2021年4月5日月曜日

4/4「主は墓におられなかった」ヨハネ20:1-10

            みことば/2021,4,4(イースター礼拝)  313

◎礼拝説教 ヨハネ福音書 20:1-10                    日本キリスト教会 上田教会

『主は墓に おられなかった』

 

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

20:1 さて、一週の初めの日に、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリヤが墓に行くと、墓から石がとりのけてあるのを見た。2 そこで走って、シモン・ペテロとイエスが愛しておられた、もうひとりの弟子のところへ行って、彼らに言った、「だれかが、主を墓から取り去りました。どこへ置いたのか、わかりません」。3 そこでペテロともうひとりの弟子は出かけて、墓へむかって行った。4 ふたりは一緒に走り出したが、そのもうひとりの弟子の方が、ペテロよりも早く走って先に墓に着き、5 そして身をかがめてみると、亜麻布がそこに置いてあるのを見たが、中へははいらなかった。6 シモン・ペテロも続いてきて、墓の中にはいった。彼は亜麻布がそこに置いてあるのを見たが、7 イエスの頭に巻いてあった布は亜麻布のそばにはなくて、はなれた別の場所にくるめてあった。8 すると、先に墓に着いたもうひとりの弟子もはいってきて、これを見て信じた。9 しかし、彼らは死人のうちからイエスがよみがえるべきことをしるした聖句を、まだ悟っていなかった。10 それから、ふたりの弟子たちは自分の家に帰って行った。ヨハネ福音書 20:1-10                                        

                                               

10:9 すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。10 なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。11 聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」と言っている。      (ローマ手紙10:9-11)

 4つの福音書すべてが、救い主イエスの死と復活の出来事の前で立ち止まり、そこによくよく目を凝らしつづけます。世界と私たちを救うキリスト教信仰のすべて一切が、この2つの出来事にかかっているからです。1節、「さて、一週の初めの日に、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリヤが墓に行くと、墓から石がとりのけてあるのを見た」。救い主イエスの遺体が置かれた墓に最初に出かけていったのはマグダラのマリヤという女性だった、とヨハネ福音書は報告します。彼女の生涯について、聖書は多くを語りません。どんな人物で、どういう生涯を送ったのかについて、私たちはほとんど知ることが出来ません。ただ、彼女が七つの悪霊に取りつかれ、サタンの支配下に囚われていたのを、救い主イエスがその悪霊どもを追い払い、彼女を自由の身にしてやりました(マルコ16:9,ルカ8:2。「マグダラのマリヤは救い主イエスが十字架の上で殺されたとき、最後まで十字架のもとに留まっていた女性たちの一人だったし、また彼の墓に最初にかけつけた者だった」と聖書は報告します。その通りです。なぜ彼女がそうしたかと言いますと、そうせざるをえなかったほど救い主イエスに対して深く感謝しているからであり、その行いは神への感謝の献げものであるからです。例えば、一人の罪深い女性が主イエスの足に高価な香油を注ぎかけ、自分の髪の毛と涙でその足をぬぐった出来事(ルカ:37,マタイ26:6,ヨハネ12:1を覚えておられますか。あの女性がマグダラのマリヤだったとはっきり言い切ることはできません。彼女とは別の女性だったかも知れません。けれど少なくともマグダラのマリヤもあの女性も同じ大切なことを体験し、同じ感謝を心に刻みつけた者たちでした。香油を注ぎかけられ、髪の毛と涙で足をぬぐってもらったとき、主イエスはおっしゃいました。「この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」(ルカ7:47。そのとおりです。もし、私たち自身が救い主イエスに対しても、この信仰についても何か冷淡であり、よそよそしいとするならば、「私は罪をゆるされたことも神から愛されたことも、とても少ない」あるいは、「ほんの少しもない」と感じているせいかも知れません。多くの罪をゆるされ、多くのものを贈り与えられ、多く愛されたので、受け取ってきた恵みの結果として、それだけ深く多くその人は救い主イエスを愛しています。聖書は証言します、「なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。わたしたちはこう考えている。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである」(2コリント手紙5:14-15

 2-10節、「そこで走って、シモン・ペテロとイエスが愛しておられた、もうひとりの弟子のところへ行って、彼らに言った、「だれかが、主を墓から取り去りました。どこへ置いたのか、わかりません」。そこでペテロともうひとりの弟子は出かけて、墓へむかって行った。ふたりは一緒に走り出したが、そのもうひとりの弟子の方が、ペテロよりも早く走って先に墓に着き、そして身をかがめてみると、亜麻布がそこに置いてあるのを見たが、中へははいらなかった。シモン・ペテロも続いてきて、墓の中にはいった。彼は亜麻布がそこに置いてあるのを見たが、イエスの頭に巻いてあった布は亜麻布のそばにはなくて、はなれた別の場所にくるめてあった。すると、先に墓に着いたもうひとりの弟子もはいってきて、これを見て信じた。しかし、彼らは死人のうちからイエスがよみがえるべきことをしるした聖句を、まだ悟っていなかった。それから、ふたりの弟子たちは自分の家に帰って行った」。最初に墓に駆け付けたあの一人の女性も、知らせを聞いて墓に走っていった二人の弟子たちも、それぞれに主イエスに対する大きな熱情をもっていました。信仰の種をたしかに心に植え付けられていた、と言えます。先に墓に辿り着いて、けれども墓の中を覗いてみるだけで、なかなか墓の中に入って確かめてみようとしなかった一人も、すぐに墓の中に入って中の様子を確かめた年配の方の弟子も。それでもなお、救い主イエスの復活を知らないでいる間は、その信仰はまだまだ弱く小さく、ほとんど赤ん坊以下の状態にあったと言えます。

 先に墓について、後から墓に入ってきて、もう一人の弟子は、(8節)「見て信じた」と書いてありました。何をどう信じたのか。「イエス・キリストの遺体がどこかに持ち去られたらしい」ことを見て信じた、と考える人々もいます。いいえ、そうではありません。たしかにその直後に、「しかし、彼らは死人のうちからイエスがよみがえるべきことをしるした聖句を、まだ悟っていなかった。それから、ふたりの弟子たちは自分の家に帰って行った」とも報告されています。「信じた」といいながら、同時に、「しかし彼らは死人のうちからイエスがよみがえるべきことをしるした聖句をまだ悟っていなかった」のです。二人とも、救い主イエスが死人の中から確かによみがえり、復活なさったのだと、はっきりと確信しているわけではありません。どっちつかずのあやふやな状態のまま、頭を抱えて困り果てながら家に帰っていきました。「見て信じた」。つまり、「信じはじめていた」のです。「その信仰はまだまだ弱く小さく、ほとんど赤ん坊以下の状態にあった」と申し上げました。小さないのちがお母さんのお腹に宿ったときから、お母さんはその小さな弱々しいいのちを養い、育てています。同じように、神を信じる信仰のいのちを、それがまだまだとても小さく弱々しいものだとしても、神さまご自身が守り、養い育ててくださいます。その信仰は育って、やがて必ずきっと実を結びます。神さまこそが実を結ばせて下さるからです。(私は)必ず多くの苦しみを受け、捨てられ、また殺され、三日目によみがえる」(ルカ9:22-27,9:44,18:31-34など)と救い主イエスご自身から繰り返し聞かされてきましたが、それがどういうことか分からず、また弟子たち皆は恐ろしくて分かろうともしませんでした。聖書自身も、遣わされた救い主が殺され、やがてよみがえることをはっきりと証言していました(詩16:10-。けれど、心を鈍くされて、誰一人も悟ることができませんでした。

 折々に、あの弟子たちも私たちもしばしば心を鈍くされて、神の言葉と御心を見失いました。例えば、主イエスが十字架の死と復活を予告なさったとき、弟子の一人は、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません。あっては困ります」と主をいさめようとしたとき、主イエスはその弟子をきびしく叱りつけました。「サタンよ、引き下がれ。私の邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人間のことを思っている」(マタイ福音書16:23と。私たちは、あの弟子たちとほぼ同じです。生まれつき心が鈍いわけではなく、ただついつい気が散ってしまい、他のことに気を取られるあまりに、神を思う暇が少しもなくなり、四六時中、ただただ自分自身と周囲の人間たちの行動や、誰がどう思うかとばかり思い煩いつづけてしまう。とうとう、どんな神であるのか。どういう救いの約束を受け取って、どう生きることが出来るのかもすっかり分からなくなってしまいやすい。例えばあの弟子たちは、湖のほとりで多くの人々がわずかなパンと魚によって養われ、満たされたあとで、小舟に乗って湖の中へ漕ぎだしました。「向こう岸へ渡りなさい」と、救い主イエスに無理矢理に、そう促されたからです。突風が吹き、大きな波が立って、小舟が激しく揺り動かされたとき、彼らは恐れおののきました。よく似たことが以前にもありました。前のときには、主イエスは小舟の隅で眠っておられまし。今回は、主が小舟の中にはおられません。救い主イエスを揺さぶり起こして、助けを求めることもできません。すると、湖の上を歩いて主イエスが小舟に近づいて来られ、波と風に「鎮まれ」と命じて、鎮めてくださいました。あの彼らはなぜ驚き慌てたのか、どうして波と風を恐れて、おびえたのか。「先のパンのことを悟らず、心が鈍くなっていたからだ」(マルコ福音書6:52と聖書は、手厳しく報告しています。つまり、大勢の人々がほんのわずかなパンと魚で満たされたことがどういうことなのかをはっきりと分かっていたならば、今回の湖の荒れ狂う波と風にも驚き慌てることがなかったはずだと。憐み深い神が、この世界のためにも私たちのためにも生きて働いてくださっているからです。すべての良いものと救い助けは、ただ神から来るということをです。ですから、「どんな困窮と災いの中にあっても、救いと助けを、ただ神にこそ願い求めて生きる」(ジュネーブ信仰問答 問7)べきことをです。「新型コロナウィルス感染拡大のこの大きな災いのときに、どういう心得をもって生きるべきか」と定期総会のときに改めて問われました。折々に、具体的に、ていねいに示しつづけてもらいたいと要望を受けました。お答えします。いつでも、どんな災いや困難のときにも、私たちにとって必要なのは同じ一つの心得です。『大勢の人々がわずかなパンと魚によって養われ、十分に満たされた』という心得であり、『小舟で湖の中を渡るとき、突風が吹き荒れ、大きな波が舟を激しく揺さぶり動かすときにも、なお救い主イエスに信頼し、寄り頼み、聞き従って生きる』という、全生涯に及ぶ只一つの心得です。

  むしろ、神ご自身の秘儀は、神が教えてくださるのでない限り、人間の頭と知恵では理解することができないものです。神を信じる信仰を与えてくださった神ご自身こそが、彼らにもこの私たちにも、やがて必要なすべて一切を教えてくださいます。神の憐みによって救われるために、ぜひとも知っておくべきことは、決して多くはありません。むしろ、ごくわずかです。私たち自身の罪とよこしまさがどんなにはなはだしいか、ということ。救い主イエスがどのように救ってくださるのか、ということ。悔い改めて神へと立ち返りつづける必要があること。なにより、救い主イエスを信じて、神のあわれみの御心に聞き従って生きてゆきたいと願うこと。

 

 あのときは、よく分かっていなかった弟子たちがやがて時が来て、確信をもって語りはじめます。「イスラエルの全家は、この事をしかと知っておくがよい。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである」。すると人々は強く心を刺され、「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」と尋ねました。また、「ナザレ人イエス・キリスト。この方による以外に救いはない。私たちを救いうる名は、これを別にしては、天下の誰にも与えられていない」(使徒2:36-37,4:10-12と。まったく、そのとおりです。