2015年10月12日月曜日

10/11こども説教「主人と、その家のしもべたち」マタイ24:45-51

 10/11 ◎こども版 マタイ福音書 24:45-51                   
 『主人と、その家のしもべたち』

24:45 主人がその家の僕たちの上に立てて、時に応じて食物をそなえさせる忠実な思慮深い僕は、いったい、だれであろう。46 主人が帰ってきたとき、そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである。47 よく言っておくが、主人は彼を立てて自分の全財産を管理させるであろう。48 もしそれが悪い僕であって、自分の主人は帰りがおそいと心の中で思い、49 その僕仲間をたたきはじめ、また酒飲み仲間と一緒に食べたり飲んだりしているなら、50 その僕の主人は思いがけない日、気がつかない時に帰ってきて、51 彼を厳罰に処し、偽善者たちと同じ目にあわせるであろう。彼はそこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。            
(マタイ福音書 45-51

()「家のしもべたちだけを残して、その家の主人が出かけていった。しもべたちの中に『皆のためのお世話係』を立てて。やがてその主人が帰ってくる」というたとえ話です。何のために、こういうたとえ話を主イエスが語っているのか。この24章の最初のほうから眺めていくと、分かりやすいです。主イエスに弟子たちは質問をしていました;「あなたがまた帰ってこられるとき、世の終わりにはどういうことが起こるでしょうか?」(24:3)と。45節からのたとえ話の直前に、「人の子(=主イエスご自身のこと)が思いがけないときに来る」(44)と仰り、すぐにまた、「家の主人は思いがけないときに帰ってくる」(50)と。つまり、「やがて帰ってくる家の主人」は主イエスのことだったんですね。
 (**)とくには、コロサイ手紙3:18-4:1。「あなたがたにも天に主人がいますことが分かっているでしょ」と。他にも、コリント手紙(1)4:1-2,マタイ20:25-28など。けれど気に入らなかったし不都合なので、長い長い間、読み飛ばし、読まなかったことにし続けました。


  創世記1章の後半部分を読んだとき、ほとんどの人間たちは、大人も子供もみな大喜びに喜びました。とくに「魚も鳥も獣も、すべての生き物を治めさせよう。地を従わせよ。すべて、あなたがたにあげちゃう。治めよ、治めよ、従わせよ」ってところ。わあい、やったア。これで私たちがこの世界全部の王様で、支配者だ。思い通りに何でも好きなようにしていいんだってさあ。実は、人間は聖書を読む前からそう思っていました。自分たちこそが王様だって。他の者たちよりほんの少し賢くて、少し強くて大きな者こそが他の、自分たちより小さくて弱い者たちを言いなりに従わせ、支配し、好きなようにしていいんだと。でも大間違いでした。聖書はもちろん創世記1章の1ページとちょっとだけじゃなく、2000ページちかくあって「違うよ、違うよ。大間違いだよ」とあちこちにはっきりと書いてありましたけれど(**)、気に入った素敵なところをもう読んでしまったので、他のところは読みませんでした。長い長い時間が過ぎて、その間、私たち人間はずいぶん悪いことをしつづけました。好き勝手にふるまい、他の者たちを言いなりに従わせ、好きなように思い通りにしつづけました。けれど、「治めよ。従わせよ」という本当の意味は、いま読んだところに書いてありました。誰が読んでもよく分かるように、はっきりと書いてありました。
  地球がまるごと全部入るくらいの、大きな大きな一軒の家がありました。その家のご主人さまは神さまです。その大きな家には、全部の人間と、全部の鳥と魚と動物と昆虫とぜんぶの生き物が住んでいます。みんなの世話をする係が必要だったので、神さまが私たち人間を、みんなの『お世話係』にしました。朝昼晩と、3時のおやつと、時間通りに皆に食べ物をちゃんと公平に配ること。誰かがズルして独り占めしたり、ほかの誰かの食べ物を奪い取ったりしないように気を配って、誰も困ったり嫌な思いをしたり悲しんだりしないように気を配って。誰かが悪いことをしたり、ケンカをしたり誰かをいじめるとき、「悪いことだから止めなさいね」と注意したりさせるために。とても大きな家なので、お世話係はたくさんいます。中にはご主人のいいつけを守って、みんなの世話をちゃんとする良いお世話係もいるし、意地悪で自分勝手で乱暴でわがままで狡い、とても悪いお世話係もいるらしいです。
 本当はね、最初はみ~んな、良いお世話係でした。でも、あるお世話係たちはだんだん悪くなっていきました。どうしてでしょう? ご主人さまのことを忘れてしまったからです。主人なんか、この家に最初からいなかったし、自分たちこそがこの家の主人だとうっかり思い込んでしまった世話係たちもいます。ずっと昔にはいたらしいけど、主人はもう二度とこの家に帰ってこない。だから自分たちで好き勝手に、したいようにしていいんだと、ズルして食べ物を独り占めしたり、ほかの誰かの食べ物を奪い取ったり、誰かを困らせたり嫌な思いをさせたり悲しませたりしても、心は少しも痛くなりませんでした。困りましたね。では質問。神さまによって立てられた『お世話係』は誰だ? この家にいる全員です。大人も子供も年寄りも皆。この家だけじゃなく、世界中の人間たち皆です。家の主人はもうすぐ帰ってくるのか、もうしばらく帰ってこないのか、よく分かりません。じゃあ、どうしたらいいでしょう? よく考えましょう。だって、あなたも私も、天のご主人さまから立てていただいた「お世話係」の一人なんですから。



 とりなしの祈り

  イエス・キリストの父なる神さま、だからこそ確かに私たちの本当の父になってくださり、主イエスをとおして私たちをあなたの本当の子供たちとして迎え入れ、養い、支え、守りとおしてくださる神さま。心から感謝をいたします。あなたを信じる信仰をますます私たちに与えてください。あなたの御心を思い、あなたの御言葉にますます聴き従って生きる私たちとならせてください。
  神さま。国と国のケンカを戦争というそうです。国と国も、大人同士も、夫婦も親子も、子供同士でも、外国の人とも誰とでも、ケンカをしないでいさせてください。「他の人からやっつけられないように、先に自分から相手をやっつけるんだ。誰かからいじめられないように、自分から誰かをいじめたり、そのいじめの仲間入りをしちゃおう」という私たち自身の言い訳や、なま狡い考えを乗り越えさせてください。自分たちさえよければそれでいいんだという自分勝手な理屈を、私たちにも自分の心の中から払い除けさせてください。シリアで恐ろしい戦争が起こっています。神さま、どうか助けてください。あなたの力強い御手を今こそ差し伸べてください。シリア、チュニジア、ソマリアだけではなく、アフリカのあちこちで、今なお戦争や内乱やきびしい争いの火種がくすぶりつづけています 恐ろしい戦場から命懸けで逃げてきた人たちが新しい土地で暖かく迎え入れられ、家族の平和をもう一度取り戻すことができますように。世界中のみんなが、そのかわいそうな人々を迎え入れ、助ける、心やさしさを持つことができますように。私たちの国も、彼らのための手助けを後回しにしないで、自分たちのことと同じだけ大切に真剣に、何をすべきか何ができるかと立ち止まって、よくよく考えることができますように。私たちの国の中でも、大人も子供も、強い豊かなものが弱い貧しいものをいじめたり、のけものにしたり、困らせたり苦しめたりしませんように。ですから神さま。まず、この私たちに勇気と優しい心を与えてください。戦争やケンカをはじめようとする人たちに、私たちも、大きな声で「やめて」と言うことができますように。やめて、やめて、やめてと何度でも何度でもずっと諦めないで、その人たちに、そして自分自身の心にも立ち向かう勇気と辛抱強さを与えてください。困っている人や、貧乏な人や、心や体を弱らせている人たちや、心細く暮らす人たちに、相手が日本人でも外国の人たちでも、同じ真心をもって手を差し伸べる私たちにならせてください。
 主イエスのお名前によって祈ります。アーメン。


10/11「当てにならない私自身」マタイ5:33-37

                             みことば/2015,10,11(主日礼拝)  28
◎礼拝説教 マタイ福音書 5:33-37        日本キリスト教会 上田教会
『当てにならない私自身』(礼拝後の改稿版)

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

5:33 また昔の人々に『いつわり誓うな、誓ったことは、すべて主に対して果せ』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。34 しかし、わたしはあなたがたに言う。いっさい誓ってはならない。天をさして誓うな。そこは神の御座であるから。35 また地をさして誓うな。そこは神の足台であるから。またエルサレムをさして誓うな。それは『大王の都』であるから。36 また、自分の頭をさして誓うな。あなたは髪の毛一すじさえ、白くも黒くもすることができない。37 あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである。                               (マタイ福音書 5:33-37)


まず33-36節。シナイ山上で神さまから授けられた十の戒めの中の第九戒「あなたは隣人について偽証してはならない」(出エジプト記20:16)についてです。しかも、この戒めも『神さまを愛し、隣人を愛する』という大きな目標に私たちを向けさせるための戒めです。そのことを心によく留めながら、主イエスの発言を大切に味わいましょう。「いつわり誓うな。誓ったことはすべて主に対して果たせ」と昔の人々から聞いて、習い覚えてきた。確かに、そこには大きな道理があります。私たちの主なる神さまは、ただ偽り誓うことを禁ずるだけではなく、軽々しい誓いや約束をして神の聖なる御名をうっかり軽んじてしまうことを戒めます。「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。主は、み名をみだりに唱えるものを罰しないではおかないであろう」(出エジプト記20:7)とはこのことです。この国でも、自分が話したことは本当のことだと相手に信じてもらおうとして色々なことを言います。「私の目を見てごらんなさい。この私が嘘をつくような人間に見えますか」とか、「もし間違っていたら、逆立ちして100メートル歩いてみせる」だの「嘘ついたら針千本飲む」だの「三遍回ってワンと言う」などと。この時代にも、神さまの名前を持ち出して誓うのは畏れ多いし、厳しい罰を受けても困るので、「天を指して。地を指して。エルサレムを指して。自分の頭を指して」など主の御名の代用品を用いて、ほどほどの手軽な誓いをしていたらしいのです。けれど主イエスはさらに二歩三歩と踏み込んで、私たちに対する神さまの御心へと私たちを向かわせます。「しかし、わたしはあなたがたに言う。いっさい誓ってはならない。天をさして誓うな。そこは神の御座であるから。また地をさして誓うな。そこは神の足台であるから。またエルサレムをさして誓うな。それは『大王の都』であるから。また、自分の頭をさして誓うな。あなたは髪の毛一すじさえ、白くも黒くもすることができない」。確かにそのとおりです。天は王である神さまがお座りになるイス、地はその足をお載せする足台(イザヤ60:1)であり、エルサレムの都の神聖さも輝きもただ神ご自身のお働きと神聖さにかかっていました。たとえ自分自身の頭や人生を指して誓おうとしても、その人生さえ神さまの憐れみと慈しみと忍耐深さの中で持ち運ばれてきたものでした。自分自身の髪の毛一筋さえ、白くも黒くもできない私たちです。その通りです。自分自身の行動や発言の確かさを保証するために用いてよいものなど、何一つ持ち合わせていません。当てにならない私であり、ごくごく不安定で危うい日々を綱渡りのように生きている私どもです。
  しかも私たちクリスチャンは、わざわざ、その自分自身の危うさや不確かさを突きつけられます。そのことを、自分自身でよくよく弁えているようにと。『自分を信じて自分自身を頼りとして生きる』のではなく、『神さまをこそ信じ、神さまを頼みの綱として、これまでとは違う新しい人生を新しく生きはじめる』ためにです。私たちの先例として、主イエスの弟子たちもそのような取り扱いを受けました。田舎の湖のほとりで、主イエスから招かれたとき彼らは、舟を捨て、網を捨て、頼りになる心強い父を後に残して、つまり裸一貫で主イエスに従い始めました。アブラハム、サラ夫婦の場合も同様でした。「国を出て、親族に別れ、父の家を離れて」(マタイ4:18-22,創世記12:1-3)。故郷の国、親族、父の家には当てになるものがいっぱいありました。そこでは様々な人やモノが彼らを支えました。弟子たちの「舟、網、父」もまた当てになるものであり、支えや頼みの綱、生活の心強い土台でした。それらを後に残して手ぶらで裸一貫で出ていかなければなりませんでした。心細かったでしょう。明日から、誰を当てにし、何を頼みの綱や支えとして生きていけばいいでしょう。主イエスを、です。それが主イエスに従って生きてゆく、という現実です。これが、あの彼らにも、この私共一人一人にも一番難しいでしょう。「自分自身も舟も網も父の家も親族もあんまり当てにできない」と知り、「じゃあ、主イエスをこそ当てにして、頼みの綱として生きていこう」と腹をくくるための訓練の旅路が始まりました。その仕上げの第一弾は、十字架前夜のあの最後の食事の席です。「皆だれもが、私につまずく」と主イエスから予告され、弟子たちは口々に言い張ります。「たとえ皆の者があなたにつまずいても、私は決してつまずきません。あなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは決して申しません」(マタイ26:33-35)などと。偽って誓おうなどとは夢にも思っていなかったし、自分にはできると自信もありました。自信。神さまを信じるのではなく何を信じるのでもなく、自分を信じると書いて「自信」。自分を信じる人は、自分の判断と考えに従って、つまり自分の腹の思いに従って生きてゆくでしょう。それではまだまだ、主を信じることや主に従ってゆくこととはだいぶん違います。その数時間後に、「あなたが何を言っているのか分からない、何の関係もない」「主イエスなど知らない」「その人のことは何も知らない」と言って、激しく誓いはじめました。そのとき 鶏が鳴いたのです(マタイ26:69-75)。少し前には、「あなたを知らないなどとは決して申しません」と言って皆口々に競って誓い、そのすぐあとには「分からない。イエスなど知らない、知らない」と偽って誓いました。鶏が鳴いて、「知らないと三度言うだろう」と予告されていたことをはっきりと思い出しました。外に出て、激しく泣きました。私たちのためにも鶏が鳴き、「当てにならない私自身だ」とつくづく思い知らされる時が、このあとも何度も何度も来るでしょう。でしのになるための仕上げの第二弾は、殺され、葬られ、三日目に復活なさった主イエスと再会したときです。ペテロは「私を愛するか。愛するか。愛するか」と三度つづけて主イエスから詰問され、ひどく心を痛めました。ペトロはなおも、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」 (ヨハネ21:15-17)などとと、虚しく頑固に『自分の正しさ、誠実さ。当てになる確かな自分だ』と言い張りつづけます。せっかくの挫折体験の教育がまだまだ実を結びません。では、あなた自身はどう答えることができるでしょう。自分を信じたり、頼みの綱とすることをきれいさっぱり止めて、主イエスをこそ信じたり頼みの綱とできればいいのに。せっかく、あなたも私もクリスチャンにしていただいたんですから。せっかくキリストの体の肢々の一つとしていただいたんですから。ねえ
  この後すぐに歌う讃美歌461番は子供の歌ですけれど、「♪主われを愛す。主は強ければ、われ弱くとも恐れはあらず。わが主イエス、わが主イエス、わが主イエス、われを愛す」と歌っています。この歌の勘所は、「主われを愛す」と歌うばかりで、「われ、主を愛す」とは一言も言い張ってはいないという点です。「主は十分に強くあってくださるので、それで恐れはない」とキッパリと、主イエスをこそ当てにし、頼みの綱とし、恐れや心細さを拭い去っていただいている点です。素敵ですね。「まあ、羨ましいわ。私も、そんなふうになれたら幸せなのに」とあなたも思うでしょうか? もし思うのなら、願い求めればいい。願い求めるならば、その願いはきっと必ずかなえられます。(少なくとも、この説教壇の上では)ずっと本当のことばかり言ってきましたが、本当のことすよ。
 37節。けれど、あなたが語るべき言葉は、「はい、そのとおりです」「はい、そうです」「いいえ違います、違います」だけで十分。主イエスはここで今や、どうやって人と付き合っていくことができるかという十分な解決方法を授けておられます。正直であり、誠実であること。あまり誠実でもなく正直でもない人々の間では、必死に重々しく誓ったり、約束したり、頑固に言い張ったり、細々した契約書を取り交わさねばならないかも知れません。騙したり騙されたりしないためには。けれど主イエスを信じて生きる私たちは、そうでなくてもよく、もっともっと素朴で単純であって良いと勧められています。「はい、その通り」「いいえ違います」と、ただそれだけ答えれば十分だと。それこそが、誤りを正し、適切な取り扱いをするための最善のやり方であると。ああ、だからこそ最後の食事の席で挫折とつまずきを予告されて、「たとえ皆の者があなたにつまずいても、私は決してつまずきません。あなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは決して申しません」(マタイ26:33-35)などと弟子たちがと口々に言い張りはじめたとき、あの彼らは 自分の分際を越えて正しさを主張し、罪と悪に引き込まれようとしていたのでした。復活した主イエスから「私を愛するか。愛するか、愛するか」(ヨハネ21:15-19)と三度も重ねて問われたときもまた、ペテロは「主など知らない」と三度も主との関係を否定したことを思い起こして心をひどく痛めました。むしろ、だからその時こそ、「はい、そのとおりです」「はい、そうです」「いいえ違います、違います」だけで十分でした。それ以上に出ることは、ただの思い上がりであり、傲慢でした。
むしろ私たちは、今日こそ、生きて働いておられる神の御もとへと立ち返りましょう。なぜ、誓ってはならないと告げられたのか。「この私が ~をちゃんと成し遂げますから」と、なぜ言い張ってはならないのか。主なる神さまこそが私たちのための救いを約束し、誓い、誓った約束をご自身が成し遂げてくださるからです。例えば、救いの約束のそのしるしを見せてほしいとアブラハムが要求したとき、二つに引き裂いたささげものの間を通ったのは神さまだけでした。神は、アブラハムに裂いたささげものの間を通るようにとは命じませんでした。約束を破ったら、二つに裂かれたささげもののようにされても構わないという誓いだったからです。神ご自身だけが裂かれたものの間を通った(創世記15:7-21。また例えば、ヤコブに対して救いを約束なさった時にも、「私はあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、決してあなたを見捨てず、あなたに語ったことを私は行う」と主なる神は誓ってくださった。「私は ~する。必ず行う。きっと約束を私は果たす」と仰るばかりで、「だからあなたも ~せよ」などとは一言も仰らずに(創世記28:13-15だからこそ、私たちが語るべき言葉は、「はい、そのとおりです」「はい、そうです」「いいえ違います、違います」だけで十分です。神さまの御心への信頼、信じて聞き従うこと。その信仰もまた神様こそが贈り与え、成長させ、成し遂げてくださる。当てにならない私であり、あなたであると知って、もし、神さまの御前に膝を屈めることができるなら、そのときこそ、神さまをこそ当てにし、神をこそ頼みの綱として、私たちもまた生きることをし始めるでしょう。

【礼拝後の改稿】語り終えた日曜の夕方、ぜひとも語る必要があったのに言いそびれていた一点に気づきました。以下――

  「一切、誓ってはならない」と主イエスから命じられています。けれど主イエスの福音全体からは、「しかも 誓ってもいい」と言い添えねばなりません。例えば結婚式での新郎・新婦の誓い、例えば牧師・長老・執事など主に仕える働き人の任職式での誓約。そして、もちろん『洗礼を受けるときの私たちクリスチャンの誓い』。それらすべてに共通する、はっきりした一つの本質があります。
 神さまの御前に立って生きる者らの、神に向かう誓いだからです。「夫(妻)としての道を尽くし、常にこの人を愛し、これを敬い、これを慰め、これを助けて変わることなく、その健やかなときも、その病むときも、この人に対して堅く節操を守ることを誓いますか」と新郎・新婦らは誓います。「あなたがこの職につくのは、教会のかしらであり、また大牧者である主イエス・キリストの召命によるものと確信しますか。その恵みによって召された召しにかなって歩もうと決意しますか」などと問われ、主に仕える働き人らは誓います。「あなたは今後、神の民とされ、主の聖餐にあずかる者とされますが、これを重んじ、喜び、忠実に守ることを誓約しますか。主の日の礼拝を重んじ、主の体の肢々としてふさわしく生活することを誓約しますか」と、洗礼を受けてクリスチャンになろうとする決断した者たちは誓います。けれど、それらすべての中身と生命は、実は、『誓約』という形をとった『神さまへの切なる願い』です。『誓約』でありつつ、それを豊かに超え出て『神さまへと向かう祈り』なのです。その証拠に、誓約の直後につづけて、当人らも含めてそこに集った者ら一同はこう祈ります;「めぐみ深い父よ、感謝をいたします。どうか彼らを祝福し、聖霊をその上に豊かに注いでください。どうか、主の体なる教会の一員として、つねに、頭なるキリストのうちに留まり、キリストに向かって成長することをゆるされ、み国のための善き戦いをつづけ、終わりの日に至るまで、主とその教会に対して愛を保ち、感謝の奉仕をささげることができるようにしてください。主イエスのお名前によって祈ります。アーメン」。
  「一切、誓ってはならない」。けれどもし誓う場合には、それが『神さまへと向かう願い。祈り』であることを決して忘れてはならない。主である神こそが私共のためにも誓い、その憐れみの誓いをご自身の御手と真実をもって成し遂げてくださる。以上です。
 祈り求めましょう。








2015年10月7日水曜日

10/4こども説教「神さまを愛すること。隣人を愛すること」マタイ22:34-40

10/4 こども説教 マタイ22:34-40
 『神さまを愛すること。隣人を愛すること』


22:35 そして彼らの中のひとりの律法学者が、イエスをためそうとして質問した、36 「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。37 イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。38 これがいちばん大切な、第一のいましめである。39 第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。40 これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。(マタイ22:35-40

 パリサイ人たちが集まってきて、その中の一人の律法学者が主イエスをためそうとして質問しました、「先生、律法の中で、どの戒めがいちばん大切なのですか」。試そうとして困らせようとしてわざと質問したということはある。でも、それだけじゃなくて、パリサイ人たちも律法の専門家でさえ、よく分からなくなっていたのかも知れません。「律法の中で、どの戒めがいちばん大切なのですか」とその人は質問しました。モーセがシナイ山の上で神さまから律法を与えられたとき、それは十個の約束事でした。それから1500年ほどの長い長い時間がすぎてゆくうちに、神さまからの律法はとてもたくさんの約束事やルールや決まりごとになってしまって、本当にはどれが一番大切で、何のためにその細々したルールや約束事を守っているのかさっぱり分からなくなってしまいました。37-40節を見てください。「イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。一番は『神さまを愛すること』。二番目には『自分を愛するように隣人を愛すること』。ここで一つ難しいのは、39節の「第二もこれと同様である」。第一の「神を愛すること」とだいたい同じくらいに、第二も大切と言っているようです。とても大切だけど、まったく同じ大切さじゃないということです。もし本当に同じなら、「第一は」「そして第二には」などとは言いません。第一、第二という順番があることを覚えておきましょう。末尾40節に、「これらの二つの戒めに律法全体と預言者とがかかっている」とあります。旧約聖書のことを、当時は一般に「律法と預言者」と呼び習わしていました。「神を愛し、隣人を愛する」という戒めに、旧約聖書ばかりでなく聖書66巻全体も、キリスト教会が立っていることも、私たちクリスチャン一人一人が生きて死ぬ意味も目的もかかっています。
その上で、第一の戒め「神さまを愛すること」と第二の戒め「自分を愛するように、それに負けず劣らず隣人を精一杯に愛し、大切に扱いなさい」とは深く結びついていて、ひと組だと言えます。隣人を愛し尊ぶことを抜きにして、それをすっかり棚上げして、「神さまを愛し尊ぶこと」などあり得なかったのです。なぜでしょう。どうしてかと言うと、神さまは、あなたを愛して大事に思っていてくださいますが、それと同じに、あなた以外の人間や動物や鳥や魚や生き物ぜんぶのことも負けず劣らずに愛しておられるからです。神さまは、あなたが嬉しく安心して毎日を暮らすことを願っておられます。本当です。そしてまた、あなた以外のすべての生き物が嬉しく安心して毎日を暮らすことを心から願っておられます。このことは、ほんの片時も忘れてはなりません。すると、どうなりますか。もし、あなたが他の誰かに意地悪したり、ワガママ勝手に振舞って誰かを困らせたり、泣かせたり、苦しめるとき、神さまはとても心を痛めたり、悲しんだり、カンカンに怒ったりもなさるのです。私たちがしたりしなかったり、口に出して言ったり言わなかったりする一つ一つのことで、つまり私たちが私たちの隣人を、家族や友だちや友だちじゃない人や、親しい人やあまりよく知らない人たちを大事に扱うか、あるいは粗末に乱暴に薄情に扱うかによって、その一つ一つによって、神さまが喜んだり悲しんだりなさっています。本当のことですよ。
(*)「第一の掟。第二の掟」;遠い昔、モーセがシナイ山の上で神さまから与えられた十の戒め(出エジプト記 20:1-17,申命記 5:6-21)。二枚の石の板に刻まれた十個の戒めを、主イエスはこのように『神を愛すること。隣人を愛すること』と二つに要約なさいました。


 ◎とりなしの祈り

イエス・キリストの父なる神さま、だからこそ確かに私たちの本当の父になってくださり、主イエスをとおして私たちをあなたの本当の子供たちとして迎え入れ、養い、支え、守りとおしてくださる神さま。心から感謝をいたします。あなたを信じる信仰をますます私たちに与えてください。あなたの御心を思い、あなたの御言葉にますます聴き従って生きる私たちとならせてください。
  神さま。国と国のケンカを戦争というそうです。国と国も、大人同士も、夫婦も親子も、子供同士でも、外国の人とも誰とでも、ケンカをしないでいさせてください。「他の人からやっつけられないように、先に自分から相手をやっつけるんだ。誰かからいじめられないように、自分から誰かをいじめたり、そのいじめの仲間入りをしちゃおう」という私たち自身の言い訳や、なま狡い考えを乗り越えさせてください。自分たちさえよければそれでいいんだという自分勝手な理屈を、私たちにも自分の心の中から払い除けさせてください。神さま、この国の総理大臣や政府与党とすべての政治家に、そして親であり大人でもある私たちにも、何か良いことか悪いことかを見極める適切な判断力と、弁えと慎みとを与えてください。神さま。自衛隊員が誰一人も戦争とお金儲けの道具にされず、戦争が起こっている危ない場所に出かけていって人を殺したり殺されたりもせず、彼らもその家族も安心して安全に暮らせるようにさせてください。「職業訓練生」「研修生」と呼ばれながら、アジア諸国から働きにきている貧しい隣人たちが粗末に不当に扱われつづけています。彼らが権利と人権を奪い取られないように、どうか守ってください。外国から出稼ぎに来ている労働者とその家族の生活をお支えください。福祉施設や介護施設で働く人たちに、そこを利用する人たちの人権と人格を重んじる健全な判断力と公正さを増し加えてください。慈しみ深さと友愛の心を持ち続けさせてください。ですから神さま。まず、この私たちに勇気と優しい心を与えてください。戦争やケンカをはじめようとする人たちに、私たちも、大きな声で「やめて」と言うことができますように。やめて、やめて、やめてと何度でも何度でもずっと諦めないで、その人たちに、そして自分自身の心にも立ち向かう勇気と辛抱強さを与えてください。困っている人や、貧乏な人や、心や体を弱らせている人たちや、心細く暮らす人たちに、相手が日本人でも外国の人たちでも、同じ真心をもって手を差し伸べる私たちにならせてください。
 主イエスのお名前によって祈ります。アーメン。



10/4「夫婦であること。離婚問題」マタイ19:1-8,コリント(1)7:12-16

                                         みことば/2015,10,4(主日礼拝)  27
◎礼拝説教 マタイ福音書 19:1-8,コリント手紙(1) 7:12-16   日本キリスト教会 上田教会
『夫婦であること。離婚問題』   

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

19:3 さてパリサイ人たちが近づいてきて、イエスを試みようとして言った、「何かの理由で、夫がその妻を出すのは、さしつかえないでしょうか」。4 イエスは答えて言われた、「あなたがたはまだ読んだことがないのか。『創造者は初めから人を男と女とに造られ、5 そして言われた、それゆえに、人は父母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである』。6 彼らはもはや、ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない」。7 彼らはイエスに言った、「それでは、なぜモーセは、妻を出す場合には離縁状を渡せ、と定めたのですか」。8 イエスが言われた、「モーセはあなたがたの心が、かたくななので、妻を出すことを許したのだが、初めからそうではなかった。       (マタイ福音書 19:3-8)


 今日は結婚問題の全体像と、また律法と福音についてお話しします。結婚問題については、創世記2章とこの二箇所がもっとも大切です。まずマタイ福音書19:3-8。パリサイ人たちが近づいてきて、主イエスを試みようとして話しかけてきました。「何かの理由で、夫がその妻と離婚してもいいでしょうか。あるいは、何か不都合がありますか」。主イエスは創世記2章を引用して、こう答えました。「あなたがたはまだ読んだことがないのか。『創造者は初めから人を男と女とに造られ、そして言われた、それゆえに、人は父母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである』。彼らはもはや、ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない」。彼らはイエスに言った、「それでは、なぜモーセは、妻を出す場合には離縁状を渡せ、と定めたのですか。つまり、離縁状さえ出せば離婚しても構わないという意味でしょう。ね?」。イエスが言われた、「モーセはあなたがたの心が、かたくななので、妻を出すことを許したのだが、初めからそうではなかった」。要点は、互いに相反する二重の真実です;「結婚は、なにしろ神さまがその2人を結び合わせてくださった。だから離婚してはいけない。それは罪を犯すことになる。けれどその罪深さも許される。なぜなら、あなたも私も誰もが皆あまりに心がかたくなで頑固なので」。以上です。心が痛みます。例えば一人の伝道者が妻と離婚した場合、その教会を辞職しなければなりませんか。いいえ、必ずしもそうではありません。それは辞職の理由づけには出来ません。聖書のどこにもそんなことは一言も書いてありません。もし、その伝道者がその教会を去らねばならなかったのだとしたら、伝道者とその群れの人々との互いの信頼関係が崩れ去ったからです。伝道者だけではなく、長老・執事など何かの役職についている者たちだけではなく、洗礼を受けている私たちすべてのクリスチャンにとって 聴いて信じてきた信仰の内容と現実の普段の自分自身の暮らしぶりとは、大いに関係があります。もし何の関係もないなら、その信仰は虚しく、ただ口先だけの中身のない信仰です。そうであるなら、その伝道者やその一人のクリスチャンの口から出る美しく格調高い言葉や態度を、いったい誰が信頼できるでしょう。できるはずがありません。また例えば教会員の子供たちや他の人々が、皆に祝福されて教会で結婚式をあげたとします。しばらくして離婚してしまった場合、その彼らのほとんどはその教会から遠ざかります。結婚生活に失敗してしまった自分自身を恥じるからですし、神さまにも世間様にもおテントウさまにも顔向けできないと感じるからです。それは、信仰の道理を十分には伝えられなかったせいですし、おもには教育をする教会と伝道者の責任です。まったく申し訳ないことです。それで、遅ればせながら、こういうことを語りつづけています。結婚生活に失敗して離婚してしまったから恥ずかしいし顔向けできないと、どこに書いてあるんですか。聖書には一言も書いてありません。けれど私たち人間の頭の中には書いてあり、世間でそう習い覚えてきたらしいのです。ぼくは実は、結婚に一度失敗してやがて再婚した、バツイチの離婚経験者です。自慢することではないが隠すことでもない。公けの場でもすでに白状していますし(日本FEBC、ラジオ番組『愚直な道。マルコ福音書』第2回,第25回参照)、妻にも息子たちも打ち明けてあります。それに対しても聖書自身は、神さまの同じ一つの御心を語ります;「結婚は、なにしろ神さまがその2人を結び合わせてくださった。だから離婚してはいけない。それは罪を犯すことになる。けれどその罪深さも許される。なぜなら、あなたも私も誰もが皆あまりに心がかたくなで頑固なので」。これだけは初めにはっきりと断言しておきます。結婚に失敗して別れてしまった元夫も元妻も、その子供たちもクリスチャンであろうがそうでなくたって、世間様にも神さまに対しても、どこの誰に対してもそれを恥じる必要はまったくありません。本当ですよ。だって誰もが皆、心があまりに頑固なので。その大失敗をもゆるされている私たちです。自慢することではないが、恥ずかしがったり、取り繕って隠すことでもない。ぼくは、そう思います。
 では質問。クリスチャンという人種は誠実で純粋なんですか。あなた自身は? この私は? 右の頬を打たれたら、さあどうぞどうぞと左の頬を(マタイ5:39)ニコニコして差し出す? そんなクリスチャン、ぼくは1人も見たことがありません。「正しい人は1人もいない。誠実で純粋で素敵な人も1人もいない」って聖書にははっきり書いてあったじゃないですか。「神おひとりのほかに誠実で純粋で素敵な人間などどこにもいない」って救い主ご自身もはっきりと仰っていたじゃないですか(ローマ手紙3:9-,マルコ福音書10:17,創世記8:21,申命記7:6-,9:4-7参照)。騙されてはいけません。聖書をそっちのけにして、好き勝手なたわごとを並べ立ててはいけません。人に見せようとして、格調高く美しく感動的にご立派そうに祈ってはいけません。そうでなければ、あの律法学者やパリサイ派の人たちのように、私たちも偽善者と呼ばれて、人一倍きびしい裁きを受けるでしょう。うわべを白く塗り固めた虚しい墓穴に成り下がってしまうでしょう(マタイ223:1-参照)。誰1人の例外もなく、私たちは決して聖人君子ではありません。しかもなお、ここがとても難しいところですが「いいんだ、いいんだ。罪深くて弱くて身勝手なあなただけれど、そのままで愛している。だから、死ぬまでず~っと罪深くて弱くて身勝手なままでいいんだからね」というわけでもない。しかも神からの律法は神の御心であり、福音そのものでもあります。なぜなら、もし私たちが「神を愛し、隣人を自分自身のように愛し、尊ぶこと」ができるようになるなら、そのように生きて死ぬこともできるならば、それにまさる幸いと祝福はないからです。けれどなお、その律法の要求はあまりに高くて、もし本気で聴くなら、誰独りもそれを守れないはずで、律法こそが私たちの罪深さを逃れようもなく突きつけました (10:17-31,ルカ18:9-14,ヨハネ手紙(1)1:8-10)『クリスチャン、キリストの教会。罪人の集団にすぎない』;それを、よくよく分かっている必要があります。罪をゆるされた罪人として私たちは生きるのですし、ゆるされた後でもなお罪深いままです。けれどどうしたわけか、2種類の両極端の、とんでもない誤解がキリストの福音を歪ませつづけています。1つは、「いいんだいいんだ罪深いままで」と罪の中になお留まりつづけようとする誤解。もう1つは、素敵な理想像を教会とクリスチャンに無理矢理にあてはめようとする誤解。しかも両方共が、聖書と神さまご自身をそっちのけにしています。
  もう1つのこと。クリスチャンと、クリスチャンではない夫や妻、子供たちとの関わりについても話しましょう。自分の息子や娘がクリスチャンではない相手と結婚すると言い出すとき、何と答えることができるでしょう? 「ダメ」と答える。あるいは、「いいよいいよ、あなたの好きにしなさい」と。申命記7章と、コリント手紙(1)7:12-16とが、互いに相反する正反対の真理を私たちに告げています。1つの真理は、「それはかなり危ない。その結婚相手に引っ張られて、息子や娘の心もあり方も神さまから離れ、神さまを忘れ果てて、神さまと何の関わりもない人間として生きることになる、かも知れない。危ない罠が待ち構えている」と。これが申命記7章の警告。もう1つの正反対の真理は、「いいやチャンスだ。それによって、神さまの恵みと祝福とがその連れ合いや子供たちにまで及ぶ、かも知れない」。コリント手紙(1)7:12を開きましょう。12-14節までと、15-16節と大きく2つの部分から成り立っています。まず14節まで;そのほかの人々に言う。これを言うのは、主ではなく、わたしである。ある兄弟に不信者の妻があり、そして共にいることを喜んでいる場合には、離婚してはいけない。また、ある婦人の夫が不信者であり、そして共にいることを喜んでいる場合には、離婚してはいけない。なぜなら、不信者の夫は妻によってきよめられており、また、不信者の妻も夫によってきよめられているからである。もしそうでなければ、あなたがたの子は汚れていることになるが、実際はきよいではないか」。『清められている。きよい』。新共同訳では『聖なる者』と表記していました;「きよい。きよめられている」。あるいは聖なる日とか、聖なる場所、聖なる人、聖なる書物、聖なる道具など。神さま以外の人間や時や場所や道具について『聖なる~』と言い表すとき、それ自体が清らかで汚れがなくて純粋でなどという意味はそこに含まれません。ただ、神さまのものとされて、神さまの御用のために用いられる、という意味です。またクリスチャンが『聖なる者。聖徒たち』などとも呼ばれますが、同じことで、聖人君子みたいな、天使みたいななどとは決して思い浮かべてはいけません。そんな人は1人もいません(ローマ手紙3:9-参照)。ここでは、少し広く、『神さまの恵みの領域に据え置かれている』という意味で聖なる者と語られます。もし仮に、あなたの連れ合いも子供たちも孫も神さまに見向きもしなくたって、「礼拝にいっしょに行ってみない?」と誘っても、プイと横を向くばかりだとしても、なおその人々は神さまの恵みとゆるしの領域にすでに据え置かれている。どうして? なぜなら、そこに信者である1人の人がいるので。神さまを信じて生きる1人のあなたが その人たちの傍らで暮らしているので、だからと。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16:31)。牢獄の看守が聞いた約束を私たちも聞きました。私たちも信じています。これが、私たちの責任であり、私たちのための祝福であり、たしかな希望でありつづけます。けれども15-16節。直ちにつづけて、まったく裏腹な真実が語られます。「しかし、もし不信者の方が離れて行くのなら、離れるままにしておくがよい。兄弟も姉妹も、こうした場合には、束縛されてはいない。神は、あなたがたを平和に暮させるために、召されたのである。なぜなら、妻よ、あなたが夫を救いうるかどうか、どうしてわかるか。また、夫よ、あなたも妻を救いうるかどうか、どうしてわかるか」。妻よ、あなたは夫を救えるかどうか、どうして分かるのか。夫よ、あなたは妻を救えるかどうか、どうして分かるのか。どんな気持ちがしますか。あなたには、これが薄情なように、冷淡に突き放しているように聞こえますか? どうして分かるのか、分かるはずがない。その通り。互いに、あまりに頑固な心を抱えている私たちです。だから、どうしてもダメなとき、どうしても心を通わせることができなくなって、ただただ嘆いたり悲しんだり、相手を傷つけたり傷つけられたりするばかりとなるとき、あなたは心安く手離すことがゆるされています。本当ですよ。そのことも、ちゃんと覚えていてください。ですから、この箇所とマタイ福音書19章とはまるで双子の兄弟のようです。私たち人間のあまりに頑固な心と性根を見据えて、同じ1つのゆるしが語られています。このコリント手紙(1)7章の12-14節までだけじゃなく、15-16節も合わせて語られて、それでようやく、かろうじて律法と福音のバランスが保たれています。福音書で、「心がかたくなで、あまりに頑固なので」と語られたのとまったく同じに(創世記8:24参照)

罪をゆるす神さまです。根深く抱え持った頑固な心も性分も、日毎にゆるされつづけて生きるほかない私たちです。しかもなお、罪のゆるしは罪からの解放です。「いいよいいいよ。どうでもいいよ」と放ったらかしにされることではありません。また正反対に、ただうわべばかりを取り繕いつづけて後から「偽善者よ」ときびしく叱られることでもありません。1日また1日と、古い罪の自分と死に別れて、身勝手さも了見の狭さもズルさも臆病さも葬り去っていただいて、神さまに向かって、神さまの御前で新しい生命に生きる私たちです。「神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである(コリント手紙(2)5:18-21していただいたように、私たちもします。多く愛されてきたので、私たちも多く愛したいと願っています。ゆるしがたいところをなおゆるされ続けてきましたから、だから私たちもゆるします。罪の責任を問うことなく、罪の責任を問うことなくと、朝も昼も晩も口ずさみながら。神さまにも人様に対しても申し訳なく思い、たびたび心に痛みを覚えながら。喜んだり悲しんだりもしながら。祈りましょう。


(*)コリント手紙(1)7章の「これを言うのは主ではなく私である」(12節)は大問題発言であり、同時に、聖書の読み方の根源をはっきりと示唆する。むしろ、この7章全体をとおして主の弟子パウロは、「語っているのは主なのか、あるいは私の個人的な考えに過ぎないのか」と揺らぎ続け、判断を迷いつづける。だから混乱しながら、「私ではなく、主が命令している」「そうではなく私が私の個人的な意見を言っているに過ぎない」「私としては~」「主の命令を受けているのではなく、主の信任を受けている者として(私の)意見を述べよう」(6,10,12,17,25-26,29,40)などと。ほとんど破綻しかけながら、神様によって用いられた報告者パウロは揺らぎ続け、迷いつづけます。生身の人間の口と脳ミソを用いながらも、それをピョンと飛び越えて『聖書は神の言葉である』という実質は、このとおりです。語っているその時点では、当の本人には、それが神の御心を適切に言い表しているのか、あるいは、ただ自分の個人的意見を好き勝手に述べているのかがはっきりとは分からない。けれど、後から、後の時代の他の信仰者からはよく分かる。「教会会議で聖書正典を選んだ」とは、そういう状況です。「パウロの口と脳ミソを用いて、けれども神ご自身が判断し、神ご自身が語った」と当時の教会会議メンバーは判断しました。神の霊が、それを教会会議メンバーにさせたのです。「これを言うのは主ではなく私である」(12節)とその時のパウロ自身は慎みながら、自分の分際を弁えながら怖れながら、判断しました。けれど、その、極めて人間的な判断を遥かに、軽々と飛び越えて、神ご自身が神の御心を語っています。ビックリです。

     もう一つ、「もし情欲を自制できないなら、じゃあ仕方ないから結婚してもいい」とか、「私のように独身でいるほうが、本当は好ましい」などと語るとき、彼はいつも遠慮がちに慎み深く語らざるを得ない。なぜか? 聖書をよくよく熟読し、聖書自身から教えられてきた信仰者だからです。まるで創世記2章の後半部分を一度も読んだことのない者のように、「結婚なんて」などと偉そうに軽々しく語れるはずがない。彼の個人的な洞察や判断よりも、創世記 2:15-25「神が結び合わせてくださったものを、人は引き離してはならない」に示された神の御心のほうが千倍も万倍も真実であると、彼自身がよくよく知っているからです。その決定的な真実さを痛感しながら、だからこそパウロは別の相反する視点を、慎みながら、恐る恐る、小声で 述べます。それでもなお、大問題発言の連続であるコリント手紙(1) 7章もまた、神の御心をあらわし、神の言葉そのものであるとして、『聖書正典』の中に選ばれました。神ご自身が選びました。マタイ福音書19章と同じく、互いに相反する二つの真理をもって、このように神さまが私たちに語りかけます。この、コリント手紙(1)7章の12-14節と15-16節も、まったく同様です。     (金田聖治)

2015年9月28日月曜日

9/27こども説教「だれが1番えらいか病」マタイ20:20-28

 9/27 こども説教 マタイ福音書 20:20-28            
 『だれが1番えらいか病』        牧師 かねだせいじ


20:25 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者たちはその民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。26 あなたがたの間ではそうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、27 あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。28 それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである」。
(マタイ福音書 20:25-28)

  (* この箇所の最も大きな課題は、主イエスの発言や思いと弟子たちの思いとがまったく噛み合っていない点にある。17-19節で主イエスは3度目の受難予告をし、末尾の28節でも「生命を与えるために自分は来た」と念を押す。けれど弟子たちは聞き流して、自分たちの栄光や権威や支配力にばかり執着しつづける。弟子たちは『権威者のイス』を求め、主イエスは『身を屈めて仕える者』であれと促す。主のご命令とはまったく正反対な在り方を渇望しつづけ、しかも主イエスの受難のときが刻々と迫る。すべてのキリスト教会と個々のクリスチャンの今日的・「崖っぷち」的な課題でもある。「何が望みか」と主は、この私たちにも問いかける。では私たち自身は、何と答えようか?)

 「そのとき」(20)と始まります。え、どのとき? 主イエスが3度目の受難と復活の予告をなさった、まさに「そのとき、2人の弟子とその母親が主イエスの前に進み出る。「何が望みか」と主から問われ、母親が代表してこう答えました。「王さまのイスにお座りになるとき、この2人の息子の1人をあなたの右に、もう1人は左に座れると仰ってください」。この申し出は、弟子たちの中に大きな波風を呼び起こします。皆、カンカンに腹を立て、大騒ぎ。主イエスの言葉に耳を傾けましょう。25-28節。「そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。『あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子(=主イエスご自身のこと)が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように』」。「あなたがたの中ではそうであってはならない」。主イエスは誰に向かって仰っているでしょう。主イエスの弟子たちに。すべてのキリストの教会に。そして、ここにいるこの私たちに対してです。わざわざそう仰るのは、そうなりやすいからであり、現にしばしば教会の中で、神を信じるクリスチャン同士の間で、支配したりされたり、権力を振ったり振るわれたり、振り回したり回されたりし合っているからです。せっかく受け取った恵みが、その度毎に台無しにされるからです。
『だれが1番えらいだろう』という病気をご存知でしょうか。ずいぶん長い間、この極めて恐ろしい病気は、雑草のように世界中に伸び広がり、私たち人間を苦しめつづけてきました。多くの人々がこの病気にかかり、深い悩みの中に置き去りにされています。「つまらない役に立たない人間だ」と周囲の人々から思われるんじゃないかと、彼らはいつも不安です。だから必死で背伸びをし、見栄を張り、体裁を取り繕いつづけます。心当たりがありますか? 
聖書は、只1つの治療法を提案しつづけます。《神の憐みを受け取る》という提案です。神さまがどんなに気前の良い神さまであり、あの救い主が私たちのために何を成し遂げてくださったのかを、思い起こすこと。救い主イエスがこの世界に降りて来られ、十字架について殺され復活なさったのは、「罪人を救うため」(テモテ(1)1:15)でした。罪人を救うため。どの程度の罪人を、でしょうか。善良な人や高潔で誠実で清らかな人々を救うことなら、あまりに簡単でした。罪人を救うとしても、ほどほどの罪人やそこそこの罪人を救うことなら、まだたやすいことでした。けれども、極めつけの罪人をさえ救う必要があったのです。例えば、ソドムとゴモラの人々よりも罪深い。どうしようもないニネベの人々よりももっと弁えていない。罪人の中の罪人を、その飛びっきりの頭であり最たる罪人たちをさえ、ぜひとも救い出したいと神さまは願ってくださった。あまりに生臭い、人間のことばかり思い煩い、自分の腹の思いの奴隷に成り下がりつづける、惨めな惨めな罪人たち。けれどその彼らは憐れみを受けました。キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた。ただそのためだけに来られました(創世記18:16-33,ヨナ書4:11,ローマ手紙7:13-8:11,テモテ手紙(1)1:15-16を参照)
では、憐れみを受けて救われた彼らとは、いったいどこの誰のことでしょう。誰と誰と誰のことでしょうか。……おめでとう、恵まれた方々。あなたも私も、主なる神さまから憐れみをいただきました。力ある方が、こんな私たちにさえ、偉大なことをなさりつづけています(ルカ1:28-55参照)。朝も昼も晩も。なんという恵み、なんという幸いでしょうか。
 ◎とりなしの祈り

 イエス・キリストの父なる神さま、だからこそ確かに私たちの本当の父になってくださり、主イエスをとおして私たちをあなたの本当の子供たちとして迎え入れ、養い、支え、守りとおしてくださる神さま。心から感謝をいたします。あなたを信じる信仰をますます私たちに与えてください。あなたの御心を思い、あなたの御言葉にますます聴き従って生きる私たちとならせてください。
  神さま。国と国のケンカを戦争というそうです。国と国も、大人同士も、夫婦も親子も、子供同士でも、外国の人とも誰とでも、ケンカをしないでいさせてください。「他の人からやっつけられないように、先に自分から相手をやっつけるんだ。誰かからいじめられないように、自分から誰かをいじめたり、そのいじめの仲間入りをしちゃおう」という私たち自身の言い訳や、なま狡い考えを乗り越えさせてください。自分たちさえよければそれでいいんだという自分勝手な理屈を、私たちにも自分の心の中から払い除けさせてください。神さま、この国の総理大臣や政府与党とすべての政治家に、そして親であり大人でもある私たちにも、何か良いことか悪いことかを見極める適切な判断力と、弁えと慎みとを与えてください。神さま。自衛隊員が誰一人も戦争とお金儲けの道具にされず、戦争が起こっている危ない場所に出かけていって人を殺したり殺されたりもせず、彼らもその家族も安心して安全に暮らせるようにさせてください。「職業訓練生」「研修生」などと呼ばれながら、アジア諸国から働きにきている貧しい隣人たちが粗末に不当に扱われつづけています。彼らが権利と人権を奪い取られないように、どうか守ってください。外国から出稼ぎに来ている労働者とその家族の心細い生活をお支えください。福祉施設や介護施設で働く人たちに、そこを利用する人たちの人権と人格を重んじる健全な判断力と公正さを増し加えてください。慈しみ深さと友愛の心を持ち続けさせてください。ですから神さま。まず、この私たちに勇気と優しい心を与えてください。戦争やケンカをはじめようとする人たちに、私たちも、大きな声で「やめて」と言うことができますように。やめて、やめて、やめてと何度でも何度でもずっと諦めないで、その人たちに、そして自分自身の心にも立ち向かう勇気と辛抱強さを与えてください。困っている人や、貧乏な人や、心や体を弱らせている人たちや、心細く暮らす人たちに、それが日本人でも外国の人たちでも、手を差し伸べる私たちにならせてください。
 主イエスのお名前によって祈ります。アーメン。




9/27「腹を立て、バカと言う者は」マタイ5:21-26

                                         みことば/2015,9,27(主日礼拝)  26
◎礼拝説教 マタイ福音書 5:21-26                      日本キリスト教会 上田教会
『腹を立て、バカと言う者は』   

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

5:21 昔の人々に『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。22 しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。23 だから、祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、24 その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい。25 あなたを訴える者と一緒に道を行く時には、その途中で早く仲直りをしなさい。そうしないと、その訴える者はあなたを裁判官にわたし、裁判官は下役にわたし、そして、あなたは獄に入れられるであろう。26 よくあなたに言っておく。最後の一コドラントを支払ってしまうまでは、決してそこから出てくることはできない。                                             (マタイ福音書 5:21-26)


すぐ目につく、とても特徴的な言い方が、救い主イエスご自身の口によって5回繰り返されます。「昔の人々に~と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、私はあなたがたに言う」(5:21,27,33,38,43)と。昔から語られ聞かれていたはずの神さまからの律法は、長い歳月をへるうちに割り引かれ、骨抜きにされ、生命のない形ばかりのものにされていました。そこにもう一度、生命が吹き込まれはじめます。救い主イエスは死にかけていた律法にもう生命を吹き込み、律法を成就し、ことごとくまっとうするために来られたからです(17-18)。しかも私たちの主なる神さまは、人の心の奥深くに隠されているものをすっかり見抜く神であるからです。神からの律法は、神さまの御心であるからです。
  21-22節。「昔の人々に『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう」。律法を立て直し、再び生命を吹き入れようとする、5-7章に至る主イエスのひと続きの長い長い説教は、終始一貫して人間の魂の奥深くへと目を凝らしつづけます。表に現れた行動や発言だけではなく、態度も、心の奥底に秘めた思いも。その両方共が、神の眼差しの前に隠しようもなくさらされていると。恐ろしいことです。しかも、だからこそ、そこに確かに私たちを活かす生命があります。かつてシナイ山で授けられた十戒の中の第六戒、「あなたは殺してはならない」について、主イエスのこの二歩も三歩も踏み込んだ教えを受けて、500年前の古い信仰問答はこう説き明かします。「問105。この第六戒において神は何を要求しておいでですか」「わたしが、わたしの隣人を、思いや言葉、態度、ましてや行いをもってでも、自分みずから、あるいは他の人を通して、ののしったり、憎んだり、侮辱したり、殺したりしないことです。また、わたしが、むしろ、すべての復讐心を捨てて、わたし自身が自分を傷つけたり、無理に危険を冒したりしないことです。それゆえに 政府の役人は殺人を防ぐために剣を帯びているのです」「問106。それでは、この戒めは、単に殺すことについてのみ語っているのではないのですか」「答。神様が、殺人を禁じることを通して教えようとされるのは、神様が、ねたみ、憎しみ、怒り、復讐心のような、殺人の根をお憎みになるということです。そして、これらすべてが、神様の前では、隠れた殺人であるということです」(『ハイデルベルグ信仰問答,問105106』,1563)。殺人の根。隠れた殺人。誰にでもそれはあり、この自分自身も決して例外ではない。そのことをはっきりと告げ知らされている私たちは幸いです。「ねたみ、憎しみ、怒り、復讐心を、この私自身がついつい心に抱いてしまうとき、それはすでに『殺人の根。隠れた殺人』であり、神さまがそれを憎み、悲しみ、その一つ一つに対してとても心を痛めておられる」と告げ知らされるとき、私たちは幸いです。信仰問答はさらにつづけて、私たちに対する神さまの御心を明らかにしてくれます;「問107。しかし、わたしたちが、わたしたちの隣人を、そう告げられたように殺さなければ、それによって、この戒めを既に十分に満たしていることになるのですか」「答。いいえ、違います。なぜなら神様は これによってねたみ、憎しみ、怒りを呪っておられ、わたしたちが、隣人をわたしたち自身のように愛することを望んでおられるからです。隣人に対しては忍耐、平和、柔和 、憐れみ、友情を示し、その人の受ける害を力の限り防いで、わたしたちの敵にもまた、良いことをなす事を望んでおられるのです」(同上、問107)
  23-26節。「だから、祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい。あなたを訴える者と一緒に道を行く時には、その途中で早く仲直りをしなさい。そうしないと、その訴える者はあなたを裁判官にわたし、裁判官は下役にわたし、そして、あなたは獄に入れられるであろう。よくあなたに言っておく。最後の一コドラントを支払ってしまうまでは、決してそこから出てくることはできない」。とくにこの前半23-24節、「祭壇に供え物をささげること」と「自分に対して何かうらみを抱いているらしい兄弟との和解」の問題は、聖書の時代から今日に至るまでの、私たち自身の現実問題です。神さまを信じて生きるとはどういうことなのか。どのように生きることができるのかと。「祭壇に供え物をささげること」と「自分に対して何かうらみを抱いているらしい兄弟、家族、同僚、隣人との和解」と、もちろん両方共がとても大事です。しかも、もっと踏み込んで語るならば、「自分に対して何かうらみを抱いているらしい兄弟との和解」という現実問題を棚上げして、それを脇に押しのけて、どんな素晴らしい供え物もありえません。するとこれは、前回の『あなたがたは地の塩、世の光である』問題の具体的・現実的な展開です。塩で味付けられた心優しい言葉を用い、そのように振舞い、そのように心にも思うことが、もし万一なかなか始まらないなら。もし、信じている中身と私たちの具体的な生活が裏腹でありつづけるならば、私たちが神さまを信じ、神を礼拝し、美しい言葉で敬虔そうにご立派に祈ることがいったい何の役に立つというのでしょう。形ばかりの信仰であり、それは虚しいことです。主イエスご自身が世を照らす光でありつづけます。その光と親しく接しつづけ、そのお独りの方との交わりのうちに生きる者とされた私たちも、この世界と地域と職場と、自分の家族と自分自身を明るく照らし出すはずの光とされました。しかも兄弟たち、私たちはすでに燭台の上に置かれています。家の中のすべてのものを照らすために。「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい」(マタイ 5:16)と主イエスから直々に、私たちは命じられております。
  主イエスはおっしゃいます、「『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう」(マタイ12:7。主イエスはおっしゃいます、「口にはいってくるものは、みな腹の中にはいり、そして、外に出て行くことを知らないのか。しかし、口から出て行くものは、心の中から出てくるのであって、それが人を汚すのである。というのは、悪い思い、すなわち、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、誹りは、心の中から出てくるのであって、これらのものが人を汚すのである。しかし、洗わない手で食事することは、人を汚すのではない」(マタイ15:17-20)
  主イエスはおっしゃいます、「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。はっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を宮に納めておりながら、律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと神への忠実とをすっかり見逃している。それもしなければならないが、これをこそ、決して見逃してはならない」(マタイ23:23参照)。モノをどう取り扱うか。作法や体裁をどうするか。礼拝をどう厳かに、万事つつがなく、滞りなく、しめやかに格調高く執り行うか。「いいや、そういうことではない。ぜんぜん違う」と口を酸っぱくして告げられつづけます。食事や儀式の前にきれいに手を洗うか洗わないか、そういうことでもない。もっともっと、その千倍も万倍も大切なことがあると。預言者の口を用いて主なる神ご自身が、悲しみながら呼ばわりつづけました。「人よ、彼はさきによい事のなんであるかを、あなたに告げられた。主のあなたに求められることは、ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか」(ミカ書6:8)
  主イエスにとって、律法は神の御心を言い表したものです。神の御心は永遠につづき、変更されません。主イエスは律法を都合のいいように水で薄めることをなさらず、割り引くこともなさらず、好き勝手に解釈を変更することもなさいません。なぜなら律法を私たちのために成就し、私たちの現実生活の只中にことごとくまっとうするためにこそ主は来られたからです。律法の心を問題にし、そこにある神の御心をこそ重要視なさった主イエスは、だからこそ、しばしば「書かれた律法」の二歩も三歩も先へ踏み込んで語らざるをえませんでした。鉄砲や包丁で殺さなければそれでよいわけではない。怒ったり、愚か者と言ったり、バカと言う者は、心で思う者もまた、裁判を受け、議会に引き渡され、地獄の火に投げ込まれるだろう。そのとおり。それらは信仰告白が見てとったように、すでに決定的に「殺人の根」であり、「隠れた、密かな殺人」であるからです。しかも「父と母を敬え。殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。隣人について、偽証してはならない。隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない」(出エジプト記20:12-17)と厳しく命じられた神さまは、それらの禁止事項をもって、私どもが隣人を自分自身のように愛し尊ぶことをこそ心から願い求めておられます。私たちが自分の好き嫌いや気分や腹の思いに従ってではなく、むしろそれらを投げ捨てて、御父の御心にかなったことを行なって生きる私たちになることを。だから500年前の古い信仰問答は、「そういう意味で殺さなければそれで十分か」と問い、直ちに、「いいや、そうではない」と答えました。神さまの御心は、「なぜなら神様はこれによってねたみ、憎しみ、怒りを呪っておられ、わたしたちが、隣人をわたしたち自身のように愛することを望んでおられるからです。隣人に対しては忍耐、平和、柔和、憐れみ、友情を示し、その人の受ける害を力の限り防いで、わたしたちの敵にもまた、良いことをなす事を望んでおられるのです」と。その通りです。

                                     

主に仕える思いをもって生きることを、主イエスは要求なさいます。本気で、心からそうしなさいと。しかも、主イエスを信じる者たちにはそれが誰でも必ずできる、と太鼓判を押されています。なぜ? どのようにして。信じる私たちにはすでに主イエスの霊が与えられ、罪と死の法則からすでに私たちは解放されているからです(ローマ手紙8:4-11参照)もしあなたが誰かをねたんだり、憎んだり、ついつい腹を立ててしまう自分自身に気がつくとき、誰かを「愚か者。バカ」と言って軽んじ、見下してしまうとき、しかも、「そう言えば、朝から晩までそんなことを繰り返している自分だ。なんということか」と思い当たるとき、ついつい思いやりのない冷淡な態度をとって人を恐れさせたり恥じ入らせたりしている私だと気づくとき、そのとき、あなたは幸いです。心に痛みを覚えて、そこでとうとう神さまへと立ち返ることができる、かも知れないからです。自分自身の罪深さと傲慢さに気づかない間、「なんという惨めな私か」と気づかず、心が少しも痛まなかった間中ずっと、私たちは他の誰かの心を傷めさせ、踏みつけにしつづけていました。けれど、ようやく自分の心が痛みました。神さまに対しても人様に対しても、まったく申し訳なかった。お詫びのしようもないと。おめでとう、憐れみを受けたクリスチャン。あなたの内に確かに宿っているキリストの霊こそが、それをあなたに、させ始めているからです。正義と公平をおこない、慈しみと憐れみを差し出すことを喜び、へりくだって主なる神さまと共に歩む私たちとならせていただけるからです。神ご自身が、あなたのためにも私のためにも、それをきっと必ず成し遂げてくださるからです。
祈りましょう。