2016年2月10日水曜日

2/7「神にこそ真実がある」ヨハネⅠ1:5-10

                                        みことば/2016,2,7(主日礼拝)  45
◎礼拝説教 ヨハネの手紙(1) 1:5-10                   日本キリスト教会 上田教会
『神にこそ真実がある』~祈り.最終回~

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

1:5 わたしたちがイエスから聞いて、あなたがたに伝えるおとずれは、こうである。神は光であって、神には少しの暗いところもない。6 神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているなら、わたしたちは偽っているのであって、真理を行っているのではない。7 しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。8 もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。9 もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。10 もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言はわたしたちのうちにない。  (ヨハネ手紙(1)1:5-10)
  


 5-7節と8-10節はちょうど10円玉の表と裏のようで、一つの真理、同じ一つの中身を言い表そうとしています。5-7節はやや抽象的で漠然とした言い方をしています。8-10節は、その語りかけを受けて、具体的な毎日毎日の現実を私たちに考えさせようとしています。神さまは光であるし、光の中におられる。だから、この神さまを信じ、神さまからの恵みと祝福のうちに生活しているというならば、この私たちも「薄暗い闇の中」ではなく、「光の中」をこそ暮らしていこうではないか。さて、それなら「光」とは何か、「光の中を歩く」とは何か。「闇」とは何か、「闇の中を歩んでいる」とは、具体的に現実的にはどういうことなのでしょうか。そこで8-10節。ここが、その中身です。ここが、いつもの困った場所です。「もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言はわたしたちのうちにない」。この箇所だけではなく、聖書のあちこちで、同じようなことが繰り返し繰り返し証言されています。毎週毎週の礼拝説教でも、「罪だ。罪だ。あなたは罪深い」と、耳にタコが出来るほど、クドクドクドクドと語られ続けます。それですっかり嫌気がさして、「二度と教会になんか来るものか」とたくさんの人々が腹を立てて立ち去ってしまいました。困りました。そんな耳障りの悪い、楽しくも明るくもないことばかり語っていると、そのうち教会に来る人が一人もいなくなって店が潰れてしまうかも知れませんね。どうしましょうか。いいえ。人が大勢来て繁盛しようがどんどん減って寂れてしまおうが、なにしろ聖書自身がそう語るのです;「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、また神ご自身をも偽り者とすることになる」(8,10)と。それとも逆に、「すっごい清らかだ。あなたには何の落ち度もない。ほんの少しも悪い考えをもったこともなく、人に意地悪をしたことも傷つけたこともなく、あなたは洗ったばかりのシーツのように真っ白だ。あなたは素晴らしい。親切で、思いやり深く、冬の日の石炭ストーブのようにポカポカ暖かい」と互いに誉めたたえ合ったり、根も葉もないお世辞を言い合ったりすべきでしょうか。どうしましょう?
  それは出来ません。「神さまを偽り者とすること」(10)だからであり、それでは神の言葉も神からの祝福も恵みも平和も、すっかり見失ってしまうからです。けれどなお、世の中の多くの人々がというよりも、むしろクリスチャンであるこの私たち自身が、度々くりかえして、朝も昼も晩も「自分には罪がない。悪いのは彼らの方だ。落ち度があるのは、あなたのほうじゃないか」。「あまりにいたらなくて、ふつつかで意固地で、改めなければならないのは、あの人のほうだ」と言い張りつづけてきました。家族や兄弟たちの了見の狭さや頑なさを1つ1つ咎めて、「小さすぎる。弱すぎる。かたくなすぎる。あんなんじゃあ失格だ。落第だ。ふさわしくない」などと。「そりゃあ私も、ほんのちょっとは罪や落ち度もある。けれどあの人の罪と落ち度といたらなさは、もっともっと深い」「私も多少は頑なで了見が狭くて、偏屈で意固地な所もある。ほんの少しはね。けれど、あの人はその5倍も6倍も」などと。遠い昔、ここから遠く離れた見知らぬ土地に、クリスチャンの家族がいました。そこに育った1人の子供がなかなか信仰を持てなかったのは、自分の親の姿につまずいていたからでした。「あなたの敵を愛しなさい(マタイ4:44)と教えられているはずなのに、どうして私のお母さんは、あの人をゆるしてあげることができないのか。どうして受け入れてあげないのか。それでは、教わっていることや信じているはずのことと、自分の生活とが何の関係もないみたいじゃないか。それは嘘じゃないのか」と。その子供の指摘には、一理も二理も三理もあります。その非難と抗議は、この私たち自身に向けられます。胸が掻きむしられるようです。それでは、せっかく教わっていることや信じているはずのことと、自分の毎日毎日の生活とが、何の関係もないみたいじゃないか。それは嘘っぱちじゃないのか。――やがて、その子供はクリスチャンになりました。なった後で、その人は気づきました。どうしても人をゆるせない頑なな自分が、他の誰でもなく、この私の中にこそあると。ゆるせない自分、人を受け入れ迎え入れることがなかなか出来ない自分。そういうどうしようもない自分を抱えて、だからこそ、なおさら一層、この私もあの母も、ゆるしてくださる神さまに一途にすがったのだと。
 さて兄弟たち。では、どういうことになるでしょうか。このことについて、私たちは何と言えばいいでしょう。もちろん、「人をゆるして、迎え入れるからこそクリスチャンだ。そうでないあなたはクリスチャン失格だ」と言えば、それは言いすぎです。それでは、誰も彼もが失格です。けれど正反対に、「だから、ゆるせないままでいい。人を軽々しく裁いたり、見下したり、軽蔑していて当然。いいからいいから、死ぬまでず~っと罪深く頑固なままでいなさい」などとも言えるはずもありません。この2つの両極端の間にある、危なっかしいバランスです。それがクリスチャンの実態です。幅5cmほどの、細~い塀の上を綱渡りのようにして、私たちは生きてゆきます。そして合格している人などただの1人もおらず、誰も彼もが失格です。分かりますか? そのことは弁えておかねばなりません。そう簡単に人をゆるせるものではありません。うっかりして、いい気になって、家族や隣人のいたらなさや愚かさを裁いたり、軽蔑したり見下したりしてしまう私たちです。僕も、度々そうです。なかなかその、偉そうな分かったふうな性根は治りませんが、それで良いわけではありません。決して、そうではありません。だから私たちは、互いにそれぞれ失格者同士でありながら、互いにあまりにふつつかで、いたらなくて、あまりに身勝手な者同士でありながら、思い返し思い返し、互いに少しずつ歩み寄ってゆくのです。「あいつは不届きな奴だ」。その通り。けれど、それはお互い様でした。「なんて身勝手で、了見が狭くて、意固地で、うちのあの嫁は。あの息子は。うちのあの夫は」。その通り、けれどそれはお互い様です。罪も落ち度も至らなさも身勝手さも狡さも、私たちにあります。山ほど。あまりに失格であり、失格すぎるにもほどがあります。だから、私たちはクリスチャンです。しばしば自分自身が偽り者であることを痛感させられながら、どうしようもない自分自身を根深く抱えて、だからこそゆるしていただきたくて、清くしていただきたくて、今日もここに集まってきました。なぜなら、この神の御もとにはゆるしがあるからです。ゆるされた者同士の平和となごみが、ここにあるからです。

         ◇

  さて、祈りの末尾に必ず「アーメン」と唱えます。讃美歌を歌い、聖書を朗読し、「アーメン」と。アーメン、真実であるという意味です。けれど、どこに真実があるのでしょう。私が祈るとき、もし仮に、その祈りの内容や、祈るときの私自身の姿勢や魂の在り様が真実であるとして、それでアーメンと唱えるのだというならば、いったいどんなふうに、私たちは祈りはじめることができるでしょう。どうやって、その祈りを心安く結ぶことができるでしょうか。だって、思い起こしてみてください。なんとなく、上の空で祈っていたことがあったからです。ただ形式的に、ただそれらしく祈っていたこともあったからです。「ご覧ください。これが真実です」と顔をあげ、胸をはって神に差し出すのが「アーメン」だというなら、アーメンという私の声はつぶやくような小さなボソボソ声になり、冷や汗をかいて口ごもり、やがて滅多に「アーメン」などと言えなくなり、祈ることさえ恐ろしくて出来なくなってしまうでしょう。もし仮に、真実その通りと思えるふさわしい祈りに対してだけ、アーメンと唱えようとするならば、私たちは試験にのぞむ学生のように緊張して、ビクビクしながら祈るでしょう。逆に、他の人の祈りを聞くときには、何でも分かったつもりの審査委員のように、試験監督の先生のように、一つ一つの祈りを手厳しく審査し、採点するようになり、「どれ。ふむふむ。この祈りは、まあまあだな。なんだ。こんな祈りでは、とうていアーメンとは言えない。これは62点、これは48点、これは15点、落第だ」などと、互いの祈りに対して冷ややかに黙り込んでしまうでしょう。そうして、そこは寒々しい祈りの集いになってしまうことでしょう。例えばその祈りの集いの中に、小さな子供たちもいて祈りはじめます。こんなふうに、「神さま。お誕生日に、あの3200円のロボットのオモチャが貰えますように」。あるいは「神さま。僕にいじわるをするいじめっ子たちをやっつけてください。どうか、ひどい目にあわせてやってください」。このとき、その祈りに対して、私たちはアーメンと唱えてはならないでしょうか。誰かが「どうか神さま、宝くじが当るようにしてください」「かっこいいスポーツカーを買えますように。私を世界一の美人にしてください」と祈るとき、その祈りに対して、私たちはアーメンと唱えてはならないでしょうか。いいえ、そうではありません。私は何の心配もためらいもなく、安らかにアーメンと唱えましょう。その子のためのプレゼントにロボットのオモチャがいいか、それとも何か別のものがいいか。意地悪をしたいじめっ子たちをやっつけてあげるべきかどうか。その人を世界一の美人にすべきかどうか。宝くじを当ててあげたほうがいいのか、そうではないのか。それらは、私たちが判断しなくてよいのです。私たちは神ではなく、神の代理人でもないのですから。神ご自身が判断なさり、神ご自身が最善最良を備えていてくださいます。あの子供のためにも他の人々のためにも、もちろん私たちのためにも。私たちは、ただ神に信頼し、一つ一つの願いも私たち自身も、ただ神さまにこそ本気で委ねさえすればいいではありませんか。
 祈りの末尾に「アーメン」と唱えます。「真実であり、本当だ」という意味です。それは神の真実であり、どこまでもどこまでも徹底して神ご自身のものです。祈る度毎にアーメンと唱え、他の人の祈りに対しても皆でアーメンと心から声を合わせることが出来ます。祈りの締めくくりがそうであるばかりでなく、祈りの始めがそうであり、祈りの中程がそうであり、祈りつつ生きる私たちの生活全体、私たちが生きて死ぬことの全部がそうです。私たちが祈りはじめる前に、私たちの舌がまだ一言も語りはじめないうちに、神さまはすでによくよく分かっていてくださいます。私たちの思いや判断をはるかに越えて豊かに報いてくださる神でした。そうでしたね。
アーメン。立派な真実な祈りだから、というのではありません。誠実で真実な私たちだから、というのではありません。ちゃんとした私のちゃんとした生活だから、というのでもありません。そうではありませんでした。たとえ貧しくてもふつつかで不十分であるとしても、たとえ貧相でみすぼらしくても、その祈りと生活を、その私たちを惜しんで止まない慈しみの神に向けて、神ご自身の真実に向けて差し出します。そのように、「アーメン」と呼ばわります。だから兄弟姉妹たち。もう誰にも、あなたは心を惑わされてはなりません。主イエスの福音を聞いて信じたのです。主イエスを信じて生きることを積み重ねてきた私たちです。十字架につけられたイエス・キリストの姿が目の前にはっきりと示されたではありませんか。示され続けているではありませんか。私たちを救い出して神のあわれみの子たちとしてくださるために、何としてもそうするために、神の独り子である方はご自身のものを徹底して捨て去り、低くどこまでも低くくだり、神であられることの栄光も尊厳も生命さえ、惜しげもなく投げ捨ててくださったのでした(ガラテヤ手紙3:1-,ピリピ手紙2:6-。アーメン。私たちのための真実は、ここにあります。身をゆだねることができるほどの心強い真実が、全幅の信頼をもってそこに立つことができるほどの真実が、ここにあります。握りしめて、「私にはこれがある」と背筋をピンと伸ばして、安らかに楽~ゥに深く息を吸えるほどの真実がここにあります。揺さぶられる日々にも、年老いて弱りはてる日々にも、孤立無援の恐ろしくてとても心細い惨めな日々にも、人から馬鹿にされたり、片隅へ片隅へと押しのけられる日々にも、「だって私にはこれがある」と心底から言えるほどの真実が、ここにあります。「主は恵み深い神、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かで、災いを思い返される神」(ヨナ書4:2,出エジプト記34:6だからです。そのように現に今日まで扱われつづけてきました。私たちはクリスチャンです。だから私たちは満ち足りた安らかな日々にも、その豊かさと喜びをもって真実な神へと向かいます。心挫ける悩みの日々にも、その嘆きと苦しみをもって、神へと向かいます。貧しく身を屈めさせられる日々にも、私たちはその心細さと淋しさと貧しさをもって、神へと向かいます。そこに、私たちを深く慰め、支え、確固として立たせてくれるものがあるからです。
一回一回の礼拝も祈りも、一日ずつの生活も、ただひたすら神の真実を受けとめるため。受けとめて、抱えもって生きるために。だから私たちはここにいます。