2021年7月12日月曜日

7/11「悪い裁判官でさえも」ルカ18:1-8

           みことば/2021,7,11(主日礼拝)  327

◎礼拝説教 ルカ福音書 18:1-8               日本キリスト教会 上田教会

『悪い裁判官でさえも』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC 

18:1 また、イエスは失望せずに常に祈るべきことを、人々に譬で教えられた。2 「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わぬ裁判官がいた。3 ところが、その同じ町にひとりのやもめがいて、彼のもとにたびたびきて、『どうぞ、わたしを訴える者をさばいて、わたしを守ってください』と願いつづけた。4 彼はしばらくの間きき入れないでいたが、そののち、心のうちで考えた、『わたしは神をも恐れず、人を人とも思わないが、5 このやもめがわたしに面倒をかけるから、彼女のためになる裁判をしてやろう。そしたら、絶えずやってきてわたしを悩ますことがなくなるだろう』」。6 そこで主は言われた、「この不義な裁判官の言っていることを聞いたか。7 まして神は、日夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださらずに長い間そのままにしておかれることがあろうか。8 あなたがたに言っておくが、神はすみやかにさばいてくださるであろう。しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」。  ルカ福音書 18:1-8

                                               

4:1 だから、わたしの愛し慕っている兄弟たちよ。わたしの喜びであり冠である愛する者たちよ。このように、主にあって堅く立ちなさい。……4 あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。5 あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。主は近い。6 何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。7 そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。         (ピリピ手紙 4:1-7)


 まず1-7節、「また、イエスは失望せずに常に祈るべきことを、人々に譬で教えられた。「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わぬ裁判官がいた。ところが、その同じ町にひとりのやもめがいて、彼のもとにたびたびきて、『どうぞ、わたしを訴える者をさばいて、わたしを守ってください』と願いつづけた。彼はしばらくの間きき入れないでいたが、そののち、心のうちで考えた、『わたしは神をも恐れず、人を人とも思わないが、このやもめがわたしに面倒をかけるから、彼女のためになる裁判をしてやろう。そしたら、絶えずやってきてわたしを悩ますことがなくなるだろう』」。そこで主は言われた、「この不義な裁判官の言っていることを聞いたか。まして神は、日夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださらずに長い間そのままにしておかれることがあろうか」。神を信じて生きようとする人々のために、救い主イエスご自身がたとえを語り、しかも、たとえの意味するところをご自身ではっきりと説き明かしておられます。正しくない裁判官が1人の未亡人を取り扱うその在り方がたとえとして語られました。その行動や心の思いと判断に照らして、神が救いと祝福へと選び取っているご自身の民に対して、神ご自身が、どういう取り扱いをなさるのかが、はっきりと告げられます。6-7節、「そこで主は言われた、「この不義な裁判官の言っていることを聞いたか。まして神は、日夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださらずに長い間そのままにしておかれることがあろうか」。正しくない裁判官であり、さらに神を恐れず、人を人とも思わぬ裁判官の姿が描かれます。悪い裁判官のその正しくないふさわしくない裁判官よりも、はるかに真実で正しく、ご自身が救いと祝福へと選び取っているご自身の民に対して、憐み深いお方である主なる神がどういう取り扱いをなさるのかは、誰にでもはっきりと分かるはずではないかと。聞き取るべき重要点は、ここにあります。また、神が正しい裁きを決定的に最終的になさるのが『世界の終わりの日』であることも知らされています。終わりの日に、ふたたび救い主イエスがこの地上に来られて、世界とすべての生き物たちのために裁きをなさり、救いの御業を完成なさいます。この箇所は、そのことと深く関わっています。

 まず、ここで、「失望せずに常に祈るべきこと」が私たちに命じられます。その未亡人には助けになってくれる家族も友人もなく、その裁判官だけが頼りでした。裁判官は、正しくはなく思いやり深くもない、あまりにふさわしくない働き手でした。けれども彼女がたびたび彼のところに来て、『どうぞ、わたしを訴える者をさばいて、わたしを守ってください』と願いつづけました。失望せず、諦めず、しつこく何度も何度も。ついにその裁判官は彼女のために適切な裁判を行います。イエスご自身が、この譬えに込められた真意を説き明かします。「この不義な裁判官の言っていることを聞いたか。まして神は、日夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださらずに長い間そのままにしておかれることがあろうか」。ましてや、真実な正しい裁判官である天の御父が、神の民とされて救いへと選び入れられている者たちのために、はるかに良い取り扱いをしてくださらないはずがないと。

 「日夜叫び求める選民のために」と、わざわざ言い添えられています。またこの箇所の冒頭で、失望せずに常に祈ることが必要であり、そのためにこのたとえを語っていると注意を促されました。あなたは、普段どのように祈っておられますか。なにかのきっかけがあって祈りはじめることは簡単です。けれど、その祈りをしつづけるためには神を信じる確かな信仰が必要です。しかも私たちは心が弱く、ほんのちょっとしたことで簡単に挫けてしまいやすいのです。「祈っても無駄だ」とサタンが耳元でささやきかけます。その誘惑にたやすく惑わされてしまいそうになる私たちです。ついつい気が紛れ、他のことに気を盗られ、祈ってなどいられないと思えるときがありますか。祈りを簡単に切り上げたくなり、仲間や家族といっしょに祈ることを省いてしまいたくなることがありますか。そのとき、サタンが私たちを神から遠ざけようと誘惑し、攻撃をしかけています。神を信じて生きることの根源的な不可欠な土台を、サタンが切り崩そうとしています。そのようにして、多くの者たちが遠くへ連れ去られていきました。だから、「絶えず祈りなさい」「目をさまして、感謝のいつに祈り、ひたすら祈りつづけなさい」「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさい」(1テサロニケ5:17,コロサイ4:2,ルカ22:46と警告されつづけます。手強い敵が私たちをつけ狙っており、その攻撃に屈してしまわないように、なにより祈りによってこそ武装を整えていなければならないからです。

 「選民のために」と言い添えられています。主であられる神はこの地上に、ご自身が救いと祝福へと選び入れたご自身の民をもっており、その者たちは神の格別な配慮のもとに据え置かれます。主イエスご自身が、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。これらのことを命じるのは、あなたがたが互に愛し合うためである」(ヨハネ15:16-17とはっきり知らされたのは、このことです。私が神を選んだのではなく、救い主イエスが救いと祝福へとこの私たちを選び入れてくださった。だから、救い主イエスにこそ全幅の信頼を寄せ、イエスに願い求め、イエスに聞き従い、私の願いや考えや計画どおりにではなく、ただただ神の御心にかなって生きることを願って生きてゆく私たちです。

 『神ご自身が選んでくださった。神の選び』。ただ恵みと憐れみによって、神の自由な選びによってです。これこそ、聖書の中の最も深い真実の1つです。神がご自身の憐れみの御心によって選んでくださったことこそが、私たちすべてのクリスチャンに、神への感謝と信頼を呼び起こします。ただ神の恵みによるのでなければ、罪の中に死んでいた私たちの誰一人も神の国に入ることはできません。私たちの誰一人も、神の民とされることもなく、救いに入れられることも有りえませんでした。価なしの恵みであり、神の選びは、ただ神の自由な憐れみによりました。つまり自分自身のうちに、救われるに値するどんな良いものも、何一つも見出すことのできない私たちです(申命記7:6-7,9:4-5。よくよく心に覚えておかねばなりません。

 8節、「あなたがたに言っておくが、神はすみやかにさばいてくださるであろう。しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」。終わりの日の裁きのときに、救い主イエスがふたたび来られることと、この忍耐深く祈り求め続けるべきことが深く結びついていると申し上げました。救い主イエスは、ご自身がふたたび来られるとき、「地上には、神を信じる人々はほんのわずかしか残されていないだろう」とおっしゃいました。「しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」。主イエスご自身からのこの厳しい問いかけは、私たちの心に痛みを覚えさせ、私たち自身をへりくだらせ、謙遜な、慎み深く低い心を与えます。憐れみ深い神によって救いへと選ばれた者たちには、選ばれた者であることの目に見えるはっきりした『しるし』が刻まれています。なぜ、その人々は日夜、神に向かって呼ばわるのか。何のためか。自分自身の危うさ、もろさを痛感させられつづけるからです。罪と悲惨の誘惑に脅かされ、誘われつづけている危うい自分であると知らされているからです。今もなお罪のうちに死んでしまいそうになる、しばしば肉の思いの奴隷にされてしまいそうな私であると気づかされるからです。だから昼も夜も、神を呼び求めます。自分自身の心の頑なさ、強情であること、思い上がった傲慢さ、よこしまさな心を抱えている私だと思い知らされているからです。救いにまったく価しない罪人である私が、にもかかわらず神の憐れみを受け、救われるためには、救い主イエスによって神の憐れみを知り、その神を信じ、救い主イエスによって神の憐れみにすがるほかない惨めな自分であるとつくづく思い知らされ続けるからです。その彼らは救い主イエスの御名によって、日夜、憐みの神に向けて呼ばわり、そのようにして神の憐れみを受けとりつづけます。「罪深い私だ。本当にそうだ」と感じ取ることが出来るからこそ、私たちは日毎に神に心底から感謝し、主イエスに信頼を寄せて生きることができます。その信仰が道を逸れてしまうとき、まず祈りが弱くされます。信仰が神に祈り求める心を生み出し、心を注ぎだして祈りつづけることが、その信仰を堅くし、支えつづけます。そのようにして私たちは、「すべての信頼を神に置き、そのご意思に服従し、自分自身にではなく他の誰にでもなく、ただ神にこそお仕えすることができます。どんな困窮の中でも神に呼ばわって、救いとすべての幸いを神の中に求め、すべての幸いはただ神から出ることを、心でも口でも認めること」ができます。

 聖書は証言します、「あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。主は近い。何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう」(「ジュネーブ信仰問答 問7」Jカルヴァン,ピリピ手紙4:5-7。祈りは、私たち自身の心と思いを救い主イエス・キリストによって守っていただくための道具であり、あのための欠くことのできない手段でありつづけます。ですから先ほど、「あなたは、普段、どのように祈っておられますか」とお尋ねしました。自分自身を振り返って、よくよく確かめてみる必要があるからです。

 

       《祈り》

       主なる神さま。感謝と信頼をもって、あなたに祈りと願いをささげる私たちであらせてください。そのようにして、神ご自身の平安が、私たちの日毎の心と思いを、救い主キリスト・イエスによって堅く守りつづけてくださいますように。神が私たちのためにも生きて働いておられますことを、はっきりと信じさせてください。このただ一つの願いを、生涯ずっとかなえつづけてください。主イエスのお名前によって祈ります。 アーメン