断ずることはできない。三 今回の事件で特異なのは、容疑者が「障害者は不幸を作ることしかできない」ので「日本国や世界の為」(衆議院議長あての書簡)との意図で犯行に及んだ可能性が大きいことである。このような極端な優生思想は、憲法はもとより、障害者権利条約や、障害者差別解消法等に基づくわが国の障害者施策からも、到底容認できるものではない。他方、いかに歪んだ思想であっても、精神症状としての妄想でなく、思想であるならば、精神医学・医療の営みとしての治療の対象ではありえない。ましてや、これを封じ込めるための手段として措置入院等の精神医療の枠組みが利用されることも許されない。このような思想に対しては、障害者への差別は許されないという実践によって社会全体としてたち向かわなければならないものである。 容疑者が今回の事件を引き起こした背景に、偏った思想的動機にとどまらない何らかの精神症状が関与していた可能性があり、事実関係の十分な解明が必要である。五 措置入院患者の退院後の支援体制が不十分であることが従来から指摘されており、この点については異論がない。報道によれば、治安的な観点に基づく保護観察制度ないし強制通院制度の導入を提起する向きもあるが、これには断固として反対する。措置入院の経験者は、治安対策の対象者では断じてなく、地域社会の一員として平穏に生活する権利を持つ市民である。その支援策は治安的観点ではなく、医療による支援と住民福祉の考え方に基づいて講じられるべきである。六 今回の犯罪がナチスドイツ時代の極端な優生思想に酷似した動機によってなされた可能性があることに、私たちは慄然とする。それは一見、今日の市民の感覚からすれば極めて異常な動機である。しかし一方で、我が国が優生保護法を母体保護法に改めたのが、今からわずか 20 年前の 1996 年であったことに思いをいたさなければならない。私たちの心性は、極めて特異に見えるこの事件の動機と決して無縁ではなく、私たち自身が今なおこのような優生思想の片鱗を内包していることを否定できないのである。私たちはこの事件の悲しみと憤りを乗り越えて、差別・偏見のない共生社会を実現しなければならないが、その営為は、私たち自身の内なる優生思想を克服することなしには達成できないことを銘記するものである」。そうそう この私自身の、内なる優生思想を克服させていただくこと。