2021年10月18日月曜日

10/17こども説教「なぜ怒るのか?」創世記4:1-7

10/17 こども説教 創世記 4:1-7              

『なぜ怒るのか?』(前篇)

 

4:1 人はその妻エバを知った。彼女はみごもり、カインを産んで言っ た、「わたしは主によって、ひとりの人を得た」。2 彼女はまた、その弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。3 日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。4 アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。5 しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。6 そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。7 正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。      (創世記 4:1-7

 

【こども説教】

 アダムとエバ夫婦の二人の息子たちのことです。兄はカイン、弟はアベルという名前です。兄さんと弟は、それぞれ神さまに捧げものをささげました。神さまは弟の捧げものには喜んだのに、兄さんからのささげものを喜びませんでした。兄さんは弟のことが妬ましくなりました。神さまに対してとても腹を立て、神の顔を見ることが出来ず、自分の顔を地面に伏せました。6-7節、「そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。捧げものの中身や多い少ないによって区別する神ではありません。むしろ、ささげものをし、働きの収穫を差し出しているその人の心の中身を見る神です。喜んでもらえなかったと腹を立てる筋合いではありません。本当は、それは神さまへの感謝のささげものだったはずでした。感謝のささげものであること。それが、一番大切です。腹を立てる前からすでに、そのささげものは神への感謝ではなく、誉められたり、認められるための道具や手段になっていました。神への感謝の心とはずいぶん違うものにすり替わっていました。とても腹を立てたとき、隠してあった心が外にあふれました。神から顔を背けたとき、神さまは兄さんに、「危ない、危ない。気をつけなさい」と警告しています。神に背く罪の心が荒々しい獣のように、あなたを待ち伏せしている。恐ろしい罪の力に飲み込まれ、喰い尽くされてしまいますよと。けれどもちろん、荒々しい獣のような罪の力を抑えつけ、その言いなりにならないようにする力は人間にはありません。神さまがそこから救い出してくださるのでなければ、この私たちは誰でも皆、罪の奴隷にされつづけてしまいます。

 

【大人のための留意点 ①②③】

  1節「主によって、ひとりの人を得た」;詩篇127:3「子供たちは神から賜った嗣業であり、胎の実は報いの賜物」というように、子供たちは『神からの贈り物。祝福』と喜び、神に感謝している。手にしているすべて一切が『神からの贈り物』である。それどころか、この自分自身はもう自分のものではなく、私たちの真実な救い主イエス・キリストのものである(『ハイデルベルグ信仰問答』第1問答 1563)。

②6節「なぜ憤るのか」;カインは、自分が不当な扱いを受けたとして神に向かって激怒し、弟アベルに嫉妬します。……カインが迷い込んだのは、のちに律法学者やファリサイ派の人々、放蕩息子の兄やイスカリオテのユダが陥ったのと同じ場所だったのかも知れません。(高松牧人「旧約聖書に聞く『原初史が語る人間と世界』(6)」福音時報 2021年6月号)

7節「罪を治める」;神がカインに罪を制御するように戒告したとしても、だからといって人間にその能力があると結論付けることはできない。なぜなら、肉の欲が死なされて、人を支配できなくなるのは、聖霊の恵みのほかの何ものにもよらないことが確かだからである。Jカルヴァン「創世記注解」該当箇所)