2016年2月16日火曜日

2/14「自分の正しさを、見られるために人の前で行ってはならない」マタイ6:1-8、16-18

                    みことば/2016,2,14(受難節第1主日の礼拝)  46
◎礼拝説教 マタイ福音書 6:1-8, 16-18            日本キリスト教会 上田教会

『自分の正しさを、
見られるために人の前で行ってはならない』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
6:1 自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。2 だから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。3 あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。4 それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。5 また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。6 あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。7 また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。8 だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。                  (マタイ福音書 6:1-8)

 
  1-8節。16-18節。「自分の正しさを、見られるために、人にわざと見せつけるために、人の前で行わないように注意しなさい」。けれど、何のためでしょう。なぜ、よくよく注意していなければならないのでしょうか。願っているその『自分の正しさ。自分の優秀さ、立派さ』はすでに他人と周囲の人々の目から見た正しさ、世間的な立派さに過ぎないからです。もうすでに頭の中では、ただただ「人からどう見られるか。どう評価されるか」と人間のことばかり思い煩って、神さまを思う暇がほんの少しもないからです(マタイ16:23参照)他人から良く思われたいという願い、悪く思われたらどうしようという恐れが度を越してその人の心を支配し、左右しはじめるとき、その人は、『人様がどう思うか。世間様にどう見られるか病』にかかっています。すでにかなり重体で、放っておけばその人は死んでしまいます。世間の多くの人々もクリスチャンも、ほとんどすべての人がこの病気にかかります。『人様がどう思うか。世間様にどう見られるか病』。症状が急激に悪化し、ついには死に至ります。具体的な実例が3つ挙げられています。貧しい人々への施し。祈り。そして断食。この3つには共通点があります。神さまへの感謝のささげものであるし、神へと向かうはずの祈りであるという点です。けれど、そうであるはずのものが道を逸れて、似ても似つかない、まったく別のものに成り下がってしまう危険があると警告されています。つまり、他人と周囲の人々の目から見た正しさ、世間的な立派さを願い求める欲望。はっきり言うなら、虚しく愚かな見せびらかしです。「人からよく見られたい。よい評価をされたい。周囲の人々から誉めてもらいたい、感謝されたり、尊敬されたりしたい」と。貧しい人々への施し。祈り。そして断食。もし、この3つが虚しい見せびらかしに成り下がってしまう危険をうちに含んでいるとするならば、私たちの普段の暮らしのすべて一切もまたまったく同じです。国語辞典でおさらいをしておきました。「うわべを飾って、心や行いが正しいかのように見せかけること。それが偽善です。そういうことをする人間たちを、偽善者」と言います。その代表例として折々に当時のパリサイ人や律法学者たちの振る舞いや言動が手厳しく批判されつづけます。どういうことでしょうか。彼らを見下したりバカにして良い気分になるためではありません。あの彼らは、私たち自身の普段のいつもの姿をはっきりと映し出す鏡です。主イエスはおっしゃいました。「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9:12-13)。格別に良い医者である神さま。その医者のもとに生命からがら辿り着いた重病人である私たち。救い主イエスに聞き、このお独りのお方から学ぶならば、この厄介な病気を治していただけます。健全な魂を、ふたたび取り戻すことができます。
  神さまは隠れたことを、ちゃんと見ていてくださる。だから、あなたもそこに目を凝らしなさい、と勧められています。「誉められたら嬉しい。けなされれば悔しい。感謝されたり、尊敬されたりされれば鼻高々になり、誰にも見向きもされなくなったら寂しいし、悲しい」。もちろん、そうです。それでもなお、人間たちに誉められたりけなされたり、周囲の人間たちから喜ばれたりガッカリされたりする以上に、その千倍も万倍も 神さまこそがあなたをご覧になって、喜んだりガッカリしたりしておられます。「偽善者め。不届きなしもべだ」と叱られたり、ガッカリされたりもします。あるいは天の主人から、「良い忠実なしもべよ、よくやった。私も嬉しい」と喜んでいただけるかも知れません。ぼくは、それを願っています。ぜひ、なんとかして、この僕もそうでありたい。「あなた、本当にクリスチャンなの? 証拠は?」と。職場の同僚や親戚や自分の夫や妻から、子供たちから、「あれれ」と疑わしげな眼差しを向けられ「お母さん、本当にクリスチャンなの?」と。だってその時の私は、人から誤解されたり悪く思われる度毎に、クヨクヨしたり腹を立てたり、ひどく気に病んだり、よけいに意固地になるからです。人から恥ずかしい思いをさせられたり見下されたらどうしようと尻込みしたり、おじけづいたりしています。ちょっと待ってください。それでは、《人からどう見られ、どう思われるか》という秤で物事を量っているではありませんか。また別の時にのボクは、「私はそれをしたい、したくない。好きだ嫌いだ」と、《自分の考え。自分のやり方。自分の好み》という秤にすっかり心を奪われて、その秤の言いなりにされているではありませんか。

         ◇

  このあと、讃美歌Ⅱ編195番をごいっしょに歌います。1節2節をとおして読みましょう;「1節。キリストには代えられません、世の宝もまた富も、このお方が私に代わって死んだゆえです。世の楽しみよ、去れ。世の誉れよ、行け。キリストには代えられません、世のなにものも。2節。キリストには代えられません、有名な人になることも、人の誉める言葉も、この心を惹きません」。「キリストには代えられません」と私たちは、どんな顔つきで、どんな気持ちで、どんな時に歌うのでしょう。まあ、いろいろですね。涼しく、晴々して歌うときもあるでしょう。感謝と喜びに溢れて歌うときもあるでしょう。けれど、この歌の心はそれだけではありません。むしろ、信仰の危機に直面して、崖っぷちに立たされて、そこで必死に呼ばわっているように思えます。「キリストには代えられません。代えられません」と繰り返しているのは、ついつい取り替えてしまいそうになるからです。惑わすものにそそのかされ、目も心も奪われて。キリストの代わりに、富や宝を選んでしまいたくなる私たちです。キリストの代わりに、様々な楽しみに手を伸ばしてしまいたくなる私たちです。キリストよりも、目を引く素敵で美しいものを。人から誉められたりけなされたりすることを。うっかり取り替えてしまいたくなるほど、それらが私たちの心を引きつけて止まないからです。なぜ、そうだと分かるのか。繰り返しの部分に目を凝らしてください。あまりに過激です;「世の楽しみよ、去れ。世の誉れよ、どこかへ行ってしまえ」。とても切羽詰っていて、緊急事態のようです。ここまで彼に言わせているものは何なのか。世の楽しみよ、去れ。世の誉れよ、どこかへ行ってしまえ。そうでなければ、私は目がくらみ、今にもキリストをポイと投げ捨ててしまいそうなので。救い主イエス・キリストを主とすることと、それに加えて様々な宝や楽しみをもつこと。趣味とか娯楽とか。それらは大抵の場合、ごく簡単に両立するように思えます。クリスチャンになったからって、世捨て人みたいに仙人か修行僧のように何もかもを捨て去って裸一貫にならなきゃならないとは普通は思わない。ぼくも、思っていませんでした。要するにバランスの問題で、ほどほどに要領よく付き合っていればいいじゃないかと。主を主とすることもほどほどに、楽しみや娯楽や趣味もほどほどに、人付き合いもほどほどにと。けれど兄弟たち、主イエスご自身は仰るのです、「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(ルカ16:13)。そして気がつくと、心が2つに引き裂かれた、ほどほどのクリスチャンが出来上がっていました。あのイソップ童話のコウモリのようなクリスチャンです。動物たちの間では、「私も動物です。仲良くしましょう」。鳥たちの間では、「ほら見てください。私も鳥です、羽根を広げてパタパタ飛ぶこともできますから」。お前はいったいどっちなんだ。何者なのか、誰を自分の主人として生きるつもりなのかと厳しく問い詰められる日々がきます。あれも大切、これも大切、あれもこれも手放したくないと山ほど抱えて生きるうちに、主イエスを信じる信仰も、主への信頼も、主に聴き従って生きることもほどほどのことにされ、二の次、三の次に後回しにされつづけて、気がつくととうとう動物でも鳥でもない、どっちつかずのただ要領がいいだけの生ずるいコウモリが出来上がっていました。心を鎮めて、よくよく考え、自分で自分に問いただしてみなければなりません。何が望みなのかと、何を主人として私は生きるつもりのかと。
  さて、「救い主イエス・キリストが私に代わって死んでくださった。私が神の子供たちの1人とされるためだったし、こんな私をさえ罪と悲惨さから救い出すためだった」と私たちも知りました。それならば、救い出された私たちはどこへと向かうのか。どこで、どのように生きるのかとさらに目を凝らしましょう。代わって死んでいただいた。それなら私たちは、もう死ななくていいのか? あとは、それぞれ思いのままに好き勝手に生きていけばいいのか。いいえ、そうではありません。やがていつか寿命が来てそれぞれに死んでゆくというだけではなくて、クリスチャンとされた私たちは毎日毎日、死んで生きるのです。古い罪の自分を葬り去っていただいて、新しい生命に生きる者とされた。毎日毎日、死んで生きることが生涯続いてゆく。洗礼の日からそれが決定的に始まりました(ローマ手紙6:1-18参照)実は、『毎日毎日、死んで生きる』というその大事なことは、これまであまり十分には語ってくることができませんでした。いいえ、よく語ってこなかっただけではなくて、うっかり見落としていたのだと思えます。『古い罪の自分を殺していただき、葬り去っていただき、そのようにして新しい生命に生きる』ことが苦しすぎて、嫌だったので、わざと見ないふりをしていました。まったく申し訳ないことです。救い主イエスが代わって死んでくださったので、それでまるで自分は死ななくていいことにされたかのように、そこで救いの御業がすっかり完了して、終わってしまったかのように、だから後はそれぞれ好き勝手に自由気ままに生きていってよいかのように、勝手に思い込んでいました。だから、私たちはたびたび煮詰まりました。たびたび途方にくれて、道を見失いました。誰かが私の身代わりとなって死んでくれた。それだけでは、力も勇気も希望も湧いてくるはずがありません。私のために苦しんで死んでくださったその同じお独りの方が、ただ苦しんで死んだだけじゃなくて、この私のためにもちゃんと復活してくださった。やつれて、息も絶え絶えになって死んでいこうとする方に共感や親しみを覚えることはできても、けれど信頼を寄せたり、その方に助けていただけるとは誰にも思えません。死んで三日目に復活させられた方をもし信じられるなら、そのお独りの方に全幅の信頼を寄せることができます。この自分自身も、主イエスに率いられて、古い罪の自分自身と死に別れ、新しい生命に生きることになる。そこに大きな希望があり、喜びと平和と格別な祝福がある。これが、起こった出来事の真相です。十字架の上のやつれて息も絶え絶えのその同じ主が同時に、復活の主でもあると信じられるかどうか、それがいつもの別れ道です。
「このお方が私に代わって死んだ。私に代わって死んだ」と今後も同じく歌いつづけていいのです。そしてその歌の心は、「私に先立って」です。この救い主イエス・キリストというお方が私に先立って死んで、私に先立って復活してくださった。今も生きて働いていてくださる。やがて再び来てくださるし、今も共にいてくださる。だから、もうどんなものもキリストには代えられない。世の宝も富も、楽しみも、人から誉められたりけなされたりすることも、良い評判を得ることも冷たく無視されることも、有名な人になることも、どんなに美しいものも。この私たち一人一人もついにとうとうキリストに固着し、死守する秘訣を体得しました。やったあ。このお方で心の満たされている今は、と。私に先立って死んで復活してくださったキリストで、今この瞬間は、私の心はいっぱいに満たされている。父なる神さまはキリストと共にこの私たちをも死者の中から復活させることができるし、現に復活させつづけてくださる。だから今もこれからも、揺らぎ続ける危うい私であっても、キリストから二度と決して離れないでいることができる。明日も明後日も、死ぬまでず~っと同じく変わらず、ま日毎日、古い罪の自分と死に別れて新しく生きる私でありつづけたい。生きて働いておられます神さまの御前で。



2016年2月10日水曜日

2/7こども説教「神さまのものとされて、神さまのために生きて死ぬ」ルカ2:22-35

 2/7 こども説教 ルカ2:22-35
  『神さまのものとされて、神さまのために生きて死ぬ』

執事任職式の勧告いつでも、どこで何をしていても、
そこでそのようにして、主なる神さまにこそ仕えている


2:22 それから、モーセの律法による彼らのきよめの期間が過ぎたとき、両親は幼な子を連れてエルサレムへ上った。23 それは主の律法に「母の胎を初めて開く男の子はみな、主に聖別された者と、となえられねばならない」と書いてあるとおり、幼な子を主にささげるためであり、24 また同じ主の律法に、「山ばと一つがい、または、家ばとのひな二羽」と定めてあるのに従って、犠牲をささげるためであった。25 その時、エルサレムにシメオンという名の人がいた。この人は正しい信仰深い人で、イスラエルの慰められるのを待ち望んでいた。また聖霊が彼に宿っていた。   (ルカ福音書 2:22-25)

  救い主イエスさまがお生まれになった出来事を、クリスマスに皆で読み味わいました。その続きです。生まれて8日目に、赤ちゃんのイエスさまを父さん母さんは神殿に連れていってささげものをしました。献げもので大事なことは2つです。(1)献げものをする意味は、その人が自分自身を神さまにささげて、神さまのものとされて生きることです。いつもの礼拝の中でも、「み前に集めましたささげものを、私たちの体と魂とともにお受け取りください。こうして私たちが、あなたに真心からお仕えし、この世界と隣人とに仕え、あなたの御心にかなって生活することができますように」などと献金の度毎にそうやって祈っています。誰でも安心して喜んで献げものを神さまにできると嬉しいですね。最初には、羊一匹を献げる約束でした。でも、羊一匹も献げられない貧乏な家族もいます。その場合には山鳩のオスメス、合わせて二羽。それも献げられない貧乏な家族は、家鳩のヒナ二羽。それも献げられないほどとても貧乏な場合には小麦粉を小さな鍋一杯分ほど(レビ記5:7-11、約2リットル)。もっともっと貧乏な場合にも、どこまでもどこまでも少なくしてもらえます。それでも神さまはちゃんと喜んでくださいます(マルコ12:41-参照)。感謝と願いの献げものだからです。(2)23節で、「その家で初めて生まれた男の子が主に聖別された者となる」と書いてあります。神さまのものとされて、神さまのために生きて死ぬ者とされること。それが『聖別』です()。神さまのものとされて、神さまのために生きて死ぬ者とされる。それはとても嬉しいし、幸せな人生ですね。じゃあ、家族の中で最初に生まれた男の子だけがそんな幸せを独り占めするんじゃ不公平だし、もったいないし、他の家族たちがかわいそうです。いいえ、安心してください。最初に生まれた男の子は『家族皆がそうやって生きるための目印』なのです。娘たちも、次男も三男も、父さんも母さんもお爺ちゃんもお婆ちゃんも皆が神さまのものとされて、神さまのために生きて死ぬ者となることができます(使徒16:31)。それを家族皆で覚えて生きるための目印です。
  でも、神さまのものとされて、神さまのために生きて死ぬ。それは、あなた自身にとって素敵で嬉しいことでしょうか。それとも、嫌~なことでしょうか。世界中の多くの人たちは「嫌だ」って言うかも知れません。「意地悪な神さまで、したくないような嫌な苦しいことばかり無理矢理にさせられて、ただ働きばかりさせられて、嫌な思いをして疲れるばっかりだから」などと思う人もたくさんいるでしょう。それは仕方ありませんね。素敵な、とてもよい、やさしい親切な神さまだと知っている人しか、「わあ嬉しい。ぼくも神さまのものにしてもらって、神さまのために生きて死んでみたいものだなあ」と思えません。クリスチャンとは、そういう人々なのです。
『主なる神さま』というでしょ。神さまと私たちは主人と召使いという関係です。神さまを自分のご主人さまとしている私たちです。主イエスを信じて、神さまのおっしゃることによくよく聴き従って、「こういうことをしなさい」「はい分かりました」「けれど、こういうことはしてはいけませんよ」「はい」と、主に従って生きてゆく。それは、とても嬉しくて心強い人生だと。この一つの家族も、そういう嬉しい人生を選び取りました。もし良かったら、あなたもどうぞ。

               ()『聖別』;神さまのものとすること、それを神さまのために用いること。人、物、場所、時など、神さま以外の何かを『聖なる~』と区別して呼ぶとき、そういう意味です。「それ自体が神聖であるとか、清らかで高潔である」という意味はありません。かつて、「聖書を拝読します」などと言い習わしていたのを、後に反省して止めました。神さまについての大切なことが書かれているし、神さまの御用に用いられるので大切に扱う。そこまでは良い。けれど、聖書を拝んでしまっては行き過ぎです。人も場所も物も特定の器具も、建物も、時間も、神さまのためのものなら大切に、神さまへの感謝と信頼をもって慎んで用います。けれど、度をすぎて神聖視したり、尊びすぎてはなりません。大切ではあっても、それらは人間やモノに過ぎません。拝んでいい対象は、ただただ神さまだけです。例えば『聖人』などと崇めて、特定の誰彼を拝んだり、祭り上げたりしはじめるなら、それは神さまへの反逆であり、大間違いです。
  「召された聖徒一同へ」「聖徒として召された方々へ」(ローマ手紙1:7,コリント手紙(1)1:2)などとクリスチャン同士で呼びかけ合います。聖徒。ここにも高貴さ、清さ、高潔で信仰心篤くなどという意味をまったく少しも含みません。そんな人間は一人もいないのです(ローマ手紙3:9-20参照)。ただただ、「神のものとされた」「キリストに属する者とされている」という恵みの事実だけが想起されます。


 2/7 執事任職式における勧告
  『いつでも、どこで何をしていても、誰といっしょのときにも、
そこでそのようにして主なる神さまにこそお仕えしている』

     (私たちの教会は執事を任職する場合、「再選以上の場合には任職式をするまでもなく、当選を公告すれば足りる」(規則第162)と規定しています。つまり、「再選以上で任職式をしてはいけない」とは規定していません。たとえ規則に決められていても偉い誰々さんが仰ってもそのまま鵜呑みにせず、ただただ従うのではなく、道理が十分にあるのかどうか自分でよくよく考えてみなければなりません。確かに憲法・規則は教会が神の御心に従って歩むことを願って制定されていますが、それでもなお人間の作った法律に過ぎず、人間的な限界をも含んでいます。私たちの誰一人も神ではなく、また信仰告白や憲法・規則も聖書そのものではなく、神さまではないからです)

  執事の職につこうとする大澤育子さんにたった今、3つの点について誓約していただきました――

(1)あなたがこの職につくのは、教会のかしらであり、大牧者である主イエス・キリストの召命によるものと確信しますか。   
(2)その恵みにかなって、召された召しにかなって歩もうと決意しますか。
(3)日本キリスト教会信仰の告白、憲法・規則に誠実に従い、教会の一致、清潔、平和のために祈り、このために忠実に努めることを誓約しますか。

さて、3つの誓いは互いに同格で横並びで、同じだけの重さと中身をもっていると思いますか。いいえ、違いますね。(1)(2)こそが飛び抜けて大切です。(3)は、そのことを肉付けし、支えるための補助的な内容です。「誠実に従うか」「忠実に努めるか」と問われました。誰に対しての誠実。忠実でしょうか? 牧師に対してでもなく、教会の皆さんに対してでもありません。人間に聴き従うのではなく、神さまにこそ聴き従う私たちです(使徒4:12, 19)。信仰告白や憲法・規則に対する誠実や忠実が問われたのではありません。ただただ神さまの御心に対する誠実が問われ、もっぱら、務めに召してくださった主イエスに対する忠実こそが問われつづけます。また教会員も誓約をしました。「彼女をこの教会の執事として受け、その職を尊び、彼女らを励まし、助ける」と。では、どうやって、どのようにして尊び、励まし、助けるのか。同じです。そこでも私たち全員は、「ただただ神さまの御心に対する誠実が問われ、もっぱら、務めに召してくださった主イエスに対する忠実こそが問われつづけます」。すると、新しく立てられようとする働き人も、その人を「尊び、励まし、助けようとする」私たちも共々に、主イエスとはどういう主であるのか。何をしてくださるのか。神さまの御心はどのようなものなのかをよくよく知っていなければなりません。だからこそ洗礼を受けたとき、私たち皆は、「主の日の礼拝を重んじ、主の晩餐にあずかることを重んじ、喜び、忠実に守るのか」と問われました。主イエスへの誠実と信頼と忠実の中身が、そこで差し出され、そこでこそ受け取られつづけるからです。
 選挙の際に、それぞれの事情や家庭の状況なども必要な場合だけ十分に打ち明けていただきました。その日の『こども説教』でもはっきりお語りしましたように、すべてのクリスチャンは、『いつでも、どこでなにをしていても、誰といっしょのときにも、そこでそのようにして神さまにこそお仕えして生きる』者たちだからです。会社で働いている人は、そこでそうやって神さまにこそ仕えて働くようになる。子供を育て、ご飯支度をし、掃除や洗濯をして家族の世話をしているお父さんやお母さんは、そこでそうやって神さまにこそ仕えて働くようになる。年老いた親のお世話をして、オムツを替えてあげたりお風呂にいれてあげたりして一緒に暮らしている人は、そこでそうやってその人たちの世話をし、その人たちのために働いているというだけではなくて、そういうことを通して 神さまにこそ仕えて働いているんだと自分でもはっきりと気がつくようになる。ああ、そうだったのかと(ルカ福音書1:67-80『主に仕えている。だから恐れはない』2016,1,31)
しかも、この最重要事項もまた主イエス直伝です。いつもの自分の家で家族と相対しているとき、職場で働いているとき、道を歩いているときや近所の人たちと語り合っていた間、教会で兄弟姉妹たちとお喋りしている間にも、そこで自分がいったい誰を相手に何をしているのかと、はっきり気づいていましたか。姿形を変えて変装した主イエスご自身を相手に、私たちはそれをしていました。「私が空腹のときあなたは食べさせ、喉が渇いていたときに飲ませ、裸であったときに着せかけてくれたね。ああ、ありがとう」。あるいは、「あなたは食べさせてくれなかった。コップ一杯の水も飲ませてくれなかった。見舞ってもくれず、訪ねてもくれなかった。あの貧しい姿の小さな者は、この私だった。よく言っておく。これらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである。しなかったのは、わたしに対して、してくれなかったのである」(マタイ25:31-46参照)()と。姿を変えて変装し、隠れた姿で私たちの目の前に来られていた救い主イエス。誰のことが語られているのか知っていましたか? あなたの愛する夫がそれです。あなたと、大切なお連れ合いの間に授けられた三人の子供たち一人一人がそれです。同居しているおじいちゃんがそのイエス・キリストご自身です。あんまり変装が上手なので、なかなか気づかなかったでしょう。自分の信仰や願いを家族や周囲の人々に十分に尊重してもらい、重んじてもらいたいと私たちは願います。もし、そうであるならば、その2倍も3倍も、その夫や子供たちやおじいちゃんの願いや考え方を精一杯に重んじてあげたいのです。最優先で、自分自身を重んじ尊ぶことの2倍も3倍も重んじ尊び、心を砕いて配慮してあげるべき隣人は、まず第一に、あなたの大切な家族です。執事職を嬉しく務めることができるかどうかは、ここにかかっています。もし、夫が渋い顔をして溜息をつくようになったら、もし、おじいちゃんや子供たちが困ったり悲しみはじめるようなら、たとえ任期途中でも何でも、執事職を退くことを真剣に考え始めねばなりません。その働きや熱心さがかえって教会にも家族にも災いを招くことさえ有り得るからです。だから、そういうわけで、「教会の奉仕を精一杯に十分にやりたくても、祈祷会に毎回毎回出席したくても、もし、夫や家族が快く送り出してくれるのでなければ、働いてはいけないし、祈祷会に来てもいけない」と何度も釘を刺しておきました。例えばケンちゃんが「お母さん、行かないで~」と泣くとき、とても大切な用事があったとしても出かけるのを止めて、家で一緒にのんびり楽しく過ごしてあげることもできます。もし、そこで、マタイ25:31-を思い出せるならば。そこでそうやって、主イエスにお仕えして働いているのだし、教会で行う奉仕や学びに負けず劣らず、主にお仕えしているのですから。しかも、その子供たちや夫やおじいちゃんにも、やがてぜひ主イエスを信じる幸いを贈り与えてあげたいからです。天に主人がおられます(使徒16:31,コロサイ4:1)。あなたのためにも、私たち全員のためにも。


   祈りましょう。
御父よ。キリストのものであります教会に働き人を立ててくださってありがとうございます。召してくださったキリストの召しにかなって、あなたの御心にかなって生きることを願って働く私たちとさせてください。教会でさまざまな務めを担うときも、誰とどこで何をしていても、そこでそのように、主イエスへの誠実と信頼と忠実とをもって事に当たりつづけることができますように。キリストに仕える志しと決心を与えてくださったキリストご自身がこれを成し遂げるための力と慎みと信仰をも贈り与えつづけてくださいますように。この働きを通しましても、私たち自身と家族の一人一人もまた、あなたからの格別な祝福にあずかることができますように。
主イエスのお名前によって祈ります。アーメン






         【割愛した部分の補足説明           
     (*マタイ福音書25:31-)難解箇所の一つ。ここだけを読むならば、『善い行いをするかどうかで救いか滅びかが決定される』かのように誤解しやすい。『救われるのは善い行いによるのか。それとも、ただ主イエスを信じて、ただただ恵みによってだけ救われるのか』と、長く論争されつづけてきた悩みのタネです。けれど、聖書66巻全体からの答えは明確。もちろん、『ただ主イエスを信じて、ただただ恵みによってだけ救われる』(ヨハネ福音書3:16-18,ローマ手紙3:21-26,5:6-11,10:9-13,130:1-4)
それにしても、この箇所は難しい。貧しい隣人への憐れみや施しをしなくてよいわけではない。私たちが慈しみ深くあるようにと神ご自身も願い、そうありたいと私たち自身も願う。けれど他方、親切な慈しみの業を何回行ったか、冷酷非情な業や不正や暴力・虐待をどれほど行ったかと厳しく問われるならば、誰もが失格であり落第である。正しい人は一人もおらず、誰も皆がとても罪深い。憐れみを受け、罪をゆるされて救われる他はない。しかもなお、ゆるされた罪人らは受け取った慈しみと憐れみの実を結び、善い行いをする者らへとやがて少しずつ変えられていく。つまりは、善行が救われるための前提条件なのではなく、救われた結果として 私たちは善い行いをする者へとだんだんと変えられてゆく。憐れみ深い神ご自身が、それを成し遂げてくださる。きっと必ず。


2/7「神にこそ真実がある」ヨハネⅠ1:5-10

                                        みことば/2016,2,7(主日礼拝)  45
◎礼拝説教 ヨハネの手紙(1) 1:5-10                   日本キリスト教会 上田教会
『神にこそ真実がある』~祈り.最終回~

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

1:5 わたしたちがイエスから聞いて、あなたがたに伝えるおとずれは、こうである。神は光であって、神には少しの暗いところもない。6 神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているなら、わたしたちは偽っているのであって、真理を行っているのではない。7 しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。8 もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。9 もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。10 もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言はわたしたちのうちにない。  (ヨハネ手紙(1)1:5-10)
  


 5-7節と8-10節はちょうど10円玉の表と裏のようで、一つの真理、同じ一つの中身を言い表そうとしています。5-7節はやや抽象的で漠然とした言い方をしています。8-10節は、その語りかけを受けて、具体的な毎日毎日の現実を私たちに考えさせようとしています。神さまは光であるし、光の中におられる。だから、この神さまを信じ、神さまからの恵みと祝福のうちに生活しているというならば、この私たちも「薄暗い闇の中」ではなく、「光の中」をこそ暮らしていこうではないか。さて、それなら「光」とは何か、「光の中を歩く」とは何か。「闇」とは何か、「闇の中を歩んでいる」とは、具体的に現実的にはどういうことなのでしょうか。そこで8-10節。ここが、その中身です。ここが、いつもの困った場所です。「もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言はわたしたちのうちにない」。この箇所だけではなく、聖書のあちこちで、同じようなことが繰り返し繰り返し証言されています。毎週毎週の礼拝説教でも、「罪だ。罪だ。あなたは罪深い」と、耳にタコが出来るほど、クドクドクドクドと語られ続けます。それですっかり嫌気がさして、「二度と教会になんか来るものか」とたくさんの人々が腹を立てて立ち去ってしまいました。困りました。そんな耳障りの悪い、楽しくも明るくもないことばかり語っていると、そのうち教会に来る人が一人もいなくなって店が潰れてしまうかも知れませんね。どうしましょうか。いいえ。人が大勢来て繁盛しようがどんどん減って寂れてしまおうが、なにしろ聖書自身がそう語るのです;「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、また神ご自身をも偽り者とすることになる」(8,10)と。それとも逆に、「すっごい清らかだ。あなたには何の落ち度もない。ほんの少しも悪い考えをもったこともなく、人に意地悪をしたことも傷つけたこともなく、あなたは洗ったばかりのシーツのように真っ白だ。あなたは素晴らしい。親切で、思いやり深く、冬の日の石炭ストーブのようにポカポカ暖かい」と互いに誉めたたえ合ったり、根も葉もないお世辞を言い合ったりすべきでしょうか。どうしましょう?
  それは出来ません。「神さまを偽り者とすること」(10)だからであり、それでは神の言葉も神からの祝福も恵みも平和も、すっかり見失ってしまうからです。けれどなお、世の中の多くの人々がというよりも、むしろクリスチャンであるこの私たち自身が、度々くりかえして、朝も昼も晩も「自分には罪がない。悪いのは彼らの方だ。落ち度があるのは、あなたのほうじゃないか」。「あまりにいたらなくて、ふつつかで意固地で、改めなければならないのは、あの人のほうだ」と言い張りつづけてきました。家族や兄弟たちの了見の狭さや頑なさを1つ1つ咎めて、「小さすぎる。弱すぎる。かたくなすぎる。あんなんじゃあ失格だ。落第だ。ふさわしくない」などと。「そりゃあ私も、ほんのちょっとは罪や落ち度もある。けれどあの人の罪と落ち度といたらなさは、もっともっと深い」「私も多少は頑なで了見が狭くて、偏屈で意固地な所もある。ほんの少しはね。けれど、あの人はその5倍も6倍も」などと。遠い昔、ここから遠く離れた見知らぬ土地に、クリスチャンの家族がいました。そこに育った1人の子供がなかなか信仰を持てなかったのは、自分の親の姿につまずいていたからでした。「あなたの敵を愛しなさい(マタイ4:44)と教えられているはずなのに、どうして私のお母さんは、あの人をゆるしてあげることができないのか。どうして受け入れてあげないのか。それでは、教わっていることや信じているはずのことと、自分の生活とが何の関係もないみたいじゃないか。それは嘘じゃないのか」と。その子供の指摘には、一理も二理も三理もあります。その非難と抗議は、この私たち自身に向けられます。胸が掻きむしられるようです。それでは、せっかく教わっていることや信じているはずのことと、自分の毎日毎日の生活とが、何の関係もないみたいじゃないか。それは嘘っぱちじゃないのか。――やがて、その子供はクリスチャンになりました。なった後で、その人は気づきました。どうしても人をゆるせない頑なな自分が、他の誰でもなく、この私の中にこそあると。ゆるせない自分、人を受け入れ迎え入れることがなかなか出来ない自分。そういうどうしようもない自分を抱えて、だからこそ、なおさら一層、この私もあの母も、ゆるしてくださる神さまに一途にすがったのだと。
 さて兄弟たち。では、どういうことになるでしょうか。このことについて、私たちは何と言えばいいでしょう。もちろん、「人をゆるして、迎え入れるからこそクリスチャンだ。そうでないあなたはクリスチャン失格だ」と言えば、それは言いすぎです。それでは、誰も彼もが失格です。けれど正反対に、「だから、ゆるせないままでいい。人を軽々しく裁いたり、見下したり、軽蔑していて当然。いいからいいから、死ぬまでず~っと罪深く頑固なままでいなさい」などとも言えるはずもありません。この2つの両極端の間にある、危なっかしいバランスです。それがクリスチャンの実態です。幅5cmほどの、細~い塀の上を綱渡りのようにして、私たちは生きてゆきます。そして合格している人などただの1人もおらず、誰も彼もが失格です。分かりますか? そのことは弁えておかねばなりません。そう簡単に人をゆるせるものではありません。うっかりして、いい気になって、家族や隣人のいたらなさや愚かさを裁いたり、軽蔑したり見下したりしてしまう私たちです。僕も、度々そうです。なかなかその、偉そうな分かったふうな性根は治りませんが、それで良いわけではありません。決して、そうではありません。だから私たちは、互いにそれぞれ失格者同士でありながら、互いにあまりにふつつかで、いたらなくて、あまりに身勝手な者同士でありながら、思い返し思い返し、互いに少しずつ歩み寄ってゆくのです。「あいつは不届きな奴だ」。その通り。けれど、それはお互い様でした。「なんて身勝手で、了見が狭くて、意固地で、うちのあの嫁は。あの息子は。うちのあの夫は」。その通り、けれどそれはお互い様です。罪も落ち度も至らなさも身勝手さも狡さも、私たちにあります。山ほど。あまりに失格であり、失格すぎるにもほどがあります。だから、私たちはクリスチャンです。しばしば自分自身が偽り者であることを痛感させられながら、どうしようもない自分自身を根深く抱えて、だからこそゆるしていただきたくて、清くしていただきたくて、今日もここに集まってきました。なぜなら、この神の御もとにはゆるしがあるからです。ゆるされた者同士の平和となごみが、ここにあるからです。

         ◇

  さて、祈りの末尾に必ず「アーメン」と唱えます。讃美歌を歌い、聖書を朗読し、「アーメン」と。アーメン、真実であるという意味です。けれど、どこに真実があるのでしょう。私が祈るとき、もし仮に、その祈りの内容や、祈るときの私自身の姿勢や魂の在り様が真実であるとして、それでアーメンと唱えるのだというならば、いったいどんなふうに、私たちは祈りはじめることができるでしょう。どうやって、その祈りを心安く結ぶことができるでしょうか。だって、思い起こしてみてください。なんとなく、上の空で祈っていたことがあったからです。ただ形式的に、ただそれらしく祈っていたこともあったからです。「ご覧ください。これが真実です」と顔をあげ、胸をはって神に差し出すのが「アーメン」だというなら、アーメンという私の声はつぶやくような小さなボソボソ声になり、冷や汗をかいて口ごもり、やがて滅多に「アーメン」などと言えなくなり、祈ることさえ恐ろしくて出来なくなってしまうでしょう。もし仮に、真実その通りと思えるふさわしい祈りに対してだけ、アーメンと唱えようとするならば、私たちは試験にのぞむ学生のように緊張して、ビクビクしながら祈るでしょう。逆に、他の人の祈りを聞くときには、何でも分かったつもりの審査委員のように、試験監督の先生のように、一つ一つの祈りを手厳しく審査し、採点するようになり、「どれ。ふむふむ。この祈りは、まあまあだな。なんだ。こんな祈りでは、とうていアーメンとは言えない。これは62点、これは48点、これは15点、落第だ」などと、互いの祈りに対して冷ややかに黙り込んでしまうでしょう。そうして、そこは寒々しい祈りの集いになってしまうことでしょう。例えばその祈りの集いの中に、小さな子供たちもいて祈りはじめます。こんなふうに、「神さま。お誕生日に、あの3200円のロボットのオモチャが貰えますように」。あるいは「神さま。僕にいじわるをするいじめっ子たちをやっつけてください。どうか、ひどい目にあわせてやってください」。このとき、その祈りに対して、私たちはアーメンと唱えてはならないでしょうか。誰かが「どうか神さま、宝くじが当るようにしてください」「かっこいいスポーツカーを買えますように。私を世界一の美人にしてください」と祈るとき、その祈りに対して、私たちはアーメンと唱えてはならないでしょうか。いいえ、そうではありません。私は何の心配もためらいもなく、安らかにアーメンと唱えましょう。その子のためのプレゼントにロボットのオモチャがいいか、それとも何か別のものがいいか。意地悪をしたいじめっ子たちをやっつけてあげるべきかどうか。その人を世界一の美人にすべきかどうか。宝くじを当ててあげたほうがいいのか、そうではないのか。それらは、私たちが判断しなくてよいのです。私たちは神ではなく、神の代理人でもないのですから。神ご自身が判断なさり、神ご自身が最善最良を備えていてくださいます。あの子供のためにも他の人々のためにも、もちろん私たちのためにも。私たちは、ただ神に信頼し、一つ一つの願いも私たち自身も、ただ神さまにこそ本気で委ねさえすればいいではありませんか。
 祈りの末尾に「アーメン」と唱えます。「真実であり、本当だ」という意味です。それは神の真実であり、どこまでもどこまでも徹底して神ご自身のものです。祈る度毎にアーメンと唱え、他の人の祈りに対しても皆でアーメンと心から声を合わせることが出来ます。祈りの締めくくりがそうであるばかりでなく、祈りの始めがそうであり、祈りの中程がそうであり、祈りつつ生きる私たちの生活全体、私たちが生きて死ぬことの全部がそうです。私たちが祈りはじめる前に、私たちの舌がまだ一言も語りはじめないうちに、神さまはすでによくよく分かっていてくださいます。私たちの思いや判断をはるかに越えて豊かに報いてくださる神でした。そうでしたね。
アーメン。立派な真実な祈りだから、というのではありません。誠実で真実な私たちだから、というのではありません。ちゃんとした私のちゃんとした生活だから、というのでもありません。そうではありませんでした。たとえ貧しくてもふつつかで不十分であるとしても、たとえ貧相でみすぼらしくても、その祈りと生活を、その私たちを惜しんで止まない慈しみの神に向けて、神ご自身の真実に向けて差し出します。そのように、「アーメン」と呼ばわります。だから兄弟姉妹たち。もう誰にも、あなたは心を惑わされてはなりません。主イエスの福音を聞いて信じたのです。主イエスを信じて生きることを積み重ねてきた私たちです。十字架につけられたイエス・キリストの姿が目の前にはっきりと示されたではありませんか。示され続けているではありませんか。私たちを救い出して神のあわれみの子たちとしてくださるために、何としてもそうするために、神の独り子である方はご自身のものを徹底して捨て去り、低くどこまでも低くくだり、神であられることの栄光も尊厳も生命さえ、惜しげもなく投げ捨ててくださったのでした(ガラテヤ手紙3:1-,ピリピ手紙2:6-。アーメン。私たちのための真実は、ここにあります。身をゆだねることができるほどの心強い真実が、全幅の信頼をもってそこに立つことができるほどの真実が、ここにあります。握りしめて、「私にはこれがある」と背筋をピンと伸ばして、安らかに楽~ゥに深く息を吸えるほどの真実がここにあります。揺さぶられる日々にも、年老いて弱りはてる日々にも、孤立無援の恐ろしくてとても心細い惨めな日々にも、人から馬鹿にされたり、片隅へ片隅へと押しのけられる日々にも、「だって私にはこれがある」と心底から言えるほどの真実が、ここにあります。「主は恵み深い神、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かで、災いを思い返される神」(ヨナ書4:2,出エジプト記34:6だからです。そのように現に今日まで扱われつづけてきました。私たちはクリスチャンです。だから私たちは満ち足りた安らかな日々にも、その豊かさと喜びをもって真実な神へと向かいます。心挫ける悩みの日々にも、その嘆きと苦しみをもって、神へと向かいます。貧しく身を屈めさせられる日々にも、私たちはその心細さと淋しさと貧しさをもって、神へと向かいます。そこに、私たちを深く慰め、支え、確固として立たせてくれるものがあるからです。
一回一回の礼拝も祈りも、一日ずつの生活も、ただひたすら神の真実を受けとめるため。受けとめて、抱えもって生きるために。だから私たちはここにいます。














2016年2月2日火曜日

1/31こども説教「主に仕えている。だから恐れがない」ルカ1:67-80

 1/31 こども説教 ルカ1:67-80
  『主に仕えている。だから恐れがない』

1:71 わたしたちを敵から、またすべてわたしたちを憎む者の手から、救い出すためである。72 こうして、神はわたしたちの父祖たちにあわれみをかけ、その聖なる契約、73 すなわち、父祖アブラハムにお立てになった誓いをおぼえて、74 わたしたちを敵の手から救い出し、75 生きている限り、きよく正しく、みまえに恐れなく仕えさせてくださるのでる。・・・・・・77 罪のゆるしによる救をその民に知らせるのであるから。   (ルカ福音書 1:71-75)

 前の前の日曜日には、46-55節の『マリヤが神さまを讚美する歌』を読み味わいました。そこでも、神さまからの憐れみ、憐れみ、憐れみと歌いつづけていました。救いの中身は神さまからの憐れみだったので、へりくだった低い心でしかそれを受け取ることも、受け取って喜ぶこともできませんでした。自分は低くて小さくて貧しくて弱々しい、誇れるものは何一つないとつくづく分かって、そこでようやく贈り物を受け取ることができます。マリアさんもそうだったし、神の民とされたイスラエルの全員もまったく同じだったのです。洗礼者ヨハネのお父さんザカリヤも、この同じ一つのことを歌います。神さまからの憐れみ、憐れみ、憐れみと。
 77-79節をもう一度読みます。『罪のゆるしによる救い』だと、はっきり語りかけています。ザカリヤが神さまから教えていただいた、一番大事なことです。神さまにも周りにいる人間たちにも逆らいつづけて、「私が私が」とわがまま勝手になり、強情を張りつづけることが『罪』の正体でした。そのおかげで、私たちは暗闇と死の陰の中に閉じ込められていました。そのおかげで、他の人々を悲しませたり苦しませたりし、自分自身もなんだか満たされず、物寂しく、心がどんより曇りつづけました。そのわがまま勝手さや強情さは、厳しく叱りつけても治りません。罰を与えて懲らしめても治りません。ゆるしてあげるほか、その寂しく悲しい場所から救い出してあげることができなかったのです。救い主イエスこそが、この私たちのためにもそれをしてくださいます。78-79節で、「神さまの憐れみによって日の光が私たちの上に照って、私たちを平和の道へと導く」と約束されているのは、そのことです。74-75節にも目を向けましょう。「敵の手から救い出し、みまえに、恐れなく仕えさせてくださる」。敵の手から救い出されてという「敵の手」とは何でしょう。恐ろしい敵は、実は私たち自身の一人一人の心の中に住んでいました。神さまにも周りにいる人間たちにも逆らいつづけて、「私が私が」とわがまま勝手になり、強情を張りつづける、あの『罪』のことです。私たち自身のなかに住んでいる、悪い、ねじくれた心です。その悪い、ねじくれた心の言いなりにされないで、これからは、主なる神さまにお仕えして生きるようにしていただける。これが、神さまを信じて生きる人々への神さまからの救いの約束です。救いの中身です()。じゃあ私たちは、いつ、どうやって、神さまに仕えて生きることになるのでしょうか? 『いつでも、どこでなにをしていても、誰といっしょのときにも、そこでそのようにして神さまにこそお仕えして生きる』というのです。会社で働いている人は、そこでそうやって神さまにこそ仕えて働くようになります。子供を育て、ご飯支度をし、掃除や洗濯をして家族の世話をしているお父さんやお母さんは、そこでそうやって神さまにこそ仕えて働くようになります。年老いた親のお世話をして、オムツを替えてあげたりお風呂にいれてあげたりして一緒に暮らしている人は、そこでそうやってその人たちの世話をし、その人たちのために働いているというだけではなくて、そういうことを通して 神さまにこそ仕えて働いているんだと自分でもはっきりと気がつくようになります。ああ、そうだったのかあと。ベッドに寝たきりになって何日も何年も過ごす病人も、「神さま助けてください。よろしくお願いします。ありがとうございます」と祈りながら、助けを求めながら感謝しながら、そこでそうやって神さまにこそ仕えて働くようになります。だから、その人たちには恐れることも心細がることもだんだんとなくなって、「私が私が」とわがまま勝手になり、強情を張りつづける、あの悪い、ねじくれた心も少しずつ小さく弱くされていって、だんだんと一歩また一歩と、きよく正しく生きることもできるようにされていきます。神さまがその人たちを憐れんでくださったからですし、その人たちがとうとう神さまからの憐れみを受け取って、神さまへの感謝の生活を、一日また一日と生きはじめるからです。



       ()『主に仕えて生きること』;聖書66巻全体をとおして、これが神さまと私たちとの基本的な関係です。「主なる神」「主イエス」といいます。つまり、神と私たちは主従関係として結びつきあっており、「主に従って日々を生きる私たち」です。

1/31「試練と悪から救い出してください」マタイ6:9-15

                                        みことば/2016,1,31(主日礼拝)  44

◎礼拝説教 マタイ福音書 6:9-15         日本キリスト教会 上田教会

『試練と悪から救い出してください』~祈り.7~

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

6:9 だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。10 御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。11 わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。12 わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。13 わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。14 もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。15 もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。       (マタイ福音書 6:9-15)



2つのことを、神さまに願い求めています。『試みにあわせないでほしい』。そして、『悪しき者から救い出してください』と。また、このように願い求めつづけて生きるように、と神さまから命じられています。どういうことでしょうか? 弱く危うい私たち自身であることをよくよく知りながら、また、だからこそ神さまの助けと支えを受け取りつづけて生きるように、と私たちは神さまご自身から命じられているのです。このことを、私たちは受け止めましょう。
  (1)悪しき者から救い出してください。エペソ手紙6:10-は語りかけます;「主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。・・・・・・神の武具を身につけなさい。すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、平和の福音の備えを足にはき、その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい」。強くあるように、と励まされます。勇気と力を出すように。なぜなら私たちは、私たちを弱くしようとする様々なものたちに取り囲まれているからであり、しかも、私たち自身ははなはだしく弱く脆く、あまりに危うい存在であるからです。それならば、一体どうしたら私たちは強くあることができるでしょうか。何を支えとし、いったい誰の力添えと助けとを求めることができるでしょう。主なる神さまの助けと守りによってです。「主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい」と勧められているのは、このことです。そうでなければ、他の何をもってしても私たちは強くはなりえません。しかも兄弟姉妹たち、そうでありますのに私たちは度々この単純素朴な真理から目を背け、脇道へ脇道へと道を逸れていきました。自分自身の弱さと危うさを忘れ、思い上がり、うぬぼれました。あるいは自分自身の弱さをつくづくと知った後でもなお、神さまからの助けと支えをではなく、ほかの様々なものの支えと助けを探して、ただ虚しくアタフタオロオロしつづけました。立ち返るようにと、預言者らは必死に警告しつづけました。葦の海とエジプト兵を前にしてモーセは語りかけました。「あなたがたは恐れてはならない。かたく立って、主がきょう、あなたがたのためになされる救を見なさい。きょう、あなたがたはエジプトびとを見るが、もはや永久に、二度と彼らを見ないであろう。主があなたがたのために戦われるから、あなたがたは黙していなさい」。心を鎮めて静かにしているべきなのは、目を凝らして主の救いをはっきりと見て、それを魂に深々と刻み込むためです。そうでなければ恐れをぬぐい去ることも堅くしっかりと立つことも誰にもできません。預言者イザヤも同じことを命じました。「『あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る』。しかし、あなたがたはこの事を好まなかった。かえって、あなたがたは言った、『否、われわれは馬に乗って、とんで行こう』と。それゆえ、あなたがたはとんで帰る。また言った、『われらは速い馬に乗ろう』と。それゆえ、あなたがたを追う者は速い」(出エジプト記14:13-14,イザヤ書30:15-16)神さまの御もとへと立ち返って、神さまご自身への信頼をなんとしても取り戻すのでなければ、落ち着くことも穏やかであることも誰にもできないはずでした。けれどあなたがたはそれを好まなかった。神をそっちのけにして、速い馬に乗ることばかりを求めつづけた。だから、あなたがたを追う者の足はさらにもっと速いだろう。その通りです。立ち返って、主ご自身に信頼しはじめるのでなければ、私たちは力を失い、ますます痩せ衰えてゆく。心に留めましょう。
 (2)さて、「試みにあわせないでください」という神への願い。おそらく、苦難と試練の事柄こそが人生最大の難問です。『試み。誘惑』は、ごく一般的には『罪に陥れようとする試み、誘惑』を意味します。けれど、神さまが私たちにそんなことをなさるでしょうか? ヤコブ手紙1:13以下は証言します;「だれでも誘惑に会う場合、『この誘惑は、神からきたものだ』と言ってはならない。神は悪の誘惑に陥るようなかたではなく、また自ら進んで人を誘惑することもなさらない。人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれるからである。欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。愛する兄弟たちよ。思い違いをしてはいけない」。他の何者のせいにもできない。自分自身の欲望とむさぼりこそが原因ではないか、と突きつけられます。そこには大きな真理があります。けれど、これが知るべき真理の中の半分です。
 残り半分は、『神さまご自身が私たちを試みる場合もありうる』。それは、神さまへの信頼と従順に向かわせるための信仰の教育であり、恵みの取り扱いです()。例えば、モーセと仲間たちが旅した荒野の40年がそうでした。「主はあなたを苦しめ、あなたを試み、あなたの心を知ろうとなさった。人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためだった。あなたはまた、人がその子を訓練するように、あなたの神、主もあなたを訓練することを心に留めなければならない」(申命記8:2-3。十字架前夜のゲッセマネの園へと立ち戻りましょう。あのとき、主イエスはご自身の祈りの格闘を戦いながら、同時にご自分の弟子たちを気遣いつづけます。気がかりで、心配で心配でならないからです。何度も何度も彼らのところへ戻ってきて、眠りつづける彼らを励ましつづけます。「眠っているのか。眠っているのか、まだ眠っているのか。ほんのひと時も私と一緒に目を覚ましていることができないのか。誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。心は熱しているが肉体が弱いのである」(マタイ26:40-41参照)
 私たちそれぞれにも厳しい試練があり、それぞれに、背負いきれない重い困難や痛みがあるからです。それぞれのゲッセマネです。あなたにも、ひどく恐れて身悶えするときがありましたね。悩みと苦しみの時がありましたね。もし、そうであるなら、あなたも地面にひれ伏して、体を投げ出して本気になって祈りなさい。耐え難い痛みがあり、重すぎる課題があり次々とあり、もし、そうであるなら主イエスを信じる1人の人は、どうやって生き延びてゆくことができるでしょう。病気にかからずケガもせず、自分のことをよくよく分かってくれる良い友だちにいつも囲まれていて、元気で嬉しくて。いいえ そんな絵空事を夢見るわけではありません。わたしは願い求めます。がっかりして心が折れそうになるとき、しかし慰められることを。挫けそうになったとき、再び勇気を与えられることを。神さまが生きて働いておられ、その神が真実にこのわたしの主であってくださることを。主イエスはここで、父なる神にこそ目を凝らします。「どうか過ぎ去らせてください。しかしわたしの願いどおりではなく、あなたの御心のままに」。御心のままにとは何でしょう。諦めてしまった者たちが平気なふりをすることではありません。祈りの格闘をし続けた者こそが、ようやく「しかし、あなたの御心のままに」「どうぞよろしくお願いします」という小さな子供の、自分の父さん母さんに対する愛情と信頼に辿り着くのです。わたしたちは自分自身の幸いを心から願い、良いものをぜひ手に入れたいと望みます。けれど、わたしたちの思いはしばしば曇ります。しばしば思いやりに欠け、わがまま勝手になります。何をしたいのか、何をすべきなのか、何を受け取るべきであるのかをしばしば見誤っています。けれど何でも出来る真実な父であってくださる神が、このわたしのためにさえ最善を願い、わたしたちにとって最良のものを備えていてくださる。わたしたちは知っています。父なる神さまの御心こそがわたしたちを幸いな道へと導き入れてくれる。きっと必ず、と。
 主イエスご自身から祈りの勧めがなされます。「目覚めていなさい。気をしっかり持って祈りなさい」と。なぜでしょう。「目を覚ましていなさい。眠っちゃダメ。起きて起きて」。なぜでしょう。雪山で遭難したときと同じだからです。眠くて眠くて瞼が重くて目をつぶってしまいたくても、「しっかりして。眠っちゃダメ、起きて起きて」。だって、そのまま眠りこんでしまったら、その人は凍えて冷たくなって死んでしまうからです。またそれは、わたしたちに迫る誘惑に打ち勝つためであり、それぞれが直面する誘惑と試練は手ごわくて、また、わたしたち自身がとても弱いためです。「しっかりしていて強いあなたを特に見込んで、だから祈れ」と言われていたのではありません。そうではありません。あなたはあまりに弱くて、ものすごく不確かだ。ごく簡単に揺さぶられ、惑わされてしまいやすいあなただ。そんなあなただからこそ、精一杯に目を見開け。本気で、必死になって祈りつづけなさい。主イエスはご自身の祈りの格闘をしつつ、しかし同時に、弟子たちをなんとかして目覚めさせておこうと心を砕きます。あの彼らのことが気がかりでならないからです。「私につながっていなければ、あなたがたは実を結ぶことができない。私を離れては、あなたがたは何もできないからである」と主はおっしゃいました(ヨハネ15:4-5)。悩みと思い煩いの中に、私たちの瞼は耐え難いほどに重く垂れ下がってしまいます。この世界が、私たちのこの現実が、とても過酷で荒涼としているように見える日々があります。望みも慰めも支えもまったく見出せないように思える日々もあります。ついに耐えきれなくなって、私たちの目がすっかり塞がってしまいそうになります。神さまの現実がまったく見えなくなり、神が生きて働いておられることなど思いもしなくなる日々が来ます。しかも、私たちは心も体も弱い。とてもとても弱い。どうやって主の御もとを離れずにいることができるでしょうか。主を思うことによってです。どんな主であり、その主の御前にどんな私たちであるのかを思うことによってです。思い続けることによって。あの時、あの丘で、あの木の上にかけられたお独りの方によって、どんなことが成し遂げられたでしょう。

 讃美歌294番も、同じ1つのことを私たちの心に語りかけつづけました。「み恵み豊けき主の手に引かれて、この世の旅路を歩むぞ嬉しき」と自分自身に言い聞かせ言い聞かせ、そのようにして、私たちは目覚めます。何が嬉しいというのでしょう。また、何が足りなくて不十分だと嘆くのでしょうか。何がどうあったら、私たちは満ち足りて安らかで喜んでいられるのでしょう。私がやりたいことをし、やりたくないことをしないで済んでだから嬉しい、というのではありませんでした。私のことを皆が分かってくれて、皆が喜んで賛成してくれて、だから嬉しい、というのでもありませんでした。私がどれほど足腰丈夫で、どれほど働けて役に立てて、それで。あるいは、体も心も弱って皆様のお役に立てず、足手まといでああでもないこうでもない、などということでもなく。そんなこととは何の関係もなく 「主の手に引かれて歩いている。その御手はとても恵み豊かだ。だから嬉しい」と歌っていました。主ご自身にこそ、必死に一途に目を凝らしています。いつもの私共とだいぶん違います。目の付けどころがずいぶん違うのです。「けわしき山路もおぐらき谷間も、主の手にすがりて安けくすぎまし」と歌いながら、そのようにして、私たちは目覚めます。平らで歩きやすい道を友だちとワイワイガヤガヤ言いながら歩く日々もありました。またさびしい野っ原や、けわしい山道や、薄暗い谷間をこわごわビクビクしながら歩く日々も、やっぱり私たちにはありました。頼りにしていた家族や友達からはぐれて、ただ独りで歩かねばならないときもありました。そのとき、どうしましょう? どうしたらいいんですか。何がどうあったら、私たちは安らかになれたのでしょう。あの294番は、いつもの私たちとはずいぶん違うことを思っています。だって、「けわしき山路もおぐらき谷間も、主の手にすがりて安けくすぎまし」なんて言うんですから。ただただ、主の手にすがって、そこで安らかに歩みとおしたい。それが私の願いであり、希望なのだと。ああ。つまりこの歌のクリスチャンは、目を覚ましていたのです。「あの人がこの人がその人が。私が私が私が」という疲れと思い煩いの眠りから、もうすっかり目を覚ましていました。目覚めて、そこで、生きて働いておられる神さまと出会っています。そこでついにとうとう、神さまからの憐れみと平和とゆるしを受け取っています。なんという幸いでしょうか。


         【割愛した部分の補足】
          ()神さまが私たちを試みる場合もありうる 申命記8:2以下が典型的事例。他にも、救い主イエスの荒野での4040夜の誘惑。「イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである」(マタイ4:1)。つまり悪魔による誘惑と試練は、神ご自身の主導と御意志のもとでなされた。また信仰者に対しても、悪魔からの試練と誘惑を神さまが許可し、許容なさる場合がありました。聖晩餐の食卓で主イエスはシモン・ペトロに語りかけ、「サタンはあなたがたを小麦のようにふるいにかけることを願って(御父から)許された」(ルカ22:31-32)。ヨブに対して試練を与えることを悪魔は願い出て、主なる神はその願いを受け入れます。「見よ、彼のすべての所有物をあなたの手にまかせる」(ヨブ記1:6-12)と。また例えば、神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである」(コリント手紙(1)10:13)。
    これらの証言は、ヤコブ手紙1:13以下と矛盾するように見えます。他にも聖書には互いに矛盾し、相容れないように見える証言を数多く発見できます。だからこそ1つの聖書箇所だけでなく、「聖書全体としては、どう証言されているだろうか」と見渡す必要が生じます。それが、1つには教理的な理解であり、世々の教会が聖書をどのように読んで、受け止めてきたのかと問う作業です。また、そうした矛盾や不合理を孕む中で、神はどういう神であられるのか、その真意はどこにあるのかと熟慮しつづける必要もあります。そのための判断材料は、これまでの礼拝生活の中で聴き重ね、習い覚えてきたはずの基本的な『神理解。福音理解』です。どんな神さまだと、どんな福音だと、あなた自身は習い覚えてきましたか?