2020年4月12日日曜日

4/12「弟子たちとペテロに伝えなさい」マルコ16:1-8


        みことば/2020,4,12(復活節第1主日の礼拝)  262
◎礼拝説教 マルコ福音書 16:1-8                    日本キリスト教会 上田教会
『弟子たちとペテロに伝えなさい』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
16:1 さて、安息日が終ったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとが、行ってイエスに塗るために、香料を買い求めた。2 そして週の初めの日に、早朝、日の出のころ墓に行った。3 そして、彼らは「だれが、わたしたちのために、墓の入口から石をころがしてくれるのでしょうか」と話し合っていた。4 ところが、目をあげて見ると、石はすでにころがしてあった。この石は非常に大きかった。5 墓の中にはいると、右手に真白な長い衣を着た若者がすわっているのを見て、非常に驚いた。6 するとこの若者は言った、「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのであろうが、イエスはよみがえって、ここにはおられない。ごらんなさい、ここがお納めした場所である。7 今から弟子たちとペテロとの所へ行って、こう伝えなさい。イエスはあなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて、あなたがたに言われたとおり、そこでお会いできるであろう、と」。8 女たちはおののき恐れながら、墓から出て逃げ去った。そして、人には何も言わなかった。恐ろしかったからである。
                    (マルコ福音書 16:1-8)
                                              
15:14 もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。15 すると、わたしたちは神にそむく偽証人にさえなるわけだ。なぜなら、万一死人がよみがえらないとしたら、わたしたちは神が実際よみがえらせなかったはずのキリストを、よみがえらせたと言って、神に反するあかしを立てたことになるからである。16 もし死人がよみがえらないなら、キリストもよみがえらなかったであろう。17 もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。18 そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのである。19 もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。    (1コリント手紙15:14-19)


 1-3節、「さて、安息日が終ったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとが、行ってイエスに塗るために、香料を買い求めた。そして週の初めの日に、早朝、日の出のころ墓に行った。そして、彼らは『だれが、わたしたちのために、墓の入口から石をころがしてくれるのでしょうか』と話し合っていた」。頼りにしていた救い主イエスは十字架にかかって殺されてしまいました。金曜日の出来事です。主イエスの死体は十字架から降ろされ、墓に葬られました。墓穴の入り口には大きな重い石が置かれました。「誰かが死体を盗んでいくかもしれない。主イエスは復活して今も生きているなどと、嘘の噂で弟子たちがみんなを騙すかもしれない。そんなことになったら大変だ」と領主や祭司長など偉い立派な人たちが怖がったからです。そして今日、日曜日の朝、夜が明けはじめる頃に、女の人たちが2人で救い主イエスの墓を見に行きました。そう、ここには怖がっている人たちの怖がっている様子が出てきます。主イエスの弟子たちもそうでした。夜明け頃に出かけてきたあの女の人たちもやっぱりそうで、いろんなことを怖がっていました。墓を塞いでいる大きな石をいったいどうやって脇へよけたらいいだろうか、誰かが手伝ってくれるだろうかと心細かった。主イエスを憎んで殺してしまった人たちが今度は私たちをどんな目にあわせるか、何をされるか分からないと怖がりました。いったいこれからは何を頼みの綱として、誰を頼りに生きていけるだろうかと心細かったのです。そんな彼女たちに、「驚くこともないし、怖がらなくてもいい」(6)と語られます。何を怖がっているんだ弱虫だなあ、と馬鹿にしているのではありません。誰だっていろんなものが怖いし、誰だって本当はすごく心細いのです。小さな子供がいろんなものを怖がるだけでなく、お母さんもお父さんも。保育園や学校の先生たちも、普段はとても堂々として何があってもビクともしないって顔をしている大きな立派そうに見える人たちであっても、やっぱりいろんなものを怖がっているし、本当は、とても心細いのです。だからわざと堂々としているふりをして強がって見せています。もちろん、ずいぶん長く生きてきて経験を積み、多くのことを習い覚えてきた年配の方々もそうです。怖いものなんて1つもないなんていう人は誰1人もいません。本当です。神さまは、それがよくよく分かっています。分かった上で、「怖がらなくていい。怖がらないあなたにしてあげよう」と招いてくださっています。すごく臆病な飛びっきり弱虫のあなたでも、晴れ晴れのびのびと安心して生きていけるあなたにしてあげよう、と誘ってくださっています。
  7節です。神さまからの使いの者は言います。「今から弟子たちとペテロとの所へ行って、こう伝えなさい。イエスはあなたがたより先にガリラヤへ行かれる。前から何回も、あなたがたに言っていたとおり、そこでお会いできるであろう」(14:28「しかし私は、よみがえってから、あなたがたより先にガリラヤへ行くであろう」参照)。故郷のガリラヤで弟子たちに会って、それでイエスさまはどうなさるのでしょう。弟子たちをきびしく叱って文句を言ったり、怒ったりするつもりでしょうか。「なぜ、あのとき裏切って逃げたんだ。ひどいじゃないか。お前たちは失格。みんなクビだ」って? いいえ。「弟子たちと、あのペトロに」と特にわざわざ名前を出して伝言させています。あの、自分こそはとても強くてしっかりしていると思い込んでいた、本当はひどく弱虫の、あのペトロです。「主イエスさまなんて知らない。知らない。何の関係もない」(14:66-72)などと、怖がって知らないふりをしていたあのペトロとは、特に、ぜひもう一度会う必要があります。なぜなら、臆病で惨めなあの人の人生があのまま終わってしまうなら、あんまり可哀そうだからです。ほかの弟子たちも同じでした。みんな弱虫で、怖がりでした。だからです。だから、あの弱虫な彼らをもう一度集めて、神の国の福音を伝える仕事をさせてあげる。弱虫で怖がりな人たちには特に、神さまのために働く仕事をさせてあげるのです。臆病で見栄っ張りで怖がりなままで人生が終わってしまったら、あまりに惨めで、可哀そうすぎます。あの弟子たちはごく普通の貧しい漁師たちでした。特別に勉強がよくできたわけではなく、頭が良いわけではなく賢いわけでもなく、しかも主イエスを見捨てて、怖がって逃げ出した人たちです。「ああダメな自分だ。弱々しくて心細くて、全然当てにならない私だ」とガッカリしている人たちが、だから特に、神さまの福音を伝える人にされます。どういうことでしょう。そんな弱々しくてつまらない人を使わなくてはならないほど、よっぽど人手不足なのでしょうか。いいえ、とんでもない。わざわざそういう人たちにこそ、神の国の福音を伝える仕事をさせるのです(コリント手紙(1)1:26-31参照)。自分自身もその家族も何を恐れることもなく、嬉しく晴々と暮らしていくことができるように。
 「主イエスは復活した」と彼らは言います。でも、それは本当のことなのでしょうか。8節を見てください;「女たちはおののき恐れながら、墓から出て逃げ去った。そして、人には何も言わなかった。恐ろしかったからである」。これだけが書いてあります。怖くて怖くて、誰にもなにも言わなかったと。ここで私たちも、あのときのあの彼らとまったく同じ場所に立たされます。どんなふうに生きていくのかという分かれ道に、です。「もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのである。もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる」(コリント手紙(1)15:17-19)。これが、この信仰の中身です。「クリスチャンになりたい。この主イエスというお独りの方を、本気で信じて生きていきたい」と僕が願ったのが、30歳のときでした。あっという間に30年以上もたちました。クリスチャンになった後でも、やっぱり怖いものがその都度その都度目の前にあって、次々にあって、悩んだり怖がったり、クヨクヨ考え込んで夜も眠れなくなるときもあります。多分、心細さは死ぬまでついて回ります。じゃあ、それだけだったかというと、そうでもない。
  怖がって逃げていった女の人たちと、ここにいる私たちはだいたい同じです。たぶん、あなたにも、『語られたとおり、聖書に書いてあるとおりに、主イエスは復活した』と信じる気持ちがありますね。『どうかなあ。嘘かも知れない。いまいち信じられないなあ』と疑う気持もありますね。たいてい両方の気持ちがある。じゃあ、そのどっちが、どれだけ重たいでしょう。「ああ。本当にそうだ。神さまは生きて働いておられる」と大きな喜びと慰めを味わった者だけしか、それを人に差し出すことはできません。「信仰をもって生きて来られて本当に良かった。うれしかった。あのときも本当に心強く支えられ、慰められた。あの時もそうだった。あの時もあの時も。もし神さまが生きて働いていてくださらなかったら、その神を信じることができなかったとしたら、あの時、私はどうなっていたか分からない。つくづく私は幸せ者だ」と思い知ってきた、その格別な喜びと幸いを魂に刻み重ねてきた者だけしか、それを人に伝えることはできません。
 で、あなたはどうだったでしょう。クリスチャンになって、神さまのために働いてきて嬉しかったことと辛かったことと、正直な所どっちが大きかったでしょうね。ずいぶん昔のこと、1人の小さな少年は言いました。「ライオンの手、クマの手から私を守ってくださった主は、あのペリシテ人の手からも、私を守ってくださるに違いありません。・・・・・・主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされないことを、賢さも才能も見所も取り柄も必要とはされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう。この戦いは主のものだ」と。また別のとき、怖気づく臆病な一人の若者に向かって主はこう語りかけました。「自分は未熟で弱々しい若者にすぎないなどと言ってはならない。年を取りすぎているとも言ってはならない。才能も特技もほんの少ししかないなどと思ってはならない。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて必ず救い出す」(サムエル記上17:37,47,エレミヤ1:7)。これが神さまからの約束です。主イエスは復活なさいました。その主が私たちに新しい生命を約束し、その生命の中に生きるようにと招いてくださっています。どうしましょう。もし本当かも知れないと思えるなら、そして、そこにワクワクするような喜びがたくさんあるかも知れないと思えるなら、その誘いに乗ってみてもいい。あなたが自分で選ぶのです。復活の主はあなたを招きます。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」。また、「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(使徒16:31,マタイ11:28-30

〈祈り〉
父なる神。救い主イエス・キリストの死と復活を、私たちに深く覚えさせてください。それによって私たち自身も古い罪の自分と死に別れて、神の御前に新しく生きる者とされたことを魂に刻ませてください。あなたの御心に向かって生きようとする願いと希望を、どうか私たちのうちにますます固く保たせてください。
私たち自身も、普段の暮らしの中で小さな争いやいがみ合いの中にしばしば巻き込まれて暮らしています。この私たち一人一人もまた、生まれながらの怒りの子でであるからです。自分を正しいと強く言い立てる性分を強く抱えるものたちだからです。どうか神さまご自身の恵み、憐み、平和を私たちに思い起こさせてください。
神を信じて生きる私たちのためには、すべての信頼を神さまに置いて、その御意思と御心に聞き従って、どこで何をしていてもそこでそのようにして神様に仕えて生きることができるように。どんな苦しみや悩みや辛さの只中にあっても、そこで神様に呼ばわって、救いとすべての幸いを神さまの中にこそ求めつづける私たちであらせてください。主イエスのお名前によって祈ります。アーメン