2021年10月11日月曜日

10/10「主人の一人息子を殺した」ルカ20:9-19

          みことば/2021,10,10(主日礼拝)  340

◎礼拝説教 ルカ福音書 20:9-19      日本キリスト教会 上田教会

『主人の一人息子を殺した』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

20:9 そこでイエスは次の譬を民衆に語り出された、「ある人がぶどう園を造って農夫たちに貸し、長い旅に出た。10 季節になったので、農夫たちのところへ、ひとりの僕を送って、ぶどう園の収穫の分け前を出させようとした。ところが、農夫たちは、その僕を袋だたきにし、から手で帰らせた。11 そこで彼はもうひとりの僕を送った。彼らはその僕も袋だたきにし、侮辱を加えて、から手で帰らせた。12 そこで更に三人目の者を送ったが、彼らはこの者も、傷を負わせて追い出した。13 ぶどう園の主人は言った、『どうしようか。そうだ、わたしの愛子をつかわそう。これなら、たぶん敬ってくれるだろう』。14 ところが、農夫たちは彼を見ると、『あれはあと取りだ。あれを殺してしまおう。そうしたら、その財産はわれわれのものになるのだ』と互に話し合い、15 彼をぶどう園の外に追い出して殺した。そのさい、ぶどう園の主人は、彼らをどうするだろうか。16 彼は出てきて、この農夫たちを殺し、ぶどう園を他の人々に与えるであろう」。人々はこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。17 そこで、イエスは彼らを見つめて言われた、「それでは、『家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった』と書いてあるのは、どういうことか。18 すべてその石の上に落ちる者は打ち砕かれ、それがだれかの上に落ちかかるなら、その人はこなみじんにされるであろう」。19 このとき、律法学者たちや祭司長たちはイエスに手をかけようと思ったが、民衆を恐れた。いまの譬が自分たちに当てて語られたのだと、悟ったからである。                       (ルカ福音書 20:9-19

 

118:22 家造りらの捨てた石は隅のかしら石となった。23 これは主のなされた事で、われらの目には驚くべき事である。24 これは主が設けられた日であって、われらはこの日に喜び楽しむであろう。25 主よ、どうぞわれらをお救いください。主よ、どうぞわれらを栄えさせてください。26 主のみ名によってはいる者はさいわいである。われらは主の家からあなたをたたえます。(詩118:22-26)

 9-15節、「そこでイエスは次の譬を民衆に語り出された、「ある人がぶどう園を造って農夫たちに貸し、長い旅に出た。季節になったので、農夫たちのところへ、ひとりの僕を送って、ぶどう園の収穫の分け前を出させようとした。ところが、農夫たちは、その僕を袋だたきにし、から手で帰らせた。そこで彼はもうひとりの僕を送った。彼らはその僕も袋だたきにし、侮辱を加えて、から手で帰らせた。そこで更に三人目の者を送ったが、彼らはこの者も、傷を負わせて追い出した。ぶどう園の主人は言った、『どうしようか。そうだ、わたしの愛子をつかわそう。これなら、たぶん敬ってくれるだろう』。ところが、農夫たちは彼を見ると、『あれはあと取りだ。あれを殺してしまおう。そうしたら、その財産はわれわれのものになるのだ』と互に話し合い、彼をぶどう園の外に追い出して殺した。そのさい、ぶどう園の主人は、彼らをどうするだろうか」。マタイ、マルコ、ルカ、3つの福音書がこの同じ1つの譬え話をとても詳しく丁寧に報告しています。とても大切なことが語られているからです。直接には、ユダヤ人とその指導者たちに向けて語られたたとえ話ですが、それだけではありません。そこには、すべてのキリスト教会とクリスチャンがよく心に刻んで覚えておくべき教えが含まれています。

 まず最初に知らされるのは、私たち人間の魂が深く汚されていることでえす。よこしまなこの農夫たちの振る舞いは、先祖と私たちが神に対してどう振る舞ってきたのかをはっきりと現わしています。神の民とされたイスラエルは、神の憐れみの契約と律法と神殿と土地と礼拝を授けられ、ほかのどの民族も与えられなかった特権を贈り与えられていました。ほかのどの国々も与えられなかった神からの警告を受けつづけながら、なお神の権威に逆らいつづけ、神を尊ぶことをせず、神が遣わした預言者たちの教えに背きつづけ、ついにとうとう、神の独り子である救い主イエス・キリストを十字架につけて殺してしまいました。元々ユダヤ人ではなかった私たち外国人のキリスト教会も、一人一人のクリスチャンも、同じ罪と反逆を繰り返しつづけてきました。「罪を犯しました。罪を犯しました。あなたに背きつづけました」と毎週毎週、礼拝の中で罪の告白が祈られるばかりでなく、それを自分自身のこととしてよくよく噛みしめる必要が、この私たちにはあります。ただ「人間は罪深い」というだけでなく、「この私こそ神に背く罪と、はなはだしい汚れに満ちている」と自分自身のこととして知る必要が私たちにはあります。つまり、「私たちはすべて一切の善を欠いており、失っている。私たちは罪の汚れによって汚れている。半死半生の、今にも死にそうな重病人である。神の御前にまったく値しない、ふさわしくない私たちである」と。これこそが、神の恵みを受け取るための備えです。自分自身のこの罪深さをはっきりと知るまでは、救い主イエスとそのお働きは、なお私たちの目から隠されつづけたままです。私たち自身の貧しさと、自分自身のとても重い病いを痛感させられて、そこでようやく格別に良い医者である主イエスへと私たちは向かい、ついにとうとう、そのお独りの方と出会うことが出来ます。

 16-18節、「彼は出てきて、この農夫たちを殺し、ぶどう園を他の人々に与えるであろう」。人々はこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。そこで、イエスは彼らを見つめて言われた、「それでは、『家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった』と書いてあるのは、どういうことか。すべてその石の上に落ちる者は打ち砕かれ、それがだれかの上に落ちかかるなら、その人はこなみじんにされるであろう」。次に知らされるのは、先祖と私たちのために、主であられる神がとても忍耐深く、私たちが神の憐れみのもとへと立ち帰ることを待ち続け、心を痛め、願い続けてくださっていることです。預言者が神のもとから次から次へと遣わされつづけ、神からの知らせと、戒めと励ましが送られつづけました。キリスト教会には、誇るべき何ものをも持っていません。旧約聖書の時代にも、救い主イエスと最初の弟子たちの日々にも、また今日でも、神の憐れみが注がれつづけ、しかも私たちは自分たちが日毎に積み重ね続けているその罪と背きに値するほどの懲らしめを受けていません。驚いて、ただただ感謝するほかない私たちです。神さまの考えることは、私たち人間の考えることとだいぶん違うのです。だからこそ、私たち人間の目には、神のなさることは不思議に見えるのです(イザヤ55:8-9)

 神さまは、一人息子を殺してしまった悪い農夫たちを殺すことをしませんでした。そのために一人の農夫も殺さず、誰よりも悪い、極悪人の農夫さえ殺しませんでした。なぜなら、あの跡取りの独り息子は、殺されるときに「あの彼らを、とても悪い農夫たちをゆるしてあげてください」と言って、死んでいかれたからです。乱暴され、ひどい目にあわされて、馬鹿にされて、殺されてゆくその十字架の上で、「父よ。彼らをおゆるしください。あの人たちは、自分が何をしているのか分からないのですから」(ルカ23:34)。そして主人は、自分勝手な、とても悪い農夫たちをゆるしてあげました。

  『家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった』。詩編118:22-23からの引用です。この石が、私たちの主、救い主イエス・キリストです。あの農夫たちは『ぶどう園』という名前の神の国を、またキリストの教会を、キリスト者という家を建てあげてゆくはずの者たちでした。彼らは、イエス・キリストという跡取り息子をひどい目に合わせて殺し、そのようにして捨ててしまいました。彼らが捨てたこのイエス・キリストというお方こそ、この《キリストの教会。1個のキリスト者》という家の土台の石となったのです。驚くべきことが起りました。

 18節は少し難しいです。「すべてその石の上に落ちる者は打ち砕かれ、それがだれかの上に落ちかかるなら、その人はこなみじんにされるであろう」。だれがこの石の上に落ちたのでしょう。この石は、誰の上に落ちたのでしょうか。あの悪い農夫たちでしょうか。そして「彼らは打ち砕かれ、押しつぶされて殺され、その後に、きちんきちんと収穫を納めるほかの、とてもふさわしく良い農夫たちに貸し与えられた。それが私たちだ」と、あなたはそう言うのでしょうか。私たちはぶどう園の労働者たちです。どんな労働者たちでしょうか。あなた自身は、どんな労働者ですか? たとえ聖書をあまり読んだことがなくても、それでも、自分がどんな労働者なのかということは分かります。つくづくと自分自身を振り返ってみて、私たちはむしろ、あの悪い農夫たちによく似ています。そっくりです。「すべてその石の上に落ちる者は打ち砕かれ、それがだれかの上に落ちかかるなら、その人はこなみじんにされる」。だれがこの石の上に落ちたのでしょう。この石は、いったい誰の上に落ちたのでしょう。救いにまったく価しない、神に背いてばかりいるとても悪い罪人を救うために、神の独り子イエス・キリストのいのちが十字架の上に投げ出され、そこで、その体が引き裂かれ、その血が流し尽くされたことを知って、そこで、ついにとうとう、頑なで思い上がっていった一人の人の石の心が粉々に打ち砕かれ、その人の中の古い罪の自分が押しつぶされて殺され、その後に、神の御心に聞き従って生きようとする新しい農夫が生まれたとするならば。一人、また一人と、そのように神の憐れみの御前に据え置かれて生きようとする新しい農夫が生まれつづけるとするならば、するとそのとき、ついに、悪い農夫たちに無残に殺されてしまった一人息子のただ1つの願いはとうとうかなえられたことになります。詩51:17で、「神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません」と約束されていました。そう簡単には、『砕けた悔いた心』を造り出せません。人間に出来ることではなく、ただ神ご自身が私たちのとても堅く淋しい石の心を憐れんで、粉々に打ち砕いてくださいます。憐みの、救いの御業によって。それこそが、あの農場の主人と一人息子が心から願い求めつづけていることです。

 信仰と不信仰の間を揺れ動きながら、神を信じて生きようとすることと背いて離れ去ることを繰り返しながら、神に喜ばれることをしたいと願ったり、なんとも思わなかったりしながら日々を暮らしながら、なお私たちは神の慈愛と憐みのもとに据え置かれつづけています。聖書は証言します、「もし、麦粉の初穂がきよければ、そのかたまりもきよい。もし根がきよければ、その枝もきよい。しかし、もしある枝が切り去られて、野生のオリブであるあなたがそれにつがれ、オリブの根の豊かな養分にあずかっているとすれば、あなたはその枝に対して誇ってはならない。たとえ誇るとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのである。すると、あなたは、「枝が切り去られたのは、わたしがつがれるためであった」と言うであろう。まさに、そのとおりである。彼らは不信仰のゆえに切り去られ、あなたは信仰のゆえに立っているのである。高ぶった思いをいだかないで、むしろ恐れなさい。もし神が元木の枝を惜しまなかったとすれば、あなたを惜しむようなことはないであろう。神の慈愛と峻厳とを見よ。神の峻厳は倒れた者たちに向けられ、神の慈愛は、もしあなたがその慈愛にとどまっているなら、あなたに向けられる。そうでないと、あなたも切り取られるであろう。しかし彼らも、不信仰を続けなければ、つがれるであろう。神には彼らを再びつぐ力がある」(ローマ手紙11:16-23